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『白雪に消え逝く(25)』

『白雪に消え逝く』


 吐息をハアと両手に吐きかけて、かじかむ指先をゆっくりと揉み解した。ぎゅっと体を縮らせると、茶色の襟巻に口許を沈み込ませる。

 その女性ひとは、時計塔の真下にあるベンチに座って、じっと自らの靴先を見つめ続けていた。初雪のように白い肌が、寒さに赤らんで人恋しそうに火照っている。おぼろげな輪郭線とも相まって、外貌は見る者を惹きつけて止まない、幻想的とも取れる静謐な雰囲気を纏っていた。

 伏した眼差しには憂いを帯びた群青が宿っていた。誰かが近くを通るたびに、はっと面を上げて刹那の期待を打ち砕かれ続けている。何度も何度も機械人形のように繰り返す――あるいは繰り返さなければならない――希望と絶望とに苛まされて、彼女の精神はとっくにやつれ細ってしまっていた。

 ――まだ、貴方は来てくださらないのでしょうか。

 そう、彼女は空に問い掛ける。鉛色に覆われた冬の雲は沈黙を貫いたまま、ひたすらに冷たい雪を降らせ続けていた。


 かつて彼女は一人の青年に恋をしていた。相手は女学校から帰るときにいつも立ち寄っていた公共図書館で何度となく顔を拝んでいた人物だった。磯部と、青年は呼ばれていた。親しいのであろう学友に声をかけられると、彼はそっと紙面から顔を上げて、爽やかな笑みを浮かべて振り返ったものだった。

 もしかしたら、不意に見つけてしまったその微笑が瞼の裏に焼き付いたのが原因だったのかもしれない。振り返ってみるからこそそう考えられるだけで、当時の彼女はいまいち理由に思い当たる節がなかった。ただ、どうしても彼が気になるのである。探すような無粋な真似はおいそれとできなかったものの、ふとその気配に気がつくと、いつも視線が辺りを彷徨うようになってしまった。

 とは言え、律した気品というものに重きを置いていた彼女は、どうしても彼のことが気になってしまう自らの心の機微を、当初は単に読み耽っている書物の脈絡のなさが目に付いて仕方ないからなのだ、と自身に言い聞かせていた。そうしなければ、彼女は抱いた感情を受け止められなかったし、実際彼の読みっぷりには、些か脈絡がなさ過ぎるきらいがあったのだった。

 彼はある日新聞を広げていた。なるほど、昨今のお国の情勢を学ばれていらっしゃるのか、と思った翌日には日本文学に浸っていた。あるいは、医学書を読んでいた次の日には鉱物事典に津々と目を通していて、数学の教本を開いた傍らに、音楽の体系的な指南書を積み上げていることもあった。あるときには海外からもたらされた様々な思想本を読み、目を閉じて難しそうな顔をしていたこともあった。呑むように文字を貪る姿は一種異様に映り、またそうであるが故に彼女の関心を更に引き立てることとなっていった。

 書棚の影から遠巻きに、ときには背後を歩き去りながら彼の様子を見つめ続けていた彼女には、何の理由があって、かようなまでにざっくばらんに本を選んでいるのかが皆目見当もつかなかった。あれやこれやと仮説や想定を立てては見るもののどうにも腑に落ちず、かといって変な噂になっては彼にも彼女自身も迷惑だから手を打つわけにもいかず、不思議に思えば思うほど一層不思議はぶ厚さを増していき、いつしか彼女は青年が図書館にいるかどうか探すようになってしまっていた。

 自分はおかしくなってしまったのかもわからない。図書館での浮き立つような、ふわふわと落ち着かない足許での時間を過ごした後に、あれもうこんな刻限だと家路を急ぎながら、彼女は幾度となく自らの現状をいぶかしんでいた。困ったものだ。日が嵩むに連れて、図書館での感覚が帰り道にも残るようになってしまっていたのだ。

 はあ、と欄干から川面を覗き込みながら嘆息をついた彼女は、しかし薄っすらとではあったが抱いた感情と真正面から向き合う気持ちの準備を始めていた。身体感覚さえをも変容させてしまうこの感情に最も相応しい言葉を、その日彼女は流れ行く川に向かって投げかけてみた。

 途端に頬が紅潮して、身体がじわっと熱くなって、彼女はいてもいられなくなってその場を駆け出した。とんでもない。とんでもないことになってしまったと考えながらも、浮かぶ笑顔を抑えることはできなかった。

