『父の葬式(4)』『実地練習(3)』『ある夏の日、おばあちゃんの家にて(7)』
『父の葬式』
ぎぃ、ぎぃ、と廊下板が軋んだ音を響かせた。摺足が次第に部屋から遠ざかっていく。ああ、今は階段だ。黒ずんだ急勾配を、足音はひっそりと降っている。
三日前に父が死んだ。今日はその葬式が催されている。朝からずっと、漣のようなざわめきが押し寄せてきていた。決して返すことはない、ただただ耳煩わしいだけの潮騒である。母屋には大層大勢の弔問客が集まってきているようだった。
無理もない。生前の父はとても顔が広かったのだ。度量にそぐわぬ旧家の矜持を鼻にかけ、この辺り一体の大地主としての絶対的な権力を我が物顔で振り翳していた。
窓から早朝のか細い光が差し込んで頬に当たっている。
好くして貰っている奉公先で電報を受けたのが昨日のことだった。鉄道を走る電車に飛び乗り、実家に舞い戻ったのがつい今し方である。七年ほど足を遠ざけていた敷居を跨ぎ、こうして離れの二階に座している現状は、不都合であるように思えた。どうしてこの場所に座りじっとしているのかが納得できなかった。
あれほど嫌っていたのに。憎んでさえいたというのに。
混乱の渦に飲み込まれてしまいそうだ。しんとして静まった正体不明の惑いが、丹田の奥に淀みとして溜まっているのである。足を滑らしたが最後、懸命に水を掻いてみたところで、抗いようもなく気持ちは水底に沈みこんでいく。
わざわざ浅黄色の振袖を選んで藍色の帯を締めてきたのは、死んだ父を嘲笑うためだった。ようやく父という呪縛から解き放たれることができたのだと、車中では揚々と胸を躍らせていたのである。
けれど屋敷が近づくに連れて気分は萎んでしまった。空気を抜かれたゴム鞠のように縮んで、停車した頃には消えてしまっていた。心に残ったのは、底の見えぬ洞のような虚しさだけである。空っぽの暗闇はどんな疑問を投げかけようとも、ひとつとして答えを返してはくれなかった。
涙はない。出るはずがないのである。私は紛れもなく父の死を喜んでいるのだ。精神を病み、眼を血走らせて狂言ばかりを口にして、遂には咽喉を掻き毟るようにして発狂死したという父の顛末には、心底胸が空いた思いだったのだ。納棺された死化粧を覗き込んでも、厳しく唇をひん曲げた遺影を眺めてみても、終ぞ悲しみなんぞは込み上げてこなかった。
なのに、どうして。どうしてこんなにも沈鬱な感情を抱かねばならないのだろう。
憔悴して見違えるほどやつれてしまった母が肩に掛けていった喪服を握り締める。ぎぃ、ぎぃ、と再び階段の踏板が音を立てる。
「伊那。そろそろ焼香だけん、来んさい」
戸口に立った母がそう言った。
窓の外には春靄の空が広がっている。
庭木の梢にとまった一羽の雲雀が小さな嘴を開いて囀っていた。
(おわり)
★ ☆ ★
『実地練習』
エンターテイナーは恥を忍ばねばならない。常識を覆して全てを解き放たねば、一人前とは呼べぬのである。
うん。理屈ではね、確かにわかるんだよ。自らの殻を飛び出さなきゃなんない。はい。ちゃんと理解してますともさ。ええ、もちろんだとも。
でもさ、やっぱり恥ずかしいのですよ。とてもやりたくないわけなんですよ。ねえどうして。どうしてこうなったの。なんで私はこんなことしなくちゃならんのですか。ええ。誰か教えてくださいませんかこの糞馬鹿野郎。
そんな恨み言を脳裏に並べながら、そっと視線を肩越しに異動させる。ビルの陰に隠れながら、歩くターゲットの後姿を視界に捕捉した。革の鞄を片手に、目的地に向かって邁進し続けている。ぴしりと着こなした黒のスーツが、社会人としての正しい在り様をひしひしと教えてきてくれている。
私は禿のカツラを被って鼻眼鏡を手にしているのである。おまけにやたらと雰囲気の違う茶色いコートを着ている。荒野を歩き通したガンマンの如き汚れたマントを羽織っている気分なのである。
もうね、酷いの一言に尽きるんですよね。なんだよ、鼻眼鏡って。禿のカツラって。私の気持ちは萎えきっているのである。あからさまにちぐはぐな服装は、より一層やる気を奪い去ってしまっていた。白昼堂々ふざけきった装いに身を包んでいるのである。世の中を舐め腐った恰好だった。ああ! 事情を知らぬ知り合いに見られたら、羞恥のあまりころりと死んでしまうかもわからなかった。
こんな暴挙を命じた団長を怨んだ。演技力の向上がどうこうといくら熱弁を重ねてみたところで、結局はパワハラ紛いの実地練習に変わりないのである。舐めやがって。ふざけるのもいい加減にしろよ。そろそろ訴えてやってもいいんだぞコンチクショー。思うと、図らずも視界が滲んできてしまった。
惨めになるので勢いよく洟を啜る。溢れるのだけはぐっと堪えた。堪えるついでに足元を睨みつける。大きな黒アリがせっせと仕事を続けていた。きっと餌の捜索か何かなのだろう。この街にキリギリスはいないのだ。へんてこな服装をしているのは今ここにいる私だけだった。
「ちょっと君」
不意に背後から肩を掴まれた。驚き振り返って見れば、お巡りさんが怪訝な表情で立っている。
「そんな恰好で何してるの」
「あ、いや、そのですね、これはその……」
大ピンチ!
