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『渋柿の心得(32)』

同名の自作短編をリライト、細部を大幅に加筆したものです。

『渋柿の心得』


 例えば、昼下がりの喫茶店で女の子と二人きり、向かい合って淹れたてのコーヒーを飲むのって、結構幸せなことだったりするんじゃないかと思う。冬の柔らかな陽光が射し込む窓際のテーブル席で他愛もないおしゃべりに時間を費やしたり、静かに読書を楽しんだり。あるいは二人して課題に追われる羽目になっていたのだとしても、それはそれでいいような気がする。

 同じ時間、同じ空間で、互いの気配を間近に感じ取ることができるのだ。これ以上、どんな幸福を望めばいいというのだろう。少し個人的な意見になるけれど、他にどんな幸福が存在するのか、僕にはまったく見当がつかない。

 きっとそこでは、鳴り響く軽やかなポップスが暖房によって心地よく温められた空気を一層朗らかなものに変えている。あちこちに配置された観葉植物は、滲み出る緑に彩られて活き活きと輝いて見える。芳しいコーヒーの香りに満たされたその空間は、何故だか分からないけれど、とても理想的で感動的な幸せで満たされているような気がする。

「亮太。何ぼおっとしてんの。早く勉強しなさいよ」

 ただ、現実はというとそうそう甘いものではない。

 僕が現実逃避のごとく幻の喫茶店を想像してしまう原因は、案外すぐ側にあるのかもしれなかった。

 例えば今、昼下がりの客もまばらなコーヒーショップで声をかけてきた女の子が美樹ではない他の誰だったとしたら、この何ともいえないやるせなさを感じる必要はなかったように思える。いや間違いなく、絶対にそうだった。もしも、今現在僕と向かい合わせに座っている女の子が、ただ黙々とシャーペンを走らせているだけ美樹じゃなかったのならば、僕は興奮した雄犬のように尾っぽを振りたくって、にこにこ顔で鼻の下を伸ばしていたはずだった。

 目を閉じて額に拳を押し当てると、思わずため息が口から溢れてしまう。

 ――どうして神さまはいつもいつも人間に過酷な試練をお与えになるのだろう。

 神仏に対する信心など皆無に等しいのだけれど、どこかでほくそ笑んでいるのであろう大いなる存在とやらのことが異様なほど腹立たしく思えてきてしまった。だって、目の前にいるのが他の女の子だったのなら、僕はすぐにでも時を止めてくださいませと膝を突いて真剣に祈っていたはずだったのだ。あるいは、代償として失うものを提示しながらへりくだることも厭わなかった。

 ……まあ、出せるものは限られているのだけれど。いらなくなったマフラーとか、買い換えなきゃ行けないブラウン管テレビとか、あまり使っていないバイクとか、その他諸々の、つまりはあまり必要性を感じない品々ならば、いくらでも出せると思う。たぶん。そんな気がします。

 いつの間にか頭皮に美樹の鋭い視線が突き刺さってきていた。そっと目を開けて正面を向くと、眉間にしわを寄せた美樹と目が合ってしまった。反射的に、強張った表情の下から乾いた笑いが込み上げてくる。

 他にどうすることができよう。ヘビに睨まれたカエルが石のように固まってしまうみたいに、美樹に睨まれた僕は冷や汗を掻きながら嘘っぽく笑うことしかできないのだ。近づいてくる何かから逃れるために。もしくは、これ以上彼女を刺激しないために。

 僕と美樹との間に生じている関係性という名のシーソーについて考えてみるとき、いつだって僕は宙高く持ち上げられている。不安に包まれたままどうしようもなく足をぶらつかせる羽目になっているのだ。原因として、そもそもの作用点が美樹のそれと比べて圧倒的に僕に近いことが挙げられるし、彼女がでかでかとアドバンテージと刻まれた分銅を抱えているのも理由にあるのだろうと思う。まったく理不尽だと思う。

