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『ぷかり(27)』

『ぷかり』


 くじら雲に乗って、子ども達は空を自由に旅していた。

 思い返すのはいつもその一場面だ。私はその物語を低学年の頃に読んだ。授業の教材だった。秋にある発表会では劇まで演じたはずだ。当時の関わりはさることながら、月日が経った今尚おぼろげながらも内容を覚えている事実に、懐かしくもありながら私は少し驚いた。

 ちょっと本気になって記憶を遡ってみると、その他にも様々な物語が思い起こされた。一年生の頃の【おむすびころりん】、二年生のときの【くじら雲】、三年生では【スイミー】を習ったような気がする。また、恰好いい黒豹が出てくる【がおー】だとか、トラにガムを与えて食べられないようにした【エルマーと七匹のトラ】、【クラムボン】なんていうお話もあったような気がする。タイトルは忘れてしまったけれど、愛犬が死んでしまった物語を読んだときは、幼心ながらしんみりとしてしまったことを記憶している。

 私たちはいつも、物語の中で動物と触れ合ってきていた。冷静に振り返ってみると、随分と人間社会から離れたお話とばかり巡りあったていたのだと、苦笑が込み上げてきてしまった。

 そんなランドセルを背負っていた日々から、もうかれこれ五年近くになる。背の高いフェンスに囲まれた屋上で随分と身体に馴染んだ制服を身に纏いながら、私は遠い青空にかぷりと浮かぶ白雲を眺めていた。

 下界から様々な掛け声が聞こえてくる。時刻はすでに放課後を指し示している頃合だった。所属する部活動に勤しんだり、塾へと向かったり、町で八つ当たりのように自由を謳歌する彼らの気配が空気に滲んでいて、じっとすることが難しい奇妙な浮遊感が、私の内的世界を満たしていた。

 足下の校内には、ふつふつと秘められた文化部の活気がゆったりとうねっている。空にはバットと硬球がぶつかる音が響いているし、白黒のボールを追うスパイクはグラウンドを穿ち回っていた。テニスボールも幾度となくラケットの間を往復しているようだ。車の走行音が間延びして聞こえてくる。どこかで犬が鳴いている。帰りの早い小学生たちのおしゃべりが、微かに耳に届いたような気がした。カラスが頭上を横断していく町の風景は、刻一刻と迫りくる夕暮れを待ち侘びるように着々と静まる準備を進めている。

 目を閉じて耳を澄ましてから、もう一度、私たちは様々な物語に囲まれて過ごしてきたのだ、と胸の中が呟いてみた。たくさんの、本当にたくさんの物語に囲まれながら、結果としての私が、今この場所でフェンスに背中を預けている。

 かついて与えられた物語の数々には、それぞれに望まれた役割があったのかもしれない。優しい人になるように、だとか、人の心がわかるように、だとか、あるいは仲間と一緒にいることの大切さ、だとか、正直者でいることの美徳などを伝える重要な役割とか任務などと呼ばれるもの。

 教育は、それ自体が一種の洗脳作用を持っているのだと、最近思うようになった。例えば先に挙げたような意図があったとして、かくあるべきなのだと望まれた人格になるように、求められた人材になるようにと願われ、物語が与えられていたとするのならば、私たちは教育をする場において、知らず知らずの内に人格形成をさせられてしまっている。

 よくはわからない。学校の学習指導要領がどうなっているかなんて知らないし、第一、そんなに嫌なわけでもない。むしろ、そういった願いを持っている先人達がたくさんいらっしゃる社会に出て行くためには必要なことに思える。感謝したほうがいいくらいなのかもしれなかった。

 ただ、問題をひとつだけ指摘するのならば、誰しもが望まれた人格になれるとは限らないことがあるような気がする。

「あー。居たー」

 突然響いた声の元を辿る。味気ない屋上にひょっこりと突き出した昇降口から顔をのぞかせた早苗は、私を指差したまま立ち尽くしてしまっていた。様子に私が軽く手を振ると、一気にダッシュ。隣に立って、少し怒ったような表情を浮かべて頭ひとつ分背の高い私の顔をぐっと見上げてきた。

