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『黄昏(7)』『大相撲交差点場所(5)』『光鏡(3)』

『黄昏』


 夕暮れが作り出す曖昧な陰影は、物と物とも境界を、輪郭と空気との狭間を、科学の実験なんかで使うベンゼン類みたいにどろりと溶かして混ぜ合わせてしまう。陰は物と同化し、影は輪郭と外気を繋いでいく。そこに何があるのか、誰がいるのか、一見しただけでは分からなくなってしまう。

 だからなのだろうか。朱に染まった空が濃紺を編みこんでいけばいくほどに、人は大胆になってしまうような気がする。もしくは、不意を衝かれてしまう。きっとあやふやな陰影は、人の心を少しだけ開放的にするのだろう。姿が見えないから。正体が分からないから。そう考えてみると、金星はいろんな秘密を知っているような気がした。

「金星は、その誕生からしばらくは地球と似たような成長をしていたんだって」

 不意をついて、山仲くんは、そんなプチ情報を私に教えてきてくれる。知っているからといって、何かに役立つわけではない。いつか専門の学問を学んだ時に思い出すかもしれないけれど、がちがちの文型脳な私には縁遠い可能性でしかなくて、ということはいくら聞いたところで私には一厘ほども役に立ちそうな話題ではなかったのだ。

 あるいは、どこかでこの話を違う誰かに話すことがあるのかもしれない。たとえば女の子の友達だったり、いつかできるであろう名前も知らない彼氏だったり。今日みたいな夕暮れ時に、光る一番星を見つけてぼやくのだ。

「ねえ知ってる? 金星って生まれてからしばらくは地球と似たような成長をしていたんだよ」

 だからなんだって言う。てくてくと先を歩きながら、背後で楽しそうに説明を続けている山仲くんの声を聞いていた。

 山仲くんは、変わったヒトだった。私と同じ高校に通っている生徒というわけではない。そもそも高校生ですらない。自称大学生らしいけれど、実際のところはよく分からない。今日みたいな夕暮れ時に私が帰宅していたら、ある時期から後ろを歩き始め、そして朗々と様々な知識を披露してくれるのだった。

 はっきり言って、不審者である。通報したり、叫び声を上げたら、誰かに助けてもらえるような気はした。それもかなり過保護な扱いを受けて。でも、私は山仲くんから危険な感じを覚えなかった。彼はただ、話したいだけなのだ。たまたま私がその相手に選ばれただけで、きっと山仲くんの気が変われば相手は路傍の石ころでも構わないのだろう。

 事実、私は何かしら傷を付けられたり、精神的な被害を受けてはいなかった。ずうっと山仲くんの独演会は続いていたけれど、こちらとしても山仲くんのことを道端の小石程度に思うようにしていたのだ。あるいは、端っからそう思っていたのかもしれないけれど。

 さてさて、ともすれば、後ろを歩いてくるだけの山仲くんなんてどうってことはない存在になってしまう。今までに一度たりともレスポンスも返さなかったから、私と山仲くんの奇妙な行進は、今日までなんら変化することなく続いている。

「宇宙の成分というものを調べてみるとね、その九割近くがよく分からない物質でできているということが分かったんだ。暗黒物質といってね、そこに何かがあることは分かるのだけれど、もちろん目視することはできないんだ。主成分が何かとかも、どんな意味を持っているのかも分からない。宇宙は、望遠鏡が発達してどんどん広くなったし、赤外線を捉えることで、現在同一時間のものは無理だけど、大まかな宇宙の枠を計測することもできるようになった。最も遠い銀河系も見つかったし、その銀河系団が回っている中心のようなものをあることが分かってきた。けれどもけれども、その反面、どんどん分からないことが増えていったんだ。これは人間にも言えることだ。自然科学もそう。猟奇的な犯罪者の思考を暴く犯罪心理学にしても、深海の秘密を探る海洋学にしても、精神医学にしても、カンブリア記における生物の爆発的な多様性の発現にしても、脳にしたってそうだ。細分化してどんどん突き詰めていけばいくほどに分からなくなってくる。逆に言えば、分からないということばかりが分かっていく。憶測ばかりが生まれていくんだね」

 そうなんですかと、私は内心返事をして夜空を仰ぐ。ぽつぽつと、星が瞬き始めていた。そのまま街灯の下に入る。視界がぱっと明るくなって、金星と月以外、天体はひとつも見えなくなった。

