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『白時雨(5)』『ハルカカナタ(4)』

『白時雨』


 十一月下旬。早朝の住宅街に今期初めての霜が降りました。点在する裸の街路樹にも、立ち並ぶブロック壁にも、眠ったままの車の上にも、真っ白い霜が降りています。光が射し込めば、その輝きはさらに純度を増すのでしょうが、空には暗雲がひしめき合っていました。

 重い空の下。氷の世界の一角に、なぜかこの時期に咲いてしまったたんぽぽがぽつんと綻んでいました。たんぽぽは、今にも身体中に張り付いた結晶に身も心も凍らされてしまいそうです。がちがち震える声で周りの霜に尋ねました。

「どうしてこんなに凍てつく氷で世界を覆ってしまうの?」

 霜はしばらく考えて答えました。

「そんなこと、あたしたちに聞いてもしょうがないわ。だってそういうものなんだもの。冬が近づけば霜が降りる。そういう風になってるのよ。まあ気の毒だと思うけど、仕方ないんじゃないかしら」

 それっきり霜は何も答えることはありませんでした。寒さに震えるたんぽぽは、段々と息をするのも辛くになってきていました。

 そこへ、ひゅるりと、枯葉を巻き上げながら北風が吹いてきました。北風はひゅるりひゅるりと気ままに街を駆けていきます。ただでさえ凍え死んでしまうんじゃないかと思うほどに寒かったたんぽぽは、北風の登場によってさらに寒くなってしまいました。身体が動かなくなるほどの寒さを、はんぽぽは初めて経験したのです。素直な驚きと濃くなる死の色にたんぽぽは感動しました。こんな世界があるんだ。たんぽぽはうまく回らない口をどうにか動かして、北風に尋ねました。

「どうしてすごく寒かったのに、もっと寒くなるようなことをするの?」

 北風は少し考えて答えました。

「そんなこと、俺たちに言ったってしょうがないよ。だってそういうもんなんだからな。冬が近づけば北風が吹く。そういう風になってんだよ。まあ気の毒だとは思うが、仕方ないんじゃないの」

 それっきり北風が答えることはもうありませんでした。たんぽぽは運ばれてきた枯葉を眺めました。茶色く色あせた表面にはうっすらと霜が降りていました。

 雲が早く流れていきます。空はどんどん黒く、暗くなっていきます。そのうちに、たんぽぽはぽつぽつと身体を濡らす雨に気が付きました。北風も強さを増しています。寒さで意識が遠のいていくのを感じながら、たんぽぽは降り始めた雨に尋ねました。

「どうしてこんなに冷たい雨を降らすの?」

 雨は考えることなく答えました。

「そんなこと、おいらたちに聞いてもしょうがないさ。だってそういうもんなんだからね。冬が近づけば雨はやがて雪に変わる。そんなの道理なんだ。自然の摂理なんだよ。ほら、例えばこんな風にね」

 そう雨がいうと、空から白い雨が降ってきました。雨の中に雪が混じった白い雨。たんぽぽは霞む瞳でその雨を眺めました。

「時雨はみぞれに変わり、大地を冷やして、やがて雪を積もらせる。雪は世界を覆い、春が目覚めるその時まで静かに時間を止めるんだ。君にとってはこれ以上ない災難だけど、そういう風になってるんだよ。まあ気の毒だと思うけど、仕方ないよね」

 それっきり雨は何を言うわけでもなく、しとしとと白い雨を降らしていきました。たんぽぽの瞳は、光を見ることを止めてしまいました。

 白い雨がたんぽぽの身体に当たります。少しずつ少しずつ積もっていきます。北風が吹いて、いつの間にかいなくなってしまっていた霜に変わって、みぞれがたんぽぽの体温を奪っていきました。

 そしてたんぽぽは、もう冷たさや寒さを感じることすら出来なくなってしまいました。感覚がどこにもないのです。目も見えない。何も感じない。そういえば音も聴くことが出来なくなっているようです。たんぽぽは静かに、自分の死を感じていました。一方で何だか吹っ切れた気分でした。

 だって、全ては仕方のないことだから。

 たんぽぽが十一月に咲いてしまったことも、霜が降り、北風が吹き、みぞれが降って、たんぽぽが死んでしまうことも、全部が全部当然でどうしようもないことだからこそ仕方のないことだったのです。

