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『柚子を食む(12)』『立つ人(12)』

『柚子を食む』


 よくよく言われることだけれど、学校という箱は牢獄に似ている。コンクリートの壁が鉄柵に、リノリウムの廊下が足枷となっていて、仕切られたひとつひとつの教室が、そして割り振られた各々の机が、鉄球に繋がった鎖となって生徒達を縛っている。

 故に、閉じ込められた囚人達はなかなかガラスとアルミからなる窓から飛び出していくことができない。

 確かに、中には無理やり牢を脱獄していく者もいる。けれどそれらの人物は一様に例外中の例外であって、そもそもが学校という箱の中に納まりきらない、もしくは納まることができなかった異端者ばかりなのだ。大概の生徒は自身になにが起きているのかも分からないままに鎖に繋がれてしまっている。あるいは繋がれていることにも、投獄されていることにも気が付かないまま日々を楽しんでいる。けれど、中には私のように気づいてしまう愚か者が相応に溢れている。気がつかなければよかったと、もうどうすることもできないと知りつつも憂鬱に思ってしまう。

 息が詰まるような拘束感。

 毎日、なにかしらのものが削り取られていくように感じるのだ。例えば感情、希望、未来といったもの。人間性や、優しさ、余裕とかゆとりと呼ばれているもの。生気までも削られているような気がする。生徒に限らず教師にしてみてもそれは同じだ。学校という機関は、たぶん何かしらの悪魔に取り付かれているのだと思う。

 さて、集団はそこに集団が形成された瞬間から社会性を有すものなのだ、と私に教えてくれたのは、中学校に通っていた頃に知り合った途方もない変わり者だった。社会性が存在するということは、すなわちそこにはカーストが生じ、相互の、もしくは一方的な関係が誕生するのだ、と彼は周囲に熱く語りかけていた。本当に、無駄に熱く。

 なくなって久しいと思っていた牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけていた。そのせいであだ名はメガネだった。なんの捻りもない命名を受けた彼は、名前をなんといったのだろうか。表情と、滔々と述べられた数多の発言は強く記憶に残っているというのに、肝心なところが後一歩のところで思い出せなかった。クラスメイトどころか、学校中から、ひいては親たちからも距離を置かれていた彼は、中学二年の秋になると急に学校に来なくなった。私は淋しくもなければ嬉しくもなかったような気がする。

 誰もいない教室で、窓際の自らの席に座って頬杖を突く。遠く、どこか他の教室の中で話しているらしい女子生徒の声を微かに耳にしながら、私はぼんやりと、見るともなしにグラウンドに散らばった各部活動の活動を眺め降ろしていた。少し黄色がかった空に、長細い雲が浮かんでいる。その雲は先ほどから少しも動いていないようにも見えたし、とても長い距離を流れ滑ってきた疲れを癒しているようにも見えた。鳥が羽ばたきながら勢いよく視界の外へ姿を消していく。運動部の掛け声が、吹奏楽の惚けた合奏が、ささやかに空気に漂っている。

 不意に大きな悲しみが胸に迫ってきた。

 こういう時、私は夕暮れというものは面白い時間だと思うし、思わされてしまう。明確に日付が代わる真夜中のその瞬間よりも、鮮やかに一日の終焉を伝えてくるような気がするのだ。

 郷愁のような物悲しさ。

 厳密に言うのならば、まだ夕暮れと呼ぶには早かったものの、色付きかけた青色の空はひしひしと望郷の念を思い起こさせていた。

 しかしながら私には離れてしまった故郷があるわけではない。私はこの町で生まれ、今日に至るまでこの町で育ってきた。だから、郷愁を抱くわけも道理もない。抱いてしまうのは、少し失礼な気さえする。

 もしかすると、幼い頃になにか強烈な出来事を経験したのだろうか。それとも、外部から与えられた『夕暮れは物悲しいものだ』という概念に毒されてしまったのだろうか。あるいは、生物本能として、二重らせん構造の中に、またはひとつひとつの塩基の中に、太古の昔に経験した物悲しさが記憶されているのかもしれない。

