『暗がりの部屋(12)』『どうしようもないこと(10)』
『暗がりの部屋』
陰鬱な雨が空から降り注いでいた。街が灰色に蝕まれていく。くすんで、濡れそぼっていく。
宵口の窓辺から覗く世界は、ほんのりと濃紺に染まっていた。行き交う車のヘッドライトが煌々と光の筋を刻んでいる。等間隔に立ち並ぶ街灯は、言われたとおり足許を照らし出しながらもどこか所在がなさそうだった。洩れ落ちる家々の明かりがやけに白々しく見える。
閉め切ったガラス窓に、水滴がぽたぽたと打ち付けてはゆっくりと流れ落ちている。そのひとつひとつの滴はやがて混ざり合って、窪地に溜まり、小さな淀みを形成してから溢れ出して、排水溝に流れて、支流は河へ、大きく本流となって河口から海原へ……。白光の下、再び上空へと駆け昇っては、いつもみたいにどこかに降り注ぐ。
そんなサイクル。絶えることなく続いてきた大きな大きな巡り会わせの循環。
滑り落ち始めた一滴を指でなぞりながら、この雫はかつていつこの町に降っていたのだろうと考えた。数日前かもしれないし、数週間前かもしれない。数ヶ月、数年などという期間も考えられなくはないような気がした。そもそも、大海に至るまでに混ざり合い、どこの、いつの雨なのかが分からなくなってしまっているのだ。数十年、数百年、数千、数億年――あるいはもっとそれ以上にも及ぶ悠久の時を、深海の奥底で眠り過ごしてきた初めての一滴である可能性も捨てきることはできないような気がした。
たくさんの可能性が選択となって、頭の中で展開していく。遮るものなど何もない広大無比な高原の如く、果てのない眺望が開けてしまった。そのあまりにも壮大なスケールに、私は思わずくらくらしてしまう。軽い眩暈に瞳を閉じて、冷たいガラスに額を押し付ける。
透明な境界は、単に視覚的に透明であるせいで捉え難いだけで、確かにいまここに実物として存在している。なるほど、姉にとってはこの敷居を跨ぐことがなによりも大変で、困難で、恐ろしいことだったのだろうなと、広がりすぎてぼんやりとしたままの頭で考えた。
顔を上げる。後頭部を窓に、背中からもたれかかるようにして立ってみる。何年もの間、ろくに光が差し込まなかった、内からさえも照らし出されなかった小部屋の中には、染み込んでしまうほどに重たい、掬い取れてしまえそうな、濃厚で密度のある闇が沈んでいる。
そんな部屋の中央に、天井から輪が釣り下がっていた。簡素な机と、スチール製のベッド以外に、例えばポスターだとか、本棚だとか、CDラックだとか、生活をしていた痕跡を匂わせるものが病的なまでに何もない部屋の真ん中に、タオルで作られた即席の絞首台が設けられている。
込み上げてきた息を思い切り吐き出した。そこに浮かんでいた表情が、安息そのものだったことが、目を閉じると瞼の裏に浮かんでくる。彼女はやっと苦しみから解き放たれたのだ。姉は絶望的な辛苦から逃れることに、そのための手段を用いることに成功してしまっていた。
視界の右端、壁に面した机の上に、一冊のノートが置かれている。先ほどざらりと読み終えたばかりのノートだ。全ての紙面を埋め尽くそうと試みていた姉の心象は、あるときは言語であり、あるときは稚拙な絵であり、スケッチとなり、あるいは音階となって私の目に代わる代わる飛び込んできた。そしてその内容は、私が思っていた以上に、家族が知っていた以上に壮絶なもので、どうして姉が今日までの日々をこの小さな部屋の中で完結させなければならなかったのか、あるいはどうしてその部屋の中からさえも逃れなければならなかったのかを如実に示してきていた。
『やさしさノート』と題されたその一冊は、これまで姉が関わってきた人たちに対して、こんな自分をまだ見捨ててくれないでいる家族に対して、そしてこの世に存在しているありとあらゆる人たちに対しての謝罪を冒頭に据えて、つらりつらりと始まっていた。
