『秋の声(4)』『骨の話(7)』『翼の雲(3)』
『秋の声』
「なんて言うのかさあ、“もすい”んだよね」
「もすい?」
「そう、“もすい”。それか、“すまい”」
リー君はときどき変なことを言う。秋風の吹く国道沿いの花壇に腰掛けて、私たちはジュースを飲んでいた。
「秋ってさ、高気圧が大陸性のものに変わるからなのか、胸にすんと来るんだよな」
ぐびぐびとジュースが咽喉を通っていく。田舎の、山に囲まれてほとんど車が通らない道路には、吹き抜ける風だけが忙しなく往き帰りを繰り返していた。
「日本には四季がある。土地の景観とか空気とかわ人の心を育むけれど、これだけ多岐に富んだ季節に囲まれていると、ふらふらしてしまいそうだよね」
リー君は、大陸から来た都会っ子だ。大学院で日本語を専攻していた。今は都内の大学に留学に来ている。結構なブルジョワだと思う。
対する私はというと、この何にもない田舎出身。近くにコンビニもなければ、デパートも、スーパーもない。一時間近くバイクを運転した先に、ようやく地方チェーンの総合店舗が立っているくらいだ。最近になってようやく携帯が通じたくらい。上下水道、電気は完備されているけれど、文明の最先端、インターネットは設置の計画すら立っていない。
「僕はよくよく思うんだけど、こういう自然に囲まれた中には、全てが含まれているよね」
蜻蛉がひゅーと飛んで行った。
「全てねえ……」
「うん。全て。ちょっと暑いくらいの陽射しとか、乾いてて心地いい風とか、梢の震え方も、溢れる緑も、空を埋め尽くすくらいの蜻蛉だってそうだ。見ているだけで、満たされる。感じることができる」
よく分からない。ずっとこの田舎で過ごして、高校で出て、大学からようやく都会を経験した私には理解できないことだった。
秋の虫が、りんりんと鳴いている。
「リー君はちょっとだけこの場所に浸ったからそう感じるんだよ。この何にもないところにじゅんぐり沈んで、底に溜まった泥に足を付けちゃうとさ、すごく退屈になるよ。すごく自分を顧みちゃう」
本心だった。私はここの景色に、そしてここの空気に、飽き飽きしてしまっている。
ぐぐぐっとジュースを飲むと、隣のリー君はくくくっと笑っていた。勝手に濁音を消すんじゃない。むっとして睨んだら、はっとして微笑を返してきた。
「自然から己を顧みてしまうような風景に囲まれているのは、とても幸運なことだと思うよ」
「そうでもないよ」
「気づいていないだけさ。もしくは、慣れてしまったか、忘れてしまったのか」
慣れて忘れてしまった。なるほど、そうなのかもしれない。私は、長い間この自然に囲まれて育ってしまったから、どこかが自然の一部と混ざってしまっているのかもしれない。
そんな考えを口にすると、リー君はつうっと山に視線を投げた。
「羨ましいな」
「私には、自然に感動できるリー君の方が羨ましい」
「人はないものをねだるからね」
「そうだね」
山の太陽は、すぐに隠れてしまう。大きな大きな影に飲み込まれながら、私たちはじっとコンクリートの花壇に腰掛けていた。車は、二三台だけ通った。あとはずっと静かだった。
「でも、絵梨奈はこの場所のことが好きだよ」
唐突に断言された。反論は試みない。だってその通りなのだ。私はここの景色と空気が、結構好き。
「好きじゃなかったら、恋人をわざわざ連れてこないよ」
目を閉じて呟いた。こんな田舎。何にもない、でも全てがある山の中。
胸いっぱいに空気を吸い込みながら、空を仰いだ。少しオレンジ色を含み始めた夕暮れ近い山の空。
「そろそろ帰ろうか」
「帰るってったって、絵梨奈の家はすぐそこじゃないか」
リー君が笑う。私も笑う。
蜻蛉はひゅんひゅん空を舞っていた。
(おわり)
★ ☆ ★
『骨の話』
二年前に夫と一人息子を交通事故で亡くした姉には、どんな料理にも欠かせない調味料があります。コーヒーに加えれば香りを惹きたて、カレーに加えればコクが増し、ケーキに混ぜ込めば柔らかな甘味が口いっぱいに広がるという、まさに魔法のような調味料なのです。
小さな小さな、青色の硝子瓶に仕舞われた大事な調味料。姉は、私はもちろんのこと、両親にも、心を開き始めた友達にも使わせません。大切なものだからというのもありますが、どうにも、姉以外の人間には効力がないようなのです。
