『ネコの帰る所(8)』『たったひとつの銃弾が世界を変える(7)』
『ネコの帰る所』
晩秋から初冬にかけての快晴は、厚着をするべきか悩まなければならないからあんまり好きじゃない。それも、悩んだ挙句の服装は、大抵裏目に出てしまうから厄介なのだ。
人間たる生活を送るための最低条件――衣食住の充実は、やっぱり大切なんだなあとしみじみ思った。ろくに服なんて揃えずに、突発的に家を飛び出したもんだから、そのことが余計に身に染みて感じられていたのだ。こんなに晴れてるのに、とっても寒い!
中天の太陽を睨みつける。俗に言う家出少女となって早三日。放浪生活は佳境を迎えようとしている。
真昼の公園と言うものは、こう、もっと昼食を楽しむ人たちとかおしゃべりに興じる主婦とか子供たちでごった返しているもんだと思い込んでいた。だから、閑散としたままのこの光景には少々驚いた。寂しいじゃないか。あたしは滑り台の天辺で体操座りをしている。
今頃母さんは何を思っているんだろうとぼんやり考えた。誰にも何も言わずに家を飛び出してしまったから、流石にあたしのことを心配しているかもしれない。ともすれば、警察に助けを求めている可能性も考えられた。見上げた空に、青は滞りなくどこまでも続いている。
猛烈にひとりになりたくて、家を飛び出した。わけの分からない、正体不明の衝動に突き動かされていたのだと思う。家族も学校も友達も恋人も、みんなみんな全部取っ払って、ひとりになりたかった。
三日間、街を歩いて人を眺めて、働く人、繋がってる人、足早に前を向き歩いていく人の波を、生きている人たちの足音を聞いてみて、あたしは次第に自分が小さくなっいくのを感じていた。そしてそのまま姿を見失ってしまった。
自分って何だろう、どうして自分はここにいるんだろうって、俯き流れに逆行しながら沸々と疑問が浮かび上がってきてしまって、くだらないから考えたくないと思ってもじわじわ頭の中に湧き出してきていて、煩わしいから消そうと思っても追っ払おうと思っても脳みそから染み出し来るものだからどうしようもなくて、あーあ、自分って何なんだろうなんて結局悩んでしまうわけで――
そこには答えなんてなくて、答えが見えず苦しむのが辛いから、みんな歩いて、前を向いて、コツコツコツコツ、規律よく足音を鳴らしていくんだーとか、勝手に結論付けてしまったりしていた。
狭い滑り台の天辺。ちょっぴり伸びをしてみたあたしは野良猫。自由な黒猫だ。好きなときに好きなことをして、のんびり毎日を過ごす。誰にも縛られない。誰も縛らない。そんな生き方。気楽な人生。強い意志。そんなのをあたしは理想として夢見ていたのに。
……なんだか不安になる。社会から飛び出したはずなのに、社会から切り離されてしまったように感じる。そのことが、何だかとっても心細くて。ひとり憂鬱になる真昼の太陽の下。所詮あたしはなんの力のない、一個人なんだろうなって、妙に納得していたりするのです。
見上げている青空には雲ひとつ浮かんでいない。その青は、まるでこんなあたしなんぞが抱いているちっぽけな悩みを馬鹿にしているかのように清々しかった。
本当に退屈だ。退屈すぎて死んでしまうかもしれないぞと思った。
だからだろうか。その鳴き声が聞こえ始めた時、ちょっぴりわくわくした。退屈を紛らわすのに一番効果的なのは、何かしらの出来事に巻き込まれることであることを、あたしはテレビドラマから学び取っていた。
周りを見渡して、少し離れた地面の上に泣いている白い子猫を見つける。鳴いているんじゃなくて、泣いている子猫。何となくあたしには分かるのだ。きっと、母親と逸れてしまったのだろう。座り込んだまま、子猫は泣き続けていた。
あーあー、よしよし。仕方ないないあ。あたしが側にいてあげるから。
思い立って、颯爽と銀板の斜面を滑り降りる。両足で砂場に踏ん張り、両手を高く、体操選手のように綺麗に起立する。滑り台の女王と呼ばれていた過去の栄光は伊達じゃないのだ。誇らしさに心なしか胸が大きくなったような気がした。
さてさて、行きましょうか。ぴんと張った両腕を下げ、子猫の元へと向き直ろうとを捻った。あたしが面倒を見てあげるんだから、もう淋しくないですよ。……そう言えば、泣き声が止んでいるような気がするな。
