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『ブルー(9)』『理性的な盾と矛(6)』

『ブルー』


「ねえこれ見て」

 言って、彼女は意気揚々とカバンに右手を突っ込んだ。

「最近集めてるんだ」

 姿を現したのは、五百円玉ほどの大きさがある金属製の輪っか。その銀色の輝きが隠れてしまいそうなくらいにたくさんの携帯ストラップが取り付けられた、小さなリングだった。

「これなんか、すごく可愛いと思うの」

 彼女は向日葵のような笑顔を咲かせながら、ずしりと重そうなストラップの束を前に差し出して、ひとつひとつ丁寧に解説をしてくれる。これはね、ほら、引っ張るとスライドするんだよ。これなんか随分と長い間探してて、この間やっと見つけたの。これはね、何回も何回もチャレンジしてようやく手に入れたのよ。

 要求もしていないのに。どこが可愛いのか、なにが変わっているのか、面白いのはどこなのか、彼女は滔々と説明を続ける。まるで追い立てられているかのように。そうしなければならないかのように。

「すごいね。こんなにたくさん、どうやって集めたの?」

 汗をたくさんかいたグラスに注がれたアイスティーを口に含んでから、私はそう訊ねた。

 彼女は満足そうに微笑むと、実はね、と少しだけ恥ずかしそうに言いよどんでから粛々と答えてくれた。

「わたし、ガチャガチャが好きなの。百円とか二百円とか入れて、取っ手をぐるんって回すアレ。駅から少し歩いたところに、店先に何種類もガチャガチャを置いている雑貨屋さんがあってね。一度回してから虜になっちゃった」

「それから今に至るまで、こうして何個も集めているわけなんだ」

「そう。大抵、シリーズ物は全部集めてしまっているの。何度も挑戦してね。でも、子供っぽいよね」

 私は自嘲気味に頬を崩した彼女に、そんなことないよ、と声をかけた。

「そう言うのって、とても素敵だと思う。あなたが始めた、あなたのためだけにある、ささやかなコレクションなんでしょう?」

 こくり、と彼女は頷く。僅かな、それでいて確かな空白を挟んで、もう一度、こくり。

「ならいいじゃない。子供っぽくたってなんだってね。誰にもあなたを非難する資格はないと思う。好きなようにすればいいのよ。私もこの犬のキャラクターなんかすごく可愛いと思うし」

 気遣いだとか思いやりだとか、決して昨今の彼女を慮っての言葉ではなかった。ただ単に実感としてそう思っただけのことで、鏡が光を反射するように、当然の帰着として、私は直線的な反応をしただけだった。

「ありがとう」

「そんな言葉、言われる筋合いはないわ」

「うん。そうかもしれない。でも、そうじゃないことも、あるのよ」

 私を見つめる眼差しには、ほっこりと安らいだ感情が宿っていた。ちょっとだけ居心地が悪くなる。彼女から視線を逸らして、手元のアイスティーを啜る。ストローをかき回すと、四角い氷の塊がバランスを崩して、カランと重なり方を変えてしまった。

 真夏の午後の喫茶店の店内には、どこか気だるげな、倦怠とした空気が漂っている。暑さにばてたのか、みんながみんな、お客も店員も疲れた顔をしていて、力なく微笑んでいる。

 むろん、私と彼女もその空気に染まってしまっている。むしろ染まりすぎて空気との境界がなくなりかけているくらいだ。自意識がどんどん希薄になっていって、店の背景に馴染んでいってしまう。私はぼんやりと視線を宙に漂わせていた。

 対する彼女も似たようなものだった。ずっと流れ続けていたBGMが終わった頃、彼女の右手はじゃらじゃらと重なったたくさんのストラップを弄っていたのだった。目的などなく、そうすることがすでに癖になってしまっているかのような、ごくごく自然なありようだった。

