『世にも奇妙なカエルの物語(30)』
『世にも奇妙なカエルの物語』
冬将軍がびょうびょうと『かがやくいき』を吐き出している昨今だと言うのに、今朝は妙に微温かった。布団からも、まったく苦労することなく抜け出すことに成功した。なんとも珍しいことである。奇妙奇天烈珍妙百科な事柄も往々にして存在するものなのかもしれないなどと、変に頭を回転させながらリビングへと降りていったら、テーブルにスーツ姿のカエルがしゃんと姿勢を正して向かっていた。
「あ、おはようございます」
戸口に立った私に気がついて、カエルは綺麗に頭を下げる。ぼりぼりと、頭とか尻とか掻いていた手の動きを止めて、私は反射的に「おはようございます」と返事をしてしまっていた。
事態がよく呑み込めなくて、えっと、と口にした私はゆっくりと視線を彷徨わせる。立ち尽くしたままどうしたものかと途方に暮れてしまった。なんで私の部屋のリビングに、成人男性を思わせる、よく見るとなかなかに不健康な膨れ方をしたカエルがいるのだろうか。
「どうしました? そうやって立っていらっしゃるのもなんですから、どうぞ、こちらにお掛け下さい」
いやいやいや。ここ、私の部屋だから。誰とも分からないカエルに主人顔されてしまっては堪らないわ、などとぼんやりと思いながらも、かといって他に対処の仕様がないので私は素直にカエルに従った。
入れ替わりに椅子から立ち上がったカエルは、なにやら嬉々とした様子でキッチンへと向かっていく。
「朝の飲み物はコーヒーでいいですかね。何かないかなって思って、勝手に探させてもらったんですけど、コーヒー以外には見つからなくて」
「もともとインスタントコーヒーしか家にはないです」
「あ、そうなんですか。奇遇だなあ。ぼくもね、いつもコーヒーしか飲まないんですよ。やっぱり朝は熱いコーヒーに限りますよね」
そんなどうでもいいような言葉を交わしながら私は考える。スーツ姿のカエル。コーヒーしか飲まないカエル。勝手に人の部屋にいて、飲み物を探して回ったらしいカエル。カエル、げこげこ、カエル、カエル、カエル――
どうやらとんでもなく奇妙な奴と出逢ってしまったみたいだった。私は覗き込むようにしてキッチンに立った相手に目を向ける。
大きな頭がにょっこりと青山のスーツの上に乗っかっているみたいだった。ぎょろぎょろと艶やかに動いている大きな二つの目玉。顔を縦断するかのように入った切れ目は、どう見たって間違いなく口なのだろう。そういえばカエルは胃袋を吐き出すらしい。こいつもあの口から胃が飛び出してくるのだろうか。健康的なピンクに染まったそれを、大切そうに手で擦り洗うのだろうか。想像すると、少しグロテスクだった。むう、気色悪い。
始めこそ被り物なのではないかと疑ってみたけれど、どうやら湿っているらしい、光を反射する生々しい皮膚の造りなどを観察しているうちに、どうやら本当にカエルそのものにしか見えなくなってきてしまった。
よろしい。私の部屋にいるのは本物のカエルだとしよう。大きさや、その他いろいろとおかしな点が散見されるような気がしないでもないが、この際それは考えないことにする。
でも、なんで? どうして私の部屋にいるのだろう。
状況はとんでもなく異質を極めていて、気味が悪いとか気持ちが悪いとか感じるのを早々に凌駕してしてしまった。少し笑えてしまえるくらいだ。あっはっはっは。芳しいインスタントコーヒーの香りが部屋の中に漂い始めたぞ。
「えっと、こちらがトーストで、これはベーコンエッグです。スクランブルエッグとサラダ、果物も用意させていただきました」
カップをソーサーに載せてコーヒーを持ってきたカエルとは、今度はテキパキとすでに作ってあったらしい朝食を運んできてくれた。テーブルに並んだいつもよりも格段に豪華な品々を目にして、私は思わず呟いてしまう。
「……ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
「いただきます」
手を合わせると、対面に座ったカエルがにこりと微笑んだ。
じっと見つめられたまま朝食を食べ終わった私は(とても美味しかった! まるで一流ホテルのブランチのような感じだった。)、合掌し口許をナプキンで拭うと、いただきましたと挨拶をした。