不審に思いながら伏せていた目を上げると、そこには母猫らしき白猫の足元で歩き回る子猫の姿があった。どこか笑っているかのようにも見える子猫の表情。さっきまで、座り込んでしまっていたのに、母が来た途端にもう飛び跳ねたりもしている。さっきまでの悲しみはもうどこにも漂っていなかった。
なんだよ。つまんない。折角あたしが構ってあげようと思ってたのに。込み上げるようにして、腹が立ってしまった。
瞬間、足元の興奮冷めやらない子供の安否を確かめながら熱心にその身体を舐めていた母猫の視線が、あたしのことを射抜いた。人に対する恐怖だとか、不審、威嚇なんかが微塵も感じられない透明な眼差しだった。あたしという存在を、ありのまま包みんでしまうような二つの瞳。
きっと聖人が宿す眼差しには、こういった透明さが必ずどこかに秘められているんだろうなと、率直に感じてしまった。見詰め合ううちに、次第に辺りには母猫とあたしだけの空間が広がっていくような感じがする。目の前にいる猫が、俄かにとてつもない奴であるように思えてきた。
「私たちだって、帰る場所があるからこうやっていられるのよ」
それは一体誰の声だったのだろう。対峙するあたしと猫の間に唐突に響いた声には、なんだか大切なことが含まれているような気がした。だって、その言葉はなんの抵抗もなくあたしの中の深い所に染み込んでいったから。
やがて母猫は、そのどこまでも澄み渡り、見つめた者の心を浄化させるような視線をあたしから外すと、のんびり公園から出て行ってしまった。子猫は忙しなくその後を追っていった。あたしは呆然と親子を眺めることしか出来なかった。
そしてあたしはわけもなく、再び滑り台に上る。かつては簡単に入ることができた頂は、今はもう窮屈で仕方ない。あたしはそこで体操座りをする。小さな頂上に何とか身体を納めて空を見る。
あたしは猫だ。自由と言う名の、幻の缶詰を探しに旅に出た黒猫。何ものにも縛られることのない野良猫になるのだ。そんな夢を見続けて数日、一瞬だけなることができたかなと思ったけれど、次の瞬間には孤独にも似た不安がやってきていて、遂には混乱の最中にいたあたし。
結局、なりそこないの猫にしかなれなかったみたいだった。
天頂に太陽輝く太陽を見て、猛烈に母さんの味噌汁が食べたくなった。家に帰ったら、まず何よりもお風呂に入りたいなと思った。
でも、考えているいろんなことをする前に、真っ先にしなければならないことがひとつ立ち塞がっている。
「ただいま」
呟いて、家に着くまでにはちゃんと言えるよう、練習をすることにした。
(おわり)
☆ ★ ☆
『たったひとつの銃弾が世界を変える』
君と並んで歩く、ぽつりぽつりと街灯が灯り始めた分かれ道までの家路。左手に立ち並ぶ民家も、右手に広がる街並みも、暖かな光を宿しながら静かに佇んでいる。広がる静寂の中で繰り返す私たちの短いおしゃべり。太陽が沈んだ空に、吐息は白い一筋になって昇っていく。そして溶けるようにして風の中に消えていく言葉たち。空には、随分と編みこまれた濃紺の暗闇と太陽の残光のグラデーションが広がっていた。
あともう少し時が経てば、この空は黒く深く塗り潰されて、山際に懸かるあの三日月がもっともっと綺麗に淡く輝き始めるのだろう。二つの足音が奏でるゆったりとしたリズムを奪い去って、神秘的な冬の夜は訪れる。私たちの別れの時は、今日もまた刻一刻と近づいてきていた。
見上げていた月を、君の声がしたから視界の外に追い出した。「そう言えばさ、今日授業中に寝てる奴がいてさ――」飽きれた表情と声とで、君は今日起きた出来事を私に教えてくれる。
「それでさ、藤岡の奴が真似て言ったんだよ。『気をつけろ。銃口はいつでもお前を狙っている』って。先生もさ、チョークをうまいこと投げたんだよな。すこんって寝てた奴の額に直撃して。もうみんな大爆笑。藤岡はさ、本当にこのタイミングが最上って時に、うまいこと言ったんだよね」
出来るだけ伝わるように、出来るだけ楽しくなるように――しているかなんて私には分からないけれど、声のトーンを変えて、強弱をつけて、君は私に伝えてくれる。それがすごく面白くて、可笑しくて、私はついつい声を漏らして笑ってしまう。君の話は凍える夜に小さなひまわりの花を咲かせるんだ。
例えば、私が事前にそのことを知っていたとしても、君が話すとまるで新しく見聞きした物語のように楽しくなる。もし、それが下らなくて心底詰まらない出来事だったと感じていたとしても、君が話せば途端に喜劇になってしまう。この瞬間、君と二人一緒にいられるこの時ならば、どんなことだって不思議と笑いの種になってしまう気がする。