「どこにもいなかったから探したんだよ」

「ご苦労様でした」

「玲ちゃんがわかりやすい場所に居たらもっと楽だったのに」

「私は謝らなければならないのかな?」

「もちろんだよ」

 待ち合わせの約束なんてしていなかったはずだ。なのに、このクラスメイトは力強く断言してきやがった。そういう奴だった。思わず小さく苦笑がこぼれてしまった。私は、ごめんなさい、と頭を下げる。

「よぉし。許してやろう」

 大仰な言い方を受けて、流石に噴き出してしまった。あからさまに笑われているのに気がついた早苗も、始めこそむっとしていたけれど、釣られて笑い出した。私の肩を突きながら、「酷いなあ」などと拗ねて見せるけれど、口にしている本人が笑顔になっているのだから真剣味に欠ける。

 私は、大雑把ながらもとても気さくなこの友人が大好きだ。心の底から大好きだ。誓ってもいい。こうやって一緒にいるだけで、とても穏やかな気持ちになれるのだ。

「で、どうして私を探していたの?」

 目尻に滲んだ涙を拭いながら訊ねる。横腹が少し痛むのか手を当てながら、猫のようににんまりと微笑んだ早苗は、決まってるじゃん、と返事をしてきた。

「一緒に帰ろうって思ったのさ」

「あら、嬉しい。どういう風の吹き回しなんだろう」

「何よぅ。あたしが玲ちゃんと帰ったらいけないわけ。それとも、何か予定でも入っていたの」

「べつに予定は入ってなかったよ」

 加えていいのならば、早苗と一緒に帰れるというのならば諸手を挙げて喜んでもよかったくらいだった。

 だからなのだろう。自然に返せたはずの答えのあとに、気持ちが声にならなかった。空気の塊が漏れ出すばかりで、何も伝えられない。生じた沈黙を誤魔化そうと、咄嗟にフェンスの向こう側に視線を移した。

「そうだよ。あいつがいたじゃない。一緒に帰らなくていいの」

「あいつって」

「洋介だよ」

「ああ。よっちんのことならいいの。今日は友達と勉強するんだって、張り切ってたから」

 ふぅん。そうなんだ。じゃあ、洋介の都合がよかったなら、きっとそっちを優先していたんだね。

「でもね、そのお陰で今日は玲ちゃんとゆっくりできるから。買い物とか、カラオケとかさ、いろいろ一緒に行こうよ」

 そうだね、という一言には、変な感情は滲んでいなかったはずだった。飛び跳ねるようにして先を歩く早苗の後ろを歩きながら掌を開いてみる。

 瞬間握り締めた金網の痕が、指先にくっきりと残っていた。


 中学の頃から、男女を含めても背は高い方だった。お陰で体育の時間にバスケットボールをすると、頻繁にボールが回ってきていた。私はそれを率先してリングに運んだし、シュートを決めた後で男の子たちと手を叩き合うのが楽しかった。純粋に、素直にバスケをやることができることが爽快だった。気の知れた友達同士だったのだ。恋愛感情なんて生まれるはずがなかった。相手の方も、私のことを女の子としてそれほど意識はしていなかったように思う。

 そんな私が私の中の異常性に気がつくようになったのは、一にも二にも、高校に入学してからクラスメイトとなった早苗との出逢いが原因だった。

 今でも鮮明に覚えている。気温も空も欠伸を噛み殺しながら春を向けてしまったのだといわんばかりの天候の最中に行われた入学式での出会いだった。退屈な式典を終えて事前に確認していた教室に入り、机に肘を突いてさっさと帰れないかなあと閉じようとする瞼を擦っていたときに、私は早苗と逢ってしまった。