 意味もなく笑い続ける僕を心底憎んでいるように睨み付けてから鼻を鳴らして、美樹は続けていた作業へ再び意識を戻していった。週末に提出期限が迫ったマクロ経済学のレポートを仕上げなければならないのだそうだ。前年のカリキュラムで、レポートに既存の論文のトレースが見つかったために、手書きでまとめなくてはならなくなったらしい。最近の生徒は何でもかんでもインターネットとコピペで済ませてしまうという教授の嘆きが、そうであるならせめて論文を熟読するぐらいのことはしてくれと、自らの意見でレポートを製作している生徒にとって見れば甚だ厄介な妥協案に落ち着いてしまった結果だった。視界に入る長い髪を邪魔そうに左手で押さえながら、美樹の大きな瞳は熱心に資料とレポート用紙との間を行き来している。

 様子を眺めながら、こうやって黙っていてくれるのなら僕の気持ちも明るくなるのになあと、もったいなく思った。美樹はファッション誌で読者モデルをやってるから、それ相応に、結構な美人ではあったのだ。手足はすらりとして長いし、十分な背丈もある。引っ込むところは引っ込んでいるし、物足りない気がしないでもないけれど、欲しいところもちゃんと膨らんでいる。外を歩けば男性諸君の目を集めることはしょっちゅうだったのだ。同性からさえも、時折潤んだ眼差しを受けることがあった。美樹と一緒に歩くことができる僕は、確かに、傍から見れば多少なりとも羨ましく映っていることなのだろう。自覚がないわけではなかった。友達からは率直に、いいなあ、と言われたこともいくらかくらいはあったのだ。

 け・れ・ど・も、である。

 けれども美樹は見かけ通りの美人じゃない。と言うか、見かけだけに目を奪われていると痛い目に合う。絶対必ず抗いようもなく。何を隠そう、僕自身それを経験してるのだ。そりゃもう悲しくなるほど毎日のように。

 美樹という人間はとんでもない癖のある灰汁を持っている人物なのだ。もうどうしようもないくらいに口が悪い。超絶的に、悪い。いや、そう表現できるのならまだかわいい方だ。一つのキャラクターとして認知され、受け入れられることもあるだろうよ。

 美樹は違う。そんなんじゃ済まない。たった一言で、相手の心臓をえぐるのだ。深く深く残酷なまでに鋭く。圧倒的な不快感を植えつけて、それを奥へ奥へとねじ込ませていく。彼女と関わった人たちから、一様に猛毒の舌を持つ辛辣女とまことしやかに噂されている、破壊的な口の持ち主であるのだ。一度、歩く対人核弾道などという悪名を耳にしたことがあるけれど、あながち間違いじゃないところが恐ろしいと思う。

 正直僕は、一度その口が開かれようものなら、どんな人でも必ず顔をしかめることになるんじゃないかと、僕は個人的に思っている。話が要領を得なければ、たとえそれが話の途中であっても、話者に向かってきっぱりと(それも見下したように)馬鹿と、くだらないことを喋るなと口にしてしまうし、美樹自身特別関心がないことを滔々と得意気に話しかけて来ようものなら、ド阿呆と心から罵り立ち去ってしまう。あるいは周りのみんなが揃ってお世辞を言っている相手に対して決してその口を開かないし、印象が悪いからと無理に開かせようものならその場を凍りつかせる事態に陥ってしまう。

 何も意図して口を悪くしているのではないのだ。美樹は他の人よりも少しだけ思ったことや感じたことを率直に口に出してしまう傾向があるだけだった。

 そのことは僕もよく理解している。どうしようもないのだと諦め、放っておくのはよくないと思うけれど、まあそういう人もいるだろうし、それ自体は仕方がないことだとは思う。けれど、その思ったこととか感じたことというのが彼女の場合は厄介だったのだ。血が滴るほどに惨たらしい響きが含まれていることが多々あって、そのことこそが他のどんなことよりも大きな、そして深刻な問題だった。

 よくよく綺麗なバラには棘があるなんて言うけれど、多分美樹の場合、ついているのは棘なんてものじゃ済まない。反しの付いた細く鋭い針を、全体的に棘を散らした丸サボテンみたいにびっしりと準備しているのだ。他者を寄せ付けないように。何よりも自衛をするために。その切っ先はいつ如何なる時も隠されることなく、絶えず鋭く光を反射している。

