『居酒屋大女優(64)』
『居酒屋大女優』
大体において、わたしに恋愛は似合わなかったのだ。
遠ざかる背中を必至になって追いかけながら、珍しく、そう後悔していた。迂闊に付き合いを始めてしまったこともそう。周りの人の感情の機微に鈍感すぎたのもそう。そもそも、周囲に溢れていた男女関係に疎い人生を送ってきていたのだ、難しすぎる人間関係だった。
本当に、慣れないことはするものではないと、白い息を吐き出しながら、激しく煩悶する。
冬の空気はきりりと乾いていた。加えて鋭く凍り付いていて、耳やら頬やら鼻先やら指先やら、外気に触れる箇所に尽く痛みを与えてきている。寒いのではない。これは鈍痛なのだ。本当に空気が突き刺さってくる。もう一段階冷え込むと、今度は痛みすらなくなってくるのだが、今現在はそうではないので取り敢えずはまあいい。
繰り返すけれど、とにかく、痛いのだ。マジで。
肺から込み上げてきた息が、蒸気機関車のようにぶもうと夜空に消えていく。先を行く彼女との距離は一向に縮まらない。それとも、縮めていないのかもしれない。本気を出せば、簡単に追いつくことのできる相手ではあったのだ。これでもわたしは高校時代には陸上部に所属していた。
なのに、どうして距離は開いたままなのか。
回答はとっくに出されている。わたしは気がつかないように目を背けているけれど、ちらりと視界に入ったカンペには、一目見ただけで理解できるよう、赤色の線でぐるぐると囲んだ、太く塗りつぶされて強調されたデカ文字がしかと書き記されていたのだった。
『怖いだけっ!』と。
わたしは脳裏にちらつくカンペを無視しようと試みる。何せ、腹が立ってくるのだ。馬鹿馬鹿しいけれど、これでも二進も三進もいかない状況下に置かれている身だとは自覚している。それなのに、たった一言で分析されてしまうことが悔しかった。
確かに、先を走っている彼女のことは怖い。いや、より厳密に言うのならば、彼女に追いついて何をどう話せばいいのかがわからなくて、怖い。沈黙もさることながら、向けられる言葉にも、表情にも、わたしは戦々恐々としているのだった。
けれども、一方で、こうして彼女のことを追いかけている自分がいるのもまた事実。
わたしは、つい十数分前まで居た居酒屋のことを思い出す。集まった厄介な連中と、頑なな店長と顔見知りの人たちのことを思い出して、思わず顔がくしゃりとゆがみそうになる。
事の発端は些細なものだったのだ。どこにでもある、ありきたりなすれ違い。小さな小さなものから始まったのに、わたしに経験が足りなかったのと、強情な性格とが相まって、最後の最後でへんてこりんに絡み合ってしまった。
その結果が、逃げ続ける彼女を追いかけている現状である。情けないやら、恥ずかしいやらで、咽喉がきゅうっと狭まるような気分だった。
第一、真冬の夜に追いかけっこだなんて在り得ないじゃないか。確かに、見ようによっては乙なものかもしれないけれど、見るだけなのと、やるのとでは雲泥の差がある。実際当人になってみると想像以上に過酷なものだと気がつくはずだった。
とんでもない状況なのだ。かつかつと二人分の靴音ばかりが響いて、荒い呼吸音が煩わしく耳に届く。待ってと呼びかけようにも、彼女は止まらないし、そもそも脇腹やら肺やらが痛い。加えて寒い。足もだるいし、やっぱり寒い。凍えてしまうくらいに、痛いのだ。
だから、本当はもう立ち止まってしまいたかった。べつにいいやって、諦めて、投げ捨てて、ひとり家に帰る。そのまま彼女を見捨てるのも、わたしの人間性に泥を塗るのも、案外簡単なことだった。
でも、だからこそなのかもしれないけれど、わたしは絶対に走り続けることをやめるわけにはいかなかった。怖いけれど、何が起きるかわからないけれど、もう一度彼女と――瑠偉と向き合って、ちゃんと話をしなければならなかった。
「さっさと行きな」
そう親父さんは背中を押してくれただから。
「早くっ。急がないと、ずっと後悔することになるよ」
と、酒巻さんも拳を握り締めて励ましてくれた。
「らしくないっすよ」
と、高校生アルバイト君はへにゃりと笑って、ゼミ生たちは居心地の悪そうに、けれども縋るような眼差しをして、わたしが飛び出していくのを切望していた。
だから、やり遂げなくてはならないのだった。とてもとても、怖いのだけれども。
瑠偉に追いつくことが、可及的速やかに実行されなければならない、絶対的な責務だった。
さて、こんなんに至るまでのあらましを、以下にできるだけ簡潔に述べようと思う。ただ、問題に火種が灯ってしまったのはかなり以前のことなので、いったいどこから説明すればいいのかがいまいちよくわからない。だから、少しばかりわたしのことを紹介しようと思う。わたしと瑠偉と、それからもう一人の人間の関係図のことを。
それでもよろしいだろうか。よろしいといってくれると、ありがたいのだけれど。
大学生のわたしは、入学してからしばらく経ってから参加したサークルで、同学年の瑠偉と仲良くなった。彼女もわたしも地方からの出で、お互い心細い気持ちを抱えていたから、簡単に仲良くなった。
連絡先を交換し合い、過不足なく講義を取り、時折単位を落として、夜は酒を呑み、仲間たちと笑いあい、バイトをして、一年が過ぎ、二年が過ぎて、モラトリアムの時期を気ままに謳歌していた。まあ、普通の大学生だったということだ。どこにでもいる、なんの特技も秀でたところもない、面白みに欠ける毎日を送っていた。
そんなわたしの生活に、とある優男の影がちらつき始めるようになったのは、いったいいつ頃からだったのだろう。気がつけば、背ばかりがひょろりと高い優男――ヤマザキに馴れ馴れしく話しかけられることが多くなっていって、半ば強引にメールアドレスを交換する羽目になり、大学の敷地内で顔を合わせる回数も増えていった。
当初から彼のことは苦手だったのだ。大抵の人のことは信じるようにしているけれど、彼についてだけはどうしても無理だった。彼の発する言葉に対して、絶望的なまでに、わたしは拒否反応を示してしまっていたのだ。
それがなぜなのかは、今尚はっきりとしていない。ただ、根源的に、生理的に、あるいは運命的に、私は彼の発する言葉を受け入れられなかった。気持ち悪い、などと言うような違和感ではなかった。耳が腐る、とか、吐き気がする、だとか、そんなことでもなかったように思う。ただとにかく無性に、駄目だったのだ。それこそ、まさしく絶望的という表現がしっくりくるような、どうしようもない反応だった。
もちろん現在においても、彼の言葉と存在までもがわたしの体質に合っていないので、苦手意識は改善されてはいない。