 小柄な、けれども体内に押さえきれないほどの溌剌とした活気を漲らせた女の子が、教室前方の入り口からにぎやかな室内に入ってきたのである。

 瞬間に私の目は見開かれ、歩く軌跡を追走し始めてしまった。それほど時間もかからなかった移動を、私はとても伸ばされているように感じた。

 窓辺に近づき、同じ中学のクラスメイトとおしゃべりを始めてしまっても、私は呆けたように早苗の姿を見つめ続けていた。グループの中のひとりが気づき、指を指して、不思議そうな顔に見つめ返されるまで、我を失ってしまっていた。

 慌てて視線を外して廊下の方を向いて咳をついた。少しだけ時間を空けてからちらりと覗き見ると、早苗はすでに私のことなんて忘れてしまったかのようにおしゃべりに戻っていた。

 ちょうど、窓から差し込んだ陽射しに当てられて、早苗だけが光り輝いていたように見えたのを記憶している。どうしようもなく気になってしまう他人と出逢うのは初めての経験だった。私の視線に気がついたのか、早苗はひとりだけこちらに視線を寄こし、それからニッと猫のように微笑んで掌を振ってくれた。

 あのときの右手が、今私の目の前でポテトを摘んでいる。からりと揚がった一本をちょいっと摘み上げて、待ってましたと謂わんばかりに開かれた口に向かって運んでいく。目を細めて、味わうようにフライドポテトを噛み砕く早苗の食事風景は、いつ見てもこっちまで美味しくなってしまうから不思議だった。

 いつか、どうしてそんな風に食べられるのかを訊ねたことがあった。早苗はきょとんと目を丸めてから、普通に食べてるだけだよ、とおかしそうに笑った。玲ちゃんって、ときどき変なこというよね、とけらけら笑いながら続けた。かもしれない、と私もくすくす笑った。

 けれど、たぶん、その指摘は間違いではないと思う。早苗は時折鋭いことを口にする女の子なのだ。自分の食事に他の人との差異は見出していないのだろうし、笑い話にしてしまったけれど、私の不自然な態度にも薄っすらと気がついているのだろう。

 確かに、問題は私の方にあるのだ。私は普通に食べている早苗の姿を特別として見てしまっている。

 私にとって、圧倒的に特別なことであるのだ。

 いつまで隠し通せるのか、本当に隠し通せているのか、最近私にはわからなくなりかけている。

「ねえ、玲ちゃんどっか行きたいとこない」

 シェイクを啜りながら早苗が訊ねてくる。

「べつにないかなあ。歩くのも疲れるしね」

「まあそれは言えてる。けど、玲ちゃんこの前もそれだったよ。あたし困っちゃうよ」

 早苗は一何処にじっとしていることができない性分の持ち主だ。だから、ぶすっと頬を膨らませて睨んでくる。けれど、そんな表情を向けられたとしても私の頬は緩むことしかない。早苗と一緒に居られるのだとすれば、どこに行こうが行かまいが似たようなものだったのだ。むしろ、こうやって様々な感情を見て取れる分だけ嬉しくすらある。そのときそのときで、早苗のとびきりの表情を見ることができて、同じ空間を共有していたのならば、私はそれだけで満足だった。

 どうしようかなあ、と早苗は口に含んだストローを舌で弄りながら、これからのプランを練っていく。ちょうど机に身を乗り出すようにして、視点を一点に集中させたまま動かなくなるのは、考え事をするときによく見る姿だった。

 様子を、向かい合って頬杖を突きながら私はじっくりと観察する。光に照らされた産毛とか、ぷっくりと膨らんだ唇、すっと通った鼻筋や、少々皺の寄った眉間など、飽きることなく眺めていく。そして、できることならその髪に、おでこに、瞼に、鼻筋に、頬に、唇に、そっと手で触れてみたいと思う。包み込むように覆って、そこに確かに早苗がいることを認識したいのだ。視覚情報としての造形だけでなくて、触った感覚で確かめてみたかった。

