『まったりホラー(6)』『言葉の国(3)』『夢の箱の夢(4)』
『まったりホラー』
幼馴染の康平の祖父は、非常なサッカーが好きな老人だった。高校生を代表するスポーツは何かと問われれば真っ先に高校サッカーだと答えたし、正月になると駅伝なんぞには目もくれず天皇杯だけを観戦し続けていた。
そんな祖父の血が色濃く流れているのか、最近になって康平はサッカーにはまり始めている。それまで全く見向きもしていなかったくせに、熱中し始めたら早かった。今ではお気に入りの選手はもちろんのこと、贔屓のチームも、そのチームのサポーターにも加入してしまっている。ものすごい機動力だと思う。
なんて言ったって、僅か二ヶ月の間に起こった大変化だったのだ。いろいろと不思議に思うところはあるけれど、本人が心から好いているのだから横から何かを言うことも出来ない。知り合いは何か憑き物でも憑いているんじゃないかと面白おかしく口にしていたけれど、あながち的外れじゃないんじゃないかなと私は思っていたりする。
でもまあ、そんな康平の変化など正直どうでもいいのだ。所詮は幼馴染。もう大人なんだし、やりたいようにやればいいと思う。
そんなことよりも、私には康平に誘われるがままに、足しげくスタジアムでのサッカー観戦に付き合っている私自身のことの方が気に食わなかった。
取り立ててサッカーが好きなわけではないのだ。康平に好意を抱いているわけでもない。なのに、何故かお誘いにほいほいと返事をしてしまっているのだ。誰よりも私のことが一番分からなかった。
嘆息を吐きながら頭を抱えるのと同時に、康平が贔屓にしているチームのフォワードが、ゴール目前でまさかの蹴り損ないをしてしまった。落胆のあまり周囲には、どっと数百人分の嘆息が溢れ出す。もちろん、隣の康平もがっくりと項垂れてしまっていた。私はしばしの間、筆舌に尽くし難い負の感情に包まれてしまう。
正直堪らなかった。たかがひとつの失敗ではないか。一喜一憂するのは別に構わなかったが、あまり入れ込んでいない私まで巻き込まないでほしかった。気が滅入りそうになって、思わず面を下げてしまう。
試合は、贔屓のチームが0対1で負けてしまった。康平は一年分の溜息を今日一日で吐き出さんとするかのように落ち込んでしまった。
その帰り。途中で康平と別れた私は、病院の個室で寝たきりになっている祖母の許を訪ねた。認知症が進むところまで進んでしまった祖母は、もはや孫である私のことはおろか、実の娘である母のことまでも他人と区別がつかなくなってしまっている。二週間ほど前からは意識も朦朧とし始めてしまっていて、ずっと昏睡状態が続いていた。
医師は、もう長くはないと告げてきていた。母は泣かなかったし、私も泣かなかった。本音を言えば、ほっとしていたくらいだった。
個室の扉を開けて、眠っている祖母の様子を確認する。道中で買ってきた花を花瓶に差し替えると、そっと祖母のベッド横に近づいて安らかな顔を撫でてあげた。
つい数週間前まで半狂乱に近かった状態にあった人物だとは思えない寝顔だった。
「また来るね」
そう耳元で声をかけると、意識など無きに等しい祖母が微かに微笑んだような気がした。
表情に、不意に温かな感情――罪悪感や愛、喪失感や感傷など――が込み上げてきた。視界が滲み始めるような気配がにじりと忍び寄ってくる。
でも、私は踏ん張った。
泣く権利は自らの手で捨て去ってしまったのだ。今更涙を見せるような真似だけは、祖母を愚弄する行いだからこそ、することができなかった。
渦巻く感情を胸の中に仕舞いこんで、私は病室をあとにする。立ち去る時に、着ていた服の裾を握り締めていた枯れ木のような掌が、過ぎ去った幸福な過去を呼び起こしてくれた。
帰路に着いた私は、一応康平に電話を入れることにした。会話の中で意識がないはずの祖母が服を握ったことを話すと、康平は一言、よかったねと返事を寄こしてくれた。
