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『聖夜の影(13)』『ハッピータンバリン(10)』

『聖夜の影・リライト』


 ビルに挟まれた狭くて薄暗く汚い通路から、僕は通りを行き交う人々を眺めていた。彼らの足音は何重にも重なって響いてきている。その奥で、白い排気をもうもうと立ち昇らせて、何台も車が風を切っていた。エンジンと走行するタイヤの音とが何度も何度も近づいては離れていく。通りに響くいくつもの音はいつもよりちょっとだけ浮き足立っているかのようだ。

 そんな夜の空気には、小さく街中に溢れているのであろうクリスマスソングが溶け込んでいた。聖夜の賛歌。恋人たちのラブソング。人々の記念日に華やかな音を添えている。空から鈴の音が舞い降りてくるかのようだ。僕は狭い夜空を見上げる。お腹が小さく悲鳴を上げた。

 俯いて空っぽになっているのであろうお腹を見る。萎みきっていた。丸三日間何も食べていない僕のお腹はあばら骨が浮き出し始めてしまっている。水も満足に飲めなかったから、口の中はねばねばし出していた。ため息をつくことも忘れて、僕は小さく丸まった。とても疲れていた。

 僕の冒険が始まってどれくらいの月日がたつのだろう。ぴんと張っていたはずの自慢の髭は力なく萎れていしまったし、艶があって流れるように揃っていた毛並みは、薄汚れて固まってしまっていた。いつの間にか僕は野良猫のようになってしまっていた。首輪だけが僕を僕として認めていてくれていた。

 あの日、よく晴れた青空がたくさんの青をその中に内在させながら空一面を覆っていたあの日、目の前に現れた小さな光を追って始まった冒険は、いよいよ佳境を迎えようとしているみたいだった。

 僕はできるだけ体力を使わないように、じっと丸まっている。出来るなら高い場所にいたいのだけれど、生憎ここにはゴミバケツも何もない。だから仕方なく、僕は冷たいコンクリートの上で丸まっている。この夜を耐えている。けれども、身体が求める食欲が精神を、凍えてしまうような冬の寒さが肉体を、徐々にそして確実に蝕んでいた。

 動かなければ寒さにやられてしまう。動いてしまえば少ない体力を消耗してしまう。そんな板ばさみに状態にあった僕は、最終的に小さく丸まりできるだけ体温を逃さないようにじっとすることにしていた。ゆっくりと破滅に向かうことを選んだのだ。

 風が吹き荒ぶ。この狭い通路を吹き抜ける風は、狭いが故にその密度を、勢いを増して吹き抜けていく。僕の命を削っていく。僕に出来ることはただ目を閉じて風が止むのを待つことだけだ。暗い、夜よりも暗い闇の中でじっと耐え忍ぶことしか出来ない。僕はとっても小さくて弱かったんだ。

 思い目を閉じた暗闇の中に、唐突に懐かしい人々の笑顔が浮かんできた。ぶっきらぼうでいつも怒ったような表情をしていたお父さん。そんなお父さんの表情に隠された優しさに恋をした、明るくて笑顔を絶やさなかったお母さん。そして、一番僕のことを可愛がってくれた茉莉ちゃん。家に帰ってくるなり僕のことを大声で呼んで、丸まっていた僕を無理やり持ち上げることは嫌だったけれど、誰よりも一番僕のことを愛してくれた。みんな僕の大切な家族だった。きっともう会うことのない大切な家族。

 浮かんできたのは記憶の笑顔だったのに、だんだん涙で滲んできてしまった。会いたいなあ。会いたいよ。僕は、僕の家族が待っているあの家に帰りたくてたまらなかった。でも、僕は家に帰る事が出来ない。寒さに震えて、空腹に襲われながらここで死んでしまうのだ。

 聖夜の夜。人々が一夜を祝い、共にいられることを、今年もこの日を迎えられたことを喜び称える日。そんな夜に、暗い通路、小さな命が消えようとしている。僕だけじゃない。いろんなところで、いろんな場所で、今日という日も変らず誰かが産まれて死んでいる。あるいは、ある人は誰かを憎み、殺したいと思っているのかもしれない。ある人は大切な誰かを失って、失意のどん底に叩きつけられているかもしれない。どこかでは、鳴り止まない銃声が響き渡っているのかもしれない。