 やがて、そんな夕暮れ時から幾許かの月日が経った頃に、彼女と彼との関係は急転する。

「誰をお探しなのかな」

 かけられた第一声は、そんな悪戯な語尾を含んだものだった。いつものように女学校からの帰りに立ち寄った公共図書館で彼の姿を探していた彼女は、背後からの唐突な出来事に大層驚き、慌て、思わず手にしていた植物図鑑を投げ出してしまった。様子を青年はきょとんと見つめてから、恥ずかしそうに俯き、前髪を撫でていた彼女に向かって優しそうに微笑んだ。

 それからの日々、彼女と彼は他愛のない会話を交わすようになった。読んでいる本のことを語り合い、互いの趣味や好物、学校での出来事や噂話の類を口にしては笑い合っていた。その内、それぞれの出身地や家族のことを教えあい、深く相手のことを知るようになった。

 一連の流れは快いくらいに自然で、彼女は当たり前のように彼のことをより強く好きになった。彼は聡明で勇気があり分析力に優れた能力を持った人物で、短い逢瀬のうちに交わした言葉の端々から順々に惹かれていくのが彼女にはわかっていた。

 ただ、そんな交流も日毎に困難なものになっていく。

 いつだって二人一緒に語らった時計塔のある公園で、日に日に貧しくなっていく生活に彼は憤りをあらわにした。自由に使うことができなくなってしまった公共図書館についてひたひたと悔恨の情を口にしたかと思うと、ぐっと厳しい眼差しで空を睨んで奥歯を噛み締めていた。また彼は時に苦しそうに社会の潮流を嘆いていた。今の政府は腐っている、と。隣に寄り添う彼女は、どこかで誰かが聞いていないか不安になりながらも、悲しさに満たされながら頷くことしかできなかった。

 そうして遂に、彼に許にも一枚のはがきが送られてきてしまう。

 もうあの場所で逢うことはできない、と、服装を正した彼は駅舎で屹然と口にした。何一つとして思い悩んだ素振りを見せなかったその姿に、彼女は言い知れぬ覚悟を感じ、現実を受け入れざるを得なくなって、思わず視界が薄っすらと滲み始めてしまった。

 いけない、と、瞬時に彼女は自らを律した。この涙は、どうしようもなく身勝手で傲慢な感情の表れであると、咄嗟に悟ったのだった。

 列車の蒸気が勢いよく吐き出される。鉄の箱は、もうもうと彼の出発を待ち侘びている。

 その時が今であるとは認めたくはない。絶対に、認めるわけにはいかない。けれども、そうでない確証も彼女は持ち合わせていなかった。帰ってこられなくなってしまう人が多かれ少なかれ出てきてしまうことを、理解していた。

 ――でも、そうであるのならばせめて、凛とした姿で出発を見送るべきではないのか。

 きつと口を結んだ彼女は、込み上げてきた感情を押し殺してじっと彼と見詰め合った。向けられた覚悟に泥を塗らないためにも、彼女は自らの心を殺して、ご武運をと見送りの言葉を口にした。

 起立したままの青年が一瞬目を伏せた。刹那、痛いくらいに二人は感情を共有していた。それでも再び顔を上げた彼は、それ以降双方共に刻み付けることとなった約束を確かな口調で紡いだ。

「いずれの日にか、再びこの地を踏むことが可能であったのならば、いつかの公園で、未来に思いを馳せて語り合ったあの時計塔の下のベンチで、いつまでもいつまでも、キミの来訪を待っている」

 いつまでもいつまでも、いつまでも……

「ならば私も待っています。あの公園で、時計塔の下のベンチで、貴方が来るまでずっと待ち続けています」

 ――だから、どうか無事に帰ってきてください。

 そんな言葉は咽喉下まで競りあがってきたものの、声に出すことは許されなかった。

 束の間訪れた沈黙にぐっとひとつ小さく頷いた青年は、それ以降二度と振り向くことなく、遠い大地に向かって運ばれていった。


 あれからいくらか時が経った現在、いつしか彼女は無限に続く昼夜の繰り返しを無感動に眺めるようになってしまっていた。

 彼はなかなか現われなかった。別れの後、一度生家に帰省した彼女は、母と共にしばらく空の様子に注意しながら生活を続けて、息を殺し、陰鬱な日々が過ぎるのただただ耐え続けていた。あのラジオの放送を聴いて人々は涙して、それから更に時が経ち、再びこの土地に舞い戻ってきたからと言うもの、彼女はずっとベンチに腰かけて約束が果たさせるそのときを待ち侘び続けている。

