『ぼくの戦場(13)』『翡翠の血(4)』『新タマネギ(5)』
『ぼくの戦場』
セミがじわじわと夏の空気を振動させていた。
学校帰りの帰り道。ぼくは友達から押し付けられたランドセルを、背中とお腹と両腕にいっぱいぶらさげて、燦々と照りつける太陽とその照り返しとが槍のように突き刺さる風のない路地を、えっちらおっちらやじろべえみたいに歩いていた。ぴん、と、地面と平行に伸ばした両腕はランドセルの重みを受けて痙攣してきていて、汗はだらだら、脚もがくがくしてきていて、できるのならば今すぐにでも立ち止まって、休憩を取らせてもらいたかった。
でも、吉野くんたちはとても愉快そうに先を歩いている。ゲームとか漫画の話、きらいな先生の悪口やクラスの女子の容姿について、けらけら笑いながらしゃべっている。大きな集団になって道路に広がりながら、時折ちらりと肩越しに振り返っては、ちゃんとぼくが後ろについてきているかどうかを抜かりなく監視をしてきているのである。
休めるはずがないのだった。ランドセルを放り投げて逃げ出すなんてこともするわけにはいかない。ぼくと吉野くんたちは同じ小学校に通っているクラスメイトだったのだ。仮に今からこの場を逃げおおせたとしても、翌日登校した学校には不機嫌になっているか、もしくは不敵な笑みを浮かべた彼らが待ち構えている。
だから、このランドセル運びは、吉野くんたちが飽きるまで、あるいは納得するまではやりとおさなければならないのだった。おとなしく付き従っていかなければ、ぼくに明日の平穏は約束されなかった。
吉野くんたちに従うこと。それこそがぼくに与えられた役割であり、義務であり、どうしようもなくやり過ごさなければならない立ち位置でもあった。
雲ひとつない上空に、飛行機雲が長く尾を引いている。
校門を出てしばらく歩いた駐車場からずっとランドセルを運び続けていたから、とうとう息が切れて視界がぼんやりとし始めた。セミの鳴き声ばかりがやけに大きく耳にこびりついてくる。それぞれのランドセルの中に数十匹ずつ、クマセミがしがみ付いているみたいだった。太陽が傾き始めたのに、夏の夕暮れはちっとも涼しくなろうとは心がけていない。
額から流れ落ちる汗を拭うこともできずに、ぼくはよたよたと歩き続けている。それは先を行く友達に怒られたくないからだったし、殴られたり、蹴られたり、存在を否定されたくないからだった。刷り込みを受けたアヒルのヒナのように、愚直に彼らに付き従っている。
状況が散々な立場であることはずっと以前から重々承知していたけれど、それでもぼくに与えられた、ぼくだけに押し付けられた役割を放棄することができなかった。ぼくが嫌がったり拒んだりしたら、他の誰かが苦しむことになる。そんなことを思うと、たちどころに何もできなくなってしまうのだった。
ぼくが身代わりになって誰かの不幸が減るのであれば、この辛い状況にだってなにかしらの誇りを持つことができる。意味や意義が生まれてくるような気がする。
何と言っても本当に、本当に辛い毎日でしかないのである。他の誰かが味わうことなんてないんだと、ヒロイックな妄想を抱いては、どうにかこうにか現状を受け入れていた。そうでもしないことには、今のぼくはこうしてここにいられるはずがなかった。
前方から吉野くんたちの笑い声が聞こえる。無邪気に歪んだ末恐ろしい音であるように聞こえる。この音が怖くて、恐ろしくて、ぼくは今日もこんな場所までやってきてしまっているのだった。近づかなければいいのに、と、いつかにもべもなくリイコに断言されてしまったことを思い出した。
「ついていくから嫌なことされるんだよ」
その日、リイコは出し抜けにそう言ってぼくのことを蔑んだ。へこへこと吉野くんたちに従って校門を出た直後のことだった。五月の大型連休が終わってからの、梅雨に入るかは入らないかはっきりしない、無闇に気温ばかりが高かった晴れた日のことだ。
コンクリート塀にもたれて両腕を胸の前で組んだリイコは、とても鋭い、忌々しいものを睨むかのような眼差しをして、ぼくのことをじっと睨んでいた。先を行く吉野くんたちの背中ではない。ぼんやりと立ち止まってしまったぼくのことをだけを真摯に睨みつけていた。
