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『貯水塔の黒猫(4)』『踏み切りの羊(9)』

『貯水塔の黒猫』


 空に一番近い場所はどこだろう。

 下校途中に思ったすずは、ぐるっと周囲を見渡して、それからある場所に目を留めた。山もなければ高層ビルもない、電波塔も建っていなくて、平屋ばかりが軒を連ねる町並みの中、三階建ての規模の小さなデパートの屋上に設置された貯水塔はいやに目立っていたのだ。

 夕食の食材を選ぶ買い物客や、本を手に取っている学生、服を見るだけ見ている若い人たちの間に紛れて屋上の駐車場に向かい、人目を忍んで梯子を上る。直径二メートルほどの円筒の上に直立して、鈴は遠く広がる町の風景に目を投じた。天候は曇りで、別段陽射しがあるわけでもなかったのだが、一応遠景を眺める礼儀として掌で額にひさしをつくってみた。

 そんな折に不意に足許で、にゃあ、と鳴き声がした。

 おお、と驚いて鈴は視線を下げる。少しだけ開いていた両足の間を縫うようにして、一匹の黒猫が擦り寄りながら歩き回っていた。

「むむ。貴殿もこの場所を見つけていたのか」

 畏まって口にすると、ふいっと顔を上げた黒猫がにゃあと鳴いた。

 鈴は貯水塔の上に腰を下ろす。足はぶらぶら、宙に放り投げていた。隣で、黒猫も腰を下ろしている。こちらは尻尾がぶらぶら宙を彷徨っていた。ふたりはぼうっと町を見下ろしている。この辺りで一番高いと思われる場所から、山際で金色に輝きだした夕焼けに染まる景色を見つめている。

 とにかく、高い場所に来てみたかったのだ。そこから見える景色とやらを、この目に焼き付けておきたかった。

 車が道路を走っていく。人も道に沿って歩いている。普段どおりの営みのどれもがいつもよりもちょっぴり小さく、遠いところにあるように見えた。そして、そんな遠い景色を見ていると、わけもなく温かな気持ちになるのだった。

「不思議なものだなあ」

 鈴は呟いた。

「煙となんちゃらは高い場所に行きたがるというけれど、高い場所からしか見えない景色というものも確かにあるんだよなあ」

 発見は当たり前すぎるものだったが、当たり前すぎたためにずしんと身体に響いてきた。

 遮るものがなにもない空中を滑空してきた風が、びゅうと鈴と黒猫の頬を撫でていく。

「寒いな」

 そう鈴が言うと、

「なあご」

 と黒猫が答えた。

 景色を見つめたまま、鈴は黒猫の小さな頭を撫でる。短くてさらさらとしていて、心地のいい毛並みをしていた。野良猫にしては珍しい。そもそも、どうやってこの猫が貯水塔に登ることができたのかが謎だったのだが、そういう珍しい猫だって世の中にはいるのだろうと鈴は納得した。

 撫で続ける掌が、微かな反発を覚える。

 黒猫もまた、穏やかな撫でられ心地に心奪われていて、もっともっととせがむように頭を押し付け返していたのだった。

 様子を、鈴はそっと目を細めて見つめる。可愛らしいものだと思った。両手でその小さな身体を持ち上げると、抱えるようにして膝の上に移動させた。

「にゃお」

 黒猫が鳴く。鈴は無視する。

 ふたりはそれぞれ静かになって、黙ったまま沈みゆく太陽を望み、闇に沈んでいく街並みを見つめ、ぽつぽつと灯り始めた電灯と、行き交う車のヘッドライトを観察し続けていた。

 風が吹いた。晩秋のシベリア寒気団から特攻を仕掛けてきた先遣隊による、厳しい寒さを伴った北風だった。スカートが少しばかり捲れ上がる。思わず鈴の身体が縮こまる。

 ふと夜空を見上げてみれば、雲ひとつない濃紺の宇宙の中に、星がちらほらと輝いているのが視界に飛び込んできた。

「帰ろうか」

 ぽつりと、鈴は口にする。懐に抱いていたはずの黒猫の姿は、もうどこにもない。

 掌と膝に残った感触とぬくもりを思い出しながら、鈴はそっと目を閉じた。

「……帰ろうか」

 さっきよりも力強く、確かな意思をもって、言葉は風に流されていった。

 なあご、と、どこかからともなく黒猫の鳴き声が響いてきたような気がした。


(おわり)