――ごめんなさい。
その一言を、姉は一体何度このノートの中で繰り返したのだろう。対象となった人の数は? おそらく、私がこれからの人生で頭を下げることになる人数の優に一万倍は超えているはずだった。姉は自らがここに存在していることを呪い、悲しみ、恨み、溜まりに溜まった申し訳ない想いを吐き出すために何度も、何度も何度も何度も何度も、ごめんなさいと謝り続けるしかなかったのだ。
完全に他者を排し、愚直に紙面とだけ対峙しながら、強大な感情に取り憑かれてペンを走らせ続けていた姉の姿を想像する。漆黒に染まった部屋の片隅で抱いていた苦しみを、廻りまわり続けていた激憎を、決して消えることのなかったその業を思い、私は再び絞首台に目を投じた。
「大変だったんだよね」
私が彼女に向けることのできる言葉は限られている。姉の苦しみは、絶対的に姉にしか分からないものだったし、他の誰かが、とりわけ私になんぞは始めから共有できるようなものではなかったのだ。
姉は、小さい頃から聡明で、何でもできて、いろいろなことを知っていて、たった三つしか歳が離れていなかったはずなのに、幼い私にはまるで全知全能の神様のように映っていた。同時に、幼稚園でいじめられていないかと心配をしてくれて、守ってあげるからと毎日一緒に通学してくれていた。姉の掌はどんな時でも私の小さな右手を包んでくれていて、そのぬくもりを、感触を握り返していられれば、私はどんなことにも立ち向かっていけるはずだった。
歯車が狂いだしたのはいつのことだったのだろう。気がついたときにはもう修復など効かなくなってしまっていた。歯はぼろぼろに欠け落ち、空回りをするばかりでうまく回らなくなってしまっていた。
姉は賢すぎたのかもしれない。本を読みすぎたのかもしれないし、私に気を回しすぎたのかもしれなかった。あるいはそれは私の問題で、そして姉を取り巻いていた周囲の人々の問題でもあって、徐々に変化し拘泥していった姉の人格を見抜けなかったのが原因なのかもしれなかった。様々な事柄をたったひとりで考え処理するのに、まだ小学生にすぎなかった姉は幼すぎたし、置かれている状況は不幸にも恵まれすぎていた。
多眠が始まったのがちょうど中学生になった年で、以降姉は塞ぎがちになり、与えられた問題を集中的に考えることができなくなった。部屋から出てこなく、出てこられなくなったのはその翌年のことだった。どうすることもできないまま姉は自らの精神によって自室に追いやられ、そこから抜け出すことができなくなってしまった。
姿を、心無い人は蔑み、揶揄し、大袈裟に嘯いた。面白おかしく吹聴する者もいた。何を隠そう、私自身がそうだった。
情けない姉、駄目な姉、自己中心的でわがままだから絶対に社会から求められない。荒んでも、落ちぶれても、ああはなりたくないよ、などと知ったような口をはいていた。友達と家族の悪口を言い合う行為は、思春期を迎えた嗜虐的な子供心にはとても気持ちのいいことだったのだ。纏わり付いている繋がりというものを、当時の私は心底疎ましく思っていた。
だから、姉は私に謝る必要などないのだ。むしろ私のほうこそ彼女に謝らなければならなかった。苦しみに喘いでいた姉に細心を払うわけでもなく、あろうことか邪魔者扱いをしていたのは他の誰でもなく私自身だったのだから。
姉は、どんな時も私のことを穏やかな視線で想い続けてくれていた。この小部屋の中にいなければならなくなりながらも、想像を絶するような苦しみの中にありながらも、真摯に私のことを心配し続けてくれていた。
それを、それを私は――
……後悔など、するだけ無駄だ。愚かしい過去の淀みの中から掬い上げて、顔を顰めることは無意味だった。高校に進学し、幼い恋を、出会いと別れを重ねて、大学に入学する前にはちゃんと理解していた。乗り越えて、成長できていた。