 みんながみんな変らず平等で、今日という日も、こんな夜も、いつもと変わらず世界は廻っているのだ。だから今夜、ここで小さな死があったってなんら不思議じゃないのかもしれない。僕の世界が終わるだけで、どこかでは違う世界が産声を上げるのだし、廻る世界は変わらずそこに在るのだから。僕の頭は何だか妙に澄み渡っていた。妙に冷え切っていたんだ。

 そのうち、滲んでいた家族の顔は淡い光に包まれて遠くに遠くに離れていってしまった。寂しいけれど、悲しいけれど、不思議と心は凪いでいた。仕方ないことが世の中にはたくさんあって、それはごく自然の当然のことなのだから。もう風は止んでいる。僕は目を開ける。

 目の前に僕を冒険へと導いたあの光が浮いていた。

 少し驚いた。身体が一瞬強張った。対して、光はそこにいることが当然だといわんばかりに目の前に存在している。

 僕はしばらくその光を見つめていた。そして小さく語りかけた。やあ。君のせいで僕は死んでしまいそうだよ。全く、どうしてくれるんだい。不思議と恨みとか後悔とか、そんな感情はこもってなかった。

 すると、光はまるで返事をするかのように何度か点滅した。“イエス”なのか“ノー”なのか、はたまた、“ごめん”なのか“ざまあみろ”なのか、僕には理解できなかった。そうして僕らの会話は途絶えた。僕は光を見つめるだけで、光は何度か点滅を繰り返したけれど、僕には一つも理解できなかった。

 やがて光は肩を落とすかのように少しだけ高度を落とした。気を落としたのは何となく分かった。でも、そこからの光の動きは、全く予想にもしてないものだった。

 落ち込んでいた光は、急に僕めがけて突進してきた。冷たくなっていた鼻にぶつかったもんだから、とっても痛かった。思わず声を上げて飛び上がってしまったほどだ。光は僕の目の前を右へ左へ、ちょこまかと飛び回り始める。まるで僕を馬鹿にしているかのようだ。ちょっと腹が立った。

 こいつっ!

 爪をあらわに飛びかかる。しかし軽くかわされてしまう。光は笑っているかのように小刻みに上下に動いた。かなり腹が立った。睨みつける僕。光は通路の奥へ、ふわふわと飛んでいった。時折止まって、上下に動く。僕のことを馬鹿にしている。あいつのせいで僕はこんな目に会っているのに……。さっきまではなかった怒りが、溶け始めた氷みたいにじわじわ込み上がってきた。どこにそんな力が残っていたのだろう。僕は猛然と光を追って暗闇の奥へと駆け出し始めた。一発ぶん殴ってやる。動機はただそれだけだった。

 しかしながら、結局のところ、僕の怒りはそのはけ口を見つけることなく、僕の中でくすぶってやがて消えてしまうことになる。光はちょこまかとすばしっこく、僕の攻撃を見事にかわし続けたのだ。

 どうしてこんなことをしているのだろう。途中でそんなことも思った。奥へ奥へ、どんどん進む光は僕をへとへとに疲れさせてしまった。そしてついに最後の数歩を歩いて、僕は地面に倒れこんでしまった。ああ、もう限界だ。これ以上はもう無理だ。精根尽き果てた肉体は、寒さすら感じることがなくなっていた。

 息がおかしかった。ヒューヒュー鳴っている。まるで笛みたいだ。僕は他人事のように思う。あいつ、あの光のせいで僕は……。僕は最後の最後の力を振りしぼって、憎らしいあの光を視界に捉えようと思った。その時、僕の耳が冬の寒さに溶け込んだ、歌の存在に気が付いた。目に前に、柔らかなイルミネーションの光に包まれた教会が建っていた。僕はいつの間にか見知らぬ教会にまで辿り着いていたみたいだ。

 そんな教会の扉の前に浮かんでいた光は、やがて空高く昇っていってしまった。屋根の天辺に取り付けられた十字架の向こうに輝く満月を目指すかのように。昇っていった光の代わりなのか、空から、白い雪が舞い降り始めた。