 人を含め、万物の生命体は元を辿れば海へと行き着き、稚拙な細胞群へと集約されるのだという話を聞いたことがある。生き物は現在の形質に至るまでにそれぞれの命が見てきた景色を記憶していて、だから私は深層心理よりも奥深くに数えきれないほどの命が見た夢を大切に補完しているのかもしれない。

 何の役にも立たない妄想から意識を引き上げてほっと息を吐くと、少しだけ肩から重石が外されたような気がした。こういったことを考えてしまうのは、間違いなく中学生の頃の彼の影響だった。名前も思い出せないメガネ君は、今でも確かに私の影に潜んでいて知らず知らずの内に意思決定を巡る過程の中で暗躍している。おそらく、そこはかとなく恐ろしい、真剣な目をしながら。

「あなたは私と同じにおいがするよね」

 そう、先日陸上部の深海さんに言わせてしまったのも、もしかしたら暗躍するメガネ君の熱意のせいなのかもしれない。思った私の意識は数日前の放課後に、鮮やかな朱に染まっていた昇降口へ遡っていく。

「雨は好き?」

 いつものように何をするでもなく教室で時間を潰してから、さあて帰ろうかと昇降口へやってきた折に、靴箱の前で唐突にそう話しかけられた。振り返った私は、ぞっとするほど綺麗で美しい微笑を湛えた深海さんに見つめられたまま、しばらく返事をすることができなかった。

「私はね、結構好きなんだよ。雨そのものというよりかは、雨が振っている雰囲気というのが」

 私がなにか言う前にそう口にした眼差しは、あなたはどうなの、と訊ねてきていた。私は首を傾げ、いまは降っていない雨のことを考え、陰鬱な湿り気を帯びた気配を想像してから、それほどでもないと答えた。それほどもない。雨にはあまり良い思い出がなかったのだ。

「そう」

 言った新海さんは、変わらない微笑を浮かべたまま、やっぱり、と口にした。

「やっぱり、あなたと私は同じにおいがするよね」

 言葉の意味を尋ねなかったことを、私は後悔するべきなのかもしれない。こうして誰もいない教室でひとり机に腰かけている今も尚、その真意がまったく分からないのだ。きっと、これから先も一片たりとも理解できないのだろう。思うと少し悔しいような、もったいないような気持ちが湧き上がってきて気分が悪くなった。

 その後、深海さんはじゃあと手を振って、するりと外へと出て行ってしまった。取り残されたのは私だけ。あるいは、私と昇降口に差し込んでいた夕陽だけだった。立ち昇った埃が煌めいていたのが、やけにノスタルジーな気配を含んでいた。昇降口には忘れ去られた物品が纏う物悲しい忘却に溢れていたような気がする。

 彼はどこへ行ってしまったのだろう。グラウンドを眺め続ける私に、再び瓶底眼鏡君の顔が浮かんできた。我々は決起しなければならないのだ。言いながら拳を高く握り締めていた独りぼっちの後姿と一緒に。

 視線の先では、陸上部が活動を続けている。ひとりひとりの容姿の違いはここからでは判別できない。みんな似たようなジャージに身を包んでさっきから走り込みを続けている。走っては、隣の人と話しながら歩き帰って来て、再び位置につく。走り出していく。反復練習を続ける集団の中に、きっと深海さんも混ざっている。

 ふとスタート位置へ戻りかけていた集団の中の誰かが立ち止まった。顔は校舎の方を向いている。立ち尽くして、何かを探すように視線が動いているようだった。

 そして、私は直感的に認識する。周囲からほんの少しだけずれたような、集団の中にいながらも、一緒におしゃべりをしながらも決定的に孤立してしまっていたその人物が間違いようもなく深海なつみその人であり、今まさに彼女は私を見つけてあの綺麗で美しい微笑を浮かべてしまったことを。

 どうして人物を彼女と判明できたのか、変化した表情にまで気がついてしまったのかは分からない。分からないけれど、その刹那に私はたくさんのことを理解した。なぜ彼女が私に同じにおいを嗅いだのか、どうして彼の名前が思い出せないのか、彼女がいつも微笑んでいる理由と、夕暮れ時に人が物悲しくなってしまう原因を。暴力的な働きによって理解させられてしまった。

