『どろり(16)』『読書(5)』
『どろり』
バイトから狭いアパートに帰ってきていた夜の出来事である。お風呂に入り、明日の講義に向けての資料に少し目を通そうと思っていたら、ゆらゆらと辺りが振動した。
テレビの電源を入れて、チャンネルをNHKに合わせる。地震だろうかと思ったのだが、待てども待てども速報は流れなかった。パソコンを立ち上げる。気象庁のサイトにアクセスして、地震がなかったかどうかを確認してみる。たとえ震度が一だろうと、ここでなら速報が載っているはずだった。
けれど、最新の地震情報に、先程の揺れに関する情報は一つも載っていなかった。
どういうことなのだろう。勘違いでもしてしまったのだろうか。腕を組んで唸っていたら、もう一度大きな揺れが襲った。今度は間違いない。確実に地震が発生したはずだった。
依然として揺れが続く中、ふとパソコンから目を上げて部屋を振り返り、私はそれを見つけたのだった。前々から気になっていた、南の壁の床の辺りに生じたひび割れ。それが少しだけ縦に大きくなり、隙間から、血管のような赤い筋を這わせたどす黒いゲル状の物質がぞろりと染み出していたのである。
「なにこれ」
口に出してみたものの、思い当たる節などあるわけがない。そもそも、南の壁には配管や電線はひとつも通っていないはずであり、漏電や廃液が流れ出るなどということが起こるはずがなかったのである。
加えて正体不明の物質は、これまでに見たことも聞いたこともないよう不吉な存在感を放っていた。「よくわからないなにか」が、現在進行形で私の部屋に流れ込み始めたのである。
ただ、幸いと全くにおいはなかったし、流れる速度もそれほどではなかった。ぞっとして、瞬間ではあったもののパニックを起こしかけてしまった私は幾分か冷静になると、すぐに不動産屋に苦情を伝えることを思いついた。
こんなことが起きる可能性があることを、彼らは一度も口にはしなかったのである。そればかりか、意気揚々と契約を勧めてきていたのである。
確かに、この部屋はいい物件だった。大学には近いし、近くにスーパーもあって買い物に困らない。少し自転車を走らせばすぐに駅についたし、バイト先も難なく通うことが出来ていた。
最優良物件だといっても過言は無かった。それ相応の賃貸料が提示されていて、私は奮発して契約したのだった。
重ねるが、住まいとしては全く問題ない部屋であったのだ。けれども、このように気持ちの悪い現象が生じることを隠されていたと思うと、どうにも腹の虫が納まらなかった。
さっそく契約書類を取り出すと、記載されていた電話番号をプッシュした。呼び出し音が五回六回と増えていく。比例して私のイライラも募っていった。
視線を上げて、時刻を確認する。時計の短針は十時を回ったところだった。こんな時間帯では、連絡はつかないのかもしれない。常識的に考えれば、もうすでに社員は退社してしまっているだろうと思う。
しかしながら、少なくともこの夜の間はこの部屋で過ごさねばならないことを考えると、不満を誰かにぶちまけたくて仕方がなかった。どういうことなんですかと、一言だけでもいいからぶちまけてやりたかった。
依然として続く呼び出し音は、二十回を越えようかとしている。
変化のないことを腹立たしく思い、頭を掻きむしりながら、いっそのこともう電話を切ってしまおうかと考えた。
これだけ長くコールさせておいて。営業時間じゃないのなら、そう録音で伝えてくれたらいいのにとまたひとつ不満が増えてしまった。
舌打ちして携帯を耳から離そうとした瞬間に、誰かが電話を持ち上げた。
「…………」
相手はなにも答えようとしない。挨拶もなければ、身分を名乗るようなこともない。
「もしもし。私、そちらで紹介されたアパートに住んでる者なんですけど。一体全体、この物件はどうなってるんですか」
吐き捨てるようにそういってやった。溜まりに溜まった苛立ちを滲ませながら、詰るように告げてやった。
しかしながら、相変わらず相手の反応は鈍い。鈍いどころか、なにも返ってこない。その不誠実で非常識的な態度に、さらにイライラが込み上げてくる。
「あのね、壁から変な物が出てきたんですよ。そちらの説明不足か、施工不備なんじゃないですか。ねえ、あんた聞こえてんの? ちょっとは返事したらどうなのよ」
唐突に、ぶつんと電話を切られてしまった。結局一言も答えてもらえなかった。
「なんなのよ」
携帯の画面を睨みながら愚痴をこぼす。電話に対応した相手の無礼な態度に激しく憤りを覚えていた。あんな対応をするくらいなら、 電話になんて出なければいいのに。