 ハアと吐息を両の手に吐きかける。合わせた掌を擦った。温もりを押し留めようとしているようだった。しかしながら、次第に動作が緩慢となってしまった。

 彼女は物思いに耽り始めていた。じぃと靴先の地面を見つめながら、またこの景色を見るようになってしまった、と、独り言ちる。またこの白雪が舞い落ちる季節を迎えてしまったのだ、と。

 そっと面を上げて、鉛色の雪雲に敷き詰められた冬の空に視線を泳がせる。小さく細かな粉雪が、ひとつまたひとつと、天からそぞろに降り始めていた。

 呼吸のたびに、吐息は空へと昇っていく。程なくして宙に掻き消えるその様は、さながら大地へと舞い降りた瞬間に溶けゆく白雪のそれと相似であるように思われた。唯一、重力に従うか否かを除いて、二者はまったく同質のものであるかのように彼女も許に訪れて、やがて音もなく消えていく。

「ここがあの時計塔の下なんだってね」

 不意に、隣のベンチに座っていた若い女が連れの男に話しかけた。

「少し悲しい気持ちになっちゃった」

「馬鹿だなあ。俺がいるじゃないか」

 答えて、男は女の頭を肩に寄せた。頬に伝わる温もりと鼻腔に広がった匂いに女はすぐさま頬を緩めると、甘えるように鼻をコートに押し付けた。

 様子を、無意識のうちにくすんだ外套を抱き寄せた彼女はぼんやりと見やる。視線に乗った感情に、嫉妬や苛立ちは確認できなかった。待ち続けることに慣れてしまい、そうあることに疲れ切った精神が目前の男女に唯一抱くことができたのは羨望だけであった。

 ――貴方は今なにをしているのでしょうか。どこでどんな景色を見ているのでしょう。

 約束が果たされていないという現状がある限り、青年がこの国に帰ってきている可能性は低いのだと彼女は考えるようになっていた。彼はどんなことがあろうとも、交わした約束を決して破ることがなかった人物だったからだ。約束の大小に関わらず、どんな相手に対しても平等に井然せいぜんと交友し続けていた姿を好意的に受け取っていたし、信ずるに値する人物だと認め慕いあげていた。

 そんな彼が、いつまでもいつまでも、どれだけ時が経とうとも約束の場所に訪れない。そこには、現地での抜き差しならぬ状況があるのだろうと不安を募らせていた。あるいは、不安はすでに絶望に変容してしまっているのかもしれない。ぎゅっと瞑った瞼の奥で、ぱちぱちと閃光が迸った。彼女は組んだ掌を膝の上に添えて、どれだけ時間が掛かろうとも青年の姿が現われるのをひたすらに待ち続けていた。

 ――貴方は来なければならないのです。何よりも貴方自身のために。

 願う彼女は、祈るようにしてきたるべき来訪の時を待ち続けていた。

 そんな折に、ついさっきも目を逸らたばかりの考えが思い浮かんできた。あるいはもう彼は戻られないのではないだろうか、と。異国の地にて鬼畜の輩の魔手に掛かってしまったのではないだろうか、と。

 事態は逼迫した情勢にまで陥ってしまっていたのだ。考えは、かようなまでに青年が姿を現さない何よりの理由であるように思われた。すなわち、彼はすでに殺されてしまっているのだ。大陸の奥地、彼女にはどんな地平が広がっているのかさえ想像もできない土地で、凶弾に倒れ、真っ青に乾燥した大空を望みながら絶命してしまった。もしくは寒さに凍え、飢えと渇きに朦朧とした末に、ぷつりと糸が切れるがごとく、急に動かなくなってしまった――そんな光景が、現地にてこの目でしかと眺めてきたのだといわんばかりにありありと想像できたせいで、彼女の体は小刻みに震えだしてしまった。

 雪に滲まれ濡れそぼった冷たい両肩をぎゅっと抱く。自分ひとりで抱き締める。

 ありえない、と彼女は言葉を吐き出した。小さいながらも確かな叫び声だった。拒絶することによって得られる、最後の希望があったのだ。彼がもうこの世に生きていないというのであるならば、彼女は自らの生に何の意味があるのかが分からなかった。

 ――早く、できるだけ早くこの場所へとお帰りください。そして、たった数刻で構わない、この身を大らかに包み込んでください。

 切望する彼女の目尻には涙が浮かんでいた。すぅ、と音もなく頬を下った滴は、肌を離れて宙へ、勢いよく落下していくと、地面を穿った瞬間に跡形もなくその姿を消してしまった。