「なに。気持ち悪いんだけど。じろじろ見ないで」

 ……例えばこんな風に。

 僕の視線に気がついて、不思議に思うのは分かる。確かに少々ぼうっとしていたから気になることはあっただろうよ。問題はそこからの展開についてだ。

 例えば、「どうしたの」って話しかけられて、「ああ、ごめん。ちょっと考え事しててさ」って恥ずかしそうに苦笑して、それからこそばゆい会話を交わして穏やかにことが進んでいくことは、それなりに広く世間一般で繰り返されていることだと思う。というか、そう流れを経験してみたい。本当に。切に願う。

 しかしそれも、美樹と一緒にいる限りは叶わないのだ。絶対に。絶望的に。現に今だってそうだった。僕を睨んで、顔を顰めて、心から嫌悪して言い放ったのだ。「気持ち悪い」って。かなりひどい一言だと思う。傷つくわぁ。

 確かに美樹のことを見ていたのは認める。ええ、眺めていましたとも。いろんなことを考えていたからね。そのことについて、僕には弁明の余地はまったくない。紛れもない事実だった。

 けれど、実際そうだったのだけれど、ちょっとばかしカチンとくる。一言、というよりも、いろいろと多いのだ。「気持ち悪い」だなんて言わなくてもよかったはずだし、あからさまな態度にも傷ついた。そもそも、無性に納得がいかない。どうして今日ここに呼び出されたはずの僕が、ここまで露骨な反応を受けなければならないのだろう。

「……ごめん」

 なのに、そんな釈然としない思いを抱えながらも、僕は結局謝ってしまう。それほど悪いことをしていたわけじゃないのに、むしろまったくしていない上に逆にされたような気がするのだけれど、美樹の気分を害したことについて謝って、そのまま黙ってしまう。

 全くもって不甲斐ない。これまで幾度となく繰り返した行為はいつの間にか記憶に襞に刻まれていて、刷り込みのようにどうしようもなく身体の奥底にまで染み込んでいる。内側から僕の人格を蝕んでいるかのようだ。美樹の前だと、僕はいつだってへなちょこになってしまったような気分にさせられる。

 多分僕は、美樹のことがかなり苦手なのだろう。

 そんな諦めにも似た諦観が胸の奥でぐるりと渦を巻いた。勢いよく成長していく渦は、漂っていたたくさんの感情を容赦なく呑み込んでいく。対照的に浮かび上がってきた気泡が嘆息となって口から出そうになった。

 瞬間、美樹の眼光が鋭さを増す。お陰で僕はよそよそしく左右に目を配ることしかできなくなってしまう。

 ――なんだかなあ。

 突き刺さってくる眼差しから逃げながら情けなくそう思った。

 恐る恐る視線を戻すと、美樹はレポートの作業を再開させていた。軽快な音を立てて、シャーペンが紙面を滑っている。

 まだずっと続くのであろう作業を呆然と見守っていてもつまらないし、そんなことをしていようものならばまた何か言われてしまうのが目に見えていたので、とにかく僕も何かをしようと数学の問題集を開いた。まだ先とはいえ、もうそろそろ今期末のテストが近づいている。授業にうまくついていけていない僕にとっては、まさしく恐怖のイベントだ。このままだとまず間違いなく、確実に単位を落とす。必修科目だから尚更やばい。

 小さく深呼吸をしてから問題集に目を移す。シャーペンを片手に、頑張りますかと、気合を入れた。

 そんな折にふと視界に入った二人分のエスプレッソコーヒーは、机の端でいやに肩身が狭そうで、微かな湯気をひっそりと立ち昇らせ続けていた。


 生まれ始めた沈黙の時間。二人で一緒のテーブルを囲みながら黙々と作業を続ける最中、店内の音楽はジャズっぽくなり、クラッシックっぽくなった。ラウンジミュージックが流れ、ハウスミュージックの印象的なバスドラムが僕の集中力を飛躍的に高めてくれたような気がする。

 そしてそれはおそらく美樹にしても同じことであって、だからこそ僕はその一声をかけるときに、自分でも思いもみなかったほどに大きな勇気を振り絞らなくてはならなくなっていた。