 私の足が止まる。後ろからついてくる足音も止まる。

 ぐるりと首だけ捻って、背後を振り返ってみた。

 ちょうど、スポットライトのようになった円の端に、しかし立ち止まっているはずの靴は見受けられない。というよりも、そもそも誰も居ないのだ。私の背後には、誰もついてきていない。

 鼻から息を吐き出して、再び前を向く。歩き始めると、また朗々とした独演会が始まった。

「日本では月にウサギがいることになっているが、場所によっては蟹や老婆などに変わっている。本を読む人も居るらしい。もしかしたら、僕もいるのかもしれない。見る場所が違えば、そして見る人が違えば、月にある湖の形はどうにでも変化してしまうものなんだ。というわけだから、実際のところ月にはウサギも蟹も老婆もライオンも、いいや、地球に居るだろうありとあらゆる生物は存在しているということになる。星座の神話にしてもそうだ。人は、光と光を結んで物語を導いた。もしかすると、それは地上における生命にも言えることなのかもしれない。命と命を繋いで、物語を紡ぐ。それが、生きるということなのかもしれない」

 はあ、そうなのですか。思いながら、私は一人家路を急ぐ。


   誰そ彼と 我を問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つ我を


 山仲くんは果たしてヒトなのか、それともモノなのだろうか。誰かを待っているのだろうか。境界の時間で、じっと何かに焦がれているのだろうか。分からない。分からないけれど、私はじっと歩き続けている。じっと、ただ前だけを向いて歩き続けている。

 りんりんと、鈴虫が綺麗な音を響かせていた。


(おわり)


 ★ ☆ ★


『大相撲交差点場所』


 真昼のスクランブル交差点。目の前で車がびゅんびゅん行き交っていて、太陽に焼かれたアスファルトはまるで適度に炙ったフライパンみたいに熱を持ってきている。

 私の隣には、ベビーカーに乗った赤ちゃんが居た。疲弊し、心底ぐったりとやつれている。軽い脱水症状を起こしているのかもしれない。気の毒だったけれど、恨むなら考えのないあんたの母親を恨んでくれと私は胸のうちで呟いた。

 車の流れが変化する。私たちの大相撲は、いまこのとき、この瞬間から開幕を迎える。

 自動車用の丸信号が青から黄色、そして右折車用の矢印になる。また黄色になって、とうとう赤に変わった。

 東西南北、顔を見上げて確認する。全ての交差点が真っ赤に染まっていた。拳を握り締めて、私は全身に力を漲らせていく。

 ぱっと、まるでコンダクターが振り上げた腕に合わせたオーケストラの第一音のように、一瞬で歩行者用の信号が青に変わった。

 私は誰よりも早く歩道へ飛び出して、ラインが斜めに交差する中央へと躍り出る。同じくして、私が飛び出した南の反対側の人ごみから、一人の女性が駆け寄ってきた。

 私はアスファルトに膝を突く。熱い! これはもうフッ素コーティングのフライパンを通り越して直火に嬲られた鉄板のようだ。でも負けないぜ。私はじっと正面を睨む。

 軍配を握った先輩は、緊迫した表情を浮かべて突っ立っていた。片足を前に出した半身の姿の女性は、はっきり言って女性でなくてもこの場所に不釣合いで、でもだからこそ近寄るものを拒む威圧感に満ち溢れていた。見つめ合って、息を殺していると、じゅんぐりとドームのように気が膨れ上がっていくのが分かるような気がする。

 そんな土俵に向かって、私と先輩から一瞬だけ送れて、東西から二人の男が走り寄ってくる。うおおおぉぉぉと片方は叫んでいて、もう一方の眼鏡は寡黙なまま全力で腕を振っている。

 始まる。いよいよ始まるのだ。私たちの戦い。付けなければならない勝負の形。

 先輩の軍配が素早く道路に平伏した直後に、私の目の前で二人の男はがっちりと組み合わさった。どんと、響いた音を私ははっきりと耳にする。

 衝撃は互角。回し代わりのズボンにお互いの腕が伸びていて、肩に乗せた顔はふっふっと短い呼吸を繰り返している。

 固唾を飲まずには居られなかった。のこったのこったと、衝突後動きの少ない二人に先輩が叫んでいる。周りの人々は訳が分からないといった様子で眺め通り過ぎ、あるいは邪魔そうにあからさまに顔を顰めていて、またある人は面白そうに立ち止まって周囲に輪を作っていた。

 けれど、私にとっても先輩にとっても、そして組み合う二人の男にとっても、周りの観客のことなど眼中になかった。むしろ邪魔だった。面白おかしく眺めてるんじゃないよ! 胸中では憤っていた。