本当に、たった一人だけに効き目があるなんて魔法のようですよね。白くて、まっさらで、ともすれば小麦粉のようにしか見えない調味料には、けれども、確かに魔法がかけられているのです。
姉は、この調味料を使うようになってからめっきり元気を取り戻しました。
思えば、初めて姉が純白の調味料を使い出したのは去年の暮れ頃のことでした。一年以上、最愛の人と我が子を失ったがために塞ぎこんでしまっていた姉は、その日もずっと仏壇の前に座り込んでいました。
まだ彼らが死んでしまったのだという実感が湧かなかったのでしょう、姉は頑なに墓へ納骨することを拒んでいました。だから、姉の前にはいついかなる時でも二人分の骨があったのです。大切な人たちの、最後の姿。じっと、光を失った眼差しで見つめていました。
それが、夕飯時になった頃にがらりと変わりました。
私が母と共に台所に立っていたところ、階段がぎぃーっ、ぎぃーっと軋んだのです。それまでの姉は、夕食を作り終え、声をかけて無理やり立ち上がらせないことには二人の骨の前から移動しようとしませんでした。
なのに、その日は降りてきたのです。
自らの足で。もしくは意思で。
私と母は心底驚きました。
「どうしたの?」
口を開けたままの母に変わって、私が訪ねました。姉は弱々しげに笑うと、「今まで迷惑かけてごめんなさい」と低頭し、「これからは何でも自分でやるから」と宣言したのでした。
驚きを新たにした私の隣で、母は両眼に涙を溜めて何度も頷いていました。ようやく前を向けたのだと、そのことを何よりも喜んでいたのです。
姉の夫と息子を、母はとても愛していました。ですので、二人を事故で失ったときの悲しみを姉と一番近い場所で共有していたのだろうし、そのときも痛みに堪えながらの祝福だったろうと思うのです。執着していた過去を拭い去るのには、鈍痛が伴うものですからね。それから姉はもう一度だけ二階へ戻っていきました。
夕食の時です。姉は小さな小瓶を持ってきていました。それが始まりだったのです。以降姉は、口に含むものにはなんにでもその調味料を加えました。まるで、その調味料を食すことが何よりも優先すべき第一の目的であるかのように。
私はもとより、母も、それから父もその中身についてはうすうす気がついていましたが、両親は明るくなり始めた姉の手前、そのことを咎めるようなことはできないようでした。
もちろん、私もその一員でした。少なくとも、一年ぐらいは。
けれど、やはりダメなものはダメだったのです。どうしても嫌悪感が、いえ、たぶん嫌悪はしていませんでした。純粋な疑問を押し留めておくことができなくなってしまったのです。
そのため、訊いてしまったのです。よく晴れた夏の休日のことでした。ちょうど大学の夏季休暇で実家に帰っていた私は、姉とショッピングに出かけて、帰り道に小さな喫茶店に立ち寄りました。そこで、相変わらず小瓶をカフェオレに振るった姉。私の口は勝手に動き出してしまっていました。
「それ、あとどれくらいなの?」
呟いた直後に、しまったと後悔しましたが、おそらくそのときの私は一種の興奮状態に突入してしまっていたのでしょう、粗暴な好奇心が瞬間的に後悔を踏み潰してしまいました。
ぎらぎらした眼差しを向けていたであろう私に向かって、姉は少し困ったような、淋しそうな表情をして俯きました。
「……最近はもう使いたくないんだけれどね。でも、どうしても止められなくて」
「どうして使いたくないの?」
「だって、私が二人を吸収しちゃったら、どこに二人がいたことが残るのかしら」
そのとき、私は記憶とか思い出に残るじゃないと、写真もたくさんあるんだし、二人がいた過去は消えないんじゃないのと返したような気がします。今でもそう思う。誰かがいたという証拠は、その誰かを覚え続ける人がいるから生まれるのではないかと思ったわけなのです。
けれど、姉の表情は微塵も変化することはありませんでした。
「佐奈の言うことはよく分かるよ。でもね、駄目なんだ。それじゃあ、駄目なの。記憶や思い出だけじゃ頼りないのよ。ときどきね、どうして人は亡くなった人を埋葬し始めたんだろうって考えるんだけれどね、転生の死生観があったのかもしれないけれど、それとは別にその人の肉体を保存した証拠が欲しかったと思うの」