「……ね、ねえ、美樹。ちょ、ちょっといいかな」

 そうおずおずと尋ねた僕に、順調に進んでいた作業を中断させられた美樹は露骨に不快感を表しながら顔を上げた。微かに何か特徴的な物音が聞こえたような気がする。短く弾ける小さな苛立ち。おそらく舌打ちをされたんじゃないだろうかと考えた。眉間に寄ったしわは一段と深くなっている。僕の中で降り積もる恐怖は次第に厚みを増していく。

「あ、あのさ。ここの問題なんだけどね、さっぱり解き方が分からなくて」

 生唾を呑んでから微妙に震える声でそう言って、僕は数学の問題集の左上に書かれた問題を指差した。美樹は僕の手からひったくるようにして問題集を奪うと、しばらくの間その問題をじっくりと見て、それから僕の方に視線を戻した。呆れ返った瞳が僕をひやりとさせる。

「亮太、こんなのも分かんないの? 基本中の基本でしょうが。数学の基礎でしょこれ。高校レベルの問題じゃない。……ねえ、馬鹿なの? それともなに、ただ私に話しかけたかっただけなの? 随分と面倒なやり方をするもんだね」

「いや、本気で分からないんだけど……」

 言うや美樹が宙を仰いだ。なんてこったい。そう脱力しきった彼女の身体が物語っている。言葉になんかしなくてもひしひしと伝わってきていた。同時に、ずっと懸念していた嫌な予感がはっきりとした輪郭線を捉え始める。

 美樹はひとつ大きなため息をついてから、再び僕に視線を戻した。浮かんでいた予想通りの表情を見て、僕は一瞬で気分が滅入ってしまった。

「亮太ってさ、一応大学生だよね。それも私とおんなじ大学の。ねえ、そうだよね。私、間違ってないよね。ね。じゃあさ、やったでしょこれと似た問題。やったよねえ。同じ高校だったんだしさ。できないと、ここにいられるわけがないものね。……あんたさ、どれだけ忘れるの早いのよ。大丈夫? 心配になってきたわよ。もしかすると、脳細胞がほとんど死んでんじゃないの? それともニューロンの絶対数が足りないのかしら。もしかしたら亮太の神経だけ伝達速度が遅いのかもしれないね。いやー、凄いね。珍しいよ。新人類なんじゃないの?」

 言われたい放題だった。随分と僕という存在が小さくなったような気がした。

 美樹はそこまで一気にまくし立てると、最後に小さく「考えられない」とぼやいた。そしてまたひとつ大きなため息を吐くと、さも面倒くさそうに僕に解法を教え始めてくれた。段々と店内の照明が赤暗くなり始めたような気がする。正直なところ僕も考えられなかった。

 数学の問題がひとつ分からなかっただけなのに、どうしてここまで言われなきゃならないのだろう。確かに簡単な問題だったのかもしれない。高校の時に似たような問題を解いたかもしれない。けれど、だからと言って新人類などと馬鹿にするのは酷過ぎないだろうか。本質的に愚弄している。そりゃ僕は美樹に比べたら恐ろしく頭が悪いかもしれないけれど(確かにどうして同じ大学に入れたのか今でも不思議でならない)、こんなにぼろくそに言われる筋合いはないと思う。

 腹の底に暴れる蟲を一匹仕舞い込みながら、それでも僕は低頭身を乗り出して解法を教えてくれる美樹の声をしっかりと聞いていた。美樹はこういう奴なんだから。我慢しなくちゃならない。仕方がないんだ。そう思っていた。思うように言い聞かせていた。

 ずんずんと進んでいく説明を聞きながら、僕は公式をひとつ忘れてしまっていたことに気が付いた。なるほど、そのせいで出来なかったのかと、気が付いてなんだか清々しい気分になった。

 一方で、そんな僕の発見など気にも留めない美樹の説明は続いていく。それも、かなり早かった。端的に説明しながら、僕が理解出来ているかどうかにも関係なく進んでいく。お陰でいつの間にか進んでいた計算の過程がよく分からなくなってしまった。

「ちょ、ちょっと待って。ここはどうやってこうなるんだ?」

 慌てて尋ねた僕を見上げた美樹の瞳に、苛立ちが燃え上がっていた。やばい。僕は更なる罵詈雑言が放たれることを覚悟する。機関銃やガトリング砲がガラガラと音を立てて照準を合わせ始めている。