「どうしてなにもしようとしないのよ。見ててすごく腹立つよ」
「そんなこと言ったって、仕方ないじゃないか」ぼくは弱々しく答えた。「そうしないといけないんだから。そうしないと、もっとひどいことをされるんだから」
「立ち向かわなければいつまで経っても変わらないよ」
「それは、確かに、そうだろうけれど……」
歯切れの悪いぼくに向かって舌打ちをすると、すごんでリイコは畳み掛けてきた。
「あいつらに従うことが嫌なんでしょう?」言われ、ぼくは小さく頷く。「もうこりごりなんでしょう?」首肯すると、もう顔を持ち上げられなくなっていた。
「ならどうにかなさいよ。そうするしかないじゃない」
「……簡単に言わないでよ」
呟きは思っていた以上に暗い声色になってしまった。ゆっくりと顔を上げて、ぼくはリイコに視線を向ける。
「できないから、今のぼくがあるんじゃないか。こうして、従うしかないぼくがいるんじゃないか。知ったような口ばかり利かないでよ。ぼくの身にもなってみろよ。どうせ助けてくれないくせに。何もしてはくれないくせに。ひどいよ。吉野くんたちよりも、君の方がよっぽどひどいよ。口先だけじゃなくて、なにかしてくれたっていいじゃないか」
「やだよ」
あっけらかんと、けれどもひどく冷たい声でそうリイコは切り捨てた。
「どうしてそんな面倒で危なっかしい真似をしなくちゃならないのさ」
途端に、かっと頭に血が上って、鼻の穴が大きくなった。顔が熱くなって、悔しくて、噛み締めた奥歯が鈍い痛みを覚え始める。
「どうしてそんな冷たいことを言うんだよ! ぼくがどんな扱いを受けているのか、どんな気持ちでいるのか、十分すぎるくらいにわかってるのに!」
「あんまり甘えないでよ」
リイコは少し怒ったような口ぶりでそう言った。
「自分だけが戦わなくちゃ駄目だとか、戦い始めなきゃなんないとか、考えが甘いよ。ハチミツドロップよりも数段甘いよ。だいたいさ、そんな状況になる前に戦い始めないといけないんだよ、本当は。シュンは遅すぎたんだよ。絶対にそちら側にいかないように、みんな一生懸命になってたんだもの。今だって必死だよ。いつその場所にはまっちゃうかわからないから、努力してんだよ。みんな自分のことだけで精一杯だよ。誰かの手助けなんて、できるわけないじゃない」
言葉が鋭利なナイフとなってぼくに突き刺さってきた。
確かに、リイコの言にも一理はある。でも、ぼくだって決して戦わなかったわけじゃなかったのだ。戦って戦って、どうにか身の置き場を見つけようとして、失敗し、弾き出されて、結果的に群れに加われなくて、偶発的に吉野くんたちの爪牙に掛かってしまった。
ぼくだけの責任じゃないのに。生存競争に敗れたからには、相応の報いをいけねばならないというのだろうか。そうなってしまったことが悪くて、だからこそぼくの声は誰にも届かないのだろうか。
「おい、シュン。なにひとりで突っ立ってんだよ」
背後から吉野くんが声を上げる。びくりと肩が飛び跳ねて、身体中が一気に強張っていく。
色を失くしたぼくの表情を、リイコは悲しそうに見つめていた。
「ごめん、すぐ行く」
「早くしろよな。待ってんだから」
不機嫌に佇んでいた吉野くんたちに振り返って、ぎこちない笑顔を向けた。
『泣いているみたいだよ』
リイコの声が脳裏に響いたような気がした。
リイコとぼくは“ともだち”だった。ご近所さん同士でも、幼馴染であったわけでもない。親同士の交流が活発だったとか、同じ塾に通っているとか、そういった接点も何一つ持ち合わせていなかったけれど、なんとなく“ともだち”であり続けたのだった。
顔を合わしては、ぽつりぽつりと互いのことをしゃべりあっていたような気がする。いや、本当はぼくが一方的に話していただけだったのかもしれない。彼女はぼくにとって素気ない姉のようなものだったのかもしれない。
『またそんな顔してる。小学生なのに、眉間に皺が寄っちゃうよ』
口にしては人差し指で眉間を突つかれた。時によっては、ぴしりと指を弾かれたこともあった。
『シュウは本当に情けないんだから』