 幻想的な風景だった。聖夜という夜に、一番適切な空間にいるような気がした。そこで、僕の命は尽きる。何て運命的で、劇的で、普遍的なことなんだろう。僕の視界は次第に霞んでいく。でもまあいいか。仕方ないよね。しょうがないよ。炎はいつしか小さく萎んで消えてしまうものなのだから。出来れば、最後にお腹一杯のミルクを飲みたかったけれど。

 世界は真っ暗になった。

「まだ、終わりじゃないさ」

 そんな声が聞こえた気がした。


 暖かい。空気が暖かい。とても心地がいい。何かが僕を包んでいる。なにが起こったんだろう。僕はゆっくり目を開ける。近くで暖炉の火がぱちぱちと薪を燃やしていた。僕は毛布に包まれていた。

 ここはどこだろう。立ち上がり、辺りを見渡す。オレンジ色の柔らかな光が部屋の中を照らしている。柔らかな絨毯。どこかの建物の中みたいだ。僕はバスケットの中にいる。そこから数歩、歩く。よろけてしまう。近くに器に入ったミルクがあった。

「クロが起きた!」

 近くから懐かしい声が聞こえた。目を向けると、茉莉ちゃんが立っていた。

 あれ、どうして茉莉ちゃんがここにいるの?

 謎が一杯の僕に茉莉ちゃんは駆け足で近づいてくる。分からないことだらけだけど、僕も出来るだけ茉莉ちゃんに近づきたいと前へ進む。だってすごく嬉しいんだもの。会えないと思っていたのに、目の前に茉莉ちゃんがいる。大好きな茉莉ちゃんがいる。

 縮まる僕と茉莉ちゃんの距離。よろけてしまうこの足が憎らしい。きっと数秒、でも僕にとっては一時間にも思える時間を経て、僕は茉莉ちゃんの腕の中に抱え込まれたんだ。

「クロ。よかったクロ。心配したんだからね」

 茉莉ちゃんはそう言って、僕をぎゅっと抱きしめてくれた。嫌なことだったのに、何だかとても気持ちよかった。茉莉ちゃんの匂いがする。このままずっと茉莉ちゃんの腕の中にいたいと思った。

「わざわざ保護していただき、本当にありがとうございました」

 声がした。お父さんの声だ。茉莉ちゃんが振り向く。お父さんが知らないおじさんに頭を下げていた。お母さんも一緒に下げていた。そのおじさんは天辺が寂しい頭を撫でながら、とんでもございませんと言葉を返していた。

「クリスマスイブなのに、寒い外で一匹倒れているのは可哀想でね。それも、教会の目と鼻の先に倒れてましたから。なあに、当然のことをしたまでです。よかったですよ、猫ちゃんの目が覚めて」

 そう言って、おじさんは照れ隠しなのか、大きな声で笑った。その笑い声は本当に大きくて、よく見たらおじさんも結構大きな身体をしていて、少し怖かったけれど、でも、その笑顔はとっても素敵で優しさに満ち溢れたのもだった。

 おじさん、ありがとう。

 僕は茉莉ちゃんの腕の中でおじさんにお礼を言った。すると、僕の声に反応して、お父さんもお母さんも、おじさんも僕の方を振り返った。

「また家族に会えてよかったね、クロ」

 おじさんはそう微笑みを僕にくれた。お父さんもお母さんも安心しきった表情で僕を眺めていた。本当によかった。僕は心からそう思った。

 不意に切ない音が、僕のお腹から響いた。みんなには聞こえてないみたいだ。僕は抱きしめてくれる茉莉ちゃんにお願いする。抱きしめてくれるのは嬉しいんだけど、僕お腹が空いてるんだ。ちょっと、放してくれないかな。

 まあでもあと少しだけ。こうやって抱きしめられているのもいいのかもしれないと思う。ミルクはもう少しの辛抱だ。


(おわり)『ハッピータンバリン・リライト』


 もう一度この目でしっかり見ておこう。そう決心したのは昨日の晩のことだった。

 私は今古い木造の校舎の前にいる。こげ茶色を通り越して黒一色になってしまったかのように見える木材で建てられた校舎だ。私の小学校六年間の思い出が詰まった母校でもある。