 はあ、とため息が漏れた。気がついた早苗が目だけを上に動かして、どうしたのと訊ねてくる。白目が覗いた、じっと見つめてくる大きな瞳。

 思わず悶えそうになってしまった。とんでもない表情だ。

「なんでもないよ」

「でも、ちょっと顔が赤いよ」

 そうかなあ、と私はおどけて見せた。ちょっと暖房が効いてるし、そのせいかもしれないねと誤魔化そうとした。

 けれど、早苗は存外真剣な目をしていた。ストローを口から出すと、しっかりと向き合って私の額に手を触れた。どきりと、胸が飛び上がりそうになる。

「……無理させたりしちゃったかな? 風邪気味だって、来る途中で玲ちゃん言ってたもんね」

「う、ううん。だいじょうぶだよ。全然平気。そんなに心配しないで」

「でも」

 手を離して、早苗は目を伏せた。私はどきどきして、少し目が回りそうだった。

「玲ちゃんが風邪になったら、あたし、よっちんに顔向けできないよ」

 ぴしりと空間がひび割れた音を私は確かに耳にした。周囲の温度が下がっていく。ふわついていた足許が音を立てて崩れていく。

 よっちん。洋介。煤原洋介。早苗の恋人で、私も随分とよく知っている人物。

「よっちんね、玲ちゃんには期待してるって、あいつなら絶対エースになれるって、よく言うんだ。中学の頃から才能あったって。男ん中に交じっても、凄く活躍できてたって。だからあたし――」

「だいじょうぶだって。本当にすこぶる健康だよ。風邪気味って言っても、ちょっと咽喉が痛かっただけだもん。心配ないって」

 遮るようにして言葉を並べた。それ以上、話を聞いていたくなかった。

 早苗と付き合っていく限り、洋介はどんなところでも唐突に私の前に現われてくる。もちろん、彼に悪意なんてものはない。早苗にしても他意はないはずだった。何たって、私は彼女の女友達に過ぎないのだから。彼氏が友達のことを知っていて、同じ部活の先輩として、その友達のことを気にかけていると伝えてくれただけだった。

 私だけが、早苗の恋人に、洋介に、ひとりで嫉妬している。身勝手に疎ましく思って、憎んでさえしまっている。

「そろそろ行こうか」

 声をかけて立ち上がった。次に行く場所も決まっていないし、早苗の心配も解決していなかった。けれども、もうこの場所にだけはいたくなかった。これ以上この場所にいたら、もっと早苗の口から洋介の存在を感じてしまいそうだった。そんなことになったら、私は内側からバラバラに壊れてしまう。

 包装を握りつぶすようにして小さく畳む。早苗に背を向けて、足早にゴミ箱へと向かった。

 嫉妬に歪んだ、泣き出しそうにも見えてしまう表情なんて絶対に見せたくなかった。早苗に悪いし、何よりも、怖かった。とてもとても、怖くて仕方がなかった。私の中の異常性が露見することは、断固として避けなければならない出来事だったのだ。

 ゴミ箱にトレイを差し込んだのと同時に、店の外を強い風が吹き荒んでいく。店内からも見上げることができた小さな空には、いつの間にか覆い尽くさんばかりの雲がひしめき合っていた。


 私と早苗は高校になってから顔見知りになったけれど、私と洋介との仲はもっと遡ることができる。学年がひとつ違っていただけで、中学はもちろんのこと、小学生時代も一緒の学校で過ごしてきていたのだ。加えて、何といっても、郊外の住宅地に住むご近所同士だった。小さい頃は、よく公園で遊んでいたのだと、母からは飽きが来るほどに聞かされている。認めるのは癪だけれど、私と洋介との間柄を簡潔に説明する時、幼馴染よりもぴったりくる言葉の存在を私はまだ知らなかった。