 無数の携帯ストラップと、見えなくなった金属の輪っか。それを弄くる長細い指。

「ねえ、それって、重なってしまった物はどうしてたの?」

 不意に気になったことを口に出すと、ぼんやりとした眼差しを浮かべていた彼女は、すっと視線を上げて、瞳に光を宿し、照れ隠しのように頬を掻いた。

「それはその、仕事の同僚とか、友達とか、弟とかに……」

「あげてるの?」

 少しだけ声を大きくさせると、彼女はいささか肩身を狭くして小さく頷いた。思わずため息が出てしまう。

「それは少し迷惑じゃないの」

「わかってるよ」

「だったら何で」

「だって、そうでもしないと、もっとごちゃごちゃになってしまう」

 切実な声だった。私は残りちょっとのアイスティーを口に含んでから、慎重に言葉を選んだ。

「自覚はあるんだ」

「もちろん。一応はね。だから、やめられない」

「それは、たぶん?」

「きっと、絶対に」

 ふたりして、揃って携帯ストラップの束に目を落とした。ひしめき合うようにして取り付けられた金属の輪っか。ここには、彼女の感情が坩堝のごとく蓄えられている。それこそ業のように、狂気のように。

 顔を上げると、タイミングよく彼女と目が合ってしまった。二つの眼窩が、一瞬、底の見えない洞のように見えた。

「やめられないのよ」

 声がして、洞は綺麗な曲線を描いた。暗闇の奥から、不安に怯える叫び声が聞こえたような気がした。

 けれども、私が彼女にしてあげられることは一つもなかった。何一つとして与えることもできなければ、彼女から何かを取り外すこともできない。申し訳ないほどに私は無力だった。今回に限ったことではない。いつだって私は無力だったのだ。そしてそうだからこそ、きっと彼女は、今日この場所に私を呼び出したのだった。私がなにも出来ないから、彼女は私を必要としていた。

 だから、微笑みあったのだった。共犯めいた、密度の濃い視線が私と彼女との間でまぐわいあった。

 空になったグラスに突き刺さったストローに手が伸びる。

「これからもガチャガチャを続けていくんだ?」

 からころと氷を鳴らしながらそう訊ねた。

「うん。きっとこれからも続けていくのだと思う」

「誰にもばれないように」

「できるだけね。すでにあなたには話してしまったのだし」

 彼女はストラップの束をカバンに仕舞い込みながらそう言った。

「私は誰にも話さないよ」

「そういうことじゃないのよ。あなたのことを信用していないとか、そういうことじゃないの。ただ単に、逃れられない現実として、隠しようがないと、そう思っているだけなの」

 当が外れ思わず鼻息を荒くしてしまった私を諌めるようにして、ほんの少し淋しそうに彼女は言葉を重ねた。

「少なくとも、彼には隠しておくわけにはいかないもの」

 隠しとおせるわけがないのだし。彼女はぼんやりと遠くを見据えてそう口にする。

「もうそろそろなんだっけ」

「うん。来月に予定してる」

 微かに疲れを滲ませながらはにかむ彼女の左手には、銀色に輝くシンプルなリングが嵌められていた。幸福の証。約束された祝福のサイン。

「おめでとう。お幸せに」

 改めてそう伝えると、彼女は嬉しそうな泣き出しそうな顔をして、ぎゅっと左手を握り締めた。

「ありがとう」

 口にした姿は、異質なまでに店の空気から浮かび上がって見えた。


(おわり)


 ★ ☆ ★


『理性的な盾と矛』


 彼女は四角い角砂糖で小さなピラミッドを組み立てながら、理性的でない事柄は嫌いなのと言った。

「我を忘れて大声を出してしまったり、驚いて思いっきり飛び上がってしまったり、生きていることとか死んでいることとか、そんなことがどうでもよくなってしまうほど気持ちよくなってしまったりすることが嫌なの」

 どうして、と訊ねながら淹れたての珈琲を手元に差し出す。彼女は頂上に当たる五段目の角砂糖をぽとりと落とすと、静かにスプーンをかき回した。

 息遣いが月夜に呑み込まれていく午前一時。しんと静まり返ったアパートの中には、金属のぶつかる音と、規則的な秒針のリズムだけが無限に広がり溶け合っている。

「どうしてなんだろう」

 呟き、彼女は平坦な眼差しでまっすぐ僕に目を向けた。

「どうしてなんだと思う?」

「さあ。僕には分からない」

「そうだよねえ」

 スプーンを取り出し、ミルクを注ぎ、彼女はそっと珈琲に口をつけた。細い綺麗な咽喉が一度だけ上下に動く。思わず掴みたくなってしまいそうな、握ってぐしゃりと壊してしまいたくなるような、そんな彼女の綺麗な咽喉。