「まだどこかにいるのかな」

「もしかしたら近くに座ってるかもしんねえな」

 隣のベンチの男女はくすくすと笑い合って時計塔の下から立ち去っていった。


 すぐそばを、腕を取り合った若い男女が歩き去っていく。

 老人は、孫と手を繋いだまま公園の中央に立ち尽くしていた。皺に刻まれ、潤いを失った肌を大半としながらも、繋いだ掌の内側だけはじゅんとして湿っていた。

 そのぬめりから逃れるように、孫は先ほどからしきりに腕を引いている。内に秘めたるは、まだ幼稚園に上がったばかりの生命力だった。何もせずに立ち尽くしている行為は、ことのほか孫の身体には辛抱ならないようだった。

 あちらを見て、こちらを見て、興味を引かれるものに近づこうと足を踏み出す。それは散歩の途中だった大型犬のふさふさと毛に覆われた長い尾っぽであり、子供たちが蹴り遊ぶサッカーボールであった。動きが奇妙で、面白くて、孫はむずむずと心が逸るのを押さえ切れなかった。

 けれども、二歩と進まないうちに孫の腕はぴんと張ってしまう。ぎゅっと握った老人の掌がずっと自由を奪っていた。

 孫はそれが不満で、口を山のように尖らせながら頭上高くにある老人の顔を見上げる。

「じいじ」

 なにしてるの、どこかにいこうよ、あそぼうよ――そんな一言に込められた感情に老人も気がつかないはずがなかった。そもそも、彼が息子夫婦に持ちかけて孫と散歩に来ていたのだ。じいじと遊ぼうね、と、家を出るときに約束をしていた。

 ただ、それでも老人は注いだ視線を外すことができなかった。たとえ、そのベンチにはもう誰も待っていないのだと分かってしまっていても、生涯のうち唯一ひとつだけ果たせなかった約束を思い出して身動きが取れなくなってしまうのだった。

 ――随分と、時が経ってしまった。

 老人は初雪に染まった時計塔の下にぽつんとある、空のベンチを見つめている。

 ――北の大地に抑留されて帰ってきたこの国に、貴女はもう生きておられなかった。

 ぐっと、下唇を噛み締めた。あの地獄のような寒地で、凍え死んでいった仲間たちを看取りながらも最後まで生き永らえることができたのは、他でもない、彼女との約束があったからだった。

 生きて祖国の土を踏み、あの時計塔の下で彼女と再会を果たす。そんな未来だけが、絶望に討ち負けないための頼りだった。いつしかそれは信念へと代わり、どれだけ苦しかろうが、どれほど辛く悲しい思いを繰り返そうが、絶対に帰還してやるのだという決心になった。

 だというのに、五年の歳月の後に船舶にてようやく帰港し、列車を乗り継いで帰ってきたなつかしの故郷に、いるはずの彼女の姿は見当たらなかった。伝を頼りにいくつかの列車を乗り継いで向かった山村の旧家で、彼女はひっそりと骨壷に納まってしまっていた。

「つい先日ね。流行り病だったんですよ」

 何度か挨拶にも伺った彼女の母親が、感情の抜け落ちた目でそう言った。悲しみのあまりまとった態度ではなく、そうしておかないと現実に押し潰されてしまうのだといった感じの雰囲気を漂わせていた。

「夫もね、南方に行ったきり帰らないんですよ。小さな島で、砲弾が雨のように注がれたのだと聞かされていましてね。お国のために散っていったんだって、名誉なことなんだって。ですので、これからは二人一緒に胸を張って生きていかなくてはならないね、と互いに話し合っていたんですよ。貴方のお帰りも、待たないといけないからね、と。笑い合っていたんですよ」

 母親は、くしゃくしゃになった笑みを浮かべていた。泣いてるのかと思ってしまうほど、壮絶な微笑だった。頭を下げただけで何事も言えないまま、青年は彼女の生家を後にした。

 ――やっとのことで地獄から逃れられたと思っていたのに。

 帰りの列車の中で気がついてしまった。進むことも引くこともあたわぬ本物の地獄がいよいよ口を大きく開いたのだ、と。

 それからの日々、青年は何も手につかず、何もすることもできず、どうして生きているのか、なぜ己だけがこのような苦しみを味わなければならぬのか、なぜ北方のあの収容所で死ななかったのか、自身を呪い、社会を呪い、神を仏を呪って、また深く自らの存在を呪っていた。

 振り返ることすらも禁忌であるかのように、わき目も振らずに復興へと直走る社会についていけず、酒を飲み、喧嘩をし、すれ違う他人を憎み、因縁をつけては逆にぼこぼこに殴られて汚い路地裏に捨てられた己が姿を他人事のように無関心に情けなく思っていた。