 美樹の唇がわなないた。

 が、直後に球に美樹の瞳から激情が消え失せる。何事かと思った僕は、哀れむかのように眉を下げた彼女にじっと見つめられていることを理解した。

「ねえ亮太くん、もしかして私は分数の足し算引き算から教えないといけないのかな?」

 その瞬間、僕の中で何かが切れた。同時に、一瞬目の前が真っ赤に染まった。気が付けば僕は勢いよく椅子から立ち上がっていて口が勝手に動き出していた。

「美樹さ、ちょっと酷過ぎるよ。そりゃ僕は美樹みたいに頭良くないけどさ、さすがに頭にくるよ」

 続いて美樹が思いっきり机を叩く。噛み付くかのようにして立ち上がってきた。

「なに逆ギレしてんのよ。本当のことじゃない。こんな問題誰でも解けるわよ。分かんない亮太を馬鹿って言って何が悪いのよ」

「そんなこと言ったってしょうがないだろ。ちょっと公式を忘れちゃってたんだから」

「忘れてた? 馬鹿じゃないの。あんな公式一回覚えたら忘れるほうがおかしいわよ」

「誰にだって忘れることはあるだろ。第一、美樹は説明が早すぎるんだ。そのせいで僕は計算の仕方を聞かなくちゃならなくなったのに。何さ。足し算引き算から教えようかって」

「付いて来られないほうが悪いんじゃない。自業自得よ。ほんと考えられないんだけど。どうしてあんな簡単な説明を聞き逃すことが出来るのよ」

「説明だって? あれのどこが説明なんだよ。理解させようって気もなかったくせに。というかね、美樹はいつも一言多いんだよ。今だってそうさ。もっと違う言い方があっただろ」

「私にはね、しなきゃならないことがあるの。別のことに時間かけてらんないの。大体亮太だって――」

「お客様」

「なに!」

 突然横から割り込んできた声に、僕と美樹の声は見事に重なった。

「他のお客様の迷惑になるので静かにお願いしたいのですが」

 見れば店長らしきおじさんが、笑顔で僕たちのテーブルの側に立っていた。こめかみの辺りに青筋が立っている。口角がひくひくと痙攣していた。その表情に、昂ぶっていた僕の怒りはすぐさま現状を理解して冷めていった。注がれる他の客たちの視線が痛い。とても痛い。涙が出てきそうだった。

「す、すみません……」

 そう謝って、僕は静かに腰を下ろした。人前で喧嘩だなんて、物凄く稚拙なことをしてしまった。自分を見失ってしまっていてことも恥ずかしくもなってきた。椅子に座った僕には、ただ縮こまるしかなかった。小さく小さく息を潜めるようにして縮こまって、そのまま消えてしまえばいいと思った。

 そんな僕を見てひとまず気が済んだのか、おじさんはくるりと踵を返すと、大きな歩調でテーブルから立ち去っていった。他の客の視線はまだまだ突き刺さってくる。僕は彼らに向かって心の中で謝った。騒がしくしてごめんなさい。恥ずかしいものを見せてごめんなさい。いや、本当にもう、何と言うかごめんなさい。そしてから――忘れてはならない――ゆっくりと目の前の人物に目を向けた。真っ赤な顔で直立していた美樹は、まっすぐに僕を睨んでいた。

「帰る」

 そう言って美樹は、持ってきた資料やレポートを残したまま店から出て行ってしまった。取り残された僕は、激しい後悔に襲われながらも空になった席を見つめることしかできなかった。

 ――やってしまった……

 思いと共に、さあっと肩から背筋にかけての部分が冷たくなっていく。やってしまった。どうしようもないほどにこじらせてしまった。

「どうしよう……」

 呟きは落ち着く場所を見つけられないまま宙に溶けていく。

 後に戻れないことは明白だった。美樹は真剣に怒ってしまったし、それを引き起こしたのは他ならぬ僕自身だった。

 どうしよう。そのたった五文字が重なり合い、大きくなったり小さくなったり、フォントを変えて斜体になったり、中抜きや色を変化させながら頭の中を埋め尽くしていった。

 ――どうしよう……

 見れば、カップに少しだけ残っていたエスプレッソコーヒーがすっかり冷え切ってしまっていた。二つ分のコーヒーカップ。さっきまで目の前には美樹がいて、一緒に向かい合っていたのに――