 ★ ☆ ★


『踏み切りの羊』


 その踏み切りは山の入り口にあって、その線路を越えると生い茂る木々の間を進む坂道に道は繋がっていた。辺りに家や建物は見当たらなく、人気のない細い道を進んだ末に、山と裾野をとを分断するようにして無機質に佇んでいた。

 一体何の理由があってここまで来なくてはならなかったのか、廃線と紛う線路を目にした瞬間に忘れてしまったのだけれど、私はその踏切の真ん中に一頭の羊を見つけていた。

 羊は、例えば山羊とか鹿みたいにほっそりしていたり、大きく悪魔的に曲がった角を持っていたわけではなく、もこもことした乳白色の毛並みや、じっと私の顔を凝視しつつも咀嚼することを止めない泰然たる様にしてみてもまさしく羊そのものであって、いやいや待てよ、どうして東北の人気もなければ人家もなく、ましてや畜舎があるわけでもない山間に羊なんぞがいるのだ、という疑問すら吹き飛ばすほどに、間違いなく羊そのものであった。

 私はしばらくの間羊と睨み合っていたのだと思う。最中、辺りには誰こなかったし、風ひとつ吹きはしなかった。ただもぐもぐと続く咀嚼と、固まったままの私の眼球とが対峙しているだけだった。

 やがて、つうっと羊が前を向いた。そして、そのまま線路を歩き出す。足取りは思いのほかしっかりしていて、とてもこの地に馴染んでいるように見えた。そんなことはありえないと思うのだけれど、どうやら羊はこの辺りに長らく住んでいるようだった。

 私は麓の高校に通っているけれど、三階の窓からいつでも見ることのできるこの山間に羊が住み着いているだなんて話は一度も聞いたことがなかった。おそらく、噂にすらなっていないのだろう。羊は誰にも知られることなく、それでいて確かにこの地に根を下ろしているようだった。

 呆然と歩き始めた羊を見つめていた私を、ふいに立ち止まったもこもことした乳白色の塊は振り返る。じいっと見つめられる眼差しには何かしらの意図が含まれているような気がしたけれども、生憎私は気が狂うほどに動物が好きと言う訳でも、羊の言葉が分かる隠し能力を持っているわけでもなかったので、一体全体羊がなにを思って、どうして私に伝えようとしているのかが分からなかった。

 けれども、何となくだけれど、ついていけばいいような気はした。きゅぴんと電撃が迸るようにして脳内に言葉が、煌々とネオンを灯し始めたのだ。

 羊は、私をどこかに導こうとしている。

 予兆めいた直感は、けれど一度頭の中で腰を吸えると、俄然とそれらしい輝きを放つようになり、他の候補、例えば羊がさっさと私に消えて欲しいと思っているとか、私にでんぐり返しをして欲しいと思っているなどということをことごとく眩ましてしまった。

 ごくりと生唾を飲み込んでから、私は一歩その場から踏み出してみる。踏み切りの真ん中で進路を羊の方へと定めて、ショルダーバッグの帯をぎゅっと握り締めた。

 様子をじっくりと観察していた羊は、私が背後に立ち止まったことを確認すると再び歩き出した。ざくざくと、石を刻む音が再開する。一度大きく息を吸い込んでから前を向いた私は、意を決して足音を重ねることにした。

 羊はもそもそと、遅くもなく早くもない歩調でずんずん線路を進んでいった。まるで、私の歩調に合わせているみたいだった。どれだけ歩いても羊との距離は縮まらず、また決定的に離れることもなかった。

 沈黙以上に冷たく張り詰めた静寂が線路の上を覆っていた。そこで許されている音は足音だけで、ぎりぎり呼吸をする音が認められているぐらいだった。呼び起こされたへんてこな緊張感に、私はいつの間にか歩くという行為だけに没頭せざるを余儀なくされていた。

 ざくざくと石を刻みながら、私は段々とどうしてこの線路の前にやって来たのかを思い出し始めていた。

 帰り道。友達を分かれた後歩いていた住宅路の角に、するりと移動した後姿を見たような気がしたせいだった。消え去る影が、一週間前忽然と姿を消した家猫の背中に非常に似通っていたのだ。名前を呼びながら、いつの間にか私はその後姿を追い始めていた。

 角を折れるたびに、小さな後姿はもうひとつ先の角を曲がっていた。右に左に。途中から肩で息をして、私は懸命に後を追っていた。待って、まださよならも言えてないのに、急にいなくなるなんて酷いよ、といろいろなことを考えながら。