そう笑った同い年の血の繋がらない姉は、もうこの町のどこにもいない。遠く遠く、決して辿り着けない場所に、勝手に行ってしまったのだった。
気がついたら、両腕からランドセルを落としてしまっていた。どさり、どさりと、アスファルトの上に転がり落ちていた黒い鞄。
『ねえ。いい加減さ、戦ってみたらどう? 今からでもまだ遅くないと思うけれど』
声が聞こえたような気がした。
「おい、シュウ。お前なにしてんだよ!」
様子に気がついた吉野くんたち一向が、あからさまに不機嫌な様子で近づいてくる。
「それが誰のかわかってんのか」
少しだけ面白がっているかのような罵声だ。ぼくはぎゅっと拳を握っていた。黙ったまま、立ち尽くしたまま、でも決して視線だけは逸らさないように、吉野くんたちを睨みつけていた。
怖くないわけではない。今更こんな反抗をしたって、意味なんてないのかもしれない。
けれど、いまこの場所が、ぼくにとっては何よりも大切な戦場だった。いつだってここに戦場は用意されていたのだ。そのことにようやく気がつくことができた。
震える唇をなんとか動かして、かすかな声を発する。
「……もう、嫌なんだ」
「はぁ? なに言ってんのお前」
吉野くんたちはにやにや顔だ。覚悟を決めて、叫ぶように声を上げる。
「こりごりなんだ。へらへらしたくないんだ!」
「うっせーよ、ばか」
そう言って、吉野くんは、どん、と、力強くぼくのことを蹴り飛ばした。瞬間、息が詰まって、腰からアスファルトに倒されてしまった。
「なに舐めた口利いてんの? お前、自分の立場わかってる?」
遥か高みから降り注ぐ言葉は、ガラスの驟雨であるかのように全身に突き刺さってくる。冷たくて、鋭くて、なんとか上体を起こしかけていた手足が震え始めてしまう。
――やっぱりこわい!
思い、ぎゅっと目を閉じた。暗闇の中でリイコの名を呼ぶ。すると、柔らかな笑顔が励ましの声を呟いてくれたような気がした。
拳を握る。脚に力を込めなおす。心の中で、リイコに声を返した。
歯を食いしばると、叫び声とも唸り声ともわからない大声を上げながら吉野くんたちに立ち向かっていった。
(おわり)
★ ☆ ★
『翡翠の血』
陽光など微塵も差し込まぬ屋敷の最深部に位置する座敷である。ともしびの途絶えた狭く暗い室内で少女は、堅牢な格子に囲われさめざめと泣いていた。
とどまる気配のない嗚咽は限界まで空気に溶け込んでいる。深海に広がった暗黒世界のような、心細く、孤独で、重々しい息苦しさが、周囲を包み込んでいた。
そんな部屋に向かって、廊下にひとつの足音が刻み込まれる。
刻一刻と近づいてくる摺足を耳にして、噎び泣く少女は俄かに全身を強張らせ始めた。
気配が立ち止まる。少女がいる座敷の、目と鼻の先である。少女の呼吸はいつの間にか不規則で、荒々しいものに変化してしまっていた。
やがて、音もなく襖がすぅと横にすべりだした。縦に割れた隙間からぼんやりと蝋燭の揺らめきが忍び込んでくる。焦茶色の着流しを纏った長身の男が姿を現した。
少女は錠を手にしたその男を目にするや否や、カッと眦を見開いて息をひっつめこんだ。
瞳に宿ったのは純粋な恐怖のみである。哀願も憤怒も隷属さえも介入しない、真っ黒な絶望が奥底から込み上げてきたのだった。
男が敷居を跨いでくる。少女は白くか細い腕を闇雲に動かして、少しでも距離をとろうと背後にあとじさる。突き立てた爪が畳を裂き、すぐに血が滲むようになった。
「いかん」
男は格子の前に膝を突いてそう口にした。
「そんな勿体ないことをしてはいかんやろうが」
冷たい眼光は、少女が傷ついたことを心配するよりも、勝手に傷を負ってしまったことを非難するように響いた。錠前に鍵が差し込まれる。鈍い金属のすれる音。
「さあて、今日はどこがいい」
格子をくぐって立ち上がった男は、懐から鉤爪のような短い刃物がいくつもついた道具を取り出して脅え竦む少女を見下ろした。
「腕がよろしいか。それとも内腿か。ふむ、脇腹なんぞもたっぷり取れるかもしれん」
一言一言に、少女は全身を抱きしめた。ありとあらゆる箇所に蚯蚓腫れのような瘡蓋が生じてる柔肌は小刻みに震えている。これからまた新たな傷が増えることを思い、刻み込まれる痛みを鮮明に反芻して、少女はちいさな唇をかすかに動かした。