 もう三十年以上も前になる。私はこの校舎に通っていた。友達と笑い合い、喧嘩して、日々を過ごしていた。今ではもう断片的にしか思い出すことは出来ないが、そのどれもがセピア色に染まって今の私を支えてくれている。ここで過ごした日々は、私にって大切な宝物のひとつなのだ。

 そんな思い出の場所を、私は壊さなければならない。

 五年前、この校舎の老朽化を受けて新しく校舎が出来上がった。白を基調とした、コンクリートの校舎だ。子供たちは皆その校舎へ通うようになった。古い木造の校舎があまり好きではなかった子供たちには、かなり評判がいいらしい。二年生の息子が新築の校舎を私に自慢してくれたことをまだ覚えている。なんとも複雑な気分だった。

 木造の旧校舎は廃校となった。何とかして使用しようと、いくつか用途の候補があがったが、どれもまとまらなかった。最大の問題は維持費。この先維持するには修復が不可欠だったのだ。いつの間にか旧校舎の用途は話し合われなくなれてしまった。

 そんな所へ、とある企業がマンションを建てる計画を打ち出した。その土地一帯に公園なども含めた集合住宅を建てるという、かなり大掛かりなものだった。市から土地を購入した企業は、周辺住民との交渉も上手く行ったため、手始めにこの校舎を壊すのだという。数年後には、新しい小学校に通う小学生を持つ家族がたくさん住むようになるのだそうだ。

 私は出来ることならこの校舎を壊したくはない。用途がなくなった校舎を利用しようという計画が持ち上がった度に、賛成してきたのだ。しかし、会社がこの校舎の取り壊しの仕事を受けた。私はその責任者となってしまった。嫌な仕事だ。辛い仕事だった。だが、与えられた仕事はこなさなければならない。私はこの校舎を壊さなければならない。

 だからその前に一度、思い出の場所を見ておきたかった。これから破壊する場所を、仕事の責任者としてではなく、この場所を卒業したひとりの生徒として見ておきたかったのだ。

 空は高く青く、冬だというのに風もなく、春のように暖かい。私は一歩、校舎へ向かって歩き出した。今日が本当に最後の登校日となる。

 玄関は、当たり前というべきか、しっかりと施錠がしてあった。私はポケットから鍵を取り出し、戸を開けた。快く鍵を貸してくれた市役所の役人に感謝した。

 校舎はうっすら積もった埃と滞った空気に満たされていた。

 日が差し込んで空気が温まっていたのだろう、心地よい温もりが私を迎えてくれた。倉庫に仕舞い込んだひとつひとつ思い出を探し出すように私は校舎の中を歩いていく。

 友達と馬鹿みたいに走り回った廊下。二段飛ばしで駆け上がった階段。箒でちゃんばらをしていて叱られた教室。野球をしていて割ってしまった窓ガラス。まるで昔の自分がそこにいるのを眺めるかのように、次々と記憶はよみがえり、弾けていった。

 やっぱり壊したくない。ここは代わるもののない、ただひとつの場所なのだ。そう、かつて座っていた机をなぞりながら思った。椅子を引き、随分小さくなってしまった机に向かってみる。しん、と静まり誰もいない教室に昔の同級生の姿が重なっていく。

 誰かの席に集まっておしゃべりをしている女の子たち。どたばたと走り回っている男の子たち。ひとり机に座って本を読んでいる子もいれば、日直として黒板を消している子もいる。あの日々のみんなの声が聞こえてくるかのようだ。

 でも、仕方がない。苦笑が自然と顔を覆い、私は俯いた。仕事なのだから。個人がどうこうものを言えることじゃないのだから。責任者なんだ、私は。ここを壊さなければならないのだ。

 顔を上げる。同級生の影は、いつの間にか消えてしまっていた。教室には誰もいない。この校舎には誰もいない。時代は変わるのだ。私は席を立つ。未練はもうない――といえば嘘になるが、最後にこの目で見ることができたのだから、ある程度は満足していた。