 堪らなくなって、僕は勢いよく席を立つ。好奇に満ちた視線になど、構ってはいられなかった。美樹が残していった持ち物をまとめて会計を済まし、慌てて外に出た。

 途端に肌に触れた外気の暖かさにちょっぴり驚いた。店内から見た時は枯れ木が立ち並ぶ路地に北風が舞っているのかと思っていたのだけれど、どうやらそうじゃなかったらしい。頬を撫でる風はどこか温かく、射し込む日の光は思った以上に暖かかった。

 僕はいなくなった美樹を探すことにした。

 長い付き合いだ、性格はよく分かっていたつもりだった。扱い方も、悪い口のいなし方も熟知していたつもりだった。

 それゆえの慢心か、それとも現実逃避を含めたちょっとした気の緩みが油断につながったのか。もしかしたら休日の朝っぱらから、美樹の電話に叩き起こされたのが種火となって、ずっと燻っていたのかもしれない。事の根に潜んでいる根源的な原因は、小さなものがそれぞれ絡み合って原型を留めていないほどに複雑な造形を結んでいた。

 それでも結果論として、理由が何であれ僕はあんな風に美樹攻めてはいけなかった。少し頭に血が上ってしまったせいで、我を失ってしまっていた。あの時、瞬間的に僕の中で燃え上がった真紅の灯火は、しかしながら今はもうその輝きを失い、責めあがってくるような群青の水面に変化している。

 美樹のことが心配だった。あれで彼女は結構傷つきやすい。ガラス細工のような性格をしているのだ。光を透し澄んだ輝きを放つ一方で、一度砕けてしまえば硬く鋭い切っ先をあらわにする。どんな状態であろうとも、他の干渉を拒絶しているようなところがあったのだ。そして僕は、その実彼女が大きな淋しさを抱えていることを知っていた。

 一度口を開けば毒を吐きまくるために、美樹は今までにいろいろと嫌な思いを経験してきた。自業自得だと言えなくはないにしても、積み重なった日々は紛れもなく大きな傷跡となって記憶の奥底に刻み込まれてしまっていた。

 美樹は、自らの悪癖に辟易しているところがあった。みんなと同じように会話することができない。したとしても、すぐに嫌な空気を作り出してしまう。誰かを傷つけてしまう。そのことに対して、美樹は激しく己を恥じていたし、憤っていた。どうしてこんなに嫌な奴なんだろうと自己嫌悪に苛まれたことも一度や二度ではなかった。

 だから口を噤むようにしたのだ。誰とも話さないようにすることで、他人を傷つけることからも自分を嫌いになることからも逃げていた。そうすることが、美樹が思いついた唯一の解決策だった。そもそもが、意識して簡単に直せるようなものではなかったのだ。できたらとっくにやっているし、何度も試みたのだと彼女は言った。

「でも駄目だったの」

 彼女は悲しそうな目をしてそう言っていた。どうしようもなかったのだと。以来、美樹は生来の口の悪さを内に秘めながら、ずっと付き合っていくしかないのだと諦めるようになっていた。話さなければいいのだ。口を開かなければ問題は起きないのだから。そう自らに言い聞かせながら。

 けれども、周りはそんな美樹を認めてはくれなかった。持ち前の美貌も相まって、なにをしていようとも美樹は際立って目立ってしまっていたのだった。

 彼女が望もうが望まざるが、周囲の人たちは美樹に話しかけてきた。一人を好んでいた美樹に対して、女子生徒は持ち前のお節介やどろどろとした縄張り意識から、男子生徒は猛烈に尻尾を振りたくりながら、関わりたくないのに自ら近づいてきた。話しかけて、口を開かせて、真正面から針に手を突き出していった。

 次第に美樹は影で悪口を囁かれるようになる。そうならないようにしたつもりだったのに、誰かを傷つけて恨まれてしまっていた。言われもない噂をいくつも立てられ、見ず知らずの人たちからも嫌われるようになった。距離を置かれ、興味本位や嫌悪感から不躾な視線を向けられるようになった。その結果、美樹はどんどん口数の少ない女の子になっていく。