思いながら壁に目を向けた。
ざっと血が引く音を聞いたような気がした。
どす黒いゲル状の物質は、先程見たときの三倍以上、壁から滲み出ていた。
タオルかなにかで押さえておかなければならない。衝動的にそう思った。そうしないと、すぐにでも床が覆われてしまう。こんな正体のわからない物質になんぞ触りたくないのである。
安全地帯を確保することが第一の目標だった。私は直ちに作業に取り掛かることにした。
押入れからタオルを何枚か取り出す。ぽいぽいと投げ捨ててから、押し集めるように壁際に向かって床を拭いていく。
ひと段落してから、先程かけた電話番号にもう一度かけなおしてみた。二回ほど呼び出し音が繰り返される。ぷつりとどこかに繋がって、今度は営業時間が終わっていることを告げる機械的なアナウンスが流れてきた。
携帯を耳から外しながら、どういうことなんだろうと考えてみた。どうして先程はあんなにも呼び出し音が続いたのだろう。どうして今は、素早くアナウンスに切り替わったのだろう。ついさっきまで電話の前に誰かがつめていたというのだろうか。私の電話を無言のまま切って、それからアナウンスに切り替えたのだろうか。
なにかおかしい。
思いながらも、補充したタオルを壁際に押しやり、少しでもゲルの流れを押し留めようと奮闘していた。床に広がったどす黒い物体はいやに粘着質で、タオルの土嚢に塞き止められて、こんもりとひび割れの前に盛り上がっていた。
これでしばらくはなんとかなるだろう。立ち上がると、ひび割れの走った南の壁と向き合った。
いったい、この壁の向こう側にはなにがあるのだろう。どうしてこんな物質が染み出してくるのだろうか。
気になり始めると、わからないままでは我慢できなくなってしまった。近寄って、壁を軽く叩いてみる。こんこんと、硬い反応が返ってくるかと思いきや、触れた瞬間に壁は大きく波打った。
びっくりして、思わずその場から飛びずさる。まじまじと白い壁を眺めてしまった。
壁は、昨日までと何ら変わることなく、白い無地の壁紙に覆われた、至って普通の壁であるように私の目に映っている。他の三辺と比べても、なんらおかしなところは見られない。唯一ひび割れていることだけをのぞけば、同じ素材でできているはずなのだった。
けれども、それが今、確かに波打った。水面のように、たぷんと拳が沈みそうになった。まるで、薄皮一枚被せただけで、白い壁紙の向こうは全てあのゲル状の物質で満たされているかのような感触だった。
はっとして、私は他の三面の壁に対しても同じような確認をしてみた。嫌な予感がしたのだ。正体不明の、よくわからない何かが確実に近づいている。居心地の悪い違和感が怖気を伴って込み上げてきていた。
そうでないことを願いながら、杞憂であると確かめたくて、私は壁を叩いて回った。
果たして、そのどれもこれもがたぷんと波打ち、昨日までの壁とは全くの別物に変化してしまっていたという事実は、私を大いに動揺させた。
「……なによこれ。どうなってるのよ」
口に出さないと落ち着けそうになかった。どの壁からも離れられるよう部屋の中央に立ちすくんで、私はしばらく呆然としてしまっていた。
我に返ると、タオルで塞き止めたひび割れの前に目を落とした。土嚢は、やはりというべきか、呆気なく決壊してしまっていた。止めどなく溢れてくるどす黒いゲル状の物質は、じわりじわりと私のほうに流れ出てきている。安全地帯はいとも簡単に脅かされ始めていた。
込み上げてくる嫌悪感と恐怖に全身を支配された私は、逃げるようにして玄関へと急いだ。
外に出なければならなかったのだ。すぐにでも助けを求めなければならなかった。
急かされるようにノブを捻ると、肩からドアにぶつかって、押し開けるように体重をかけてみた。スチール製のドアはぴくりとも動こうとしてくれない。
鍵がかかっているのかもしれない。思い、摘みを捻ってからもう一度押し開こうとした。それでも、ノブが虚しく空回りするばかりだった。
「開けて。誰か助けて」
叫びながら、スチールのドアを思い切り叩いた。ドンドンと大きな音が周囲に響く。
「お願い。ここから出して。誰でもいいから」
他の部屋にも、入居者はいるはずだった。このアパートは壁が薄くて、簡単に音が外部に漏れてしまうことがしょっちゅうだったのだ。あの妙な揺れが起きるまで、どこかはわからなかったが、耳うるさい騒ぎ声が聞こえていた。大声で喚けば、少なくともその人たちに聞こえるはずだった。
ドンドン、ドンドン、ドンドンドンドン!
