『大輪の花(8)』『あなぐま(11)』
『大輪の花』
大切な彼女を後部座席に乗せて、康輔は自転車を漕ぎ続けていた。
ぽつりぽつりと心許ない街灯だけがアスファルトを照らす街外れの坂道。道路脇を往来する人影はもちろんのこと、車さえも見なくなって随分と久しかった。
今宵は町をあげての夏祭りが催されている。イベントの少ない田舎町の住人が、一年の中で全力になって楽しもうと張り切っている数少ない一夜である。町の中央にぽつりと盛り上がった山の麓にある神社には電気が引かれ、連なる屋台の店先には人々が蛾のように群れている。少し放れた広場に組まれた櫓からは八方に提灯が浮かんでいた。響き渡るお囃子にあわせて、思い思いに盆踊りは進行していた。
二人はそんな人垣から遠ざかるようにして夜道を上り続けていた。Tシャツに短パン姿で、康輔はペダルを踏み締めている。力の限りハンドルを握り締めた両手の内側は、汗でベトベトになっていた。激しく繰り返す呼吸音が獣のごとく夜空に消えていく。一度も休むことなく自転車を漕ぎ続けていた両脚は、もうそろそろ限界に達しかけていた。痙攣し始めた右脚に、内心康輔は舌打ちをする。
坂道は思っていた以上に傾斜があって二人乗りの自転車では登り辛かった。もう少し計画を詰めていればよかったと今更になって後悔した。
「ねえ、大丈夫」
後部座席に乗った諒子が心配そうに訊ねてくる。
「あたし、後ろから押そうか?」
「いい、だい、じょう、ぶ」
息も絶え絶えに、康輔は強がりを口にする。元はといえば彼が諒子を誘い出したのである。へばってなんていられなかった。好きな人の前では、男はいつだって恰好よくいたいものなのである。弱音など、口にできるはずがなかったのだ。
進学と同時に上京してしまった諒子が夏祭りの前後に帰省するらしい、との情報を康輔が耳にしたのは二週間前だった。相手は母である。夕食時になんでもないことのように話題に上がったせいで、危うくご飯を咽喉に詰まらせるところだった。
諒子が帰ってくる。
それは、告げられなかった想いを依然として胸に抱き続けている康輔にとって重大な事態であった。エロ本の隠し場所を親に見つかってしまった過去よりもよっぽど深刻な問題だった。そのせいでそれからの七日間、受験勉強にまったく身が入らなくなってしまったほどである。尻込みしそうになる気持ちを鼓舞して連絡を取るまでには多大な勇気を必要としたし、それから今日に至るまでは違和感なく会話ができるかどうかが不安で堪らなかった。
幼馴染だったが故に、月日が大きな隔たりとなって横たわっていた。知らない町でちゃんと一人暮らしを営んでいる諒子の存在は、ずっと近しかった反動と相まって、とても遠いものになってしまっていた。
諒子に逢いたい。逢って話したい。思うものの、もし彼女が変わってしまっていたらと考えると、無性に叫びだしたくなるのである。諒子が変わってしまったことに腹が立つのではない。変わってしまった彼女に追いつけない自分自身が歯がゆくて仕方がないのだった。
そんな思いがあるから、今日一日康輔の肩肘にはずっと緊張が漲っていた。再開した当初こそ懐かしが込み上げてきたものの、一年経った内面はどうなっているのかわからないのである。一日、いや一夜だけでいい、恰好いい自分を演じるのだ、と自らに課した康輔には、今更むざむざと自転車を押してもらうことなんてできなかった。そんなことをされては男が廃る。奇妙に尖がったプライドが、彼の胸中で輝きを放っていた。
けれども現実問題として、このままでは到底時間に間に合いそうになかった。花火の開始時刻は夜八時。目的地である高台までは、まだ一キロ近く残している。にも関わらず、腕時計は七時五十分を差している。
情けなかった。これしきのこともやりきれない自分はなんと恰好悪いのだろうと、康輔はがくりと肩を落としてしまった。