そんなわけで、かくかくしかじか、おかしな話だけれど迷惑しているんだ、と瑠偉に相談したのだった。彼女はわたしの告白を一蹴して、馬鹿らしいと笑った。真摯に悩んだ挙句に頼ったものだったから、結構癪に障ってしまったのだ。以来、一月近く口を利かなくなった。態度がいかにも子どもじみていて、我ながら情けなくなり始めていた頃だった。
以上が前提の物語である。
それを踏まえたうえで、続きに目を通していただけると、とっても嬉しい。
いらっしゃいませ、と挨拶しかけて、表情が凍りついた。その夜、暖簾をくぐってきた団体の中に、まだもうしばらく会いたくなかった、見知った顔を見つけてしまったのだ。
まさか、バイトをしている居酒屋に瑠偉がやってくるなどとは思ってもみなかった。彼女が取っているゼミの親睦会なのだという話だったが、まったくの誤算だった。おそらく事前にお互いの予定を話し合っていたなら、わたしは今日一日、働きに来なかったに違いない。どうにかこうにか計らって、都合をつけていたはずだった。皮肉なことに、反目しあっていたからこそ、最悪の舞台を整えることになってしまった。
動揺する気持ちを落ち着かせようと、胸をそっと押さえて顔に笑みを取り戻す。慌ててはいけない、面に出しては駄目だと、自らに言い聞かせた。
一行は、店の奥に移動しながら、取り敢えずビールお願い、と定例文どおりの注文をしてきた。彼らがテーブル席に落ち着いたのを確認した瞬間に、思わず出そうになったため息をぐっと堪えた。
本当なら、注文をとりに行くことさえしたくなかったのだ。けれど、生憎と他にただ一人だけ働いているバイト君は、違うテーブルに料理を運ぶので手一杯だったし、料理人兼店長の親父さんに頼むわけにもいかなかったので、不本意ながらも渋々と、わたしは一行の面倒を見ざるを得なくなってしまっていた。
お絞りを人数分持っていったときに、ちらりと瑠偉の様子を見た。彼女はわたしの存在に気がつきながらも、頑なな態度で無視を決め込んでいるようだった。あんたなんて知らないんだから、と背後に立ち昇ったオーラだけで睨んできていた。どうしようもなく来なければならなかっただけなんだから、と、不機嫌な心象を体現していた。
でも、そのほうが何かと都合がいい。気まずいまま今日まで来てしまった分、唐突に面倒ごとが雪崩れ込んできた現状に対応するだけで、わたしは精一杯だったのだ。少しでも楽になるのならば、それ以上に嬉しいことはない。中ジョッキに生ビールを注ぎながら、とにかく何とかやり遂げよう、と心の中で拳を固めた。
明るく元気にはきはきと、ビールをお持ちしました、と声に出して、テーブルにジョッキを並べる。事情を知らないのであろう朗らかな様子のゼミ生たちに愛想を振りまいてから、注文が決まりましたら、お呼び下さい。すぐに向かいますので、と席を離れた。
一連の態度は不自然でなかったと思う。ただ、少しばかり行動が性急過ぎたような気もする。
カウンターに近づいたときに、図らずも深いため息を吐いてしまったのが、一つ目の失敗だった。
「あれ、奈緒美ちゃんどうしたの。辛気臭い顔してるよ」
常連の酒巻さんに声をかけられた。
「あ、そうですかね。最近何かと疲れることが多いから、そのせいかもしれないなあ」
「なーにを言ってんだよう。まだまだ若いじゃないか」
言って、がははと笑った酒巻さんに合わせながら、内心冷や汗をかいていた。姿の見えない瑠偉が、耳をそばだてているように思えて仕方がなかった。
盛り付けを終えた親父さんから、料理を受け取る。ゼミ生たちじゃないお客へ運ぶお皿だった。少しほっとする。気持ちがすうっと楽になった。
そのせいなのか、帰ってきたところで、どうしたんだ、と鋭く問われてしまった。
「少しおかしいじゃねえか」
親父さんは顔も上げないまま、せっせと手元の菜箸を動かしている。
「やっぱり、玄ちゃんもそう思うよねえ。奈緒美ちゃん、所々でぎこちないもんねえ。ねえねえ、言ってごらんよう。こういうことは口に出した方がすっきりするもんなんだよ」
繋いだのは、酒巻さんだった。中年太りのふくよかな身体に性格まで同調したのか、この人はいつも心優しくて穏やかで、大変な気配り上手で、酒をたらふく呑んでも荒れないし、これまでにもいろいろ話してきたし、させてもらってきた。かなりの割合で信頼して心を許してはいたのだけれど、今回ばかりはその優しさが鬱陶しく感じられてしまった。
だからわたしは一生懸命になって、あるいはむきになって、親以上に歳の離れた二人をはぐらかそうと試みた。
「やだなあ。本当になんでもないですよ。昨日ちょっと夜更かししちゃって。それが残ってるだけですよ」
「へえ。奈緒美さんが夜更かしすることなんてあるんですねえ」
割り込んできたのは、タイミング悪く配膳を終えて戻ってきた高校生のアルバイト君だった。要らんことを言わんでよろし、と内心青筋を立てたわたしだったけれど、ここは我慢のしどころ、まあね、時にはしちゃうもんなの、と先輩口調で答えてやった。実際に先輩なのだから、誰の目にも奇妙には写らなかったと思う。
彼は、へえ、と大きく感嘆の声を漏らして、目を丸くした。
「珍しい。奈緒美さんは絶対にそういうのを次の日に残さない、できた人だと思ってたから、正直びっくりっすよ。俺みたいな奴と似たところもあるんっすね」
彼には少々正直に過ぎるきらいがある。笑顔は保ったまま足下を見ることなく、靴を踏んづけてやった。そのままわたしは次なる配膳へと向かう。
痛ってー、との叫び声のせいで親父さんにたしなまれた彼は、納得がいかないとばかりに首を傾げながら、再び注文を聴きに呼ばれたテーブル席に移動していった。その背中に多少なりとも罪悪感が芽生えたのは、我ながら私情を持ち込んだために、仕事に支障をきたしかけていたからなのかもしれない。一日が終わったら、少しは事情を説明してやろうかな、と反省まじりに考え、小さく苦笑してしまった。
再びカウンターに戻ってくると、親父さんは干物を焼いていた。この火加減が一級品なんだと、わたしは常日頃から思っている。高級ホテルのフレンチ職人にも劣らないのではないのだろうか。もちろん、フレンチなんて食べたことがないから判断はできないのだけれど。
油が綺麗に浮き上がった干物が乗った皿を受け取る。おいしそう。今度、賄で出ないかしら、などと考えながら待ち侘びる客の下へと運んだわたしは、続けて食事を終えた客の会計を済ませてカウンターに戻っていく。そこで、親父さんにぴしゃりと言われてしまったのだ。
