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『暮れに吹く風(3)』『攫い雲(4)』『金魚姫(5)』

『暮れに吹く風』


 田舎の夏は終わるのが早い。

 お盆休みをずらして、八月も終わりの頃に実家に帰省した私は、行き交う風に秋の気配を感じ始めていた。

 母が炊事場で夕食の準備をしている音が聞こえる。ネット回線も十分に通じていなければ、満足に携帯電話も使えない実家には娯楽と呼べるものはテレビかラジオくらいしかない。朝起きてからというものだらだらと寝そべってテレビばかり見続けていたお陰で、すでに飽きがきていた。

 アイスを頬張りながら、縁側に足を投げ出し、閑散たる田園と山々の景色をぼうっと見る。不意に読書をしようと思い立った。考えてみれば、学生時代は結構な読書家だったのだ。書店を巡り、古本を眺め、目に付いた本は片っ端から読み耽っていた。

 社会に出て、なかなか忙しかったこともあり、しばらくは本とも距離を取らざるを得なくなっていたが、これを契機に再び書物に埋もれるのも悪くない。結論付けて、自室へと足を向けた。高校時代に集めていた小説がいくつかあるはずだった。

 ぎいぎい鳴る古めかしい階段を、かつて読み終えた文学小説を抱えながら降りていく。忙しくしている母を尻目にインスタントのコーヒーを淹れると、再び縁側に戻ってそわそわと表紙を捲った。

 投げ出した足がぶらぶらと揺れる。細くなった蝉の声が、遠くから届いてきている。温かなコーヒーを一口啜った。

 やがて私の身体は横倒しになる。更には仰向けになって、文章に目を走らせていった。寝返りを打って、家の中に背表紙を向ける。ページがするすると捲られていく。

 一体どれくらいの時間読み続けていたのだろう。物語も半ばまで来たところで、ふと咽喉の渇きを覚えた。そう言えば、一口啜っただけで飲んでいなかったコーヒーがあった。冷めてしまっているだろうなと、後悔しながらも身体を持ち上げて、それでも捨てるのは持ったないから飲もうと目を向けた。

 けれど、縁側に置いていたカップの中身はいつの間にやら空っぽになってしまっていた。それも、まるで舐め取られたかのようにつるりと綺麗な状態で。

 不思議に思いながらも、私はカップを手に取ってみる。

 目前まで掲げたその背後で、傾いた陽光が山際に沈もうとしていた。

「ルイちゃん、ちょっと手伝って」

 炊事場から母の声がする。今夜は少し豪勢な食卓にするのだ、と張り切っているのだ。

 長く伸びる返事をしながら私は重い腰を持ち上げる。本には栞を挟んで、床板に置いていく。

 背を向けて縁側から立ち去ろうとしたときに、もう一度だけ空を振り返った。

 朱に染まった夕暮れの下を、たくさんの蜻蛉が飛び交っていた。日暮が鳴いている。鈴虫も音程を合わせている。

 ぱらりと、風に本が捲られた。


(おわり)


 ★ ☆ ★


『攫い雲』


 その日、夏の太陽が強すぎる光を降り注いできていた午後、美倉奈津美は熱戦の続く高校野球をラジオに流しながら、台所で洗い物を手にしていた。生ぬるい風に流れ落ちる汗を煩わしく思いながら、扇風機を回し続けていた。昼間使った鉄鍋を、ごしごしと金束子で磨いている。

 風通しがいいよう開ききった部屋を二つほど抜けた先に、庭に面した小さな縁側があった。そこに、一人息子の翔太が氷菓子を頬張りながら腰掛けている。夏休みもそろそろ終わりではあったが、しっかり者の奈津美の遺伝子を引き継いでいた翔太には、もうやるべき宿題はひとつも残っていなかった。悠々自適といった姿で、美味そうに氷菓子を食べている。

 奈津美は、しつこい汚れに悪戦苦闘していた。それほど鍋を酷使した覚えはなかったのだが、底にへばりついた黒い塊があったのだ。

 それを、何度も何度も金束子で擦る。何度も何度も何度も何度も。塊は、頭の方から順に削れており、もう少しすれば全部取りきることが出来そうだった。

 そんな折に、縁側にいた翔太が声を上げた。

「入道雲だ!」

 なになに、夕立に降られては堪らないと、奈津美も顔を上げて台所の小窓から空を覗いた。けれども、青々とした空には雲の欠片はひとつもなく、とてもじゃないが入道雲など見当たりそうにはなかった。

「ねえ、母さん。大きいよ。入道雲だ。もうすぐ雨が降るよ!」

 尚も、翔太は声を大きくさせてきている。首を捻り、傾げては空を眺める奈津美だったが、結局ひとつも雲を見つけることができなかった。

 翔太は何を見ているんだろう。

 不思議に思った奈津美は鍋を擦る手を休めると、一度翔太がいる縁側へと足を向けた。直接教えてもらおうと思ったのだ。

「翔ちゃん、入道雲、どこにあるの? 母さん見つからないよ」

 訊ねながら目にした縁側には、しかし、食べきった氷菓子の棒が落ちているだけだった。翔太の姿はどこにもない。庭に顔を出して辺りを見てみても、どこにもいない。

 見上げた空は真っ青に染まっていて、雲の気配など、どこにも見受けられなかった。


「それから、私は家の中を探しつくしました。真っ先に玄関に出て、翔太の靴がなくなっていないのを確認したのです。けれど、どこにも翔太は隠れていませんでした。寝室の布団も、押入れの中も、どこもかしこも乱れた様子はなかったのです。あの瞬間まで続いていた時間の中で、忽然と翔太は姿を消した。もちろん、誰かに攫われた可能性も考えました。けれど、私たちがいた家には高い石塀があったのです。十二歳の翔太を塀越しに、それも物音ひとつ立てずに攫うことなど、土台不可能だったのです。……翔太は、まだ帰ってきません。連絡は一度もありません。ただ、ときどき私は思うのです。あの日、あの瞬間翔太は何を見ていたのだろうと。大きな声を上げて叫んでいた『入道雲』とは一体なんだったのだろうと。かれこれ五十年以上も昔の話ですが、未だに私には分からないのです」