様子を、ぎゅっと腰に腕を回していた諒子がじっと眺めていた。久しぶりに間近に見る背中は、汗に濡れて熱を発しながらいつもよりも小さく、意地を張っているよう映っていた。一年前と変わらない態度がおかしくて、くすりと柳眉を下げた諒子は苦笑を漏らしてしまう。馬鹿だなあと、可愛らしく思った。頼ってくれたって、全然構わないのに。
遅々として進まない自転車に業を煮やして、諒子は康輔から腕を離す。バランスよく道路に降り立つと、先ほどまで座っていた金具の部分を掴んで、ぐいぐいと力強く押し始めた。
「さあ康ちゃん、頑張って。もう少しなんでしょう」
決して望まなかったはずの助力だったが、重かったペダルが一気に軽くなった。
「花火、いい場所があるんでしょう。二人で見るんでしょう。ならさ、はやく行こうよっ」
自己嫌悪の波に攫われながらも、疲弊しきった頭で康輔は、そうだな、と思った。まったくその通りだった。早く行かねばならなかったのだ。諒子と二人で花火を見るために、こうして山道を登っているのだ。目的が達成されなければ、何の意味も生まれないじゃないか。
ぐっぐっぐっ、と元気を取り戻した康輔はペダルを押し込んでいく。腰を浮かし、上体を前傾に倒して、一心不乱に坂道を登っていく。
諒子もまた力の限り自転車の金具を押し続けていた。小走りになりなったり、左右に蛇行したり、不意に生じる康輔の重みを押し返したりしながら、果敢にバックアップに努める。
「もうちょっとだ。もうちょっとで着く」
康輔が叫ぶ。車輪がさらにもう少しだけ早くなる。表情には光が戻ってきていた。
背後で諒子も笑っていた。疲れるし、馬鹿馬鹿しいし、とても可笑しかった。
そうして二人は、転がり込むようにして山道脇にある駐車スペースに到着した。よろよろと崖の近くまで走って康輔は自転車から転げ落ちた。隣に、呼吸を荒くさせたまま膝に手を当てた諒子が立つ。地面に両手を投げ出して懸命に酸素を補給する康輔の顔を見て、にっと共犯めいた笑みを浮かべた。
「着いたね」
「ああ、着いた。間に合ったよ」
二人の顔に、かつての表情が戻った瞬間だった。瞬間、遠くの空で大地を震わせんばかりの轟音が鳴り響いた。はっとして諒子が視線を宙にさ迷わせる。
薄闇に覆われた夜空に、一筋の光跡が刻まれていた。あっ、と口を開いたのと同時に、花火が燦と大輪の花を咲かせる。遅れてぱがんと音が届いて、お腹をくすぐるかのように周囲の大気を振るわせた。
「すごい」
諒子が言った。
「すごいね、花火」
そうだな、と康輔は頷いた。眼差しは、じっと夜空を向いている。
花火は、続けて何発も打ちあがった。どーん、どーん、と一回一回腹の底まで染み込む轟音を響かせながら綺麗に咲き誇っていた。
濃紺の夜空に浮かぶ火の花を、二人は厭きもせず眺め続けていた。いつまでもいつまでも、ずっと眺め続けていた。
(おわり)
★ ☆ ★
『あなぐま』
ぼくのクラスには少し代わった女の子がいる。周囲からアナグマと呼ばれているその子は、結構可愛らしい外見をしている。
どれくらい可愛らしいのかというと、誰しもが自然と頭を撫でてしまうくらいである。赤ちゃんからお年寄り、義理人情に生きるあんちゃんや明晰美麗な女メカニックにいたるまで、これまでにありとあらゆる人々がその頭を撫でてきているのだった。常勝無敗の戦歴は、もはや神の領域に届かんとしているかのごとくである。
おいおい、なにを寝惚けたことを言ってやがる、そんなのわからないじゃないか、本当にあった事実だけを口にしているのか、なんて彼女の可愛らしさを知らない人は声を大きくさせるかもしれない。けれど、そもそもぼくは本当のことしか口に出せないし、実物を見たら嫌でも納得していただけると信じている。保障するよ。彼女の姿を目にした人ならば、まず間違いなくその頭を撫でたくなってしまうのだから。統計だってある。去年の文化祭の時にアンケートを取ったのだ。数値は決して人を裏切らない。彼女はとても可愛らしいのである。