だから、いまここにいる私には、彼女に伝えなければならない言葉がある。
「ごめんなさい」
姉に対して何もできなかったことを、何もしなかったことを、それどころか邪険に思い扱っていたことを。実家を離れるようになってから、ずっとずっと謝りたいと思い続けていた。
床に降ろした腰に冷たい感触が伝わってくる。膝を抱えて小さく、誰もぶら下がっていない絞首台を見上げた。その小さな輪が作り出した毒々しい痣を思い出して、ぐっと震える唇を噛み締めた。
階下では、両親が恐慌をきたしながら救急隊の到着を待っている。通報からもう二分ほどたっただろうか。意識を失った姉に付きっ切りで、私がいなくなっていることには気が付いていないようだった。
「お姉ちゃん……」
こんなの駄目だよ。ずるいよ。これじゃあ、私は永遠に謝れなくなってしまうじゃない。
身勝手な考え方だとは理解していた。もしくはそれこそが姉の願いであり、最初で最後の、多大なる復讐なのかもしれなかった。でも、それでも私には、姉にまだ言いたいことがたくさんあったのだ。
大学生活がどんな風か。好きな音楽や小説のこと、テレビ番組のこと、おいしい喫茶店のこと、洋服やアクセサリーのこと、友達や恋人のこと――教えたいことがたくさんあった。姉には私を知ってもらわなければ駄目だった。かつて守ってもらっていた、ずっと心配してもらっていた姉には、伝えなければならないことがたくさんあったのだ。
ギブ・アンド・テイクの関係性。貰っていた寛大な想いに、私はまだひとつも返事を返せていない。だから――
「駄目だよ。まだ死んだりしちゃ」
握り、額に押し当てた両の手に祈りを込めた。
幸い、発見が早かった。不穏な物音に只ならぬ予感を抱いた私が、姉の部屋の扉を蹴破ったのだ。だから、きっとまだ助かる。絶対に助かる。助からなければならないはずだった。彼女はまだ生きなければならない。他の誰でもなく、彼女自身のためだけに。
救急車のサイレンが近くなる。家の前で停車。救助隊が声を上げながら駆け込んでくる。
気を失っていた姉はすぐさま運び出されて、両親と共に病院へと運ばれていった。離れていく救急車の姿を、留守を預かると決めた私は、姉の部屋からじっと見送った。
伝え足りない想いがあるのだ。
霖雨の中を点滅する赤色灯を、角を曲がって見えなくなっても、私は凝視し続けていた。
(おわり)
☆ ★ ☆
『どうしようもないこと』
重く、天高く遠いところから圧し掛かってくるようなこの頭痛の原因はなんだろうと麗子は考えた。シーツを引き寄せる。口許に覆い被せる。
ああ、もしかすると先週訪問販売で安く買ったミネラルウォーターを寝る前に飲みすぎたのが悪かったのかもしれないな。もしくは深夜一時から午後十時現在までぐっすりと寝てしまったのがいけなかったのかもしれない。あるいはいやに肌寒い部屋の温度が血流を滞らせているのかもしれないし、どこかで誰かが麗子のことを呪っているのかもしれなかった。まったく恐ろしいご時勢だ。
無表情のまま変貌していく社会の暗部に想いを寄せた麗子は、とにもかくにも頭が痛かった。宵闇に沈んだ寝室のベッドに横たわったまま瞼だけをぱちりと持ち上げて、かれこれ十五分ほど、何をするでもなく天井を睨み続けている。
そっと暗闇の中に手を伸ばして、チェスターの上のスタンドに明かりを灯した。刹那に部屋を覆った眩しさに、思わず目を瞬かせてしまった。細く視界を狭めながら、無遠慮に光を放ち始めたスタンドに苦々しい舌打ちを放つ。それから、自らが望んで灯したのだということをはたと思い出した。