 ――老婦・美倉奈津美の証言。S市にある某老人センターにて収録――


(おわり)


 ☆ ★ ☆


『金魚姫』


 夏の納涼にと、軒先に釣りかけるような金魚鉢を買って来た。縁側に設置してみると、球体を支える蔦がなんとも情緒を運んできてくれて、なかなかいい鉢だった。

 私はそこに洗った砂利を敷き、水草を浮かべて、最後に一匹だけ金魚を入れた。細長で小さな顔をした、ヒレが優美にたなびく美しい金魚だった。水鉢の中で気持ちよさそうに泳ぐ姿を見るのは、なんとも趣き深い時間となった。

 それからというもの、私は何かと折り入っては金魚鉢を目に入れるようになった。朝起きて、餌をやるついでにじっくりと眺める。朝食を取り、便意を催した帰りにしげしげと眺める。進まぬ執筆活動に嫌気が刺したときにも、昼食の最中にも、買い物に出るときも、帰ってきたときも、私は飽きることなく何度も金魚鉢に目を向けた。

 そのたびに、内に泳ぐ金魚は優雅に翻り、あるいは舞い踊るかのように身体を行き来させて私を楽しませた。

 ――もしかすると、この金魚は私が見ていることを意識しているのかもしれん。

 考えると、俄然金魚鉢を見るのが楽しみになった。

 金魚の方も、そのたびに美しく優雅になっているような気がした。餌をやるときなど、ぱくぱくと水面で口を動かす姿を見ながら愛おしいと思ったほどだった。文章にすると奇怪極まりないが、その頃私は確かに金魚に恋をしていた。そしてまた、金魚の方も私のことを意識していることが心地いいほどよく分かったのだった。

 私が金魚鉢に金魚を入れてから何日か経った頃、珍しく寝過ごしてしまった私は、蒸し風呂のように閉め切った室内の空気を気持ち悪く思いながらも、縁側に向かう硝子戸に掛かったカーテンを引き開いた。

 瞬間に、我が目を疑った。

 まるで水底にいるかのような光景が目の前に広がっていたのだ。

 こぽこぽと音を立てるかのように泡を浮かび上がらせていく庭先。見上げた上空には、陽光に煌めきながらゆたう水面が、穏やかに波立っているかのようだった。

 状況が飲み込めない私はごしごしと目を擦り、それからもう一度窓の外に広がる光景を見つめていた。と、つま先に冷たい感触を覚える。何事かと俯いてみれば、さっしの隙間から滲み入ってきた水が床を濡らしていた。

 驚愕に目を見張った私を、大きな影が覆い隠す。再び見上げてみれば、視界を覆い尽くすばかりの巨大な浮き草が陽光を遮っていた。そして、その暗闇の中からひとり、ひらひらとはためく煌びやかな紅の装束に身を包んだ麗女が、ゆっくりと泳ぎ近づいてくる。

 それが誰であるのか、私には直感的に分かった。同時に、硝子越しに併せるしかない掌がとても淋しかった。

 彼女は硝子の向こう側に広がる水の中でぱくぱくと口を動かした。声は聞こえない。けれど、何を言いたいのかは、違うことなく完璧に理解できた。

 彼女の柳眉が切なそうに下がっている。併せていた掌が離れていく。

 背後を巻き上げるかのように泳ぎ昇り始めていた透明な金魚の群れに向かって、彼女は泳いでいってしまう。硝子を挟んだ私には、何一つできることなど残されてはいなかった。薄い透明な障壁をひとつ挟んだまま、じっと浮き草に昇っていく彼女の姿を見つめ続ける。その姿は何度となく目にした舞そのものであり、知らず知らずの内に、私の目尻には涙が込み上げてきていた。

 やがて、浮き草が動き始めて、再びあたりに陽光が差し込んでくる。同時に、濃密に漂っていた水の気配が引いていくように消えて、別れを名残惜しむ暇すらなく、普段どおりの夏の気候が舞い戻ってきてしまった。

 私は硝子戸を開けて、水浸しになっていた庭に降り立つと、振り返って、縁側に吊り下げた水鉢に目を向けた。

 そこに、もう金魚の姿は見られない。あるのは重重と底に沈んでいた砂利だけだった。水草も、おそらくは水が持っていってしまった。何か強大な力が、あるいは神秘が、私だけを取り残して遠くへ過ぎ去ってしまった。

 それ以来、縁側に吊り下げた私の金魚鉢の中を金魚が泳ぐことはない。空っぽの水鉢は、しかしどれだけ水を足し入れなくても涸れることはなく、時たま撥ねる音がしているので、もしかするとまたあの金魚に会えるのではないかと思っている。


(おわり)

夏も終わりなので、不思議な感じのするお話でまとめてみました。考えていたわけじゃありませんが、『縁側』が共通のテーマのようになっています。外と内を仕切る境界。そんなわけで、異界に繋がりやすいのかもって思います。それではまた次回まで。

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