全部全部団長が悪いのだった。有りっ丈の呪詛を脳裏に浮かべた私は、とうとう涙目になってしまった。
(おわり)
★ ☆ ★
『ある夏の日、田舎のおばあちゃん家にて』
蝉がじゅわじゅわ鳴いている真っ青な夏の空に端に、白くもくもくとした雲が湧き立ち始めていた。夕方には入道雲になるかもしれない。縁側で水色のソーダアイスを齧りながらそんなことを思っていた。
「おーい、康平ー。早く行こうーぜー」
「もうちょっと待ってよー。――じゃあ姉ちゃん、ぼく行ってくるから」
「んー」
振り返ることもしないで返事をした私の背後で、康平がどたどたと居間から出て行く。これから友達と近くの川へ遊びに行くのだそうだ。昼を過ぎてから急にやってきたこのあたりの友達と一緒に行くのだと言う。
康平は友達を作るのがとても早い。彼らと知り合ってからまだ三日と経っていないはずなのに、もう一緒に遊ぶまでに親しくなってしまった。私はまだここでの生活に慣れることができないでいるのに。
「おせーぞ康平」
「ごめんごめん。海パンが見つからなくて」
「そんなん、服んまま飛び込めばいいのに」
「あ。それもそうだね」
玄関の軒先から笑い声が聞こえてくる。康平も合わせて、五人ぐらいだろうか。ここからじゃ姿が見えないのだけれど、大体それくらいだと思う。どこへ行っても小学生の夏休みは忙しいのである。
「康平ぃ。気いつけて行ってくるんよー」
ばあちゃんが家の向かいの畑から呼びかけた。
「うん、分かってるー」
「おばちゃーん。ぼくらがついてるんで大丈夫でーす」
「そうかー。でも、あんたらも気をつけんといかんよー」
そう言うばあちゃんに、重なり合った五つの返事が返される。声を聞いて満足そうに頷いた皺くちゃの顔が容易に想像できてしまった。
「じゃあ行くか」
「うん」
「康平。お前、チャリあるんか?」
「うん。昔母ちゃんが浸かってたおんぼろが」
「どれどれ。……いいチャリやなあ」
「すっげー。ハンドルがまがっとるチャリなんて始めて見たわ」
「やめろよー。恥ずかしいんだからさ」
「ごめんごめん。悪かった」
そんな談笑に続いて、スタンドを跳ね上げる音が聞こえてくる。
「じゃ、そろそろ行くか」
「うん」
「じゃあ、おばちゃん、行ってくるんでー」
声がして、目の前のなだらかな坂道を、五つの帽子が颯爽と通り過ぎていった。笑顔が明るい陽射しに照らし出されていた。帽子はすぐに見えなくなると、すぐ近くにある四辻を曲がったらしい、遠く田んぼに挟まれた道に再び後ろ姿を見せ始めた。その姿は山のほうに向かってどんどんと小さくなっていく。やがて再び道を右方向に折れると、とうとう見えなくなってしまった。
私は縁側でじっとアイスを食べながらそんな弟の姿を見送っていた。ついさっきまで近くにあったはずの名残はなくなってしまっていて、代わりに蝉の声が空間を満たし始めていた。鳶の鳴き声も上空から降ってくる。庭の向日葵は元気に大輪を咲かせていて、嬉しそうに太陽を向いていた。風が吹いて、隅っこに立っている樫の葉が音を立てる。私はソーダアイスの最後の一欠けらを口の中に放り込んだ。
暑い。
とてもじゃないけれど、日向に出たいと思えるような気温じゃなかった。いま私が座っている縁側でさえも、陰っているのに汗が噴き出してくるのである。確かに都会なんぞよりは過ごしやすかった。でも、暑いことに変わりはないのである。夏は、たとえ都会だろうが田舎だろうが等しく訪れていて、どこにいたって暑いものは暑いのだった。
扇風機でもあればいいのに。恨めしく思ったものの、ばあちゃんの家には冷房器具がひとつも置かれていない。とても残念だった。それだけで、夏の思い出がひとつ作れなくなってしまったのだ。回るプロペラに向かって声を出すことができたなら、少しは時間を消費できただろうに。
私は食べきったアイスの棒を齧りながら、縁側に寝そべった。そのまま奥の居間を反るようにして覗き込む。母さんは相変わらず畳に寝そべったまま自堕落にテレビを見続けていた。
背中は何も語らない。正直なところ、何も語ってほしくはない。
寝返りを打って、仰向けからうつ伏せになった。服ごしに触れた床板がひんやりと冷たい。これなら少しは涼めるかもしれない。思ったのと同時に、視界の端に映った母さんの背中に、複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。
青白く照らし出された薄暗い部屋の中に寝っ転がる母さんの姿は、否応なしに四日前の表情を思い起こさせてくるのである。あの日起きたことを思い出すと、私はちょっと憂鬱になってしまうのだった。
ヒステリックに叫んでいた母さんの声が、今でも耳の奥にこびりついている。確か、包丁も持ち出していたんだったっけ。自分の親があんなにも取り乱すだなんて、思ってもみなかった。そして、できればそんな姿、ずっと知らないままでいたかったのだった。
ため息が込み上げてくる。父さんはまだ何にも連絡を入れてきていない。依存心が非常に強かった母さんの性格が発露したことにも驚いたけれど、会社の女性社員との不倫だなんて古典的な過ちを父さんが犯したことにも驚いてしまった。
まったく。なんなのだ、我が家の両親は。
情けなくなって、やっぱりため息が込み上げてくるのだった。
身体を動かして、空を見上げてみる。
真っ青な空が、かなり羨ましかった。
(おわり)
『父の葬式』と『実地練習』は秘密基地内で書いた上に加筆修正したものです。