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『愛ゆえに(6)』『その掌に(7)』

『愛ゆえに』


 深夜三時半の停止した暗がりの中で、彼女は他人を愛することは最大最悪の愚行だと言った。

「等身大の自分というものが確立できてないから他人を求めるのよ」と。

 交わりあい、互いの体温をじっと分かち合っていた最中だった。呟きに驚いたぼくは、そっとチェスターの上のスタンドに明かりを灯す。

 シーツの上で肩を抱き膝を抱えていた背中はひどく小さくて、暖色に染まったにも関わらず、とても脆く、儚げに浮かび上がっていた。辛うじて張った薄氷のようだった。力加減を間違えれば、すぐにでも壊れてしまう。

「どういうことなんだろう」

 しばしの沈黙を経て、ぼくはようやくそれだけ口にした。よく考えて理解しようとしたのだけれど、まったくのお手上げ状態だった。

 彼女の透き通った背中は、しかしながら沈黙を保ち続けている。連なる脊椎が頑なに口を閉ざしたジッパーに見えた。緩やかな曲線を描く腰の括れが、人恋しそうに浅い呼吸を続けている。

 手を伸ばして彼女に触れた。ぴくりと一瞬だけ反応した肌は、それ以降は拒絶にも受容にも傾かず、無関心を装っていた。滑らかな温もりに与えられるものを、ぼくは掌の感触以外に持ち合わせていない。

 突如として逃れるようにベッドから降りた彼女が睨みつけてきた。

 ぼくよりも頭ひとつ分ほど小さな痩躯の一体どこに潜んでいたのか、殺気をも内包した激情を漲らせている。その感情が純粋な怒りだったのならばまだよかったのだ。そのとき彼女が背後に纏っていたのは、紛れもなく悲愴としか言いようのない、圧倒的な淋しさであった。

 彼女がなにを望んでいるのかは分かっているつもりだった。昼夜を問わず、彼女の心の底には隙間風が入り込んでいる。塞ぎ方を知らない、分からない彼女を、ぼくは寄り添うことで暖めてあげなければならなかった。そうすることがぼくがいる意義となっていたはずだったし、彼女にしても望んでいたはずだった。

「あなたは何も分かっていない」

 なのに、言葉がぼくを貫いた。

 反論として、もしくは共感として、ぼくはすぐにでも何かを言うべきだったのだろうけれど、込み上げてきたらしい感情をどう言葉にしたらいいのかが分からなかった。口は情けなく閉じたままで、声はひとつも生まれなかった。

 様子に、彼女の感情はますます昂ぶっていく。力の限り歯を噛み締めて、拳を握り締めて、臨界点を越えた瞬間に踵を返してしまった。

 脱ぎ捨てた服を拾って、口を結んだまま身につけていく。ベッドの上で上体を起こしていたぼくは、黙って着替えが終わるのを待っていた。彼女が着て来たコートの袖に腕を通す。

「悪かったよ」

 唇で三角を作って再度睨みを利かせてきた彼女に、ぼくは謝った。

「ごめん。迂闊な発言だった」

 正直なところ、ぼくにはまだ彼女の発言の真意が分かっていなかった。分からなかったからこそ、咄嗟にどういうことなのかと訊ねてしまったのだ。

 けれど、その行いが彼女の腹に据えかね、あろうことか淋しさを呼び寄せてしまった。それは紛れもない事実であって、憤然とした表情に表れてぼくと対峙していた。彼女の中に吹き荒ぶ隙間風を少しでも和らげるために、ぼくは謝罪しなければならなかった。

「いつもそう」

 彼女が言った。

「そうやって謝って、抱き締めて。それでお仕舞い。あとには何にも残らない」

 目尻には涙が浮かび始めていた。

「私はあなたに愛して欲しいのに。あなたに私だけのことを思って愛してほしいのに」

 やっぱり言葉の意味が分からなかった。矛盾している。他人を愛することは最大最悪の愚行ではなかったのか。戸惑うぼくに向かって、彼女は最後の感情をぶつけてくる。

「私はあなたのためにある道具じゃない。蜜を与えていればいつまでも懐いているだろうだなんて思わないで」

 そうして彼女は部屋を出て行った。引き止める暇もないくらいに呆気なく、どうしようもない別れ際だった。

 いつの間にか取り残された部屋の空気が何事もなかったかのように凪いでいた。彼女と交わった記憶を残したベッドを尻目に、止めていた思考が動き出したぼくは、上着を羽織ってベランダに出る。