「おめえ、夜更かしするのもいいけどな、今日みたいなだらしねえ態度を繰り返したら、ただじゃおかねえぞ」
静かな、そしてそうであるからこその威圧感に満ちた一言だった。どうやら、ことのほか所作に滲み出てしまっていたらしい。しまったなあと、芯から反省した。
様子を見てか、酒巻さんが助け舟を出そうとする。この人はいつも優しいのだ。
「ちょっと、玄ちゃん。勘弁してやんなよ。そういうことはあるもんだって」
「あったらならねえんだよ。こちらと客商売なんだ。アルバイトでもシャキッとしてもらわなきゃ困る」
そのとおりだった。小さな居酒屋の、数少ない従業員なのだ。シャキッとしなければならない。そんなことは重々承知していた。承知していたからこそ、親父さんの言葉はわたしにほとんど効力を持っていなかった。本当に申し訳ないことに。
勘違いをさせて、挙句、違う問題を生じさせてしまったのかしら。訝しんで、少しげんなりしそうになった。問題(というほどのものでもないのかもしれないが。)がややこしくなった面倒くささと、誤解を招いてしまった反省とで、小さな青色の息を吐き出してしまった。
それでも、わたしは気持ちを奮い立たせて、わかりましたと元気よく返事する。以後気をつけます、とも。するしかなかったのだ。そうすれば、もうばれないはずだと信じたかった。
とにかく、今夜を無事に乗り越えられれば、それでいい。瑠偉との関係は、先送りにしてしまえば、いつかはどうにかなると考えていた。
皿をテーブル席の方へと運んだ帰り、ゼミ生一人が私のことを呼んだ。心臓がどくんと跳ね上がる。
「追加の注文でしょうか」
と、胸のポケットから伝票を取り出しながら訊ねる。笑顔が強張っているような気がして、気が気じゃない。
「――以上でよろしいでしょうか」
「はい。お願いします」
「わかりました。すぐ用意しますので、少しばかりお待ち下さい」
声をかけてきた人に明るく返事をして戻る。注文を親父さんに伝えたあとで、やっぱり変だよ、と幾分か顔の赤くなった酒巻さんに言われてしまった。
「最初もそうだったけど、あのテーブルに行ったあとの奈緒美ちゃん、特に変」
「そうですかねえ」
「そうだよ。絶対になんかこう、うーん、なんていうのかな、その、やっぱり変なんだよ」
「たぶん気のせいですよ」
軽く受け流すと、じろりと親父さんに睨まれているのに気がついた。
「なんでえ、あいつらと問題があるのか」
「ねえ。よかったら話してみてよ。ぼくら、相談乗るよ」
相次いでもたらされた二人の言葉に当惑したわたしは、後頭部に手を当てながら、やだなあ、としか返せなくなってしまった。まずいなあ。どうしてこんな風になってしまったのだろう。小さな諍いが関係のない人たちをも巻き込みながら雪だるま式に膨らんで、どしんと目の前に立塞がったような感じだった。
「ちょっといいですか」
そんな折にもたらされた声の主は、カウンターにまでやってきたゼミ生の一人、メガネをかけた聡明そうな男性のものだった。緊張を孕んだ、固い口調だった。わたしの肩はびくりと反応する。なんでしょうか、と暢気にバイト君が反応する。親父さんは、その歩みを止めた。
「お前は行かなくていい。こいつが対応する」
「奈緒美さんがか」
「そうだ」
力強い声だった。
「奈緒美ちゃん」
酒巻さんが励ますように呼んでくれる。胸の前で小さくガッツポーズをしていた。
その瞬間にわたしは全てを悟った。ああ、きっと二人にはとっくにばれていたんだなあ、と。もしくは事前に知っていたのかもしれないなあ、と。ゼミ生たちとの間で周到に用意がなされていて、わたしは知らぬ間にこの状況に呼び込まれてしまったのかもしれない。考えると、こまごまとした誤魔化しを弄したことが浅ましく思えてしまった。
目の前のメガネ君は真剣な眼差しを向け続けている。
息を吐き出した。親父さんのことを振り返った。じろりと、一瞬だけ睨みつけられた。酒巻さんを見た。口だけ動かして、ファイトと言ってくれた。バイト君を見る。訳がわからず首を傾げていた。一回りして、再びゼミ生と向き合う。変わらない意思に彩られた、どうしても来てもらいたいという切実な眼差しを浮かべた表情に見つめられていた。
きっと、そのときのわたしは結構ひどい顔をしていたのだろう。同情するかのように辛そうに顔をゆがめたゼミ生は、踵を返すと先にテーブル席へと歩き出した。
はあ、とため息を吐き出す。どうしてこうなったんだろう。考えれば考えるほど嫌になった。嫌になったのだけれど、向かわなければならなかった。それしか選択肢は存在していなかった。諦観にも似た決意を胸に、わたしはのそのそとゼミ生の後についていく。
「なんでしょうか」
テーブル席のそばで訊ねると、わたしを呼びに来たメガネ君ではないグループの一人が言いにくそうに口を開いた。
「あのさ、この店に新谷って店員は君だけだよね」
「はい。そうですが」
「だよ、ね。そうに決まってるよね」
決まりが悪そうに言わないで欲しかった。おそらく、このゼミ生たちは、わたしと瑠偉とのこじれを承知しているのだろう。その上で、間を執り成すために来店してくれたのだ。お節介ながらも優しい人たち。あるいは、瑠偉の不機嫌がゼミ内に不穏な空気を作り出すもんだから困っていたのかもしれない。迷惑に思っていたからこその行動なのかもしれない。
理由は何であれ、何とかしなければならないと、瑠偉を問いただして、今夜の集まりに至ったのだろう。そうじゃなかったのなら、瑠偉がこの場所に来ているわけがないのだ。彼女は意固地だし、嫌なものにははっきりと拒否するし、態度を明確に示す人だった。明るくて、馬があって、大学に入って一番最初にできた友達だった。そして、今は最悪に関係が悪化してしまった相手でもある。そんな彼女が不承不承とは言え、わたしが働いている店にやってきたのだ。全部が全部、事前に筋書きされていたことだったに違いない。
わたしは、変に緊迫した、同時に奇妙に穏やかな、励ますような雰囲気に包まれたテーブル席の奥で俯いている瑠偉に目を向けた。居心地が悪そうにしている彼女の姿は、だから私は来たくなかったんだ、と言わんばかりであった。周りの仲間が小声で、ここからはお前の番だぞと促してみても、何を言うでもなく、わたしの方を見ることさえしない。悔しそうに、恥ずかしそうに唇だけがわなないていた。
「瑠偉」
そう、呼びかけてみた。舞台はもう整っていたのだ。みんなに整えてもらったものだった。ならば、もうこれからは役者が頑張るしかない。たとえそれが本人たちの望みにかなっていないものだったとしても、後には戻れなかった。