 たんぽぽは、穏やかな暗闇の中を漂いながら、深淵へ、漆黒に包まれた深い底へとゆっくりと落ちていきます。そこにあるのは巨大な一本の流れ。海から出でて、海へと帰る河。もしくは、起源のない始まりから流れ出て、ぐるりとめぐり続ける終焉を忘れてしまった生命の記憶でした。

 とどまることを知らないその流れを前にして、たんぽぽはこっそり北風に運ばれてきていた枯葉に尋ねます。

「どうして僕らはここにいるの?」

 けれど、ここにはいない枯葉から聞こえる言葉なんてあるはずもなくて。

 答えのない問いかけを秘めたまま、たんぽぽは流れの中へと意識を沈めていきました。


(おわり)


 ☆ ★ ☆


『ハルカカナタ』


 夜空にまん丸のお月様。肌に触れる外気は自然と肩を抱いてしまうほどに寒くなっていた。

 私はひとりベランダに出て、毛布に包まりお月見中。手にしたマグカップの中で渦を巻くコーヒーが、何だかとっても温かくて。広い街で、暗い夜でひとりぼっちの私にとっては、涙が出そうになるくらいに優しかった。

 今朝、洋司は死んだそうだ。そうだ、というのは、私は実際にその死体を目にしたわけではないから。遠い遠い異国の地で、パニックに陥る群衆をなんとか宥めようとしていた最中に、凶弾に倒れたのだという。ただ現地で医療活動をしていただけなのに。傷ついた人々を、少しでも救おうと誇り高く生きていただけだったのに。突然生じたゲリラと国軍との市街戦に巻き込まれて、あっけなく殺されてしまった。大切な約束を果たさぬままに。

 それを私は、今しがたのニュースでようやく知った。

 午後六時。空に金色の月が懸かり、大抵の家庭が夕食の準備をするか、もう取り始めている時間帯。家路を急ぐ会社員たちが雑踏を掻き分け家族の許へ向かっていた頃に、同じく仕事を終えて帰宅していた私はテレビを見ていた。

 特にすることもなく、差し迫った状況にあったわけでもない。穏やかな日常を過ごしていた。本当に平凡で、平凡すぎてどこかで戦争が続いているとか、今がとっても平和なんだとか、そんな当たり前のことさえ忘れてしまうくらいにつまらない時を過ごしていたのだ。

 コーヒーを一口啜る。熱くて熱くてとっても苦い。口の中いっぱいに広がって、喉を焼いていった。

 ベランダに出てくる前、全ての電化製品の電源を落とした。部屋の照明も、冷蔵庫も、テレビも。全部コンセントを引っこ抜いて、ブレーカーを下げてしまった。きっと今日はとっても経済的な一日になるんだろうな。ぼんやりとそんなことを考えた。

 例えば、この街においても、今こうして見上げている夜空を、他の誰かが見上げているのかもしれない。電車の中から、ホテルの窓から、寒い寒い公園の片隅から。みんな見上げているのかもしれない。どこかでは誰かが人を傷つけ、傷つきあっているのだろう。

 そんな当たり前のこと。誰にでも、同じ空、繋がってる景色があること。そのことを長らく忘れていたような気がする。

 洋司は苦しまずに死ねたかな。悔しいって思ったのかな。もっと生きたいって、どうして、どうして、どうしてって、思ったのかな。私のことは少しでも考えてくれたのだろうか。

 涙を流したのかもしれない。

 でも、そんなの当たり前で。死なんて誰にだって平等に待っていて、いくら悔やんだって、どうせいつかは訪れることなんだって、出国する前に洋司は笑っていた。どんな人でも、いつかはこの広い空に消えていく。ただそれが早いか遅いかの違いだけで、死んじゃうんことには変わりないんだって。

 でも、そんなこと、私は素直に納得できると洋司は本当に思っていたのだろうか。

 夜風が吹く。冷たい空気が染み込んでくる。

 砂糖をもっと入れたらよかった。甘い甘いコーヒーを飲めば、少しくらいは悲しみが癒えたかもしれないのに。

 カップを宙で逆さまにしながら、苦いコーヒーはやっぱり洋司の舌にしか合わないんだろうなと思った。

 階下で、何事かと驚いた人が声を上げたのが、少しだけ可笑しくて、ちょっぴり涙がこぼれてしまった。


(おわり)

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