 幼馴染。

 これほどまでに人の関係性を縛り付ける言葉も早々ないのではないかと、最近頓に思うようになった。洋介の奴は私の子ども時代を知っていて、一緒にバスケで遊んだりして、お互いに力量を認め合っていて、中学高校と二人揃って部活動に精を出してきていた。そんな現状が様々な憶測や厄介ごとを持ち込んでくるのは想像に難くないと思う。そのたびに私たちは変に居心地の悪い説明を繰り返さなければならなかった。

 でも、それ以上に厄介なものとして幼馴染という関係性が圧し掛かってきているのを今は感じる。お互い気心が知れているからこそ、洋介のことが疎ましくて堪らなかった。早苗と向き合っているときにその存在を認めることもさることながら、相談事と称して月に二三送られてくる洋介のお悩みメールが、思わずケータイを夜空に投げ出してしまいたくなるほどに腹立たしかった。

 私は洋介のことを、彼の実力とか性格とか人格とか、そういったものを嫌っているわけではない。むしろ認めていて、彼の活躍によって昨年の地区大会では順調に勝ち進んでいけたのだし、応援する方も力が入ったものだった。

 ただ、私と洋介の間には早苗がいる。それだけが、そしてそれだけのせいで、私は洋介のことが我慢ならなくなってしまうのだ。現に、時折、後頭部を思いっきり叩きたくなったり、背後から蹴り倒してやりたくなることがある。

 でも、そんなのは八つ当たりで、全部が全部、問題は私が抱えているのだ。早苗も洋介も何一つとして修正すべき箇所を持っているわけではない。異常な、普通とは違ってしまった私の心が一番の原因で、状況を打破するのも、維持し続けるのも、破綻させてしまうのも、私の決意次第だった。あるいは、私の諦め次第。

 夜を前にして、湿り気を帯びた強い風が通を駆けていく。私の長い髪は煽られて、ばらばらに乱れて視界を邪魔し始めた。

 こういうとき、長い髪は鬱陶しくなる。思い切って、中学生時分のように切ってしまいたくなる。でも、私は私がそれをできないことを知っている。何せ、髪を長くし始めたのは高校に入ったのが切っ掛けであって、それはつまり次第に話す機会も増えてきた早苗にアドバイスを受けたのが一番の理由となっていたからだった。

「玲ちゃんってさ、絶対に髪伸ばした方がかわいいよ」

 絶対に、という箇所を強調してそう言った早苗は、真に入るような顔をして私の表情を伺っていた。そうかな、と私が返すと、そうだよ、と答えた。絶対に、と聞き返すと、絶対にと断言してみせた。

 だから、私は髪を伸ばすことにした。そして、これからも切れないのだと思う。まだ、ある程度の時期までは。

 髪を伸ばし始めた当初、今までずっと短くしていたのにどういう心境の変化なんだと、両親も洋介も、私自身もひどく驚いたものだった。その頃の私ははまだ今みたいに抱いた感情に適切な言葉をつけていなかったから、早苗の前だとどうしても浮き立ってしまう言動に自分で納得することできていなかった。

 私はどうしてしまったのだろう。

 常時混乱と焦燥と不安が入り混じっていて、冷静に状況を整理しようとすればするほど却って景色がくすんでいくようだった。自己嫌悪というナイフに抉られて、私という個性が内側から剥がれ落ちていく、そんな日々を鬱々と送っていたような気がする。

「玲ちゃん、早いよ。待って」

 店内から外に出て脇目も振らずに足を動かしていたせいで、背後の早苗が困惑した声を上げた。かわいらしい、ふっと固くなった肩肘から力を抜いてしまうような、大好きな声色だった。同時に、私のことを心底困らせる魔性の声だった。

 私はこの声からたくさんのことを学んできた。だから、これからはきっと、どのような選択を選ぼうが、身を切り刻まれるような思いを抱かなければならないのだろう。

 その覚悟は、もうできている。できているから、私は早苗のことをちゃんと好きでいられるのだ。

 立ち止まって暗く澱んだ曇天を見上げた。歩幅の短い足音が背後に近づいてくる。

 思えば、早苗は私という人格の変質に大きく関わっているのだった。彼女に抱いている感情に正しい言葉を当てはめざるを得なくなった契機を作ったのも、その感情が救いようのないものであると指し示してくれたのも、他ならぬ早苗の態度が原因になっていた。