女優の一人は渋っているけれど、わたしが引き摺りあげられなくはない。ここまでのことを仕出かされてしまったのだ、この契機を逃してしまえば、もう二度と瑠偉とのこじれは修繕できそうになかった。なんだかんだいって、元の鞘に戻りたいとは願っていたのだ。
「瑠偉」
二回目の呼びかけに、緩慢な動作で彼女は面を上げた。ひどく、不機嫌な表情をしている。思わずこちらが怯んでしまいそうな、面の皮の一枚下に業火のごとくに燃え盛る感情を潜めた表情を浮かべていた。
憎しみが原因なのか、それとも悲しみが理由か、とにかく憤然たる怒りを宿した双眸に射抜かれて、わたしは瞬時に言葉を失った。なんと言えばいいのだろう。かけるべき言葉がわからなかった。ごめんなさいとでも言えばいいのだろうか。決して届かないことが、突き放されてしまうことがわかりきっているのに、そんな誤魔化しの言葉を向ければいいのだろうか。
いやだ。そんなの駄目だった。安易な言葉では瑠偉は決して納得しないし、第一言いたくない。絶対に謝りたくない。そもそもの原因は瑠偉の素っ気ない対応にあったのだ。あのときちょっとでも親身になってくれたのならば、わたしだって子どもじみた行動に出ることもなかった。そうしていれば、きっと今みたいな状態に陥ることもなかったのだ。
それなのに、どうして先に頭を下げないといけないのだろう。わたしばっかりが悪者みたいで、まるで理不尽じゃないか。
睨み合いながらの沈黙が続くうちに、なんだか腹が立ってきた。こういった場を整えてくれたゼミ生たちにも、言って来いと命令した親父さんにも、依然として機嫌ばかりが悪い瑠偉に対しても、わたし自身にも、どうしようもなく腹が立った。みんなみんな底なしの馬鹿野郎ばかりだった。
大きく息をついた。今日何度目かがわからなかった。それも、逐一抱いている感情が違う。なんとも変化にとんだものだと、我ながらおかしくなった。
きっと、嫌なことに突然に向かわされて、ストレスが溜まりに溜まって、結果弾けてしまったのだと思う。
「やっぱりさあ、わたし、ヤマザキのこと嫌いだわ」
砕けた調子でそう口にすると、かっと目が見開いて、瑠偉は勢いよく立ち上がった。頓着せずわたしは続ける。いかにヤマザキがくだらない人間で、つまらなくて、男として魅力がないのかを滔々と述べてやった。何がなんだかわからず混乱したゼミ生たちに、それでもとにかく落ち着かせようと押さえられた瑠偉は、少し涙目になりながらさっきよりもずっと感情のこもった眼差しで睨んできていた。
「あんたに、あんたに彼の何がわかるって言うのよ」
そうして瑠偉は初めて口を開いた。
「わかるよ。だって付き合ってたんだもん。まあ、あいつからの一方的なものだったけどさ」
「それでも彼はあんたのことを好きだったんじゃ――」
「でも、わたしは好きじゃなかったんだよ」
テーブル席どころか、店中が凍りついていた。まさかこんな修羅場になるとは思っていなかったのだろう。ゼミの人たちも、おそらく親父さんも酒巻さんもバイト君も、その他のお客さんたちも、固唾を飲んでわたしたち二人の動向を伺っているようだった。
観衆の眼差しを一身に集めながら、わたしはなんだかいい気分になってきていた。全部全部めちゃくちゃになってしまえばいい。そんな破滅的な陶酔に溺れかけながら、ここいらで舞台を無理やり終えてしまおうと、何でもいいからぶっちゃけた長台詞を口にすることを決めた。もうこれ以上続けていたくなかったし、どうにでもなってしまえと、半ば自棄になっていた。
「ねえ、瑠偉。要は簡単なことなんだよ。瑠偉はヤマザキのことが好きで、でもヤマザキはわたしのことが好きで、わたしはヤマザキノことが鬱陶しかった。それだけなんだよ。確かに、瑠偉に愚痴を言ったのは悪かったかもしれない。ヤマザキのことが好きだったけど、わたしとの交際を温かく見つめるつもりだった態度を蔑ろにされたと思われても仕方がないのかもしれない。だから、あのときあんなに素っ気なかったんだもんね。あのとき、瑠偉は傷ついてたんだもんね。わたし、しばらく気がつかなかったよ。昔から鈍感なんだよ。でもさ、だったとしても、どうしたらよかったって言うのよ。仕方ないじゃん、そんなの。わたし、知らなかったんだもの。瑠偉の気持ちに気がつかなかったんだもの。だからさ、どうしようもなかったんじゃない。こんなの、わたしが口にするべきじゃないかもしれないけどさ、やっぱり、仕方がなかったんだよ。本当にさ、仕方なかったんだよ」
途中から俯いてしまっていた。言いながら、何が仕方ないのか、何がどうしようもなかったのかがわからなくなっていた。なぜに、こんなことになってしまったのかもわからない。どうしてこんなことを口にしなければならないのかもわからない。でもとにかく念じるようにして、必死になって仕方なかったのだ、と口にしていた。こうなってしまったのは、全部仕方のないことだったのだ、と。他の誰にでもない、わたし自身に言い聞かせるために繰り返していた。
口を閉ざして冷静になってみると、ざわりと背筋が寒くなった。恐る恐る顔を上げると、ぶわりと、瑠偉の両目から涙がこぼれていた。顔を真っ赤にして、ぎゅっと歯を食い縛って、彼女はわたしを睨みつけている。痛い、苦しい、悲しい表情だった。ずきんと胸が悲鳴を上げた。
やがて暴れるようにして無理やりゼミ生の手を振りほどいた瑠偉は、わたしの隣をすり抜けて、全力で店から出て行ってしまった。
痛ましい沈黙の只中に取り残されたわたしに、たくさんの視線が突き刺さるように集まってくる。
「ひでえ奴だ」
親父さんがそう呟いた。わたし自身そう思っていたので、なんだか涙が溢れてきてしまった。
ひでえ奴。親父さんは、いつも本当のことしか言わない。今のわたしはとんでもなくひでえ人間だった。こんな形にはしたくなかったのに。瑠偉のことを傷つけて、わたしも傷ついて、最悪の結果を生み出してしまった。
涙を拭う。拭えば拭うほど、溢れてくるような気がする。立ち尽くしたまま俯いて、わたしはさめざめと泣いた。面を上げて、ゼミ生たちに見つめられるのは辛かったし、振り返って、酒巻さん、親父さん、バイト君からの心配や誹りを受け止めるだけの余裕を持ち合わせていなかった。
惨めだった。惨め過ぎて、後から後から込み上げるようにして悲しくなった。
でも、だからと言って、このまま立っているわけにもいかない。邪魔になっては、今度は哀れに過ぎる。
ぐじじと鼻を啜ってから、わたしは逃げるようにスタッフルームに向かった。もう今日は早退するつもりだった。居場所がなかったし、誰にも側にいてほしくなかった。独りでこんこんと後悔の海に沈んでいきたかった。家に帰って死んだように眠ろう。そんな風に考えていた。
