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『干柿の嗜み(35)』

『干柿の嗜み』


 亮太がけったいな風邪を引いたらしい。

 国際情勢に関する講義を聞いていた最中に友達からそのことを聞かされた私は、講義が終わるや、すぐさま当人に電話をかけた。私に対して何の連絡も寄こさなかった理由を問いただすためだった。

 何度試しても繋がらない電話に腹を立てながら自室へと帰り、部屋のソファに腰かけて、依然として無常に響くだけのコール音にいい加減イライラが頂点へと達しかけた折に、亮太はようやく電話に出た。

 本当に、まったくなんとも遅いことこの上ない。文句のひとつでも言ってやろうかと口を開きかけた私ではあったのだけれど、聞き慣れない声を耳にすると、込み上げていた言葉を寸前のところで見失ってしまった。

「……あんた誰?」

「誰って、相変わらず美樹はひどいなあ。僕だよ」

「亮太なの?」

「他にこの電話に出る人はいないと思うよ」

 うるさい。そんな軽口を叩くくらいなら、真っ先にその声を何とかしろ。

 思ってしまうほどに、亮太の声はひどいものだった。マスクをしているためなのかくぐもり篭っていて、その上しわがれた老人のように掠れていた。聞いているだけで、私の咽喉までイガイガしてきそうな声だった。ぐっと唇を噛み締めなかったら、うっかり、ちょっと黙れと言ってしまったかもしれない。それほどに耳障りで不快な声を、電話越しの亮太は発してきていた。

「風邪って聞いたけど……」

「あ、うん。まあね」

「大丈夫なの?」

 詰問するつもりだったのに、心配する気持ちの方が逸ってしまった。亮太はうんと返してから、不意に二三の咳を繰り返した。私は思わず電話から耳を遠ざけてしまう。

「……だいじょうぶだよ」

 沈黙を確認してから耳を近づけると、そんな小さな呟きと取り繕うような空笑いが聞こえてきた。

 だいじょうぶだよ。なるほど、確かにそうなのかもしれない。少なくとも亮太の頭の中だけでは、現状は『だいじょうぶ』であるらしかった。

 それから今アパートで養生していること、見舞いには来なくてもいいこと、再び大丈夫だという言葉を聞いて私は電話を切った。

 待ち受け画面を意味もなく凝視する。音を立てて勢いよく折り畳むと、帰ってきたときに放り出したバッグにしまって俄然と部屋のドアを開けた。目指す場所は、もちろんとっくに決めてある。私は少しだけ怒っていた。

 電話越しの亮太は『だいじょうぶ』だなんて言っていたけれど、口にする声色を考えていない辺り、やはり奴は根本的な馬鹿なのだろうと思う。亮太は自分のことよりも他人の迷惑を優先して考えてしまうことが多いけれど、そういったやさしさが持ちえる厄介な側面に愚直なまでに鈍感だから困るのだ。

 なにが『だいじょうぶ』だと言うのだろう。これ見よがしに不調を訴える声を届かせておいて、それではあんまりじゃなかい。顔が見えない分余計気になってしまった。下手糞なのだから、強がりなんぞするものではないのだ。隠そうとすればするほどに、ド壷に嵌っていくのが手に取るように分かるのだから。

 電話で交わした会話は、私の耳には「とても辛くてたまりませんどうか助けてください」と言っているようにしか聞こえなかった。明らかに亮太が言ったようなちょっとした風邪ではないように思えたのだ。

季節が季節だけに、もしかするとインフルエンザに罹っているのかもしれない。そしてそのために、移ったら悪いとかどうたらうじうじと考えて、見舞いを遠ざけているのかもしれない。

 何でもかんでもひとりで抱え込もうとしやがって。

 病人は黙って誰かに助けられていればいいのだ。そうするだけの権利をちゃあんと持っているのだから。気丈に振舞うせいで余計に痛ましく見えてしまう。そもそも病気に罹っているというだけで周囲の人は気を病むものなのだ、心配をかけたくないと願うのであるならばあれこれとものを考えず、周りに身を任してしまった方がよっぽどメリハリがついていいと思う。

 そんなこんなで亮太に対する憤りに鼻息を粗くしていた私は、現在彼が住んでいるアパートの扉の前にいる。見舞いは来なくてもいいと言われたけれど、そんな意見はもちろん無視しである。ざまあ見ろ、と情感をこれでもかと込めて出会い頭に言い放ってやりたい気分だった。あるいは存分に嫌味ったらしく、またあなたの意向は無視されてしまいましたね、とも言ってやりたかった。