「どうして。どうして誰も来てくれないの。助けて。ここから出してよ」
祈るように、ドアを殴り続けた。手が赤くなって、皮膚が裂けたような痛みが走っても、構わず殴り続けていた。
けれど、その音も次第に響かなくなっていった。たぷん、たぷん、と波打つ感触が右手に伝わってくる。見れば、ドアまでもが壁と同じような変化をきたし始めてしまっていた。硬かったスチールの一枚板までもが、正体不明のなにかに侵蝕されてしまったのである。
「なんなのよ」
よろめくように後退した。これでもう部屋から出られなくなってしまった。窓から出ようにもここは三階だったし、そもそも窓が玄関の反対側にあるのである。もうあの物質に阻まれて行きようがなかった。
私は完璧に閉じ込められてしまった。
短い呼吸を繰り替えしながら項垂れる。あぶら汗が次々に流れていくのがわかる気がする。
もう出られない。誰にも声が届かない。目を閉じたときに、携帯のことを思い出した。これを使えば、誰かと繋がることができる。助けを呼んで、外側からドアを開けてもらうことができる。
目を見開くと、電話帳から友達のアドレスを探し出して、素早く通話ボタンを押した。コール音が続く。一回、二回、三回。がちゃりと友達に電話が繋がった。
「あゆみ? 聞こえる? ねえ、助けて。いますぐ私の部屋に来て。お願いだから。私を部屋から出して」
すがるように口にしても、友達はなにも答えてくれない。呼吸の音すら聞こえない。まるで、暗闇が電話を受け取ったかのような沈黙ばかりが返ってくる。先程電話が繋がった、不動産屋と瓜二つな態度に、急に室温が下がったかのような寒気を覚えた。
「ねえ、あんたなの? もしかして、あんたがこれの原因なの?」
相手はなにも言わない。笑うこともなければ、哀れむこともない。そもそも、存在しているのかどうかがわからない。
けれども私は、そんな相手に対して助けを求めた。救いを求め続けた。そうすることしか思いつかなかったのだ。それ以外にできることなどもうなくなってしまっていた。
泣き叫び、どれほど言葉を重ねてみようが、相手は沈黙を保ち続けていた。そのうちに、ブツブツといきなり電波状態が悪くなったかと思うと、遂に携帯電話までもがぶよぶよと波打つようになってしまった。
絶望に打ちひしがれながら、携帯を床に投げつけた。ぶつかった音がしなかった。見れば、部屋の床のほとんどを、あのどす黒いゲル状の物質が覆ってしまっていた。白かった壁も、床に接したところから汚染されるように変色し始めている。
ごぽりと、部屋のほうから音がした。同時にゲル状の物質が広がるスピードが速くなる。きっと、あのひび割れが大きくなったのだろう。亀裂が生じて、今まで以上に流れ出てくるようになったのだろう。
思いながら、玄関から動くこともできず、私は立ちすくんでいた。安全地帯は、もう玄関先にしか存在していなかったのだ。刻一刻と、どす黒い物質は、音もなく私の足元に近づきつつある。容赦することなく、距離を狭めてきている。
ひんやりとした感触が私の足に生じた。叫んで、反射的に足を持ち上げて後退した。けれども、そもそも逃げられる場所がなくなっているのである。身動きの取れない私の足首は、すぐにゲルに浸され始めてしまった。
ごぽんと音がする。また一層ゲルの増え方が早くなる。部屋の中は一面、あのどす黒い色に覆われてしまっていた。床はもちろんのこと、壁もドアも天井までも、溢れ出したゲルの色に汚染されてしまって、空間に広がりが確認できなくなってしまった。
ぱちぱちと電球が明滅する。しばらくすると、完全な暗黒が辺りを支配した。
ゲル状の物質は、もうすでに腰の辺りまで競りあがってきている。足が持ち上がらない。粘着質な物質であるがために、動くことさえままならない。
どんどんゲルは増えていく。もう胸の辺りまで迫ってきた。私は叫ぶことをやめていた。どのみち助からないのだということを悟っていた。立ったまま、絶望に身体が沈んでいくのを感じ取ることしかできない。
首まで迫ってきた。それがひんやりとしているのか、とうとう感触さえもわからなくなってきた。真っ暗闇で、どこになにがあるのかもわからない。ゲルと部屋との境界がわからない。私とゲルとの隔たりがわからない。