なのに、バイト君は、自分のロッカーの前で小さく竦んでいたわたしの肩を、後ろから軽く、優しく叩いたのだった。
「奈緒美さん。顔、ぐしゃぐしゃっすよ」
そんなこと、知ってる。言われなくてもわかってるよ。声にならなかったから胸の中だけで叫んで、わたしはバイト君を無視する。
「はい、これ」
声と共に目の前にずいと差し出されたのはティッシュペーパーの箱だった。何も言わずに呆然としていると、今度は背中を叩かれる。
「早くさ、鼻かんじまいましょうって。そんなひどい顔してたら、面も歩けないっすよ」
うるさい、馬鹿。そう、思ったけれど、わたしは数枚のティッシュを引っ張って鼻をズビビとかんだ。それからもう一度新しいティッシュで鼻を拭って、三回目は目元に押し当てて涙を拭った。
様子を、無言のまま見守ってくれたバイト君は、じゃあ、と口にして、ぱちんと両手を併せた。
「店は俺と親父で大丈夫なんで、奈緒美さんは、瑠偉さんでしたっけ、彼女のこと、追ってください」
「はあ?」
何を言い出すんだ、突然。
「だって、そのためにロッカーで着替えをするんでしょう。なら、早くしなきゃ。急がないと駄目っすよ。彼女、たぶんもう結構遠くまで行っちゃってるはずだから」
ほら、と煽るようにしてバイト君は言った。様子をわたしは、ハンと鼻で笑う。
「どうしてわたしが追わなくちゃなんないのよ。わけわかんない」
そんな台詞、言いたいつもりはないのに、反射的に口を突いて出てしまう。強がりなのか、迎えてしまった最悪の結果を目にしてしまったからなのか、私は嫌味ったらしく喋りだしてしまった。
「あの子が勝手に飛び出しちゃっただけじゃない。わたしの知ったことじゃないよ」
「でも」
と、バイト君は、飛び切りに困った、優しさに満ち溢れた表情を浮かべた。
「でも奈緒美さん、めちゃくちゃ後悔してるじゃないっすか」
「そんなこと、あんたにわかるわけないじゃん」
「わかりますよ」
そう、彼は断言した。誰かに似ていると、頭の片隅でぼんやりと感想を抱いた。尚も、バイト君は言葉を続ける。
「だって、奈緒美さん、めちゃくちゃ苦しそうな顔してるじゃないっすか」
「そんなこと――」
知らない、と口にしようとして、なぜなら自分の顔なんて見えないんだから、と屁理屈を捏ねようとして、わたしは止めた。代わりに力なく項垂れて、つま先を睨みつける。滲み始めた靴の形を見つめながら、だって、と自然と言葉が漏れた。
「だって、追いついたって、もうどうしようもないんだもの。わたしにどんな言葉がかけられるっていうの。瑠偉をコテンパンに傷つけた張本人なんだよ。さっきのあの瞬間に、全部終わっちゃったんだよ、きっと。もう駄目なんだよ」
そうなのだ。もう結果を出してしまった。最低最悪の、どちらも傷ついてしまった結末を迎えてしまっていたのだ。これ以上、どこへ向かえるというのだろう。わたしたちの関係はこじれて完璧に壊れてしまって、それでもうお仕舞いなのだ。
じゅわあと視界が滲んだ。ぽたりと、涙がこぼれた。もう、全部嫌だった。最悪の一日だ。瑠偉だけじゃない。わたしも、コテンパンに打ちのめされてしまっていた。他の誰でもないわたし自身が招いた結果によって、ぼこぼこの袋叩きにされていた。
「やだよ、もう。最低だよ。ホント、馬鹿みたい」
愚痴るように吐き棄てる。八つ当たりみたいで、余計に苦しくなってしまった。本当に何をやっているのだろう。逃げることもできない、立ち向かうこともできない。立ち止まったまま俯いて、何もできないままじっと苦しみを深めている。自虐にもほどがあるのではないかしら。思ってしまうほどに、情けない姿を曝け出してしまっていた。
ぐずっと鼻を啜る音が響く。バイト君は何も言わない。もしかしたら、もう愛想を尽かして店内に戻ってしまったのかもしれない。悔しくて、心細くて、悲しくなってしまうことだけれど、そのほうがいいのだろうと思った。賢い選択だった。わたしなんかの詰らない後悔と懺悔に構っている余裕なんて、そうそうないのだろう。
でも、もしかしたら、弱っているわたしを支えてるために、彼はまだ残ってくれているかもしれない。本音を言えば、いてほしかったのだ。誰かに寄り添って、思いっきり泣いて、沈んでしまいたかった。そうすれば、気になっているお腹周りを含めガリガリに痩せることもできて、いいほうへ転がり始めるのかもしれない。微かな、それでも切実な希望を持って、わたしは顔を上げたのだった。
目に飛び込んできたのは、開け放された部屋の扉だけだった。
また、涙が滲んでくる。自分がこんなにも弱い人間だったのだと提示されて、殴り倒された気持ちが起き上がれなくなる。はあ、と首をがくんと下げながら息をついて、振り向き自分のロッカーから着替えを取り出した。
もう、どうでもいいよ。このまま帰っっちゃおう、それが一番なのだと言い聞かせて、わたしは着替えを負えて、コートを羽織った。涙を拭って、鼻を引っ込めて、もうこれ以上みっともなくならないよう、何も考えないように思考を止める。簡単に止まるようなものではないのだけれど、止めるように努力した。
両頬をぱちんと叩く。無理やり微笑んでみる。鏡がないから、どんな顔になっているかは知らない。わからない。不器用な表情にだけなっていないことを祈って、わたしはここから逃げ出すことを決意した。
そこに、バイト君が帰ってきた。
「なによ」
不機嫌なのをあらわに素っ気なく言ったのに、彼は有無を言わせずわたしの腕を掴んで店の方へと移動した。やめてよ、とか、何すんのよ、とか、空いていたほうの手で殴ったりもしたのだけれど、彼は全然動じなくて、むしろその行動の意義を確認しているような表情を一層深めて、歩き続けた。
店では、ゼミ生の人たちが済まなそうに立っていた。バイト君はわたしを彼らの近くまで連れて行くと、ようやく腕を解いてくれた。ああ、よかった。ようやく解放された。そう安堵して逃げ出そうとすると、がちりと再び掴まれた。あんたには関係ないでしょ、ほっといて、と睨みつけると、バイト君は真剣な表情で顔を左右に振った。
「あの、そのですね、なんて言うのか」
もぞもぞと言い辛そうにメガネのゼミ生が頭を掻く。んだよ。はっきりろよ。ぐじぐじとした態度に、イライラした。
「瑠偉さんの現在地ですよね」
と、助け舟を出したのはバイト君だった。メガネ君は、ええ、そうなんです、と小さく返事をしてから、もう一度わたしのことを怯えきった眼差しで見つめてきた。