「恥ずかしいのは、嫌い」

 カップを下ろすと、謳うようにそう言った。

「野生的なのも、向こう見ずなのも、心底のめり込んでしまっているのも」

 意地悪そうに僕を見上げて、彼女の唇は一層滑らかに動き出す。

「私は理性的でない事柄が嫌い。人間らしくない、本能的な衝動を嫌悪してしまう」

「でも、人間らしくない本能というものは、果たして本当に存在するのかな。本能と言うのは、その生命の、存在の、根源的な、生まれついた命令や状態のことを指すんじゃないだろうか」

 そんなことは知らない。笑いながら軽くあしらった彼女に、辞書的な意味合いはあまり意味をなさない。彼女の言葉は詩的であり、感覚的に受け止めなければ、実りのあるコミュニケーションを図ることは難しい。

 彼女はとても矛盾した存在なのだ。コーヒーを啜りながら、柔らかく表情を緩めている向こう側の彼女。

「私は私を曝け出すのが苦手なんだと思う。もちろん自分を曝け出すことができる人を見下したり、軽蔑したりするようなつもりはないけれども、自分を曝け出してしまった状態と言うのは、とてもみっともないような気がするの」

 たとえそれが見せかけの発露だったとしても、どうしても拒否感を覚えてしまうのだと彼女は言った。気持ちは分からなくもない。そういうこともあるような気がすると僕は答えた。

「無防備な姿は安心して見ていられないもんね」

「うん。ハラハラするし、ドキドキする。怖くなってしまうことだってある。だからね、たぶん私は、私の心を揺り動かされるような事柄が好きではないんだと思う」

「なら、永遠に凪いだ人生を歩んで生きたいと、そう言うつもりなのかい?」

「それは、不可能じゃないの」

 実現できない夢は、単なる妄想に過ぎないよ。言った彼女は、いつにも増して不敵に笑った。

「それに、永遠に凪いだ人生なんてつまらないじゃない。理想的ではあるけれど」

「理想的ではあるけれど」

 繰り返すと、彼女は大仰に頷いて見せた。

「君はとても我儘なんだね」

 そのとおり。今頃気がついたの。今まで私のなにを見てきたの。そんなたくさんの言葉を微笑みの奥に閉ざしたまま、彼女は再びピラミッドを作り始めた。直線的に積み上げるよりも安定した、長い長い天への道のり。

 理性的であること。感情的であること。本能の赴くままに反応してしまうこと。それらの違いについて。その在り様について。

 しばらく考えて、あるいは考えようとして、僕は明確な意見を持つことを諦めた。そんな面倒くさいこと、どっかの誰かが考えればいいのであって、そもそもいまここで一定の意見を見つけるよりは、おぼろげながらも感覚的に理解していればそれでいいと、そう思ってしまったのだ。

「きっと君は、自分の思い通りになる事柄しか好きになれないんだろうね」

「たぶんね」

 彼女は残っていた珈琲をぐっと飲み込むと、僕をじっと見つめてこう言った。

「私は、あなたのことが好きじゃないから一緒にいられるんだと思う」

「それは嫌いだから、と言うことなんだろうか」

「好きじゃないと嫌いとでは思い入れは異なるわよ」

「嫌いじゃないと好きと同じくらいに」

「美味しくはないと不味くはないと同じくらいに」

「どちらも似たようなものだと思うんだけどな」

「天と地ほども違うわよ。猿は決して水面の月を掬えない。溺れて死ぬか、鼈に食われるかぐらいでしょう」

「難しいね」

「そうかしら」

「それにとっても面倒だ」

「それは当たっているかも」

「我儘で矛盾だらけで」

 それでも嫌いにはなれなくて。

 午前一時の静寂の中、愚痴っぽくなった僕の言葉を聞いて、彼女は楽しそうに笑っている。


(おわり)


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