 私と亮太の間に生じている関係性という名の振り子について考えてみるとき、長い長い振り子の糸はいつも私の方でだけ大きく振れている。亮太の側には途中に糸の動きを邪魔する杭が打たれているのだ。そのため、私の側では伸び伸びと極限まで振ることのできる振り子は、亮太の側にあっては杭を支点として小さく動くことしかできなくなる。

 つまりは同じ振り幅の要望を持っていたとしても、私と亮太とでは絶対的に差ができてしまうのだった。そのため、私の意思決定はいつでも優先される。対立する亮太の思慮というものは、ことごとく無視される運命にあった。

 残念だろうとは思うけれども、杭がどうしようもなく亮太の側に打たれているのだから仕方がない。私にだってそれはどうすることもできないのだ。それに個人的には、亮太が私と相反する思惑を抱いてしまうことが悲劇の原因なのだと思っている。対立しなければ、振り子は振れないはずだから。

 ――このまま人差し指で呼び鈴を押し込んでしまえば、アパートのドアを開け放って、すぐにでも亮太は現われるはずだった。チャイムさえ鳴ってしまえば、きっとあいつはのこのこと顔を出してくる。どちら様でしょうか、などと風邪にうなされた悄然とした姿で口にして、それから立っているのが私だと理解して口をあんぐりと開くのだ。途端にどうして美樹がここにいるのとでも言いたげな素振りを見せながら。

 そんな想像、あるいは連想がコミカルな光景として簡単に想像できてしまうあたり、やはり亮太は分かりやすい馬鹿なのだと思う。間違いなく。絶対的にそうに違いなかった。きっと愛すべき馬鹿野郎とかそんな感じの人相なのだろう。放っておけない、どうしてか手を出してしまう存在というものが、人生にはいくらか待ち受けているものなのだ。

 私は突き出していた人差し指を一度元に戻して胸に手を当てると、ちょっぴり深呼吸をした。実を言うと、少しだけ緊張していた。手段さえ選ばなければすぐにでも入れてしまうほど間近に亮太の部屋を控えて、逃げ出したくなる気持ちと懸命に戦い続けていた。

 もちろん、ここへ来たことがないというわけではない。部屋は亮太が元気なときに何をするでもなく一緒に過ごすこともあった場所だった。鍋を二人で囲んで突いたこともある。それに、今は見舞いをするという大義名分だって持ち合わせているのだ。臆病になる原因はたった一つを除いて残っちゃいなかった。

 けれども、そのたった一つが大きかった。途方もなく。たった一つ、引っ掛かりがあったがために、私は自信満々で部屋に乗り込めないでいるばかりか、その決心さえも揺るがせにしてしまっていた。

 亮太は来なくていいと言っていた。風邪を移しちゃ悪いから、来なくていいよ、と。なのに、私は今こうして亮太の部屋の前にいる。あまつさえそのドアをくぐろうと考えている。無論、亮太のことを思ってのことではあった。彼の体調を心配しているからこその行動だった。

 けれど、行為は示された意図に反抗することを意味していた。向けられたやさしさを無碍に返すことであり、そのやさしさに一時であったとしても打たれてしまった私を乗り越えなければならないことだった。

 私は、私の私から始まる意思決定においては、にもべもなく亮太の意向を無視することができる。胸を張ってそう言える。露ほども気に留めることはないだろう。だってそれら行動は全て、私が発起人となって起こすものであったのだ、誰にも気兼ねなく行うことができなければ発起人である私にイニシアティブがないように思える。

 しかしながら、今回は様子が違った。先に亮太の風邪という状況があって、連絡してみたら病人の癖に私を思いやる厄介なやさしさが伝わってきてしまったのだ。来訪は、そんなやさしさを反故にしなければならなかった。だから、私はどうしようもなく二の次を踏まずにはいられなくなっているのだった。情けないけれど臆病になっていた。とても珍しいことに。

 脳裏には、いくつもの“もしかすると”が浮かんでくる。

“もしかすると”、風邪で苦しんでいるところに私なんぞがやっては、返って迷惑になってしまうかもしれない。“もしかすると”、看病をしてあげたい気持ちばかりが逸って、重荷としか受け止められないかもしれない。“もしかすると”、やることなすこと全部嫌な気分にさせてしまうかもしれない――