さてさて、そんな彼女なのだけれど、困ったことがひとつだけあった。みんなが口にしているアナグマという通称からもわかるとおり、非常に恥ずかしがり屋なのである。もう病的といっていいくらい。誰かに見つめられただけで茹でたこのごとく真っ赤にあがってしまうし、ことと次第によっては気絶だってしてしまうのである。
実際、新学期になるにあたって、二年生に進学した彼女は自己紹介を無事に終えることが出来なかった。先生に名簿に記載された名前を呼ばれただけで、机に勢いよく突っ伏してしまったのである。
ごんっ、と響いた騒音には、クラスメイトの誰しもが驚き慌ててしまった。彼女はそのまま保健室へと運ばれて、早退してたのだから、症状の重篤たる様は否応にも納得していただけると思う。登校初日の、半日しか学校のない一日だったにも関わらず目の当たりにした早退を、その理由も含めて、ぼくはある種の奇跡だと思う。とにかく彼女は異常なまでの気恥ずかしがり屋さんなのであった。
とはいえ、現在は誰からも地肌を見られることのない完全防備な恰好をしているから何とか学校生活を送れている。もはや宇宙服といってもいい装備を整えてきているので、NASAはあちらですよ、などと余計なお節介をかけたくなってしまうほどである。遮光ファインダーの奥にはくるりとまあるい瞳が隠れているというのに。その可憐な姿を目にできないことは、いささかこのクラスの損失であるといえなくもなかった。
しかしながら、病的な羞恥心を身に宿している彼女である。それほどまでに徹底した恰好をしているくせに、ひとたび注目が集まると途端に腰砕けになってしまうことが度々あった。外見をどれほど取り繕っても、内面は相変わらずなのである。近頃では、先生達も諦めが付いたらしく、授業中は彼女を指名しない。ないものとして扱っている教諭までいるほどである。態度には少なからず腹が立つけれど、彼女の現状を知っている身としては仕方がないのかもしれないとも思えてくる。実際、彼女はそのことを喜んでいる節さえあったのだ。
教室の最後列の廊下側。彼女はどうしようもない存在感を放つ重装備を身に纏いながら、今日もひっそりと目立たない生活を送り続けている。
「でもよう、それじゃあ俺は駄目だと思うんだよ」
クラス委員であり、生徒会役員をも務めている梶原卓は、そう熱っぽくぼくに語りかけていた。熱血漢であることに関してはなんら感想を持たないものの、こうして話しかけられている現状は最悪である他に疑いようがない。ぼくの一日は、こうして今日も陰鬱な様相を呈し始めるのである。
「だってさあ、高校生だぜ。それも美少女なんだぜ。頭もいいし、スポーツもあの恰好さえなけりゃあトップクラスときたもんだ。もったいなさ過ぎるだろうよぉお。なあ、思わないか、我が親友よ」
思わない。断じて思わない。というか、親友とか、やめろ。うざい。気持ち悪い。それから肩に腕を回すな。無理な空中椅子までしてしなくていいから。迷惑だから。ね。自己陶酔もからきしにしてくれ。唾が机に飛んでんだよ。汚いんだよ、ばか。
「そう連れないことを言うなよ。俺たち、小学校以来の仲だろう。なあ」
違う。違います。断じてそんな過去は知りません。勝手に人の思い出を改変すんな。あの頃のぼくは最高に輝いていたんだから。それに、ぼくとお前とは十キロ以上はなれた学校に通っていた仲じゃないか。どこに接点があったんだ。
「あれ。そうだったっけ?」
そうだよ、馬鹿野郎。一度CTに掛かってきたらどうなんだ。まったく、どうしてお前なんぞが生徒会にいやがるんだ。どうしてお前なんかが生徒会役員になれたんだ。民意か。学校中の民意だというのだろうか。もしそうだとするならば、ぼくはこの学校の将来を憂いてしまうよ。願わくば、誰もが政治的無関心を貫いていてほしい。本当に。