「あの頃、亮太が側に現われてくれなかったら私は潰れてしまっていたと思う」

 そう真剣な目の色で過去を告白されたのは、つい先日のことだったのに。

 高校時代、とりわけ僕と知り合ってからの一年半、美樹は僕の前でだけああやって気兼ねなく話すことができたのだ。ありのままの自分でいられた。考えてみれば、他の人よりも僕に対する口の悪さは際立っていたような気がする。彼女にとって僕は、追い詰められながらも掴むことができた最後の救いに違いなかった。

 美樹はまだ周りの人に対する怯えを拭いきれていないのだろう。おそらくは他人との距離感も的確に掴めないでいる。他人と普通にコミュニケーションが交わせない孤独感、心細さを、そしてどうしたって傷つけてしまうことへの罪の意識を、はち切れんばかりに膨れ上がった自己嫌悪を、今日に至るまでずっと抱き続けてきているのだった。

 だからこそ、僕は美樹を攻めるべきではなかった。僕が攻めてはならなかったのだ。確かに腹の立つことが多いけれど、それでも僕は受け止めるべきだったのだし、受け止めてあげられたはずだったのだから。

 しばらく町中を走り回って息が上がってきた頃に、僕はようやくとある公園のベンチに座る美樹の姿を見つけた。手にはハンカチを握り締め、ぼんやりとうな垂れている。様子から泣いていたのかもしれないと思った。僕の中の後悔が罪悪感へとその姿を変え始める。そして同時に、しみじみとした暖かな愛おしさが沸き起こってくるのも感じていた。その温もりは急速に僕の中を駆け巡ると、圧倒的な奔流となって僕の気持ちを覆い尽くしてしまった。

 彼女は腹立たしくも可愛らしい、そして何があっても僕には憎みきれない奴なんだと、ついつい頬が緩んでしまう。

 まるで長く我慢して、ようやくおいしく食べられるようになる渋柿みたいに、美樹と付き合っていくことには辛抱が必要なのだ。

「やっ」

 俯く美樹に近づいて、できるだけ明るく声をかける。びくりと肩が飛び上がった。声だけで、彼女は僕の存在に気がついてくれる。まあそれでも顔は上げてくれないのだけれどもさ。

 しばらく前に立って待ってはみたけれど、美樹は頑なに僕の顔を見るつもりはないようだった。ため息が出そうになる。でも、何とか堪えた。

 そっと隣に腰掛ける。広がる公園を眺めることにした。枯れ草のような芝生の先に桜の木々が立ち並んでいて、その上に青く淡い空が広がっている。白いのんびりとした雲がゆっくりと浮かんでいた。これからどこへ行くのかぼんやりと想像してみたけれど、どれだけ考えてもどこへも飛んで行きそうにはなかった。

「さっきはごめん。ちょっと熱くなっちゃったんだ。ほんと、ごめん」

 そう、雲を見ていたら自然と言葉がこぼれ出た。どこからか小鳥の伸びやかの声が聴こえてくる。軽やかに透き通ったその音色は、風に乗ってどこまでも響いていくような気がした。どこまでもどこまでも。今日という一日を祝福するかのようだと感じた。心地よい賛歌は、遠く恋人に語りかけるかのように青空を駆けていく。

 ふと、柔らかな温もりを左に感じた。見れば美樹の頭が僕の肩に寄りかかっていた。顔は未だに下を向いたままだ。でも微かにのぞくことのできた唇は、小さく言葉を紡いで動いていた。

 ごめんね。多分美樹はそう言ったのだろうと思う。

 ――素直じゃないんだから。

 多分僕は美樹のことがかなり苦手なんだと思う。でも、だからと言って美樹のことが嫌いだったりするわけじゃない。美樹にとって僕が思う存分話すことができる相手であるように、僕にとっても美樹は大切な人なのだから。

 だから、寄りかかる美樹の肩にそっと腕を回してみたんだ。

 吹いた風は、もうすぐ暖かな春を連れて来てくれるのだろう。

 そうしてまた一年。

 僕たちはこうして一緒にすごしていくのだと思った。


(おわり)


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