 ひとつずつ打ち消してはいくのだけれど、流石にちょっぴり堪える。憂鬱になって、このまま回れ右をして立ち去ってしまいたくなる。

 私は他人との意思疎通が苦手だ。中学高校の時分から嫌というほどに自覚している。今はそれほどでもないけれども、一時期はどうしても思ったことがするりと口をついて出てしまっていたのだ。我慢するとかいろいろと策を講じる合間もないほどに、唇から言葉はあっけらかんと滑り出ていってしまっていた。

 そのせいで、随分と暗い日々を過ごしてきた。人を傷つけ傷つけられて苦しんでいた。過ぎ去ったことだとは言え、できる限り思い出したくない記憶の塊だった。あの頃、側に亮太が現われてくれなかったら、今の私はここにいないような気がする。彼がいてくれたから、何とか乗り越えることができたのだ。感謝は、どれだけしてもしきれないほどに抱いていた。

 私は本当に絶望的なまでに口が悪い。そんな私の口の悪さに対して、亮太はまだ耐性を持っていたけれど、それでも彼が普段からぐっと堪えて我慢していることには気がついていた。

本当に、私の口は、滑りが良すぎる。この世の全てが嫌になるくらいに。

 風邪で弱っている今、亮太はいつもみたいに私の口をいなせないかもしれない。あるいは変に我慢しすぎて、逆に疲れて弱らせてしまうかもしれなかった。

 やっぱり、来なければよかったのかもしれない。唐突に一文が肩に圧し掛かってきた。恐ろしく重たくて、思わず肩を落としそうになる。ドアの前で立ち尽くしたまま私は覆いかぶさってくる後悔を一身に浴び続けていた。

「来なくていい」。亮太はそう言っていたのだ。そのまま従っていた方がよっぽどよかったのかもしれない。亮太のためにも、私のためにも。

 どんどん深みに沈んでいく考えに、図らずも視界が滲み始めてしまった。慌てて私は目尻を拭う。それからきっと唇を結んで、閉じられたままのドアを睨みつけてやった。

 こんな私は、らしくない。連絡を受けた後にどうにも落ち着かなくて、アパートに帰って亮太と話ができた後も何だか歯がゆくて、その後瞬間的にいろいろと考えに考えて、それでもどうしてもここに来たいとアパートを飛び出してきたのは誰だったのかを思い出していた。

 私はこの部屋に入りたかったのだ。そして、今にしてもその想いは変わっていない。私はこの部屋に入って、亮太の顔を見て安心したいのだ。

 そうだった。頭をぶんぶん振って決意を固める。亮太の奴は私が世話をしてあげないと駄目なのだ。たぶん、きっと、おそらく。だって、見舞いに来てくれるような友達がいないから。あるいはみんなに来なくていいよと伝えてしまっているから。後者であるような気がするけれども、だからこそ、私がやってきて面倒を見てあげないと駄目なのだ。じゃないと、いつまで病床に臥したままになってしまう。

 亮太は本当に厄介なやさしさの持ち主だ。彼のやさしさは過ぎるところがあるので、時々切なってしまう。他人を思っているからこそ、助けての一声を上げられない。自ら選んであげないよう我慢する。そんな不器用な奴が亮太なのだった。

 だから、だからだから、私はやってきてやったのだ。やってこなければならなかった。うん。そうだとも。私は間違ってない。あいつのためにスポーツドリンクと、元気が出る食べ物を買ってきてあげたのだ。どうせろくに食事もできていないだろうから、それも併せてこれから私が作ってやるつもりだった。

 そして、どんなに嫌がろうがなんだろうが絶対に食わせてやるのだ。無理やり口を開けてでも食べさせる。そうすればよくなるはずだった。うん。間違いない。料理の腕には相応の自信があった。

 固まっては緩み、また固まっては緩んでいた決心をようやくがちりと形にして、私はチャイムに指を押し当てる。間の抜けた電子音が部屋の奥に鳴り響いた。続く沈黙。訪れる静寂。立ち尽くしたまま、私は少し首を傾げる。部屋の中から物音は聞こえなかった。

 おかしい。亮太は風邪を引いているのだから外出しているはずなどなかった。たぶんだけれど。だから、首を捻りつつも、もう一度チャイムを押す。反応はまたない。もう一回押す。反応なし。もう一回。なし。もう一回。なし。もう一回。なし。もう一回――