 私たちは、そして彼らは、今はこの戦いに全てをかけているのだ。

 じりりと、眼鏡が押され始めてしまった。

「のこったぁ、のこったぁ!」

 先輩の声が、交差点の中央で谺する。記録係の私は、じっと戦況を見守っている。がんばれがんばれっ! 小さく声に出しながら。

 と、眼鏡がふんと息を止めた。右足を内股にかけて、そのまま一気に投げを放つ。

 一歩、二歩、三歩。二人は片足のまま飛び上がった。叫んだ男は懸命に堪えている。眼鏡は全力でねじ伏せようとしている。

 相撲の醍醐味は圧倒的な力なのだと教えてくれたのは、他でもない、軍配を振るう先輩だった。

 四度目、放った眼鏡の投げが、ついに叫んでいた男の我慢を押し切った。

 右手から、思いっきり地面に打ち付けられた叫び男。ごろりと転がって、しばらく動かなかった。熱くて硬いアスファルトは、たったそれだけだけでもものすごく手痛い傷を負ってしまう危険性がある。私は彼の安否を心配した。

 案の定、立ち上がり始めた叫び男は思いっきり顔を顰めていて、よくよく見てみれば右の掌の皮がずるりと剥けてしまっていた。どくどくと血が滴っている。

 それを見て、私はぐっと唇を噛む。様子を気づかれたのか、男はにっと微笑んできた。

 立ち上がる。二人見合って、礼をする。先輩が、勝った眼鏡の名前を朗々と空に叫んだ。見守っていたらしい物好きな群衆からちらほらと拍手が漏れる。

 たぶん、その一瞬交差点の真ん中は奇妙な空間になってしまっていたと思う。確かめる方法がなくて残念なのだけれど。

 鳴っていたとうりゃんせがぱたりと止んだ。私たちは互いに見合って、再び四方へ駆け戻っていった。

 再び群集の中に紛れて、私は記録表に目を投じる。

 これからの三番で、大関と横綱が出てくる予定になっていた。

 戦いは、まだまだこれから。

 きっと、意思を込めて対岸を睨むと、先輩がにやりと笑っていた。

 車はまたびゅんびゅんと通り過ぎていく。


(おわり)


 ☆ ★ ☆


『光鏡』


 莉緒は届いたメールに目を奪われているようだった。

 咥えたストローから、ぽたり、小さな滴が落ちていく。ささやかな衝撃が、グラスに浮かんだ氷を打ってコロリと音を立てた。

 部活帰りの喫茶店は、いつもほんのり涼しくて、穏やかな空気で満たされているような気がする。とても居心地がいい。常連さんぐらいしか居なくて、人が少ないからなのかもしれない。もしくは、疲労のせいでちょっと脱力しているのかもしれない。

 あるいは、目の前に莉緒がいるからなのかもしれなかった。……よくは分からない。私には、いろいろなことがよく分からない。

 後ろでひとつにまとめた茶髪は、さっきからずっと停止している。見開いた目も、ケータイを持つ左手も、ストローだって身じろぎひとつしていない。

「どうしたの?」

 訊ねてみた。

「……あ、うん。何でもないよ」

 答えて、ケータイを畳んで勢いよくアイスティーを飲み始めた姿に、私はかける言葉を見失ってしまう。

 透明なストッパー。理由の分からない抑制。

 莉緒は、何でも自分で判断できる。考えて、さっと答を選ぶことができる。私にはできないこと。眩しい。憧れだった。

 ぐるぐると、手元のカフェオレが渦を巻いた。

「……ねえ、これからどっか行く?」

「特に予定はないけど」

「じゃあ、映画でも見に行かない?」

 提案すると、莉緒はぱっと顔を綻ばせた。

「いいね。行こうか」

 それでも、私は莉緒が好きだ。同性として、友達として、あるいはそれ以上の感情としての好き。

 最初は純粋な憧れだったのかな。すごく眩しくて、輝いて見えた莉緒の姿。だから、最初から恋に落ちていたのかもしれない。圧倒的な存在感。目を離せなくなってしまったのだから。

 立ち上がり、先を歩く背中を、懸命に追っていく。

 置いていかれたくないから。近づきたい。できれば並んで歩きたいから。

「よく晴れてるね」

 店を出た莉緒が言った。

「そうだね」

 私は、日の光を受けた横顔を見つめることしかできなかった。


(おわり)


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