「美味しかったよ」
「お粗末さまです」
カエルは食器を手に取ると、ずっと前からそうしていたかのように、馴染んだ動作で再びキッチンへと戻っていった。背中を見つめながら、私は改めて、抱いていた疑問を口にする。
「で、一体全体あんたは何者なの?」
「カエルですよ」
「そりゃ見れば分かる。訊いてるのは、どうしてそのカエルがスーツを着ていて、日本語を喋っていて、私に朝食を作ってくれていて、そもそもどうやってこの部屋に入ったのかっていうことなんだよ」
捲くし立てると、驚いたように振り返ったカエルは少し照れたように頭をぺしぺしと叩いた。それから、いやいやお恥ずかしいと口を開く。
「どうやら混乱させてしまったようで。誠に申し訳ないです。と、事の次第をお話させていただきたいのは山々なのですが、その前に少々水を飲ませていただいても構わないでしょうか?」
結構ずうずうしいな。思いながらも、私は掌を表に返してどうぞと水道を指し示す。
「ありがとうございます」
微笑み会釈したカエルは、戸棚からガラスのコップを取り出すと、水かきのついた手で器用に蛇口を捻った。様子を私は何の気なしに観察する。勢いよく流れ出る蛇口の水が透明なコップを満たしていく。溢れんばかりになみなみと注ぐと、ぱかっと大口を開けたカエルはがぷがぷ水を呑み始めた。
一杯二杯三杯四杯五杯六杯七杯八杯――
途中から、数えるのが気持ち悪くなってきた。見ているだけでもお腹が痛くなりそうだった。あんなに呑んでは、歩いただけでたぷんたぷんと胃袋が揺れるだろうに。口から吐き出して大事そうに洗うピンクの臓器は、おそらくみず風船のように膨れているように思われた。
おおよそ三十杯近く水を呑んだカエルは、ようやく一息ついて椅子に戻ってきた。
「いや失敬。何せ初めてのことですので、ずっと緊張してましてね。さっきから咽喉が渇いてしかたがなかったんですよ」
はははと笑ったカエルに白けた微笑を返しながら、様子をじっと見つめた。そうすることで何かしらの情報を掴まんとしたのだった。
けれど、目の前にいるのはやたらと大きな日本語を喋るカエルでしかなくて、それ以上の虚偽も、それ以下も真実も何一つとして分かりはしなかった。ただひとつ確かなことは、そんなスーツ姿のカエルに私は朝食を作ってもらって、それはとてもともて美味しくて、私は素晴らしい食事をいただいたという事実だけだった。
テーブルの上で、水かきのついた指を組みなおす。さて、と一言口にすると、カエルはそれまでのどこかひょうきんな印象を引っ込めて、凛とした礼儀正しい雰囲気を漂わせ始めた。
「どうしてこのようなことになっているのか、あなたの方からいろいろとお聞きしたいことがあろうかと存じあげます。ただ、逐一説明いたしますのはなにぶん長ったらしく、ことの次第によっては更なる混乱を招いてしまう恐れがありますので、できるだけ分かりやすく簡潔に、ところどころ省略してお話をさせていただきたいと思うのですが」
どうでしょうか、の一言を飲み込んで、カエルは伺い見るように拳から視線を上げた。
「構いません。どうぞお好きに説明してください」
「分かりました。それでは一点だけ。事前にご留意いただきたいことが」
「なんでしょうか?」
首を傾げると、カエルは自ら大きな口を指差した。素っ頓狂な行動に、私は目を丸くしてしまう。
「これですこれ。言葉です。あなたは先ほど私が日本語を喋っていると申されましたが、実際はそうじゃない。私は所詮カエルでしかありません。ですので、当然のことながら人間の言語は話せない。ですから今もカエルの言語で話しています」
「……なのに、どうしてか私はそれが理解できる」
「ええ、そのとおり。詳しくは省きますが、今現在この空間がそのようなことが可能な場になっていると考えてくだされば結構です。あなたとこうして面会するには、この空間を作り出すことが必須であり、同時に一番手っ取り早かったのです」
「この空間を作った?」
私は怪訝な声を上げてしまった。
「一体どういうことでしょうか。まさか寝ていた間に私は拉致されてしまって、ここは住み慣れたアパートの部屋ではない、どこか別の場所なのだなんて言うわけではないでしょうね」