 やがてどたどたとけたたましい足音がドアに近づいてきた。

「うっさいなあ! 誰だよ!」

「……私だけれど」

 思いもしなかった怒鳴り声に少なからず驚いたせいで、返事が小さくなってしまった。少し遅れをとったようで悔しい。亮太の癖に。チクショウ。

 悔しさを引き摺った思考はそのまま、見舞いに来たのにどうして怒鳴られなければならないのかということに重点を移していった。寝巻き姿の亮太は、立ち尽くす私の姿を眼にするや見る見るうちに青ざめて、あたふたと慌てた様子で「どうしたの」と幾分か脅えたような声で訊ねてきた。

「どうしたもこうしたも、見舞いに来たんだけど」

「え、でも、そんな悪いよ。来なくてもよかったのに」

「全然悪くないよ。部屋、入るよ」

「ちょちょちょちょっと待ったあ!」

 大声を上げて、亮太は部屋へと入ろうとした私の肩を掴みとめる。逐一私がやりたいと思っていることを阻害してくれる奴だ。流石に少し腹が立ってきた。自ずと出てしまった舌打ちを響かせながら、睨みあげるようにして亮太の顔に目を向ける。

「なに」

「あのさ、ほんと汚いから。片付けてなくて」

「私はまったく気にしない」

「そうかもしれないけどさ、その、僕がするっていうか」

 そんなん知るか!

 私は邪魔する亮太の脇をするりとかいくぐるや、そそくさと部屋の中へと侵入した。

「ああ。ちょっと、ほんと勘弁して」

 背後から情けない声が聞こえてきたけれど、なるほど、一歩踏み入れて立ち尽くしてしまった私は、確かに言うだけのことはあると思った。汚い。本当に汚らしい。そう形容するしかないほどにあらゆるものが混濁した、混沌が共生しているのではないかと怪しんでしまうほどに汚い室内だった。

 私は恐る恐る歩を進める。万年床の枕の近くには鼻紙の山が積み上げられていて、床のあちらこちらに空になったペットボトルが散乱している。ここ数日の衣服は脱ぎ捨てっぱなしで、何日間洗っていないのか、流しには食器が溢れていた。一歩進むごとに、何かしらのモノが足に当たるのがとてつもなく不快だった。

 加えてなんだか変なすえた臭いがするような気がする。まだ足の踏み場が辛うじて残っていることだけは救いとなっていたけれど、もしそれすらも困難な状況だったとしたら……。想像して、私はぞっと背筋に寒気が走ったのを感じてしまった。

「……ねえ亮太。いくらなんでもひどすぎないかな。それになんか臭いんだけど。ちょっとは片付けなさいよ」

 わずかばかりに残っていた理性を握り締めながら振り返ってそう言った私を見つめて、汚部屋の主は嘘っぽい笑顔を浮かべていた。困ったときにいつも浮かべる表情だ。私があまり好きではない表情。理不尽に彼を責めいてしまっているということが、明確な結果として現われているのが腹立たしい。

 早速いろいろ嫌になってしまって、私は亮太から視線を外すしかできなくなった。

「もういいから。あんたは寝てなさい。風邪なんでしょう? 私が片付けるから」

「……いや、でも本当に悪いし」

「いいから!」

 怒鳴って、無理やり亮太を寝かしつけてやった。じゃないといつまで経っても亮太は私に気兼ねをするだろうし、そのたびに私は亮太にひどい口を利いてしまう。早々に顔を出してしまった悪癖を自覚しながら、私は込み上げてきたため息をひっそりと吐き出さないわけにはいかなかった。

 本当に、我ながら呆れるくらいに嫌な奴だと思う。悔しくなるくらい甚だしく。

 そりゃあ私も成長しているから、口の滑りをよくよく把握して、迂闊に言葉が滑り出さないようにちゃんと注意することはできるようになっていた。お陰で、大学生活はそれなりに楽しめていると思う。友達もちゃんといるし、今のところ、取り返しのつかない言葉を滑らせることもない。

 ただ、亮太の前でだとそれが一変してしまうのだ。素の自分に戻ってしまう。あるいはそれ以上にひどい物言いをしてしまう。私の高校時代を知っているせいかもしれないけれど、気楽でいい反面、同時にとても辛いことでもあった。