「いま、近くの橋の欄干に寄りかかってるみたいなんです」
「だからなんだって言うんですか」
わたしには関係ないことじゃないですか。むっとしてそう答えた。こんなことになって反省しているのであろうメガネ君は、びくりと肩を震わせると、まあそうなんですけど、とことさら小さく返事をした。
わたしのイライラは募っていく。無性に腹が立っていた。どう取られても構わないから、思いっきり怒鳴り散らしてやりたかった。他の客の迷惑になろうが知ったこっちゃない。どうしてこんな目に合わなくちゃならないのかが納得できなくて、誰彼構わず当り散らしてやりたかった。
「なんなのよ。もう」
「奈緒美ちゃん……」
酒巻さんが慮るように呟いた。想いが鋭く突き刺さる。わたしはますます頑固になっていく。
「いいんですよ、もう。どうなったって、あいつの勝手じゃないですか」
「でもさあ」
酒巻さんは全然納得してくれない。当たり前だけれど。
「強がりもいい加減にしたらどうなんでえ」
親父さんまで口を挟んできた。お節介な人たち。
「強がってなんかないですよ」
「泣き腫らした顔晒して、なに言ってやがんだ」
「べつに、親父さんには関係ないじゃないですか」
「馬鹿野郎が。店の雰囲気をこんなにしたのは誰だと思ってやがる」
言われて、わたしは周囲にそっと目を配った。確かに、誰も彼もが沈黙していて、なおかつわたしの同行をはらはらと見守っていて、なるほど、まさしくお葬式状態だった。
でも、そんなことも知ったこっちゃない。むしろ迷惑だった。放っておいてくれたらいいのに。わたしのことなんて、無視してしまえばいいのに。そう身勝手に考えて、更に頑なな態度を硬化させていく。
唇を尖がらせて、わたしは親父さんと対峙した。
「できれば、仲直りしてもらいたいんっすよ」
隣でバイト君が言った。わたしは親父さんから目を離さない。
「まあ、できないかもしれないっすけど。でも、ちゃんと話してもらいたいんです。それで、またいつもみたいな奈緒美さんに戻ってもらいたいんっすよ」
「いつもみたいなわたしって何よ」
「取り敢えず、今みたいにギズギズしていない様子のことっす」
親父さんから視線を外して、今度はバイト君を睨んだ。知ったような口を利くなと、憎々しげに睨んだつもりだったのに、彼は動じなかった。そればかりか、一層心配したせいでへにゃりと表情を崩して、らしくないっすよ、と口にしたのだった。
「らしくないっす。俺の知ってる奈緒美さんは、こんな風に逃げ出す人じゃないっすよ」
そんなの、あんたの勝手な思い込みじゃない。押し付けないでよ。わたしはわたしなんだから。
「早くっ。急がないと、ずっと後悔することになるよ」
酒巻さんが、幾分か目をキラキラさせてそう言った。
「今ならまだ間に合うよ。大丈夫。信じてるから。奈緒美ちゃんなら、絶対に取り戻せる」
今更、何を取り戻せるというのか。もう全部壊れてしまったのに。修復不可能なのに。どうしてそんなに力強い表情を向けてくるのだろう。
「さっさと行きな」
親父さんはため息を吐いた。
「ったくよう、そうやって泣くぐらいなら行動してみろっていうんだよ。後悔背負ってんだろう。ならまだ終わりじゃねえんだよ。そっから新しく始めるんじゃねえか」
うるさい。勝手なこと言うんじゃない。そうかもしれないけれど、そうなのかもしれないけれど、怖いから、向かい合うことが怖いから動けないんじゃないか。何ができるか、どうなるのかがわからないから、逃げ出したくなるんじゃないか。なのに――
なのにどうしてこの人たちは、こんなにも温かく、背中を押してくれるのだろう。
視界の端でゼミ生の人たちが、縋るように、でも小さなガッツポーズを胸の前で掲げてくれていた。ぼやけてたから余計に見えづらかったけれど、確かにガッツポーズだった。
「僕たちが勝手なことをしたせいでこんなことになってしまって申し訳ないです。でも、どうしても、彼女には元気になってもらいたかったんです。彼女、地方から大学に入学したみたいで、新谷さんが最初にできた友達だったらしいんですよ。緊張をふっと緩めることができた相手って言うか。だから、そんな友達と仲たがいをしてしまって、彼女も後悔していたんです。確かに、あなたのことを恨みがましくは思ってました。でも、それ以上に元通りの関係になりたいって、そう願っていたんですよ」
なんだ。瑠偉も一緒だったんじゃない。強がっちゃってさ。わたしと同じじゃないの。
思った拍子に浮かんだ表情の変化を、前向きな決心と受け取られてしまったのだろう。瑠偉の事情を説明してくれたメガネ君は、口調を力強くさせてこう言った。
「僕たちの仲間の一人が、黒川さんの様子をメールで送ってくれています。それによると、彼女はまだ橋の欄干から離れていないそうです。そんなに遠い場所じゃあない。今ならまだ間に合います。途中までご一緒しますから、行きましょう」
「それは、罪滅ぼしのつもりなんですか」
訊ねると、彼は一瞬答えに詰まった。けれどすぐに持ち直してはっきりと答えた。
「それもあります。というか、全部がそれに繋がるでしょう。認めます。でも――」
「ふふ。わかってますよ。ちょっと意地悪しただけですもん」
言って微笑んで見せると、彼は目をまん丸にして、それからまいったなあと呟いた。敵わないなあ、と。
断言するけれど、それは当たり前なのだ。何せ、わたしは用意された舞台に、アドリブのみで上ろうと覚悟したのだから。簡単に手綱を取れるほど楽な女ではないのだ。
「じゃあ、すぐにでも行きましょうか。後をついてきてください」
メガネ君が先に店を飛び出した。わたしは暖簾をくぐる前に店内を振り返って、改めて後押しを貰って、夜空の下に駆け出した。
待ってろよ、瑠偉。絶対に、待ってろよ。
念じながら、二つの靴音が周囲に響き渡し始めたのを聞いていた。
メガネ君はしきりにケータイを確認しながら先を走っていった。二回くらい、電話もした。そのたびに、まだ大丈夫です。間に合います、とわたしに声をかけてくれて、懸命に夜の街中を走り続けていた。
やがて監視していた仲間の姿を確認できるようになった。建物の影に隠れていた彼女は大きく手を振ると、声は出さなかったものの身振り手振りを大げさにして、はやく瑠偉のところにいくように示してくれた。
欄干にもたれかかっていた瑠偉は、物陰から飛び出したわたしたちの姿に気がつくと、脱兎のごとく踵を返した。
「瑠偉。待って!」
走り始めた姿に叫びかけ、わたしは一層足に力を込めて追い始める。運動が苦手だったのだと、後に教えてくれたメガネ君は、ごめん、もう無理、と情けない声を漏らして、苦しそうな、でもそれ以上に悔しそうな表情を浮かべて、残念なことに脱落してしまった。