「まあまあ。とにかく落ち着けって。な。人間ゆとりが大切なんだって、国のお偉いさん方も話し合ってたじゃないか」
逆に今じゃそのことが問題視されてるけどな。
「それはそれ、これはこれだよ。ものの喩えを拡大解釈しちゃあ、お前これから生きてくの大変だぜ?」
一言で、カチンときた。それはもう、背負った焚き木に火がつけられたくらいである。にやにやとなにが面白いのか笑い顔を貼り付けた卓に嫌気が差したぼくは、水を求めて走り始めたタヌキのように、素早く自席から立ち上がった。どこかに清涼飲料水はないものだろうか。全真に振り被って、滾る怒りを静めたかった。
「ねえねえ、村上くん。背中燃えてるみたいだけど大丈夫?」
そう話しかけてくれたのはクラスメイトの水上さんである。今日もいい感じに水が滴っていらっしゃる。水上さんは、いい女なのである。それはもう自他共に認めるいい女である。ただね、お気遣いは嬉しいのだけれどもさ、水上さん。普通に考えて、背中が燃えてて大丈夫なわけがないだろうが。っていうか、なに本当に焼けちゃってんの。びっくりだよ。びっくりしすぎて栗が飛び出していきそうな勢いだよコンチクショウ。
慌てて上着を脱いでばたばたと煽いでいたら、ばりんとガラス窓が飛び散った。はっとして目を向ければ、手を振りながらおにぎり大の栗が手を振りながら空の彼方に消えていく最中だった。
どこまで行かれるんですか、と叫ぶようにして訊ねたら、
「知らねえ! どっかのサルにぶつかるまでは飛んでいようと思う!」
と力強く返答されたので、そうっすか、ならばお気をつけて、と旅の無事を祈願した。
「村上くん、はい、これお水」
と同時に、背後から水上さんがバケツに三杯分、テンポよく水をひっくり返してくれた。うん。まあ、ありがとう。施しを受けてお礼もできない人間は屑だものね。でもさ、タイミングが早かったらもっと嬉しかったな。ぼくはこめかみが痙攣するのを覚えながらも、なんとか水上さんに微笑を返した。
「私、村上くんの役に立てたかな」
うん。とっても立たなかったよ。
立ちすくむ彼女の元から、ぼくは素早く遠ざかることにした。
それにしても、どうしてこの高校にはげてものばかりが揃っているのだろう。宇宙服を着た美少女に、熱くなりすぎて人に火をつける熱血漢、それとどこかネジの緩んだ天然少女と、まるで人間動物園ではないか。ふざけんな。加えてこれでまだ序の口ってどういうことなんだよ。どんな時も三十度傾いている先輩とか、蛇語しかしゃべられない後輩とか、毎日一個落とし穴を作らないと発狂しちゃう先生とか、もうなんだよ。なんだっていうんだよ。ぼくはまだ正常だよ。びっくりするくらい正常だよ。他が以上なだけなんだよ。コンチクショウ。
思って踏鞴を踏んだら、ズボンの裾からひょっこり大栗が転げ落ちた。
「やあ。ぼくどんぐりん。どんぐりんって呼んでね」
知るかボケ!
叫び力一杯蹴飛ばしたら、またガラスを割って空に飛んでいった。じゃ、行ってくる、と景気よく挨拶をして消えた奴も、おそらくぱちんと弾けてどこかのサルのケツにぶつかることであろう。名前も知らない一頭のサルの不運を思うと、図らずも涙が込み上げてきてしまった。
申し訳ない。ぼくがびっくりしたせいで、どんぐりんが貴方も元に飛び立っていきました。本当にごめんなさい。お詫び申し上げます。切腹は怖いのでしません。それでも許してください。
それにしても、どうして奴はどんぐりんなどと名乗ったのだろう。どう見たって栗じゃねえか、お前。
考えながら、真っ青に染まった空を見上げた。
ぼくのクラスには少し代わった女の子がいる。周囲からアナグマと呼ばれているその子は、かなり可愛らしい外見をしているのだ、という紛れもない事実を、改めて頭に思い浮かべた。
(おわり)