 亮太にだからこそ、本当ならそんな言葉は使いたくないのに、どうしようもない私の口は思ったこと感じたことを勝手気ままに吐き出してしまうのだった。今だってそうだ。汚いから入らないでと言われていたのに、勝手に部屋に入って汚いと罵って、その理不尽さに困った表情を見ているのが辛くて逆ギレしてしまった。

まったくもって情けない。消え入りたいほどに恥ずかしい。巨大な自己嫌悪がどこからともなく私の影に忍び寄ってきていた。

 亮太と一緒にいることはとても楽しいけれど、いつも自分にイライラしてしまうから辛い。私が嫌いな自分を受け入れてもらえることは、安心できることであると同時に苦しみを伴うものでもあったのだ。まさしく、真綿で絞め殺されている気分に近いのだろうと思う。

 そんな風に考え事をしながら黙々と散らかった部屋を片付けていく途中で、不意に叫び声にも近い声を耳にした。

「ああ、お願いだから、その服の下は見ないでくれ!」

 イライラが募っていると、口の滑りに気を配ることがどんどんおろそかになっていく。何という悪循環なのだろう。ほとほと嫌になる。けれど、それでも私は自らの悪癖を完璧に補うことができないで今日まで至っているので、やっぱりどうしようもないことが生じてきてしまうのだった。

「なによ。私は片付けなきゃなんなんないの。あんたが日ごろから整頓してないのがいけないじゃない」

「いや、確かにそれはあるけれど、その本当にそこだけは許してくださ――」

 無視して服を持ち上げると、積み重ねられたエロ本の束が出てきた。艶かしい女体が表紙を飾っている。瞬間的に私の顔は真っ赤になってしまった。布団から這い出してきていた亮太に振り返る。

「こんのド変態!」

 べつにエロ本を持っているくらいのことなら許せるけれどもね。

 ただ、何も人妻系のエロ本じゃなくてもよかったような気がしたのだった。


 散らかっていたものを片付けただけで、部屋は見違えるほど綺麗に広くなった。清々しい限りである。

 私は亮太から最近食べたものを聞き出し(やはりろくなものは食べていなかった!)、キッチンに立って料理を作っていた。生姜と葱と卵と鶏肉を使ったお粥。簡単なものだけれど、これが一番食べやすいし効くからうってつけだった。ぐつぐつと煮えたぎる土鍋の様子を確認してから刻んだ葱を入れ、溶き卵を回し入れると蓋をして火を止めた。

「さ、お食べ」

「……ありがとう」

 ミトンで持って座卓まで運んでやる。礼を口にした亮太は、上体を起こしてレンゲを手に取った。蓋を開けた土鍋は、もうもうと湯気を焚き上げている。少し熱しすぎたかもしれない。私の心配をよそにひと掬い、レンゲでお粥を持ち上げた亮太は、熱そうに息を吹きかけてから大きな口を開けて頬張った。一連の動作を、私はじっと見つめる。

「…………」

 口を開き、熱を逃がしながら何とか咀嚼し、飲み下してから顔を俯かせて、亮太はぴたりと反応を見せなくなった。

 身体が硬直してしまっている。少しずつ心配になってくる。味には絶対的な自信があったけれど(そもそもお粥なんぞで簡単に失敗するわけにはいかない)、それでも万が一ということがある。その不運な確立に今日この日このときの亮太が当たってしまったという可能性が捨て切れてなかった。

 亮太は依然として下を向いたままだ。

「……どうかした? 大丈夫?」

 堪らず声をかける。と、目尻に涙を浮かべながら微笑んだ亮太がようやく顔を上げてくれた。

「いや、熱くてさ。すっごく美味しかったんだけど、咽喉とか胃とか、いろいろ苦しくて」

 言葉を受けて私は露骨に安堵する。どうやら、万が一にはあたらなかったようだった。再びレンゲを動かし始めた亮太の姿を、ちょっとばかり誇らしい気持ちで見つめる。けれどもどうしてか、次第にむくむくと理不尽な腹立たしさが沸き起こってきてしまった。