どぷんどぷんどぷん。
口が沈んだ。
どぷんどぷんどぷん。
頭まで埋まった。
(おわり)
★ ☆ ★
『読書』
ページをめくる。真新しい紙のにおいは、微かに鼻腔をくすぐるとすぐに消えた。一行目に目を落とす。主人公である漁師の老人は、二日経ってもまだカジキとの格闘を続けている。
ぱたぱたと窓から小さな音がした。きっと、風に煽られた雨水がガラスを叩いたのだろう。今年の梅雨は雨脚が激しいのが特徴的だった。そういえば、断続的に降り続く雨の影響で地盤が緩んでいる危険性があると、朝、天気予報士が伝えていたような気がする。
『地盤沈下や土砂災害、浸水などに十分注意ください』
どれもこれも、私には関係のないことばかりだった。
ページをめくる。紙が指に擦れて、小さな音を立てる。窓の外にはじっとりとした長雨。周囲には、永遠にも似た音の繰り返しばかりが溢れている。
ふと足元に気配を感じて、本から視線を上げた。照明のついていない、薄暗い雨の日のリビングルーム。みゃあと鳴声を上げたのは、一年前にこの部屋にやってきた猫のミミだった。
「どうしたの。お腹でも空いた?」
言いながら抱きかかえ、膝の上で頭を撫でてやると、ミミは満足そうに目を細めた。不安定な足場にも関わらず、バランスよく体を丸めると、じっと身動ぎを取らなくなった。
読みかけの文庫本に栞を挟んでテーブルに置き、私は少しの間ミミに構うことにした。というのも、たった一匹、膝の上に猫が腰を下ろしてしまったために、そうする以外にほとんどの動作を封じ込まれてしまったのである。
ミミを床に降ろせばいいだけの話なのかもしれない。けれど、こうして近づいてきたミミの淋しさのことを思うと、邪見にし鬱陶しく扱うことは、どうしても躊躇われた。
耳の付け根を掻き、顎の下を擦りながら、天井付近の壁に掛けられた時計を眺めた。十一時五分前。窓際に椅子を運んで本を読み始めてから、もう随分と時間が経ってしまっていた。
窓のほうに目を向ける。ぶつかり丸い粒になっていた雨水が、他の水滴と合流し、音もなくガラスの表面を流れていった。
テレビもラジオもつけていない部屋の中は、落ち着いた静寂に満たされていた。誰もいない湖畔の水底にも似た物悲しさが、いたるところに固まって沈んでいた。
澱のような悲しみの残滓。
きっとミミは、その一つに運悪く触れてしまったのだ。そうして一年前の雨の日を思い出し、どうしようもなく心細くなってしまったのだ。
だからこんなにも体を押し寄せてくる。私にくっつこうと、安心していられるようにと一生懸命になっている。
その心が、私にはいじらしい。愛おしくなるのと同時に、すんと切なくなってしまう。
私は膝の上で丸まっている猫の過去について、それほど多くのことを知っていない。捨てられたというわけでもなければ、よく見かけた野良猫というわけでもなかったのだ。ミミは唐突に私のもとへとやってきた。同類を求めるような眼差しを浮かべて、雨の日にベランダにちょこんと座っていたのだった。
お互いに初対面だったにも関わらず、窓を開けると、ミミは疲弊した兵士のように部屋に入ってきた。当たり前のようにソファの上で横になると、そのまま寝入ってしまった。
一連の動作があまりに自然だったことに加え、そのあるべき場所に納まったような確固たる頑なな態度が私から追い出す気力を奪ってしまった。
よろしい。好きなだけこの部屋にいればいい。
受け入れてしまってから今日に至るまで、ミミはずっとこの部屋で暮らし続けている。
私の部屋。最低限の家具と、サボテンの鉢、それから小さな犬の置物が一つだけある、実社会からの避難場所。
あの人がいなくなってしまってからもう随分と時が経ったけれど、私はまだ私の中に生じたずれを矯正できないままでいる。
テーブルに置いていた文庫本に手を伸ばし、読書を再開した。
物語の中で、老人は舟に乗っていない少年のことを思い、ひとり孤独にカジキと戦い続けていた。
ページをめくる。視線が文字の羅列を追い続ける。
紙が指に擦れる。ミミが寝息を立て始めた。
紙のにおいが幻のように消えていく。長雨は一向に降り終わる気配を見せない。
ページを、めくる。
呑み込むようにして、私は物語を読んでいる。
(おわり)