 堪らなくなって、私は思いがけず席を立つ。全身の筋肉が強張って、他の意識に乗り移られたように自由が利かなくなっていた。細胞という細胞が燃焼して、内側から肌が火照っていた。羞恥、憤怒、悲愴、愛憎――そのどれとも呼ぶことのできない感情がうねるように昂ぶって、大きく爆ぜてしまっていた。

 廊下を、口許を掌で覆いながら早足で過ぎていく。

 思えば、昔これと似たような感覚を得たことがあったような気がした。いつのことだったのだろう。なにがあったときだったろうか。考え続ける脳裏に、ぱっと黄色い球体が浮かび上がってくる。

ああ、そうだった。あれはまだ私が幼かった頃で、その日は雨が降っていた。母が柚子を買ってきてくれたのだった。何も知らなかった私は、躊躇いもせず剥いていなかった柑橘のぶ厚い表皮にかぶりついた。広がった味はとんでもなく苦くて、渋くて、痛くて、痺れを伴っていて、それぞれが絡み合いひとつとなりながら途方もない刺激となって私の口の中で暴れまわったのだった。

 そう、あの刺激だ。いまも私の口の中にはあの時の味が、感覚が、圧倒的な存在感を放ちながら広がっている。

 視界を滲ませながら、私は一目散に帰らなければならないと考えていた。

 ここではないどこかへ、どこにあるとも分からない安心できる場所へと、逃げるようにして撤退しなければならない。そうしなければ、私は立ち直れないほどの悲しみの中に突き落とされてしまう。遠く離れていく水面に懸命に手を伸ばしながらも、抗いようもなく沈んで溺れて、呼吸ができなくなってしまう。

 それが怖くて恐ろしくて、私は救いを求めるようにして逃げ出したいという願望を抱かずにはいられなかった。

 衰え始めた陽の光は廊下の床に窓から差し込んできていて、漂う埃の粒子を眩く煌めかせていた。


(おわり)


 ★ ☆ ★


『立つ人』


 薄闇に覆われた交差点は、混ざり気のない静寂に包まれていた。早朝の朝霧が全てを洗い流したのかもしれないし、遠ざかりつつある宵闇がたくさんのモノを持ち運んでいってしまったのかもしれない。

 歩道に立ち尽くしていたのは私ひとりだけだった。

 車の往来は先ほどからずっと皆無。厳冬を前に寒々と冷え込み始めた外気は、小鳥の囀りさえも拒むように張り詰めている。

 まるでこの交差点だけが世界から切り取られてしまったかのようだった。私を取り囲むようにして範囲設定、トリミングを行い、まったく同じ画像でありながら完全に異質のモノと化した画像の上に貼付し合成する。

 目の前の交差点は、この世のものならぬ異界のように見えた。あるいは異界と繋がりかけた、もしくは交差点のどこかで異界がぱっくりと口を開いた、境界線に接している非常に曖昧な場所なのではないだろうか。

 思ってしまうほどに、私はその人物から目を離すことができなくなってしまっていた。スクランブル交差点の中央に悠然と佇む野球帽。深く下げられたつばのせいでその表情はまったく読み取れない。口許にだけ、離れているにも関わらず認識できてしまう下弦の月が浮かんでいた。微笑はすなわちそれだけでその人物の全てを表していて、その性差、年齢、思想など、ありとあらゆる特徴に匿名性を纏わせながらも絶対的に人物が普通ではないことを周囲に放ち続けていた。

 そいつは、間違いなくどこかが違っていた。狂ってしまっていた。例えば目の前で子どもが出血しながら蹲っていようとも、老婆が苦しそうに胸を抑えていようとも、子犬が訳もわからないままに溺れようとしていようとも、確実にその微笑を揺るがせないまま、じっくりと観察したり、あるいは死に至るその瞬間を待っているような異常な奴だった。そして何より、そうであることを、吊り上げた口角と纏わせたオーラでまっすぐに伝えてきていた。