「ホントにさ、紛らわしい態度取らないでよね」

 口が三角に尖がり始めていた。よくない兆候だ。思うものの、どんどん言葉は飛び出してしってしまう。

「いつもそうじゃん。亮太は反応が分かりにくいのよ。そのせいでどれだけ私が迷惑に思ってるか分かってる? 今のだって変にいろいろ考えちゃってたんだよ?」

 ああ。本当はこんなことを言いたいわけじゃないのに。滑り出した私の口は留まるところを知らなかった。言葉を続けながら目がどんどん死んでいくのが自分でも分かる。身体中から力が抜けていくようだった。ずっしりと、私がここにいることへの塊根が襲ってくる。影から後悔に絡め取られてもしまっていた。唯一滑らかなのが口だけで、澱んだ視線は徐々に俯き始めていた。

「もうちょっとさ、周りのことを考えてよ。誤解しちゃったら、後々面倒じゃない。本当にさあ、頼むよ。私くらいしかこんなこと言わないんだからさ……」

 無理やりおどけてみた口先も、とうとう沈黙してしまった。私は膝の上で作った握り拳をじっと睨みつける。

 顔を上げるのが怖かった。亮太と目が合ってしまうことが、あの困ったような微笑に見つめられることが、どうしようもなく怖くて何もできなかった。

 ただただ考えていたのは、またやってしまったと後悔ばかりだった。まったく学ぶことをしない私自身への情けない気持ちと、嫌悪感だけだった。

 どうして私はこうなのだろう。とりわけ、亮太と対する度に、いつだって思い知らされてきたはずだったのに。今回もそうなってしまった。どうすることもできないまま、こんな沈黙を生み出すまで止まらなかった。

 最低だ。

 思うと、強く込み上げてくる激情が胸を覆って、私は勢いよく立ち上がってしまっていた。

 亮太の顔は見ないように。亮太にだけは見られないように。涙に滲んだ両目を俯けたまま一言言い放つ。

「もう帰る」

 逃げ出すときの常套句。

 自分でもびっくりするくらいに幼稚な発言だと思った。踵を返して、私は一息に部屋の出口にまで歩いていく。もうこれ以上この部屋にはいられないと思っていた。

「本当にありがとな。助かったよ」

 なのに、背中にそんな声がかけられた。ピタリと私の足が停止する。目の前では沈痛な面持ちで口を閉ざしたドアが立塞がっている。今ならまだ間に合うと、無言のままに伝えてきているようだった。まったく、無機物にまで心配されてしまうなんて、いよいよ私にもやきが回ったのかもしれない。

 ごそごそと背後で布切れの音が聞こえた。心なしか覚束ない足音が近づいてくる。固まったままの私の体内で、心臓だけは大きく脈打っていた。名前も分からない、雑種多々な感情が入り混じったとてつもなく大きな塊が、血流に乗って身体中の細胞に行き渡っているみたいだった。

「美樹」

 かなり近くで名前を呼ばれる。私の肩はビクリと小さく飛び上がる。

 ゆっくりと、背後から腕が伸びてきた。首の周り柔らかな感触が生まれる。耳許に熱っぽい吐息がかかって、ぞくりと背筋に電流が迸る。

「な、なによ急――」

「ごめんな」

 一番聞きたくなかった言葉が鼓膜を貫いて、一瞬のうちに私の体温は下がってしまった。

「なんかよく分からないんだけどさ、その、ごめん。謝る」

 違うよ亮太。あんたが謝ってどうするのよ。ズキズキと痛む胸の鈍痛に喘ぎながら私は思っていた。

 あんたに謝られてしまったら、私はどうすればいいの。悪いのは全部私なのに。こうやって包み込まれてしまったら、居心地がいい分余慶に辛いんだよ。

 抱き締めてくる腕に力がこもったような気がした。感触は蕩けてしまいそうなほど嬉しかったのだけれど、私はそれから逃れるようにして身を捩り、暴れて、突然のことに呆然としたままの亮太に向かって鋭い目を向けた。風邪のせいで輪郭線が少しばかりあやふやになっていた亮太は、加えて滲んだ涙のせいでほとんどぐちゃぐちゃに崩れてしまっていた。

「違うよ」

「ちょっ、美樹どうしたの――」

「亮太は悪くない」

 遮るようにして叫ぶと、とうとう涙腺が決壊してしまった。チクショウ。いろいろと本意じゃないことが重なって、私はもう形振り構っていられなくなっていた。

「悪いのは全部私なんだよぅ」

 止めどない涙を拭いながら、それでも何とかそれだけは伝える。しゃっくりまで始まりだした。どうしよう。本格的に悲しくなってしまっていた。

「いつもいつも私が悪いんだ。私のどうしようもない口が全部台無しにする。亮太は全然悪くないのに。悪態をついて、嫌な思いをさせてしまって。本当はそんなこと言いたくないのに。ずっと笑っていられたら最高なのに。私のせいで、全部駄目になってしまう」