「もちろんですよ。ご安心下さい。私たちはあなたに何もいたしておりません。あなたが住んでいらした場所を特殊な空間と繋げただけなのです。繋がることによって、空間は互いに共有しあい、そのためこの部屋の中でも私とあなたは意思疎通できているわけなのです。証拠を示せと言われても、簡単にはできないので信じてもらうしかなく恐縮ではありますが……」
「……つまり、先ほど作ったといわれたのは、その繋いだ先の空間ということなのですね?」
「おっしゃるとおり。私たちはこちら側には何一つ手を加えてはいません」
誠意と自身に満ち溢れたカエルの態度に、頭痛がしてきそうだった。
なんだか知らない間にとんでもなく大掛かりなことが行われていたみたいだ。いやあしかし、カエルにそんな高度なことが可能だったなんて事実はついぞ知らなかった。世界は広いものである。私の知らないことが、それこそ当たり前のように転がっているのだろうなと思うと、こんな不思議のひとつやふたつ体験してみるのもやぶさかではないような気になってきた。
「この部屋がお作りになった場と繋がったことによる弊害はないのでしょうか」
額に当てていた右手を外して続けた懸案事項に対して、カエルはにこりと微笑み返す。ビジネスライクな対応だった。
「その点に置きましてもご心配には及びません。私事ではありますが友人に業界最大手アオガエル重工業の助役がいましてね、今回は彼を通して最高品質の安心空間を設計いたしましたから何ら不備はございませんよ。それに、あそこならちゃんとアフターケアも充実していますしね。大手だけありますから、ちゃんと対応してくれますよ。後日何かしらの不具合がございましたら、こちらの方へ連絡下さい」
言って、カエルが懐から取り出したのは、極々普通なありふれた名刺だった。どうやらカエルの言語で書かれているらしく、会社名や名前と言った必要な情報はひとつとして理解できなかった。ただ数字だけは人間社会と共通しているらしく、連なる数字を見つめながら私は恭しく名刺を受け取った。
「さてと、他に何かご質問は?」
「今のところはありませんね」
「そうですか。分かりました。それでは、またご質問いただくようなことがあればその都度仰ってください。順次回答させていただきますので」
「分かりました」
「ありがとうございます」
テーブルに口付けをするかのように頭を下げたカエルを、ぼんやりと見つめていた。やー、やっぱり相当奇怪な事態に陥ってしまったなあと、やけに冷静に理解しなおしていた。
カエルの頭よりも高い場所にある二つの目がぎょろぎょろと蠢く。本題に移るにあたって、頭を上げたカエルはひとつ大きな咳払いをした。膨らむ声帯から生まれた音はびりびりと空間を震わせて、私は少しびっくりした。
「いや、失礼」
「水をお飲みになられたらどうです」
「いや、結構です。……お恥ずかしい。ご心配をかけてしまったようですね。でも、本当にだいじょうぶですよ。ええっと、そうですね、どうして私がここにいるのか、まずはそれからお話いたしましょう」
そう話の軌道を戻したカエルに、いよいよかと私も心ばかり姿勢を正して生唾を飲み込んだ。
「――先日の雨の日のことを覚えていらっしゃいますでしょうか。取り立てて特徴のない雨ではありましたが、その日私どもカエルの住む世界ではとんでもない事件が勃発しておりました。
そもそも、私たちの住むカエルの世界、と言うものは、市場原理主義を取り入れた自由民主主義を謳ってはいるものの、今尚強権的な王家が存在しており、民衆から絶大な人気を誇っているのです。とりわけ、今期ご誕生になられたご子息、王子と王女にあられましては、その絶世たる美貌と博学堅実なご発言、才気溢れるスポーツでのご活躍など、まさしくカリスマ的な魅力を持ち合わせていらっしゃいまして、あれよあれよと言う間に人々は彼らの虜となってしまったのです。
もちろん、私もそのひとりです。彼らは素晴らしい。かような存在がこの世にいてもいいものかと、嫉妬することもできないままただ平伏してしまうのです。まさしく王族として覇気を纏っておられる。ゆくゆくは二人の統治が始まりますでしょうが、当分の間カエル社会が安定するのは間違いないでしょう。