 そう、そいつは間違いなく私に狂気を伝えてきていた。私を認識し意識して、確実に異常性が伝わるように情報を送り続けていた。

 その事実が恐ろしくて、意味が分からなくて、戸惑い、混乱して、私はただそいつを注視することしかできなくなっていた。

 確か、深夜まで続いた仕事をやり終えて、肉体的にも精神的にもボロ雑巾のような状態になってしまっていて、人を物のようにしか扱わない上司を恨めしく思いながらとぼとぼと家路についていたはずだったのだ。信号待ちの群衆に紛れて立ち止まる。不意に視線を上げた途端に、交差点中央の人物と向き合ってしまった。目が合って、微笑みかけられてしまった。その瞬間に私は世界から切り取られて、独りぼっちになってしまった。

 ――一体なんだというのだろう。

 唐突に膨大な憤りが塊となって込み上げてきた。

 だって、私にはここにいなければならない必然性がなかったのだ。ここに招待されるべきは、他の誰かでもよかった。私はふとした拍子に隣を通り抜けていく障り風に中てられるようにしてここにいることを強要されているだけだった。

 ただ、それでも私は絶対的にここにいるのだった。この場所に私として存在してしまっていた。そしてそうであるが故に、私はこの場所から動くことができなかった。望まれた行為ではなかったのだ。

 私がこの場所に立ってしまっていることへのどうしようもない偶然性、そしてその事実に対する圧倒的な不可逆性をまじまじと見せ付けさせられることは、とんでもなく不快で、腹立たしいことだった。多大なストレスと変貌しつつあって、できるのであれば今すぐにでも叫びだしたかった。

 けれど、そうすることも私は望まれていなかった。行為を選択することは許されてはいなかった。冷や汗が頬を伝う。強張った表情を見て、そいつの笑みが深くなる。

 人物の意図は一切合財が不明だった。そして、そうであるがために不用意に動くこともできなかった。人物が望んでいないことを行って、私の身になにが起きるのかが分からなかったのだ。

 私は人物に恐怖を覚えていた。本能的な、動物的な、原始的な、野生的な、抗いようのない根源から呼び起こされる畏怖の感情。なにをされるのか、なにを期待されているのか、なにが待ち受けているのか、その一切が本当に分からなかったのだ。たった一つだけ、私はこの場からすぐにでも離れなければならないと、ただそれだけを強く強く感じ取っていた。

 どれだけの時間を睨み合い続けていたのだろう。一分か、五分か、十分か。あるいはそれ以上に長く、途方もないほどの時間を息を詰めたまま睨み合っていたのかもしれない。音のしない絶望色に染まった緊張に取り付かれた空気の中では、時間の感覚はでろでろにとろけたスライム以上に曖昧になっていたのだ。もしかすると、睨み合いはほんの刹那のことだったのかもしれない。実質は私には分からなかった。そしてその変化の準備がいつから始まっていたのかに関しては、おそらくここにいたのが誰であっても分からなかったはずだ。

 変化は瞬間に起こったのだ。車道の信号が真っ赤に点灯して、急にとうりゃんせが鳴り響き始めた。電子音の、少し間延びしたような不愉快な旋律。何かしらの悪意が滲んでいるようだと、耳にするたびに思わされていた音だった。嫌悪すべき、聴覚から外していたい、聞きたくない音。

 それが唐突に沈黙を破った。驚き、周囲を見渡した私は、視野に入ったモノに更に目を見張ってしまう。

 いつの間にか私と同じように信号を待っていたらしいたくさんのヒトが、一斉に交差点に向かって歩き出していたのだ。その夥しい人数、圧迫されるような人口密度に、私は今の今までまったく気がつかなかった。気がつけなかった。

 なにが起きているのか理解できず混乱を深める私を尻目に、人々は私の脇を通って対岸へと移動していく。あるいは向かってくる。何も喋らず、無駄な動作は一切せず、まっすぐ前を向いたまま一心不乱に先を目指している。それ以外に、この交差点ですべきことなんてないだろう? 遠ざかっていく背中が、向かってくる虚ろな眼差しが、そう物語っているようだった。ざわりと背筋を悪寒が駆け上がってくる。

 視線を交差点の中央に立っている人物に戻した。そいつは変わらずそこに立っていて、ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべてきている。

 ――どうだ、分かっただろう。一体ここがどんな場所なのか?