幼い頃から持ちえていた性質だったが、最近、麗子にはこれと似たようなことがよく起きている。つまりは、自身で望んだことであったはずなのに、現れた変化に対してどうしようもない苛立ちや不快感、不安を抱いてしまうのだった。
それは唐突で、不意打ちを得意とする厄介な性質だった。よくないことだとは思っていなかったが、面倒だった。例えば朝食時にトーストにバターを塗ってしまって齧ってからジャムにしたらよかったと後悔したり、職場で休憩がてら自販機からコーヒーを買ってしまってからお茶に擦ればよかったと思い直したり、折角の休日を絶望的に寝過ごしてしまってからやっぱり早起きしていればよかったと悔やんだりする羽目になる。
ただ、面倒だとはいっても、要はそれだけのことでしかないので、そう言うものなのだと麗子は昔から受け入れてしまっていた。頻発することはままあることだったし、人格の性質としてどうしようもなく取り込んでしまっているものなのだから、無理に矯正することはないと考えていた。麗子は事象に対して柔軟に変化するよりも受け入れることを好んでいた。人によってはそれは受動的で、非効率的で、従事的な態度で、見ていて腹立たしいと感じられることもあったものの、そういった周りの反応も含めて、麗子は全てを受け入れてしまっていた。
眩しさに目が慣れてきて、ぼーっとしながらも少し前までは隣に確かなぬくもりがあったことを思い出した時、麗子は再びあの性質に襲われてしまった。自然消滅のような形で別れてしまった恋人と、どんな形でもいいから元に戻りたいと、戻れなくてもいいからもう一度だけ会って話がしたいと思ってしまった。
どうしようもないのに。
頭を振ってベッドから降り、毛布を羽織って麗子はキッチンへ向かう。お湯を沸かしてコーヒーの準備を始めた。灯したダイニングの蛍光灯は、やっぱり無遠慮に麗子の目に突き刺さってきて、不快感を増幅させる原因となった。
小さな舌打ちが再び口を出て、麗子は乱れた髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き毟る。どうしてこんな性格なのだろう。生まれ持った性質に今日だけは少々うんざりしながら、麗子は湯気が音を立てたやかんの火を止めた。インスタントコーヒーをマグカップひたひたに満たし淹れる。
食器棚にもたれかかりながら熱くなったマグカップを唇に近づけた。咽喉を液体が流れ落ちていったのと同時に、圧倒的に不味いなと思った。思わず眉を顰めてしまうくらいに、ひどく不味い。寝起きにブラックなんぞを口にしてしまったのがよくなかったのかもしれない。砂糖を少し加えるとか、ミルクを足しておけばよかったのかもしれない。ずずずと、心底不味いインスタントコーヒーを口にしながら考えた麗子は、ぼんやりと白々しい光に照らされた部屋の中に目を向けた。
沈黙したままの液晶テレビが、まっすぐこちらに顔を向けてきていた。下部に取り付けられたラックには、DVDレコーダーが取り付けられている。その隣には、それなりに機種の揃った次世代ゲーム機とそのソフトがずらり。特等席として設けられたソファに腰かけて、二人並んで映画を見たりゲームをするのが楽しかったなと、麗子は失われてしまった日々のことを思った。
失われてしまった日々。もう戻らない、徐々に離れていくことを許容してしまった大切な日々。大切だった日々。
そういえば、陸夫はほとんど何も荷物を持っていかなかったなと麗子は思い出していた。停止しきった沈黙の中に、こつこつと時計の針だけが一定のリズムを刻んでいる。ショルダーバッグに数日分の着替えとお気に入りの文庫本を数冊、CDを詰め込んで麗子の部屋からいなくなってしまったあの男は、いまこの瞬間どこでなにをしているのだろうか。