 そうだとも。いつだって諸悪の根源は私以外にいなかったのだ。悪いのは全部私。間違いなかった。

 沈黙の間伝わってきた亮太の気配は、どうすればいいのか分からないまま途方に暮れているようだった。

「……嫌いだ」

 ぽついと、私の口はまた声を漏らす。

「私なんて大嫌いだ。私は私がこの世で一番嫌い。もういやだこんな奴」

 言い切って、それ以降はもう言葉にならなかった。鼻水を垂らしたまま子どもみたいに両手で涙をぬぐって、引き攣りを起こしたかのような呼吸を続ける。泣き声だけが世界を覆っているみたいだった。とんでもない悲しみだ。ひとりぽっちのまま、無限に広がる虚空のような空間に放り出されてしまった気分だった。

 けれども、思えばいつだって私を支えて救ってくれていたのは亮太なのだった。

 不意に頭に大きなぬくもりを感じて私は顔を上げる。滲んだ視界の向こう側で、亮太が笑ってくれているのに気がついた。躊躇うように、それでも放っておけないと決心したかのように。亮太の困ったような微笑はいつだってそんな遠慮がちな、けれども確かなやさしさに溢れていて、頭に乗っかった掌からはその想いが直に伝わってきて、その瞬間に私は今までとは違った意味で涙が止まらなくなってしまった。

「ごめんなさいぃ」

 呻くように口にすると、亮太の掌は髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら左右に動いた。

「ごめんなさいぃ」

 ひーんと、漫画の効果音のような泣き声をあげながら、私はしばらくの間泣き続けていた。そしてその間中、風邪にも関わらず亮太はじっと私の頭を撫で続けてくれていた。

 その掌は温かくて。

 きっとこの魔性の温かさから逃れられないから私は苦しいのだと、理不尽にも思ってしまったのだった。


 その後のことについては、私からはあまり語りたくはないし、誰にも知って欲しくはない。実際亮太の風邪が、咽喉にひどく炎症を引き起こしていただけでそんなに大したことじゃなかったから特別語ることがない、と言うのも理由に挙げられるし、ぐずぐずと泣き喚いた姿を語るに忍びないものがあるもの大きいには大きい。想像以上に結構大きい。

 それに、これ以後のことを語り明かしてしまうのは野暮ってもんだと思うのだ。誰にだって、露見させたくないことのひとつやふたつくらい持っているのだから。

 だから、こうして小春日和の陽射しを浴びながら、一緒に休日の公園にある小さなベンチで一休みしているところで一つの区切りをつけたいと思う。

「美樹さ、さっきから何ニヤニヤしてんの?」

「……うっさいわね。いいでしょ私がどんな顔してようとも。あんたには迷惑かけないんだから」

 反射的に食いかかるように罵ってしまった私を、亮太はやっぱりあの困った笑顔で受け入れてくれる。軽率な行動に、はっと状況を理解すると、いつものように後悔が込み上げてきた。いえんともし難い自己嫌悪を燻らせつつも、少しだけ深呼吸をして私は気持ちを落ち着かせる。

 今回ばかりはこのままうやむやにするのではなく、私から前に進まなければいつまで経っても現状は変わらない。

「……亮太がいてくれるからじゃないの」

 呟きは、とてもじゃないけれど彼の顔を見ながらは言えなかった。だから熱くなった顔を見られないように俯いたまま、ごにょごにょとごねるように声に乗った。

「え? なんか言った? 聞こえなかったんだけど」

「だから、亮太がいてくれるから――」

 言って、恥ずかしいのとか、悔しいのとか、嬉しいのとか、幸せなのとか、ごちゃごちゃに絡み合ったとんでもない感情に心臓を破裂させられそうになりながら、それでも伝えないと駄目だって、何とか顔を上げたのにさ。隣に座る亮太はすごく意地悪な顔をしていやがって。その真意に気がついた私は、口を噤んで並々ならぬ恨みの情を込めて目を三角にしてしまったのだった。

 始まった一方的な喧嘩をたくさんの人に見られてしまったような気がする。けれど、その一日を終えた私は、隣に確かな温もりを感じながらとても満たされた気持ちで眠りにつくことができたのだった。


(おわり)


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