そんなわけで、わたしと瑠偉との追いかけっこが始まったのである。不毛ながらも必死な、馬鹿馬鹿しいのだけれどやり遂げなければならない、大捕り物の始まりだった。
時刻はすでに夜の十一時を回っている。辺りに人は疎らだった。お陰でわたしは瑠偉を見失わずに済んだし、瑠偉はすいすいと逃げ続けることができていた。しかしながら、人が少なかったことによる最大の恩恵はなんだったのかと問われたのならば、間違いなくわたしは変な目で見られる回数が極端に減ったことだと答えたに違いない。見栄を大切にするほうなのだ、わたしは。間違っても、大学で噂になってしまうことだけは避けなければならないと、専ら考えていた節もどこかにはあった。まったくもって卑しい話だけれども。
瑠偉は交差点を右に折れる。見失わないように、わたしも角まで速度を上げて遠くにある姿を確認する。細い路地を走る。公園を横切り、並木道を走り抜け、階段を駆け上がったあとにすぐ下がって、長い坂道を登って、尚もわたしたちは本気の本気で走り続けていた。
そんなこんなの追いかけっこが続く中、ようやく瑠偉の体力に陰りが見えてきた。わたしはというと、まだまだ万全だった。なにせ、陸上部に所属していた経歴があるのだ。へばっているわけにはいかなかった。断じて脇腹が痛くなっていたとか、肺が萎みかけていたとか言う不具合は起きていなかった。膝もがくがくしていなかったし、ブランクはあったにせよしっかりと追い続けることに成功していた。本当の本当にだ。
ひゅうひゅう言いかけていた自らの呼吸音を耳にしながら、目の前で遂に瑠偉が走るのを止めた。大きな公園の中、数歩よろめいてから膝を突き、激しく咳を繰り返す。その小さな背中のすぐ後ろまで近づいて、わたしも足を止めた。膝に両手を当てながら、掠れ掠れ、おい、と呼びかける。
「待ってって、言った、じゃない、の」
瑠偉は返事をしない。座り込んだまま咳を繰り返して、じっと俯いている。肩がびっくりするくらい上下していた。白い吐息ももうもうと立ち昇っていた。限界まで力を使い切ったのだろう、声もしばらくは出せないのだと納得した。
好機だった。言葉を挟まれることなくこちらから話を打ち明けられるのだとするならば、今しかない。気の持ちようが著しく違うのだ。出鼻を挫かれることもないし、話を折られることも、罵りを挟まれることもない。わたしはわたしの好きなように、言わなければならない言葉を伝えることができる。
息を無理やり整えて、膝から手を外した。まっすぐに立つのは辛かったけれど、何とか頑張って、瑠偉の背中を見下ろすと、ひとつ深呼吸をした。
「さっきは、ごめんね。あんな言い方しなくてよかったのに、その、いきなりだったしさ、無理やり促されたような雰囲気だったから、ついついきついこと言っちゃた。だからさ、やっぱり本当にごめん。ヤマザキのことにしても、あんな言い方なかった。反省してる。本当にごめ――」
「謝らないで」
不意打ちのように、そんな声が響いた。
「絶対に、許さないんだから。どんなに謝ったところで、もう戻れないんだから。そんなこと、奈緒美もちゃんとわかってんでしょ。なら、謝らないで。もう放っておいてよ。どっか行けよ」
わたしは驚きふためいていた。瑠偉から途中で返事があったことにも、その内容がかなり厳しい拒絶であったことにも慌ててしまった。どうしよう、と、どうして、の二言が頭の中でぐるぐる回っていて、もう流さないと決めたはずの涙が、またまた出番なんですか、と呆れまじりに込み上げてきた。
「そんなこと言ったって、わかんないよ」
両手に拳を作って、わたしは叫び返した。
「ならどうすればいいのよ。わたしに何ができるの。何をしたらいいの。放っておいてとか、どっか行けとか、そりゃあ鬱陶しいしうざいし関わりあいたくない相手になっちゃったんだと思うけどさ、でも、それでもわたしは心配なんだもん。瑠偉のこと、大切なんだもん。これ以上こんな関係が続くのはさあ、もう嫌なんだよう」
鼻水まで出てきてから、ぐしぐしと拭いながらそう言った。身勝手な言い分だとは思う。ずいぶんと子どもじみた考え方だとも理解していた。けれど、それでも譲れないものだった。瑠偉はわたしの友達。失いたくない、大切な友達だった。
「……だから、あたしは奈緒美のことが嫌いなんだよ」
自分の嗚咽に紛れて、そんな瑠偉の声が聞こえてきた。冷たい、鋭い、ナイフみたいな言葉だと思った。頭の中が真っ白になる。見渡す限りの雪原の中で、唐突にひとりぼっちにさせられた心細さが襲いかかってきた。
「どういう、こと、なのぉ?」
もう形振りに構っていることもできずに、そう訊き返す。訊き返さないわけにはいかなかった。言葉の真意を、たとえそれがどれほど恐ろしい感情であったのだとしても、確認しないと納得できなかった。
わたしは、瑠偉にとっての何なのか。そんな素朴ながらも逼迫した、本質的な問いかけだけが、わたしの中を満たしていた。
俯いたままの瑠偉は、何も答えない。不安が増徴していく。静寂の中にしゃっくりが虚しく響く。
とても長い沈黙だった。もしかしたら短かったのかもしれないけれど、わたしにはこれまで感じた中で一番長い沈黙であるように感じられた。筆記試験の暇な時間よりも長かったのだ、胃袋がきゅぃーっと縮み上がっていた。
もう一度、問い掛けてみようか。不安に駆られて、唇が動き出そうとしていたときだった。瑠偉が、はっ、と嘲るような息を漏らした。びくりとわたしの肩は震え上がる。どういうことなんだろう。どんな顔をしているんだろう。わからなくて、怖くて、立ち竦んだまま後ろ姿を見つめるしかなかったわたしの前で、不意に夜空を見上げて、彼女は大声を上げた。
「ばーか。奈緒美のばーか。ホントに、ばーか。底なしのあほんだらー」
叫び終わると、静かに立ち上がった。膝を叩き、ゆっくりと振り返る。わたしは、わたしと同じく両目を真っ赤にした泣き顔の瑠偉の顔を正面にした。ぎこちない微笑みに見つめ返される。寄りかかるようにして、有無を言わせず瑠偉はぎゅっと抱きついてきた。
「……でもね、だから大好き。いろんなやなこととか許せてしまうくらいに、あたしも奈緒美のことが大事」
そう、耳許で囁かれて、またぶわりと涙が込み上げてきた。ぎゅっと力強く抱き締め返して、わたしもそうだと、あんたなんか嫌いなところも多いけれど、それでも大切なんだと、言い続けた。
わたしたちは抱き締めあったままわんわんと泣いた。寒い寒い風が吹いて、頬がぴりりと冷たくなっても、いつまでもいつまでも泣きあっていた。