 知らず知らずの内に、私は頷き返してしまっていた。張り付いた笑みは一層壮絶なものに変化していく。

 ――なら、どうするべきか、お前は知っているだろう。さあ。ほら。早く。

 『こっちへおいで。』

 言葉が耳許で聞こえた気がした。艶やかで美しく、女性特有のやわらかさを含んでいるようでもあり、男性特有の有無を言わせない強い物腰で響いた。また老人に穏やかに諭されているようにも、子どもに無邪気に誘われているような声に聞こえた。たった一つの声だったはずなのに、幾人もの意思が宿っているようだった。あってはならない音を知覚した聴覚は、全身の肌を粟立たせる。

 私の足は動かなかった。恐怖から動かそうと意識しても、どうしようもなく動かなかった。反応に私は焦り、人物は少し不思議そうな素振りを見せる。

 ――どうした。なにを躊躇っているんだ。分かっているのだろう? ならば、するべきことがあるじゃないか。

 固唾が咽喉を流れ落ちる。握り締めた掌には、じっとりと汗が滲んでいる。それでも、私の身体は固まったままだった。私の身体は、私という人格の意思が及ばないところで確かに交差点中央の人物に反旗を翻し続けていた。それが私には耐え切れないほどに苦しい。気まずく、泣き出してしまいそうだった。

 様子に、人物が浮かべていた微笑ががらりと音を立てて崩れ落ちる。口許に詰まらなさそうな感情を宿すと、直後に苛立ちをあらわにした舌打ちが響いた。

 同時に、行き交っていた人々の、まっすぐに前を向いていただけの人々の首という首が、身体ごとぐるりと回転して私に集中する。

 誰も何も言わない。何も思っていない。ただ私を私であると認識して立ち止まり、直視してきているのだ。異物がいると。こちらの世界に属していないのだと。

 眼差しが突き刺さる。射抜いてくる。遠く対岸の歩道から、あるいは交差点の中央から、私のすぐ間近から、まだ立ち尽くしている背後の歩道から、虚ろな瞳孔が私を見つめている。観られている。

 がくんと膝が砕けそうになった。頭からざああっと漣を響かせながら血の気が引いていき、首筋に、両肩に、背中に、胸に、じんわりと汗が滲んでいく。

 心臓が早鐘を穿ち始めた。破裂せんばかりに伸縮を繰り返す臓器は、鈍い痛みを伝えてきている。

 呼吸も苦しくなる。肺がうまく膨らまない。浅く繰り返し繰り返し空気が出入りするばかりで、徐々に視界まで霞み始めてしまった。

 まずい。呑まれる、このままだととてつもなく呑み込まれてしまう――

「どうかしましたか?」

 声が頭上から聞こえた。唐突に辺りに音が戻ってくる。視界に映っていたのは、随分と明るくなった足元のタイルだった。胸に手を当てたまま、私はそっと頭を持ち上げた。

 人がたくさん交差点の前に立ち尽くしていた。路面を車が勢いよく往来している。雑踏が聞こえ、喧伝が聞こえ、小鳥の囀りが微かに耳に届いてきた。

 私は傍らに視線を移す。老婦人が心配そうに見つめてきていた。

「お気分でも悪いのかしら?」

「……いえ、少し立眩みが。もう大丈夫です」

「そう? まだ顔が青白いようだけど」

「大丈夫です。ありがとうございました」

 答え、ぎこちなく微笑むと、納得はできなかったものの老婦人の心労はそれ以上かけてもらう必要がなくなった。

 顔を持ち上げて、大きく息を吸い込む。空には太陽が照っていた。吐き出した息と共に、強要されていた緊張が溶け出していった。

 車道の信号が揃って赤く点灯する。交差点にはまたとうりゃんせが鳴り響く。大嫌いな、不愉快な、耳にしたくない電子音。

 動き出した人垣に併せて歩き出した私は、行き交う人ごみの中にあの微笑が浮かんでいるような気がして仕方がなかった。

 いまもなお私を見つめながら微笑んでいて、あるいは無感情な眼差しを寄こし続けていて。

 想像すると、身体の内部で氷塊が砕け割れたような底知れぬ寒さが込み上げてきた。


(おわり)


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