 煙草に火をつけた。開け始めた夜に、立ち昇る紫煙はよく似合っている。これで朝日を拝めたのならば、少なくとも半年近く冷蔵庫の中で忘れ去られていた人参ほどに萎れた気持ちが持ち直したかもしれなかったのだが、生憎と今日は雨だった。

 青灰色に染まった雨雲は、しとしとと、染み込むかのような小雨を落とし続けている。服はもちろんのこと、肌にも髪の毛にも、湿気が纏わり付いているような天気だった。

 遠くの空で早起きの烏が朝を告げている。都市では、一番早起きなのが烏なのだ。残りの生き物はまだ眠りについているか、あるいは夜更かしをした不健康な奴らぐらいしかいない。

 勢いよく煙を曇天に吐き出してみる。当然のことながら空にまで届くはずもなく、ぼくの目の前で煙は霧消していく。

 何を間違えたのだろうか。手摺にもたれて考えた。彼女が望むことは何でも叶えてきたつもりだったのに。彼女が嫌な思いをしないよう、悲しくならないよう、寒くならないように、いつもどんな時でも、ありとあらゆる事態に対応できるよう準備を怠らなかったのに。

 どうしてぼくは彼女を泣かせてしまったのだろうか。追い詰めてしまったのだろうか。

 紫煙を肺の中一杯に吸い込む。煙草は赤く燃え上がりながら灰を一気に伸ばしていく。

 彼女は無事、家に着けただろうか。夜道をひとりで帰って危険ではなかっただろうか。嫌がられたとしても、追いかけるべきだったのだろうか。

 重力に従って、灰がこぼれていった。

 ぼくはなにをしたらよかったのだろう。

 答が見つからないまま、煙草だけが短くなっていく。心なしか青色に染まった街並みは静かで、ぼく以外、誰も息をしていないように思えた。


(おわり)


   ★ ☆ ★


『その掌に』


 伸びてきたしわくちゃの掌が、瞬間、私の首をぎゅっと締めつけた。

 優しく慈しむかのように、のど仏が押し潰される。気管がすこし狭まくなって息をするのが苦しくなる。

 春の風は穏やかにカーテンをめくりあげていった。

 差し込んできた光の筋に照らされながら、私はこのまま殺されてしまってもいいのかもしれないと思っていた。


 病床で医師から宣告を受けたとき、祖母は取り乱すことも落ち込むこともなく、ただ淡々と、そうですか、と口にした。窓際に並んで小さな身体を見つめていた私の両親のほうが、絶望に打ちひしがれているようだった。

「できるだけ自然な形で死んでいきたいですねえ」

 と、柔らかく微笑んだ祖母の掌は、ぎゅっと病院のシーツを握りしめていた。

 その拳を、寄ったしわの深さと一緒に見つめていた私は、その瞬間まで感情を止めていた。ショックを受けなかったとか、悲しくなかった、受け入れることできなかったということではない。両親と共に、事前に抜き差しならぬ病状を聞かされたときからずっと、実感が現実から乖離してしまっていて、確かにここに私はいるのに、私が私を演じている映画を客席からポップコーン片手に見ているかのような気持ちにしかなれなかった。

 けれど、痩せ細った小さな拳が呼び戻してくれた。とたんに、ずっとずぅっと打ち寄せ続けていた圧倒的な悲しみが覆いかぶさってきて、どうしようもないほどに歪み始めた表情を私は抑えることができなかった。