だって、側に大切な親友がいてさえしてくれれば、心はとても温かくなるのだから。
人気のない大きな公園で、泣いて、泣いて、泣き尽して、鼻が痛くなってきて、終いにはどこかで犬まで泣き始めて、それでもわたしたちは、ぎゅうっとお互いの存在を認め合っていた。
そんな一夜から、かれこれ十数年が経ってしまった。大学を卒業し、わたしと瑠偉は離れ離れになった。あの夜のことは、それ以降顔を合わせるたびに話に上がる、恰好の物語となった。
わたしたちの友情は、いや、友情なんて綺麗なものじゃないけれど、腐れ縁として今でも続いている。
「奈緒美さん、少し手伝ってくれないかなあ」
夫がそう声をかけてくる。かつて親父さんが立っていた場所から、今は親子並んで仕事をしながら、時折わたしに手伝いを頼んでくる。
そもそも、本当にわたしは人間関係というものに疎かったので、まさかあの高校生アルバイト君と親父さんとが父子関係にあるだなんてことを、ずっと知らないままだった。大学を無事卒業してからの就職難に呑まれて疲れきっていたわたしに、いっそのことしばらく家で働かないかと親父さんが言い出してからしばらく経って、ようやく二人の関係に気がついたのだった。
加えてアルバイト君が――夫がずっと抱き続けていたのだという恋心にも気がつかなかった。高校卒業後、専門学校に通って、修行先である料亭から帰ってきて店を手伝うようになった夫は、ある日、前々から奈緒美さんのことが好きでした、と告白してきたのだった。
目を丸くして、はあ、と答えてしまったことが、今更になって恥ずかしく思えたりする。やっぱり、わたしに恋愛なんて似合わなかったのだと、現状のわたしは確固たる自信を持って断言できる。
そのことを、先日電話で話したら、瑠偉の奴は声を上げて笑いやがったのだった。
「やっぱりなあ。そうだと思ったのよ。あたしなんてずっと知ってたけどさ、どうせ奈緒美のことだもん、全然わかってないんだろうなあって。ときどき辰巳君から相談受けてたりしたしなあ。彼可哀想だった」
そう、昔を懐かしむ瑠偉は、いまは出版社に勤務している。かなりの激務らしく、大学を卒業してからというもの、なかなか恋に恵まれなかったらしい。くる日もくる日も、仕事仕事仕事の毎日を送っていた。
そんな瑠偉の許にも出逢いが巡ってきたのは一年近く前のことだ。あの夜誰よりも瑠偉のことを思っていた、一緒に走り出してくれたメガネの先輩と、街中でばったり顔を合わせることになったのだそうだ。彼は、ずっと瑠偉のことを思っていたのだという。妹みたいに、あるいは同郷の同士のように。彼もまた、わたしや瑠偉と同じく、遠く地方から独りでやってきた学生だったのだ。親近感がいつの間にか恋心に変わっていったのは自然の成り行きだったのだそうだ。
昔話に華を咲かせて、カフェなんかを楽しんで、それから二人しばしば顔を合わせるようになった。以降、当然のように付き合い始め、しばらくしてからようやくメガネ君の念願は叶ったのだった。
「ところで、酒巻さんもやってくるのかしら」
と、逸る気持ちを抑えつつ料理の手伝いをしながら、夫に訊いた。
「どうだったけなあ。親父、知ってるか」
「来るに決まってんだろうが。あいつはなんにでも顔を突っ込みたがる上に、最後まで見届けなきゃ気が済まねえお節介ものなんだから」
親父さんは、そう憎々しげな口を叩いた。でも、わたしは知っている。親父さんと酒巻さんもまた腐れ縁の仲なのだ。言葉の裏側には、確かな絆が覗いて見える。強く、固い絆なのだ。
「でもさあ、迷惑じゃなかったのか? 結婚祝いだって言っても、わざわざ来てもらって食事を振舞うのはおかしくないか」
「いいのよ」
と、わたしは夫に答える。
「いいの。迷惑でも何でもいいの」
「そんなもんなのか」
「そうなのよ」
「納得いかないなあ」
「かもしれないわね」
ふふっ、と笑ったわたしを、夫は怪訝な表情で眺めていたが、やがて首を傾げて、どうにもわからん、と呟いた。結局迷惑なんじゃないか、とも。
でも、それでもわたしは祝ってやりたいのだった。祝ってやらなければならなかった。そして、そうであるのならば、最大最上級の祝辞を持ってもてなしてあげたいのだった。
傲慢で、身勝手で、押し付けがましいお祝いだとは思う。でも、同時にわたしは瑠偉が心から喜んでくれることも知っている。そりゃあもちろんわざわざやってこなければならないのだから迷惑には思うだろう。面倒だとも感じているはずだ。でも、それと同じくらいに嬉しがってくれるのならば、わたしはそれで十分だった。迷惑も面倒も全部含めて、満足できるのだった。
携帯が振動する。出ると、相手は瑠偉だった。今出たから、昼にはそっちにつくと思う。了解、と明るく返しながらも、忙しい中悪いなあ、とわたしは心の中で謝った。
彼女が店に来たら心からのおめでとうを口にしよう。あの夜みたいに、抱き締めあってもいい。言葉で伝えられないのならば、全身で伝えたらいいのだから。
わたしは携帯を畳み握り締めながら穏やかな想像を続けた。
たくさんのことを話そう。あの日までのことを、あの日からのことを、今日に至るまでの日々のことを、そしてこれからの未来のことを、一緒に語り明かそう。
そうして絶対に言ってあげるのだ。やっぱり、ヤマザキの奴は最悪だったんだって。あんたも付き合わなくてよかったんだよって。
瑠偉は、笑ってくれるだろうか。それとも怒るだろうか。困るかもしれないな。でも、どんな表情でも反応でもいいのだ。わたしになら受け止めることができるのだから。
また、自然と笑みがこぼれてしまった。様子を見られて、なんか変だよ、と夫に言われてしまった。親父さんは何も言わず、仏頂面のままだった。わたしはそれぞれに苦笑を返して、ごめんね、と口にした。
「おっ。そろそろ圭介起こす時間じゃないか」
「ああ、そうね。起こしてくる」
言い合いながら、幼稚園に通う息子を起こそうと、わたしは厨房をあとにする。そうして今日という一日を過ごしていくのだ。これまでも、これからも、いついつまでも。
笑っていたいのだと、誰にでもなく、願うのだった。
(おわり)
今回を持ちまして、七月くらいからある程度続けていた週一更新を終えたいと思います。上り調子でアクセス数が増えていましたので、正直口惜しいのですが、もう規則的な更新はしません。
とは言いましても、がーちゃんの更新がなくなることはないと思います。ですので、以後もお時間のあるときにでもご愛読くだされば幸いです。
さてさて、次回はいつになるかわかりませんが、そのときまで。
それでは。