「肉体を保存した証拠?」
「そう。だって、記憶や思い出は形に残らないじゃない。消えていってしまう。だからね、その人がいた決定的な証拠が欲しくなるの。確かに佐奈が言ったように写真でもいいのかもしれない。ちの部屋も、結局あの子は一度も使わなかったけれどまだそのままだし、確かに唯物的な証拠になっている。でもね、私にはそれだけじゃ駄目だった。肉体の保存が、肉体がそこにあったという証拠を残しておきたくなってしまったの」
「つまりは、欲張りなんだ」
冗談のつもりでそう言ったのに、姉はそうなのと苦笑しました。
その儚さと、口にしているにも関わらずに調味料を手放せない心細さ――狂気とを目にして、一瞬私は眩暈を覚えたような気がしました。
ぐるりと回った世界の中で、姉はとても綺麗に微笑んでいて。
一年後の同じ日、同じ場所でコーヒーを飲んでいる私には、今でも目の前にその微笑が浮かんできてしまうのです。
姉の調味料はまだなくなっていません。なくなってはいませんが、最近は二人を亡くす前のように快活に微笑むようになった気がします。
それでも、私は姉が怖いのです。そう、私は姉のことが心底怖い。理解できないから、恐ろしいのです。
じいっと見つめる硝子の向こう側で、買い物袋をぶら下げた彼女は大きく手を振っていて。
その懐にあの青い小瓶が忍ばされていると想像すると――
ぞっと、私は背筋を粟立たせてしまうのです。
(おわり)
★ ☆ ★
『翼の雲』
にゃあ、とその子猫は鳴いた。白くて白くて、高山に降る粉雪のような純白さだと思った。
――にゃあ。
私は水溜りを踏む。ぱしゃりと飛沫が円になる。茶色のブーツが汚れて、マフラーの隙間から吐息が煙になって空へと昇っていった。
行く末を、じっと見つめる。消えることが分かっていながらも、見つめずにはいられないのだ。込み上げる衝動。押さえの利かない眼の蠢き。宇宙の九十パーセント以上が分からないように、深海のほとんどが解明できないように、私は私のことがほとんどよく分かっていないのだと思う。
――にゃあ。
白猫は鳴く。いや、泣いている。どうしてか。ダンボールに入れられているからか。否。白猫が白猫であるが故に泣いているのだ。白猫は白猫だから鳴きはしない。白猫は白猫だから泣かずにはいられないのだ。
いつの間にか、吐息は空気に溶けてしまっていた。瞬間を私は目にしていない。今回も見逃した。奴らは、知らないところでさっと姿を消してゆく。
ぐぐっと空を見上げた。一面の青の中央に、鳥の羽のような形の雲がぽっかり浮かんでいた。
それはまさしく浮かんでいるというに相応しい姿をしていて、例えば意地悪な北風が豪と薙ぎ吹いたのならば、バランスを崩して上下に揺れ動いたことだろうし、大粒の雨がだだだと降り注いだのならば転覆してしまいそうな危うさを孕んでいた。
羽はいい。翼はとてもいい。理由はよく分からない。けれど、たぶんだけれど、自由な気がするからいいのだと思う。どこがどういいのかは分からない。自由は自己完結的な責任を生んでいくものだから、底冷えするような恐ろしさがあるのだけれど、いやいやどうして、憧れずにはいられない。
憧れというものも、その内実はよく分からないものだと思う。私の中の九十パーセントに分類されているのだ。
ぐぐっと、ぐぐぐっと雲を見上げる。吐息がマフラーの隙間から漏れて、立ち昇っていく。羽のような雲は大きくて、見ていれば見ているほどに巨大になっていって、私は図らずも圧倒されてしまっていた。
――にゃあ。
白猫が、随分遠いところで泣いている。鳴いているのではない。泣いているのだ。そして今ならその理由が破片ほどだけ分かるような気がした。
雲はどんどんどんどん大きくなる。白猫の泣き声はどんどんどんどんどんどん小さくなる。私はぐぐぐぐぐぐっと雲を見上げて、吐息はどんどんはっきりと、目に見えてくるようになる。
――にゃあ。
ぽちゃりと、茶色のブーツが水溜りに沈んだ。
(おわり)
記念すべき(?)四十部目は三つとも“の”が目立つものとなりました。……もっとこう、タイトルセンスがほしい。