「……もう、許してください。堪忍して」
蚊の鳴くような声だった。男は少女に目を落としてにやりと頬を崩す。
「許すも許さんもないだろう。ただ、お前の血が金になるからこうやって俺が採取しているだけなのだから。怨むんだったら血液が翡翠へと凝固する自らの体質を怨んだほうがいい」
何一つとして同情する気配のない一言に、少女の眼からは再び涙が溢れ出してきてしまった。
「まあ、難儀な事だとは思うがね。哀れんでいないわけではないさ」
言って、男は手を少女へと伸ばしていった。
「だが、結局俺には関係のないことさ」
決して外に漏れ出すことのない悲鳴が、今日もまた屋敷の奥に響いている。
(おわり)
☆ ★ ☆
『新タマネギ』
新タマネギは生のままに限るのだと父は言う。あの甘み、あの歯ごたえ、鼻の奥にぬけていくさわやかな風味。パーフェクトな食べ方なのだと、父は鼻の穴を大きくさせる。
だからなのだろう。今日も夕食にも新タマネギのサラダが出た。透明なガラスの容器いっぱいに盛り付けられたタマネギ。薄く丁寧にスライスされたお陰で、反対側が透けて見える。
そんなタマネギを、父はマヨネーズをたっぷりかけて味わう。そんなにかけたらタマネギの味が消えてしまうんじゃないだろうかと心配になるほどチューブを絞ってから、おもむろに箸を伸ばす。
大口にばくりと放り込んでしばらく咀嚼。やがてにんまりと頬を緩めると、やっぱりこれだなあ、としみじみとつぶやくのである。
「大人の味だよ」
そんなの知らない。知ってるわけがない。わたしには、父の味覚がよくわからないのだ。大人の味ってなに? どうして生のタマネギが美味しいなどと思えるのだろう。まったくもって理解ができない。
だって、ふつうタマネギは辛いものなんだもの。包丁で切るだけで涙が出てくる刺激物なんだもの。水にさらしていたからといって、そう簡単においそれと食べられるものであるなどとは到底思えなかった。
第一、よく炒めて飴色にしたほうが旨味がでるじゃない。カレーなんか正しくそうだし、野菜炒めにしてもぐんと甘くなって、わたしはそっちの方が大好きだった。
けれども父は、今夜もわたしにこう言葉を投げかける。
「どうだ、エリ。お前も少し食べてみないか」
「いい。いらない」
知っている味でもう満足してしまっているのである。わざわざ冒険してみることは、いささか魅力にかけることだった。
「そうはいってもお前、新タマネギは生で食べるのが一番美味いんだぞ。この味を知らないってのは、ちょっともったいない気がするけどな」
「それは父さんの考えでしょう。わたしは食べたくないの。それでいいじゃない」
「でもなあ。もしかしたら好きになるかもしれないじゃないか」
「試さなければ、もしかしたらもあり得ない」
「でも、試してみたらあり得るかも知れないぞ」
思わず顔をあげて父を睨んでしまった。いつにもましてしつこい。娘の機嫌を損ねているにもかかわらず、どこか飄々とした態度がいっそう癪に障った。
「ほら。食べてみなさい。絶対に美味いから。保障する」
「じゃあ、もし美味しくなかったら」
「そうだな。何でもいいから一つ言うことを聞いてやろう」
「言ったね」
「ああ。言ったとも。だから、食べてみな」
そうして、ずいと新タマネギの容器がわたしの前に押し出された。薄くて、たぶん辛い、半透明のやさい。小皿に取り分けて、一呼吸入れて、ぱくりと勢いよく口に含んでみた。
一噛み。二噛み。三噛み。
父と視線が交わった。結果を期待しているような、確信しているような、不適なにやにや顔でわたしの動向を探っている。
顎は終始問題なく動き続けていた。早まることも、遅くなることもなく、一定のリズムでしゃくしゃくとタマネギを噛み砕いて、ついには飲み込んでしまった。
「美味かったろう」
ここで、どうだった、と質問しないところが父の腹立たしいところなのである。
「不味くはなかった」
答えたわたしの舌は、まんざらでもない新タマネギの味をちゃんと記憶してしまったのだった。
(おわり)