いやはや、話が脱線してしまいましたね。申し訳ない。先日の雨のことに戻りましょう。ええっと、ああ、事件。事件のことを口にしたのでしたね。とんでもない事件が勃発してしまったと。
……あの日、カエル社会は混乱の極みにありました。後にも先にも、あれほど人民が不安に陥ったことはないでしょう。えっ? そう言えば、カエルの鳴き声が五月蝿かったような気がする。こちらの方にまで影響が出てしまったわけですか……。まあ、分からなくはないのですけれどね。あの日は本当に大変でした。なんたって、朝起きたら王子がいなくなっていたのですから。
結末をお話いたしますと、王子は鳥に誘拐されてしまっていたのです。彼はとても美しい青色の体皮をお持ちで、それはそれは各界には知られた存在であったのです。そのため、不必要に目立ちすぎていたのでしょう。美しいものに目がないシジュウカラのヒト攫いに誑かされてしまったのです。
犯行は一瞬でした。暴力的なまでの突風と共に飛来した犯人は、休んでいた王子を口にくわえると、ぶわりとその場を飛び去っていったのです。明け方だったせいで警備の手も薄く、また相手が鳥とあっては対抗のしようがなく、我々は絶望の淵に落とされてしまったのです。
しかしながら、我らが王子はひとり冷静に状況を理解しておられました。空を飛びながらも、隙を突いて逃げ出してやろうと画策していたのです。
本当に王子の勇気とご決断には頭が下がります。彼は間違いなく英雄でありましょう。後生に語られるであろう逸話となるに違いありません。本当に、本当にご無事で何よりでした。
え? あ、ははは。申し訳ない。また話が頓挫してしまいましたね。分かりました。続きをお話いたしましょう。
王子は咄嗟の判断でシジュウカラの嘴から逃れることに成功しました。身を捩って、ぴょんと大空に飛び出したのです。シジュウカラは驚き、慌てたことでしょう。しかし王子の身体能力をして持って、彼は巧妙に空を滑空して行きました。びゅうびゅうと凄まじい勢いでです。シジュウカラが数秒の間何が起きたのか分からず呆然としてしまったのもいい方向へと傾きました。どんどん離れていく王子は、二度と捕まるようなことにならなかったのです。
しかしながらです。いくら逃げ出したとは言え、大空から地面に激突してしまっては許も子もありません。王子もそのことについては重々承知しており、そのためどうしたものかと困ったしまったそうなのです。生憎、辺りには何とかなりそうな木々は生えていない。草に何ぞ落ちても、地面に落ちるのと大差はありませんから、王子は瞬く間に絶体絶命の危機に陥ってしまったわけなのです。
死を覚悟した。もう二度と帰られないのかもしれないと。二度と家族と逢うことも、民衆の期待に応えることもできないかもしれないと。王子は末期の瀬戸際で、たくさんのカエルの顔を思い浮かべたと仰いました。やさしい母と正しい父に恵まれ、美しく聡明な妹共に、いろいろな世話人に苦労をかけ、人々に迎えてもらった。これまでの人生を思い浮かべて、それでも王子は悪くない一生だったと思ったそうです。ただ、できることならもっと生きていたかったと。
そう、目を閉じて祈っていたときでした。もう間際に地面がある。死は直前にまで迫りつつある。
王子は、なにかとてつもない弾力の物体に衝突して、一瞬宙に押し返されました。訳が分からず目を見開くと、眼下には見慣れぬ大きな布が。再びその布に落ちた王子は、今度こそ吸盤を使って、がちりとしがみついたのです。
――もう、お分かりでしょう。その布は、あなた方が傘と呼んでいるものでした。そして、あの雨の日、王子が落下したその真下にいらしたのが、他の誰でもない、あなた自身だったのです」
言って、目をキラキラと輝かせながら身を乗り出してきたカエルを見て、私はようやく長い話が終わったのかと安堵していた。つまりは、私が運よく空から落ちてきたカエルの王子を助けたと言うことなのらしい。なんだ。一言で終わってしまうではないか。ぐだぐだと続けたカエルが少し腹立たしくなった。
「そういえば、あの日傘に何かが当たったなあと思って上を見たら、カエルがへばりついている影を見たような気がしますよ」
「でしょう。そのお方こそが、我々カエル社会の王子であったわけなのです。――大変遅くなって申し訳ありませんでしたが、心よりのご感謝を申し上げます。本当にありがとうございました」