 教室を出て廊下を歩く。これで、この校舎からは永遠に卒業するのだ。わびしさは苦笑となって固執する私自身を笑っていた。

 それが聞こえたのは階段を降りようとしていた時のことだった。廊下の奥から歌声が響いてきた。

 私は驚いて振り返る。しかし、そこには無人の廊下が広がっているただけだった。空耳かと思いながらも、歌が聞こえた廊下の先をじっと見つめていた私は、今度こそ本当に心底仰天した。男の子がひとり、突き当りのT字になっている廊下を走り去っていったのだ。

 私は信じられない思いでそこへ駆けていく。ここに子供がいるはずがない。では今目にした少年は一体何なのだ。男の子が走ったはずの廊下は、埃に覆われたままだった。足跡ひとつない。私は男の子が走り去っていった先を見る。ひとつだけ、教室の扉が開いていた。音楽室というプレートが懸かっていた。

 内心怯えながらも、私はゆっくりと音楽室へ向かう。そういえば息子が旧校舎のお化けなる話を私にしてくれたことがあった。確か音楽室がどうたらと言っていたような気がする。

 部屋の前に着く。そっと中を覗いてみる。誰もいない。少し薄ら寒くなりながらも私は音楽室の中に入ってみた。教室の真ん中にタンバリンがひとつ落ちていた。

 なんとも意味深なタンバリンだった。随分古く、小さなシンバルの部分は全て錆びてしまっている。木枠も日に焼けて色褪せている。しかし不思議なことに埃に塗れていないようである。先ほどの足音と笑い声、そして少年の秘密が全てここに詰まっているかのように思われる。

 空恐ろしくはあるものの、私はタンバリンを拾うことにした。気になったことは確かめてみたくなる性格なのだ。

 膝を付き、そっと手を伸ばす。鼓動が早くなっているのがよく分かる。じわりじわりと縮まる手とタンバリンとの距離。ええい、なるようになってしまえ。覚悟を決めて、一息にタンバリンを手に取った。

 瞬間、脳裏に不思議な映像が流れ込んできた。子供たちの後姿。聞こえてくる歌声。どうやら映像は音楽室を見ているらしい。視点は少し高いところから。響くリコーダーの音色。教室から出て行く子供たち。静かな教室。新しくやってくる子供たち。変わる歌声。背の高さ。時々激しく上下しながら、振動する映像。

 タンバリンの思い出だ。このタンバリンの。そう自然に気が付いた時、声が聞こえた。幼い男の子の声だった。

『どうしてみんな来なくなっちゃったんだろう。あんなに楽しかったのに飽きちゃったのかな』

 周りには誰もいない。私しかいない。けれど聞こえた。タンバリンの声がはっきりと聞こえたのだ。

 私は立ち上がり、手にしたタンバリンを見つめた。見れば見るほどに古臭いタンバリンだった。だが、こいつは何も知らず、何も知らされずただみんなを待っていた。廃校になり、笑い声も足音もしなくなった学校の音楽室で、楽しかった日々を思い出しながらひとり待っていたのだ。誰かが来ることを。また歌声が響くことを。

「馬鹿だなぁ」

 そう呟いてしまった。もうここは取り壊されることになったというのに。子供たちはすっかり新校舎を気に入ってしまっているというのに。私はタンバリンをそっと抱きしめていた。

 形あるものはいつかその姿を消す。必ずその時はやってくる。積み重なった思い出もそうなのだろうか。いや、それは違うような気がする。記憶は伝えられるし、誰かの中で生き続けることが出来るからだ。

 ならば、この校舎に詰まった記憶であっても、たとえそれがものに宿った記憶だとしても残り続けるのではないだろうか。

 冬の日は短い。車に戻った私は、次第に深くなっていく夜空を眺めた。やはり夜になると寒くなってくるものだなあとしみじみ思った。

 今私の車の助手席にはタンバリンがある。音楽室にあったタンバリンだ。輝いていた思い出をたっぷり詰め込んだハッピータンバリンだ。

 最後の登校日に学校の備品を盗んでしまったのだが、まあ誰も文句は言わないだろうと思う。言ったとしても返す気はない。これだけは返さない。タンバリンは新校舎に送るのだ。それが一番だと思う。

「お疲れ様でした」

 そう校舎に別れを告げて、私は車を発進させた。

 幾億年も夜空を照らす月が、私たちを照らしていた。

 

(おわり)

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