君が物語を紡いでくれるからなのかな。驚いてしまうくらいに君の言葉には鮮やかな色が付いて、どれもが明るくて、暖かい素敵な色で。君と私とを繋ぐ架け橋になってくれるんだ。
ただ帰り道が同じだけだったのに。あの日、私が傘を家に忘れてしまったあの雨の日から、歯車は大きな音を立てて回り始めた。きっと君の言葉には多少の誇張や嘘があるんだろうけど、そんな些細なことは全然気にならない。君といられる。そのことが何より一番嬉しいことだから。
私はくつくつと笑いが止まらない。お腹が捩れて、前かがみになってしまいそうだった。肩が震える度に前髪は乱れ、視界を邪魔してくるのがちょっと鬱陶しい。瞑った瞳の端から、涙が滲み始めているような感覚があった。
マフラーを巻いていてよかった。大きく広がった口角を君に見られるのは少し恥ずかしかったから。
笑わせてくれる君と、笑ってしまう私。この時間がずっと、ずぅーっと続けば良いんだけれど。でも、そんなこと、絶対に起こりっこない。時間は流れるものだから。だからこの時、君と歩くこの時がとても大切で、失いたくないものなんだ。こうやって一緒にいられることが、何よりも大切でとても幸せなことなんだと思う。
出来ることなら、君に私の想いを伝えたいのだけれど。
いつの間にか着いてしまうY字路。じゃあね。バイバイ。そう言って私は今日も君に手を振るんだろう。
「んじゃ」
君がそっと私の肩を叩く。また明日。そう私は呟く。
きっと叶わぬ恋だから。知らず知らずの内に始まってしまっていた淡い恋だったのだから。
だから、出来るまで近づくことができたのだから、きっともう踏み出さない方がいいんだ。壊れてしまうことを、変わってしまうことを私はびくびく恐れていて、このままでこのままで、傷つかない傷つけないままの二人でいることを望んでしまっていた。
臆病で意気地のない恋。こんなこと、君が知ったら私は嫌わちゃうかもしれない。
離れる君は手を振って違う道、私の知らないところへ帰ってしまう。
「バイバイ……」
――本当はね、大好きなんだよ。
そう胸の中で囁く。遠ざかる背中に今まで何回も。繰り返しては、そっと心の引き出しに仕舞ってきたんだ。
だって私は伝えられないから。言葉に、君のように綺麗な色をつけることができないから。だから名残惜しいけれど、今日もこれでおしまい。回れ右で何も伝えないまま、家へと帰る。少し切ないけれど穏やかな心を胸にの中に秘めたまま、ひとり分の足音を空に刻んでいく。また明日。それまでの辛抱だから。
「りょこちゃん!」
突然背後からそう呼ばれた。君の声。凪いだ心に波が立つ。振り向くと、少し離れた街灯の下で君は私を見つめていた。その姿に、私はついさっき君の口から放たれた言葉を不意に思い出す。気をつけろ。銃口はいつでもお前のことを狙っている。
「俺さぁ、やっぱり――」
私を見つめるその表情には、絡まり続けていた糸が綺麗に解けたような清々しさが浮かんでいて。君は言葉を紡ぐ。私まで届くように。しっかり言葉が気持ちを運んでくれるように。君は叫ぶようにして私に“こころ”を伝えてくれる。
頬を赤らめはにかむ君は、とてもとても素敵な笑顔を浮かべていて。
じゃあ、また明日。手を振る君はそう言い残して、暗闇の中へ駆け出していった。取り残された私。突然のことで、しばらくは何も考えられなかった。こつこつ、こつこつ。今は家へと向かってる。
「やっぱりりょこちゃんのことが好きかも、か……」
繰り返してみる君がくれた鮮やかな一言。まっすぐ向き合ってみると、じんわり胸へと広がって、身体中の細胞が喜んでいるような感じがしてしまったんだ。
何だか熱くなってくる。歩調は大きくなって、足が飛び跳ねそうになる。
大切な人に好きと言われることで、こんなにも世界が変わるなんて。
自然と綻んでしまった口元は、山際の三日月だけが穏やかに見守っていてくれていたんだ。
(おわり)
書き直したくなる願望は、日を改める度に沸き起こります。それも、先日とは違った感性が顔を覗かせてきやがる。踏ん切りの付け方は難しいですよね。加納朋子のモノレールねこを、この週末に読もうと思います。どうでもいいことです。