 そして、あの線路のぶつかったのだった。そこに、目の前の羊がいた。

 ふと辺りを見渡す。知らない間に景色が一変していた。左手に見えていたはずの町並みは消え去り、左手にあったはずの藪もなくなっていた。

 私はどこまでも続く杉林の中を歩いていた。しっとりと霧が立ち込めていて、先を行く羊の姿はおぼろげに曖昧になっていた。

 更にもう少し歩いていると、やがて見知らぬ無人駅に辿り着いた。立ち止まり、呆然と見上げる私の背後から、プオープオーと汽笛の音がし始める。慌てて線路から無人駅へとよじ登った私は、滑り込んできたSLを前にして口に出すべき言葉が見つからなかった。

 車窓から、様々な動物達の姿が見えた。例えばそれはイヌであり、ニワトリであり、リスであって、ワニでもあった。あるいはゾウであり、キリンであり、ライオンであり、クジラでもあった。サルも、キンギョも、ヘビもいたのかもしれない。ありとあらゆる動物が乗り込んだSLは、けれどもその形状を変容させることなく、全ての動物を受け入れていた。

 というのも、動物達は一様にして似たような大きさにまとまっていたのだった。人間で言うところの大人ぐらいの大きさ。また、ある動物は眼鏡をかけて新聞を読んでいて、ある動物は煙草をふかしていて、ある動物はウォークマンを聞いていた。人が動物になっただけで、車内の様子は一般的な汽車のそれと寸分の変わりがないように見えた。

「えー、米田ー、米田ー。停まりました駅は、米田でございます。まもなく出発いたしますのでー、お乗りのお客様は乗り遅れないようお願いいたします」

 らしい抑揚をつけたアナウンスが構内に谺する。見れば、青い制服を着込み頭には帽子を被った羊が、拡声器を使って無人駅を歩いていた。

 様子から、羊が駅長なのらしいことが分かった。代わる代わるやってくる乗客から切符を受け取り、ひとつひとつ丁寧に切ってはSLに乗せていく姿は、なるほど、結構様になっているように見えた。

 いまだ呆然と、なにをどうしたらいいのかすら分からないまま、私は一連の出来事を見守り続けていた。これは、一体なんなのだろう。純粋な混乱の最中にあった私は、その瞬間に一気に神経を一点に集中させた。

 SLに乗り込む乗客の中に、いなくなった家猫の姿を確認してしまったのだ。

「ミーコ!」

 思わず叫んでいた。駅長の羊から切符を返してもらったミーコは、そっと困ったような表情で私のことを見返してきた。

 眼差しは、多分の物事を語ってきていて。

 そっと視線が外れ、静かにSLに乗り込んだミーコの姿に、私はもうかける言葉を見失ってしまっていた。

 汽笛が高らかに蒸気を吹き上げる。

「えー、間もなく、間もなく、新町行き米田発の汽車が発車いたします。危険ですので、白線の内にてお見送りください」

 アナウンスが終了すると、SLはごとん、ごとんと動き始めた。私は駆け出して、窓からミーコの姿を探し始めた。けれど、座席一杯にひしめきあった動物の中からミーコの姿を探すことは容易なことではなかった。まだ速度の出ていないうちに、ひとつでの多くの窓から探そうと、私の足は駆けていく。

 けれども、やがてSLはスピードを増して、徐々に私が遅れていってしまう。

「ミーコ。ミーコ!」

 呼び声だけが、虚しく響くばかりだった。SLは駅を走り去っていく。後姿を、私は込み上げる悲しみと共にいつまでも見続けていた。

 その後、どうやってあの米田駅から帰ってきたのかは分からないのだけれど、私はいつの間にか線路を戻ってきていて、再びあの踏み切りの場所にまで辿り着いていた。

 夜は更けていて、辺りは真っ暗だった。風は冷たくて、全身が氷付けになったみたいに寒かった。早くお風呂に入りたい。それからミーコの写真を抱いて、ぐっすりと眠りたかった。泥のように、あるいは死人のように。睡眠は死界に一番近づける状態なのだ、夢の中でならミーコに会えるのだと信じていたかった。

 踏み切りから細い道へと進路を変える。町へと降りていく道をしばらく歩いてから、そうっと背後を振り返ってみた。

 りんりんと鈴虫が鳴く闇夜に、月光だけが照らし出す踏み切りは少しだけ幻想的に映っていた。

 再び踏み切りから視線を前に向けた瞬間、私は確かに踏み切りの中央に羊の姿を見ていた。

 プオープオーと響いた汽笛は、微かに夜風を震わせていた。


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