 ――あの頃、運よく妻に出会わなければ、今頃私はここにいないだろう。こうして孫の掌を繋ぐこともできなかったはずだ。

 過ぎ去った年月に思いを馳せながらも、老人になってしまったかつての青年は、どこかしこりのようなものが残っていることに気がついていた。

 現状を許容すること。それは一方で、彼女との死別を受け入れることでもある。約束を果たすことのできなかった己を許してやることでもあったのだ。

 彼女は、最後まで約束を信じて死んでいった。彼女の母は、末期の彼女が約束を反故にしてしまうことを悔やんでいたことも教えてくれていたのだった。だと言うのに、自分ひとりだけがその不履行を認め、幸福な現状に浸り満足してしまうのはどうしても卑怯であるような気がした。悲しみに押し潰されてしまうほどに不平等だった。

 馬鹿馬鹿しい拘りかもしれない。彼女にしてみても、どこか遠くで老人がいまあるしあわせを噛み締めることを望んでいないとも言えなくはなかった。現に、彼女の母親は荒れ腐っていた青年が結婚する際に心から喜んでいてくれた。あの娘もきっと祝福していると思う、と涙を浮かべながら祝言を述べてくれたのだ。

 全ては老人の心次第だった。どうしようもなかった喪失をありのまま受け止めて現状を認めて生きていくのか、それとも後悔を胸に宿し十字架を背負いながら余生を過ごすのか。思い悩み、この公園へと度々やってきてはベンチと対峙することもできずに、答えを出せないまま今日まで至ってしまっていた。

 老人は再度、随分と年が経ってしまったと思い直す。その年月の中で辿るべき生き様を見出せなかった自らの不義が、やけに恥ずかしく感ぜられてしまった。そのせいで、方々の知り合いに多大な気苦労をかけ続けていた。彼女の母親には、ついぞ心からの笑顔を見せることが出来なかったし、数年前に亡くなった妻にも思い残しを胸に秘めている態度を薄々勘付かれてしまっていたに違いない。

 ――あの日々から、私はまるで成長していないではないか。徒に月日を重ねただけで、なにひとつ決断することもできないまま、後から後から後悔が募っていく。

「いたい。じいじ、いたいよ」

「……お、おお。ごめん。ごめんねえ。痛かったねえ。悪かったねえ」

 自責の念が、孫の手を包む掌に伝播していた。小さく柔らかな掌をそっと擦りながら、老人は穏やかに微笑み孫の頭に手を載せる。

 ――この感触が、私という存在が今ここにある証であるのだ。

 胸のうちで確かめるようにそう呟いて、老人は時計塔の下のベンチに目を向ける。今日孫をこの場所に連れてきたのは、ようやく心の整理を済ますことができたからだった。

 ――見てくれているかね。これが私の孫だよ。約束を果たさぬまま、おめおめとこの歳まで生き永らえた私の、大切な初孫なんだ。

 許してくれとは思わない。申し訳ないと謝っても、何の意味もないだろうとは分かっている。全ては老人の心次第なのだ。もう自己完結的に内省していくしか老人が選ぶことのできる方法はなかった。

 ――だからこそ、この子の姿をあなたに見せておきたかった。

「じいじ、いこう。あそぶんでしょう」

 たどたどしい口調で訊ねてきた孫に、老人は心からの慈しみをもって微笑みかける。

「ごめんねえ、待たせてしまって。もういいよ。行こうか」

 並んだ二つの背中が、次第にベンチから遠ざかっていった。


 彼女は離れていく二つの背中をじいっと眺め続けていた。見慣れぬ老人と幼子だったにも関わらず、どうしても目が離せなかった。

 その両眼からは、いつの間にかはたはたと涙が流れ落ち始めている。理由を、彼女はすでに知っている。知ってしまっている。本当は、ずっと前から気がついていたのだ。ただ一心に信じ続ける、という行いを通してありとあらゆる現実を誤魔化し続けていた。

 ――また白雪が舞い落ちる季節を迎えてしまったのだ。

 彼女は改めてそう思った。大きな悲しみが細波のように押し寄せてきていた。

 空を見上げて目を閉じる。できることならば、記憶の上にも降り積もって、全てを白銀に覆い隠してしまって欲しいと、舞う結晶に願った。

 音もなく、彼女の輪郭が空に溶けてゆく。

 最後に頬を伝った涙は小さな氷の塊となって時計塔の下に零れ落ちた。


(おわり)


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