 玲ちゃんってバスケ部に入ってるよね、と、その日の早苗は移動教室へと向かう途中で人目を忍んで話しかけてきた。頷くと、なら洋介センパイのことも知ってるよね、と続けてきた。

「知ってるも何も、私あいつと幼馴染だよ」

 一言に、早苗の目は大きく見開かれて、瞬間戸惑い、過激な劣等感を眼差しに過ぎらせて、それから末期の冷静さを取り戻した。目まぐるしく変わった友達の様子に呆気にとられてしまった私は、更に続いた一言とそのときの早苗の表情とを目にして完全に圧倒されてしまったのだった。

 あの時から、私は恋というものを知った。それまでまったく男の子に興味を持てなかったのも、友達としてだけ過ごせてきていた理由も、綺麗に氷解してしまった気分だった。それは同時に決して叶うものではなくて、スタート地点に立った時点で、私のゴールは永久に失われてしまっていた。

 ――あたしね、洋介センパイのことが好きなんだ。

 あの瞬間、早苗はとても綺麗な顔をしていた。見ていてはっとしてしまったほどの、息を呑んで見惚れてしまったほどの美しい表情だった。

 そしてそれは、私のためには決して浮かべられない表情だった。絶対に、絶対に、絶対に。見たくはない、向けられたくはない表情だった。

 私はそのことが、そう思ってしまうことがとても淋しい。悔しいし、苦しいし、叫びだしたくなる。

「はあ。やっと追いついたよ。玲ちゃん足長いんだもん。ちょっとはあたしのことも考えてよ」

 そう、息を弾ませて拗ねるように言った早苗を振り返った。

「ん。どうしたの、玲ちゃん」

 首を傾げたその唇に、短いキスをした。

 さっと身を引いて、すぐさま背を向けて、私は早口で喋りだす。

「ごめん。ごめんね。なんかいろいろとさ。変だよね、私って。あのね、その、もう忘れて」

 そうして、そのまま逃げるようにしてその場から走り去った。

 私は私が嫌いだ。早苗のことを愛してしまっている私のことが嫌いだ。異常に思えて、異質に思えて、大嫌いだ。本当に。気持ち悪いと思う。

 明日、早苗はどんな顔をするだろうか。私はどんな顔をして早苗に会えばいいんだろうか。込み上げてきた衝動に任せてしまった軽率さが、今更ながらに憎くなる。

 胸が苦しい。拍動する心臓が爆発しそうだった。頭の中もぐちゃぐちゃで、なんだか視界も滲んでしまっているような気がする。勢いよく流れる血流が、耳許でどくどく鳴っているのがわかった。

 携帯が鳴った。走り続けて、走り続けて、できるだけ早苗から逃げていた私は、一度立ち止まって画面を確認した。早苗からのメールが来たのかもしれないと、あんなことをやったくせに期待してしまっていた。

 けれども、着信したのは洋介からのお悩みメールだった。

『今度、あいつ誕生日なんだけど、女ってどんなプレゼントなら嬉しいんだ?』だなんて、糞くだらない、タイミングも劣悪な、最低最悪の問いかけだった。

 手にしたケータイがみしみしと音を立てる。奥歯を必要以上に噛み締めたせいで、じんと痺れのような痛みが口の中に広がり始めていた。じんわりと、今度こそはっきりと目頭が熱くなってきた。

「ばか!」

 短く罵倒して、畳んだケータイを思いっきりぶん投げた。

 暗い通り道。宙を舞ったケータイは一度大きくアスファルトにバウンドして、細々とした部品を周囲に撒き散らせながら、見事に壊滅してしまった。


(おわり)


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