席を立って、百十度ほどに腰を折ったカエルを前に、私は慌てて椅子から立ち上がってしまった。
「そんな、止めてください。たまたまなんでしょう? 私が感謝されるいわれはありませんよ」
「いえ、そんなことはありません。あの日あの時あの場所にあなた様がいらっしゃらなければ、我らが誇る王子は、王子は……っ」
「泣かないでくださいよ!」
「いや、失敬。最悪の事態を想像してしまったら悲しくて悲しくて。ううっ」
かも知れないが、実際はそうなってないのだからいいではないか。大袈裟だなと呆れてしまいそうだった。肩で息を吐いて、私は椅子に座りなおす。
「分かりましたよ。とにかくいろんな偶然が重なって、あなたのところの王子は救われた。でもあの日、私はそのまま王子を乗っけてこのアパートに帰ってきてしまったんですよ。その上、あろうことかその王子を玄関先で払ってしまった。不遜に過ぎるとは思いませんか」
「心配は無用です」
がばりと面を上げたカエルが言った。
「人間社会とカエル社会との関わりというものは、度々そのようなことが生じるものなのです。逐一苛立っていてはどうしようもありませんよ。我々は慣れっこです」
なにやら自信満々な態度に、今度こそ本気で呆れ返ってしまった。
「考えてみれば一昔前は雨のたびに車に轢き殺されてしまっていましたもんね」
「仰るとおりです。あの時代、我々の社会は暗黒に染まっていました。人間を怨み、あの車とか言う鉄の箱を憎み、タイヤという巨大な輪に恐怖し、何よりも雨に浮かれて軽率に辺りを散策してしまった同胞たちを情けなく思い、積み重なっていく喪失に涙していました。ただ、そんな時代を経たからこそ、今の我々の精神があるのです。過去を顧みて互いの行いを罵り呪いあうよりも、これからの関係を円滑に進めていくよう考える方が有意義ではありませんか」
「しかし、過去があるからこそ現在があるのであって、一概に切り捨てることは不可能ではないのですか?」
「ごもっともです」
落ち着きを取り戻して再び椅子に直ったカエルは大仰に頷いた。
「今の私がこうしてあなたと向かい合うためには、連続的に存在し、今日ここに至った私がいなくてはなりません。すなわちそれは過去であり、言い換えれば歴史であり、記憶であるわけです。しかしながら、そういった過ぎ去った日々を認識するためには、主体としての現在が不可欠であることもまた間違いようもない事実。私という存在は、いつだって今始まっているのです。それから過去に遡り、翻って現在を補完するのです。まあ結局は持論にしか過ぎないのですけれどもね。それにしても、どうしてこのような話題になったのでしょうか」
「お好きではないのですか? しっかりとした考えをお持ちのようだから、てっきり得意分野かと思ったのに」
「考えることは嫌いではありませんよ。ただ、その考えたものを得意気に話し出してしまうのが嫌なのです。だって、結局は私個人の思い込みでしかないでしょう。なのに、さも万事を理解したかのように語るのは恥ずかしいことですし、甚だ醜悪だと感じてしまうのです」
「恥の多い方なんですね」
「そうですね。私は生きるときの指標として、恥というものを大切に抱きかかえているのでしょう」
スーツ姿のカエル。コーヒーしか飲まないカエル。勝手に人の部屋にいて、飲み物を探して回ったらしいカエル。カエル、げこげこ、げこげこ、カエル、カエル、カエル――
世の中にはいろんなカエルがいるけれども、朝食を作るのがとてもうまい彼(おそらく男性だと思う。そう信じたい。)は、緊張すると水をがぷがぷと気持ちが悪いくらいに呑んで、なんだか凄い空間を作ることのできるカエル仲間を持っていて、カエルの王子様を敬愛していて、おそらくはかなりの高官で、賢く丁寧で、その上恥の多い人生を送っている、そんな特上に奇天烈なカエルだった。滅多にお目にすることはできない相手にまず間違いない。
出逢いを、この状況を、幸運と呼んでいいものなのか未だに疑問符が残る事柄ではあったものの、初めて会話したカエルが彼であったことを、私は喜ぶべきなのだろうとは思うようになった。それほどに彼は面白い。太鼓判を押してあげたいくらいにいい性格をしたカエルだった。