 様子に、誰よりも苦しいはずの祖母が、まっさきに気がついてくれる。

「そんなしかめっ面は彩音ちゃんには似合わないよ」

 横たわったまま、にかっと微笑んでくれた。

「恰好いい人はね、笑顔を絶やさないんだ」

 鼻の奥がつんと痛みながらも、ぐっと歯を食いしばった。

 それから祖母は医師と話し合い、ホスピスへと移転することを決めた。在宅でのケアは家族に迷惑がかかるから嫌なのだと口にした。

「母さん、俺たちのことなんて考えてくれなくていいんだよ」

 父さんが言う。

「そうですよ。家族じゃありませんか」

 母さんが潤んだ瞳で訴えた。

 祖母は軽やかに笑ってから、ゆっくりと首を振って言った。

「家族だからじゃないか。あたしは、あたしのためを思って離れたいと言ってるんだ。あんたたちが優しいのを知っているからね。その優しさに耐え切れないんだよ」

 おそらく、父も母も私も、とても悲しそうな表情を浮かべたのだと思う。

「わがままを言って済まないと思ってる。でも、最後のお願いだから」

 ね、と言われて、反対できる人は私たち家族の中にひとりも存在しなかった。


 三月ほど前に転入した施設のベッドから伸びる細い指が、首にか弱く食い込むのを感じながら、私はとある日のことを思い出していた。

 高校一年生の初夏の出来事。最初に私の背の高さを褒めてくれたのは、両親でも学校の友達でも部活の先生でもなくて、ひっそりと一日を家の中で過ごしていた祖母だった。

 突然変異をきたしてしまったみたいに、幼い頃から頭ひとつ分周りの子どもたちから飛び出ていた私は、そのせいで昔からよくからかわれていた。のっぽとか、大女とか言われるたびに悔しい思いをし、どうにもならない悲しさを噛みしめながら家路についていた。

 私は何度も何度ものろいを呟いた。こんな身体に生まれさせた両親をのろい、こんな身体を与えた神様をのろい、周りでくすくす笑っている同級生たちをのろっていた。どれだけ慣れたつもりになっても、執拗に追いかけてくる好奇の視線には負けそうになってしまったのだ。

 脆弱な私自身を、誰よりも強くのろっていた。

 そうだから、高校入学を経た頃には背の高い同学年の男子と同じくらいの背丈になっていた私は、表面上は何も気にしていないように繕っていても、当前のようにコンプレックスを抱くようになってしまっていた。背の低い、可愛いい女の子を見るたびに羨望を抱き、自己嫌悪に陥ってしまった。

 けれども、そんな暗澹たる日々の中で祖母は褒めてくれたのだった。

「背が高くておっきくて、きっと彩音ちゃんは、恰好いい美人さんになるねえ」

 夕食時に放たれた何気ない一言。その眼差しに灯った優しさがすとんと胸に落ち着いて、同時に何よりも嬉しかったのだ。

「どうせならもっと小さく生まれたかったよ」

 いじけるように口走ってしまい、逃げ帰るように自室へ引きこもったことを、いまさらになって後悔する。照れて隠してしまった感情を、結局私は伝えられないままに今日まできてしまっていた。

 祖母の手が撫でるように首から顎へと上昇していく。左右に別れて曲線をなぞり、耳朶に触れると正面に戻ってきて、私の鼻を、唇を、瞼を、確かめるように触れていった。

 もう声を出すことができない小さな口が、音もなく私の名前を紡ぎだす。

 ――彩音ちゃん。

 臨終の時を迎えようとしている祖母の表情は一層の悲しみを呼び起こすかのように穏やかで、けれどもなぜだか笑顔を浮かべずには居られない、圧倒的な優しさに満ち溢れていた。

 背後では、母が泣いている。父はきっと唇を噛み締めてじっと佇んでいる。

 ベッドに寄り添って顔を祖母の目線と同じにしていた私は、やつれ細った掌を包みながら声をかける。

「どうしたの、おばあちゃん?」

 言葉は残酷なものだ。人は言葉を発明してしまったから、言葉にできない感情を心に抱いたとき、身を焦がすかのような煩悶を抱かなければならなってしまった。命を燃やしつくし、病魔に蝕まれた身体をほとんど自由にすることができなくなった人ならば、なおさらなのだと思う。

 表したい気持ちがあるのに、伝えたい思いがあるのに、どうやっても超えられない壁が立ちはだかっている。煉獄のような悶えではないかと、想像するだけで押し潰されそうになってしまった。

 祖母は、包んだ両手の中で微かに自由にできる掌を懸命に動かしていた。指が私の掌をなぞって、何かを伝えようとしてくれている。

 感触は震え、停止と移動を交互に繰り返すばかりで、それでも思いを伝えようとしてきてくれた。言葉にならないから、何とか動かすことができる指先を使って、柔らかく憔悴しきった顔で微笑んでくれたのだった。

 その刹那だった。私は言葉を使うよりも本質的な、魂を共有するかのような感覚へと導かれて、祖母の優しさに全身を包まれたように感じたのだった。

 ゆっくりと、力尽きた祖母の腕が落ちていく。慌ててその掌を握りなおして、強く握って私は祖母に微笑み返してあげる。

 願わくば、辛苦をその身に宿し続けた祖母に、彼岸では幸多からんことを。

 包んだ両手に額を押し付けた。

 春風はそっと、私たちを間をすり抜けていくばかりだった。


(おわり)


◆どうでもいい呟き

最近スランプっぷりが半端ないです。たぶん、そんな上等なもんでもないのでしょうけれど。困った。

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