一緒に暮らしながらも麗子には同棲などしているつもりは毛頭もなかった。おそらく陸夫にしてみても同じようなものだったに違いない。結果的にそれが同棲と呼ばれる生活になっていただけで、二人にはそれぞれ帰る場所が他にもあったのだし、言うなれば遊びみたいなものであって、共にこの部屋の中で過ごしていた日々というのは一種のエンターテイメントでしかなかったはずだった。
それが、数日前に終わっただけ。もう二度と元に戻らなくなってしまっただけだ。麗子は、極めて冷静に考える。何よりも楽しかった、満ち足りていた娯楽が消失しただけのことだと。あるいは、もう戻れなくなってしまっただけなのだと。陸夫は、麗子の部屋に持ち込んでいた大半のものを残したまま、あの日からすっかりとその姿を消し去ってしまっていた。
そういえば、飼っていた猫も持っていかれてしまった。半分ほどコーヒーを飲んだまま固まっていた麗子は不意にその事実に気が付き、なにかとんでもない失態を犯したような嫌な気分が胸のうちに込み上がってきて焦った。どうにも今日は調子がおかしい。いつもなら気にならない後悔が、無視できないほどに大きくなって叫び続けているのだった。おい、おい、気がついてくれ、俺の存在に目を向けてくれよ。
耳障りな感情をシャットアウトしてから、麗子は思考を再開させる。なんだったか、なにを考えていたのだったっけ。ああ、そうだ。猫だ。陸夫に持っていかれてしまった猫のことだった。
――どうして私はいままで忘れてしまっていたのだろう。
疑問が大きく反響した。
捨て猫だったわりには理知的で、とてもおとなしく物分りのよかった黒猫。当初から麗子は『エミリオさん』と呼んでいた。その音の響きが、ぴたりと猫の風貌に合致していたのだ。外出することだけは極度に嫌っていたがむしろ勇敢で、麗子や陸夫のことをいつも気にかけてくれていた。
まだ陸夫と知り合う前に出会って、共に支えあっていた。捨て猫だったエミリオさんを拾い、片手間だった麗子を充足させて、ふたりは三年くらい一緒に過ごしていた。
その頃の日々。穏やかで、安定していて、とても幸福だったような気がした。胸のうちに込み上げてきたぬくもりを味わいながら具体的なエピソードを思い出そうとして――麗子は観念したかのように頭を振った。
やはり、今日はおかしかった。いつもならしないのに。本当、こんなことして、なんになるというのだろう。結果論として、陸夫がいなくなり猫を連れて出て行った。それだけのことはないか。だったらそれでいいじゃないか。あとはどうにでも受け入れていける。
まだマグカップに残っていたコーヒーを流しに捨てて、麗子は申し訳程度につけられた小さなベランダにへと続く窓の前に立った。黒く染まったガラスに手を添える。冷たさに、ぞくぞくと肌が粟立ちそうになった。
――どうして私はこうなんだろう。
不用意に強大な絶望が足下に広がってしまった。奈落にも似た底の見えない漆黒色の絶望だった。
失ったものは一体なんだったのか、それがどのような位置を占めていて、どれほどの大きさを持っていたのか、思うと、喪失感に肩が震えてきてしまった。いままでに経験したことのない、漠然とした、それでいて決定的な悲しみだった。
毛布を引き寄せて肩を抱く。このどうしようもない性質の原因を考えてみたものの、ついに麗子には答えを見つけ出すことができなかった。麗子はいつの間にか麗子として特有の性質を持って、今日に至るまでの人格を形成しているのだった。
唐突に震えが止まる。頭痛はいつの間にか消えていた。麗子はいつもどおりの麗子を取り戻していた。どうしようもなく。
ああ、思えば、あの頭痛にしてみてもなくなってみると些か物悲しいような気分になるものだなと、浮かんだ三日月を眺めながら麗子は目を閉じた。
かつてひとりの男がいて、一匹の猫がくつろいでいた麗子の部屋は、冷え込んだ沈黙にじっと口を噤んでしまったようだった。
(おわり)