「さて、これで大筋の説明は終わったのですが、何か聞きたいことはありますでしょうか?」
取り立てて何もなかった。首を左右に振って私は返事をする。
「そうですか。それでは続いて本題に入りたいと思うのですが――」
「ちょっと待ってください」
「は?」
いやいやいや。あれだけ長ったらしい説明があって、まあ確かにあれは現状に至ることの流れではあったのだけれどもさ、これから更に本題があるのですか。ねえ、少しひどすぎやしませんでしょうか。
悶々とのろいを脳裏に浮かべた私は、一度大きく息を吐き出してからひとつ静かな深呼吸をする。それから席を立って、不思議そうにしているカエルに目を向けた。
「コーヒーを淹れてもいいでしょうか。少し疲れてしまって」
「ああ。確かにそれもそうですね。ずっと私の方から説明するばっかりで。肩肘が張ってしまうというものですよね。どうぞ、ご自由になさってください。なにせ、ここはあなたの部屋なのですから。私が口出しするようなことはございません」
納得した表情のカエルに私は持ちかける。
「よかったらあなたにも淹れましょうか?」
「よろしいのですか?」
「ええ。もちろんですとも」
「では、お言葉に甘えて」
私は二つのカップに熱いブラックコーヒーを注ぐと、再びテーブルに戻ってきた。
「どうぞ」
「どうも」
二人分のカップが、仲良く湯気を立ち昇らせた。片割れを、私の右手が口まで運んで、黒く苦い、芳しい液体と胃の中へと流し込んでいく。カツコツと、時計の秒針が時を刻んでいた。そういえば、今はいったい何時なんだろう。もしかすると、ものすごく仕事に遅刻してしまっているんじゃないだろうか。心配がひょっこり顔を持ち上げた。
「ところで、今は何時なんでしょうか」
「時間ですか? 朝の六時半のままですよ」
「六時半のまま?」
「ええ。何せ、特殊な空間と繋がっていますからね。周囲の世界とは隔絶されていて、私たちは滞った時の中に漂っているのです」
「なるほど」
「アオガエル重工業の技術力は業界では群を抜いています。有能な科学者や物理学者、数学者や哲学者を企業が主体となって買収しているんです。会社と銘打っていますが、実質カエル社会における最高学位といっても差し支えのない場所になっていますよ。アオガエル重工業に入社できたり、スカウトされたのなら、周囲から天才と認めてもらったも同然ですからね」
「そんな場所に、あなたは助役にまで上り詰めたご親友を持っていらっしゃる」
「私の自慢ですよ」
言うと、カエルはゆったりとコーヒーを口に含み、こう続けた。
「友人は私が知っている中で最も賢いカエルです。そして、社会性を持っていて、リーダーシップも、決断力までも兼ね備えている。いずれ、トップに座する器だと確信しています」
王子と比べたらどちらが優秀なのだろう。不思議に思ったものの、不用意に口にしてカエルの機嫌を損なっても面倒なので私はそっと微笑むだけに済ませた。
しかしながら、カエルの口にした本題とはなんだったのか。いまだ語られないものの、彼が相手なのならばもう少し話しこんでもいいような気がしていた。何たって、時間は止まっているというのだから。
もちろん確証はないけれども、信じない理由も持ちえていない。どうせ平坦な毎日ばかりが続くのだ、こんな日があってもいいような気がした。
「さておき、申し上げになられた本題のことについてですが――」
「ああ、これはこれは。ついつい話が脱線してしまいがちですね。申し訳ないです」
「いえいえ。私もお話を聞きながら、とても楽しく過ごさせてもらっていますよ」
「そうですか?」
「そうですとも」
言い合い、共犯めいた笑みを互いに浮かべて、私たちはしばし見詰め合っていた。
「カエルと人間の間に類似性が見つかるなんて面白いですね」
「なあに、かつては同じ先祖を持っていた仲ではないですか。一つや二つ、似ていても何ら不思議じゃありません」
確固たる自信を持って言い放ったカエルを、私は疑いの眼差しで見つめる。
「この現状こそが不思議な状況であるにも関わらず?」
「状況が不思議だからこそ、普遍的なことが発見できるのです」
のらりくらりと話筋を乗り換えながら、私とカエルの会話はまだまだ続いていく。
(おわり)