うん。まったくその通りだ。本当によかった。
思って満点の星空を仰いだ私の耳に、そう言えばさ、と康平の声が流れ込んできた。
「そう言えば、今日梓が着てたユニフォームな、ジジイが大好きだった選手の番号だったんだよ。帰ってから、遺影を眺めてて思い出したんだ。確かそれ、お前が適当に選んだやつだったろ? 珍しいこともあるもんだよな」
言ってにししと笑った康平に、私はそうだねと、やはり笑いながら返してあげた。
お互いに笑いが収まると、少々の沈黙が生まれてしまった。康平が気恥ずかしそうに次の約束を口にする。
「あのさ……また、一緒に見に行ってくれるよな?」
きっと電話の向こう側で康平も私と同じように真っ赤になっているんだろうと思うと、変な勇気が湧いてきた。
「まあ、当面の間は一緒に行ってあげてもいいよ」
返事がなかなか返ってこなかった。電波が途切れたのかと心配になり始めたころに、ようやく微かな笑い声が聞こえてきた。
無邪気な笑い声だ。まるで子供の頃に戻ったかのような。やがて釣られて笑い出してしまった私は、康平と一緒にくすくすと笑うだけの電話をしばし続けた後で、またねと言って通話を切った。
和やかな気持ちが、胸いっぱいに染み渡っていたのがよく分かった。
翌日、私の祖母は息を引き取った。
(おわり)
★ ☆ ★
『言葉の国』
その国では言葉を使う回数に限度がありました。
例えば「私」だったら一生のうちに三万回。「あなた」だったら二万八千回。「父上」は二万五千で、「母上」なら二万三千回までしか使うことができませんでした。
そんな国の王子は、とてもわんぱくで幼い頃から向こう見ずな性格をした少年でした。
快活で明るく、とてもとても饒舌なおしゃべり屋さんだったのです。
一日に五万単語を口にしてしまうこともありました。
従者や街の人々は口を噤んだまま、そのあまりの口やかましさに将来を案じていましたが、当の本人はまったく気にもしていませんでした。
そんなある日、王子の母が急病に倒れました。
どうやっても治すことのできない、不治の病にかかってしまったのです。
王は嘆き、家来たちは沈痛な面持ちを浮かべて、黙ったままずっと王妃の臨終に備え続けていました。
そんな中、ただ一人、王子だけは明るい表情を浮かべて、饒舌なまま王妃に語りかけ続けていました。
けれども、抗うことなどできるわけもなく、王妃の命が途絶える日は訪れてしまいます。
容態を診た医師が首を振ると、王や家来たちは口々にこの日のために取っておいた大切な言葉を、涙を浮かべながら死に行く王妃に投げかけてあげました。
やがて、王子にも順番が回ってきます。震える唇を噛み締め、両の手をぎゅっと握っていた王子が口にした言葉は、しかし周りにいた者達を驚かせるものでした。
「大っ嫌いだ」
横たわるベッドに進み出た王子は、痩せ細り浅い呼吸ばかりを繰り返す母親を前にして、苦しそうな表情のままその一言だけを口走りました。
両目から涙を流し、肩を震わせて渋面を浮かべながら。
様子に、王妃は最後の力を振り絞ってそっと微笑みました。
「ありがとう。お前は優しい子だ」
それから数年もすると、王子には使える言葉が何一つなくなってしまいました。
声に出せる言葉がないので、いつも口を閉ざしてばかりになってしまいました。
けれど、溢れる豊かな表情と穏やかな振る舞いとで、民の支持を得、国の支えになっていったということです。
おしまい。
(おわり)
★ ☆ ★
『夢の箱の夢』
小さい頃、ヒーローになりたいと思っていた。
腰にベルトを巻いて、悪者が悪さをしているところに駆けつけて変身。キックやパンチを駆使して、いろんな人の助けになりたかった。
だから、その夢を忘れないように、大切に大切に小箱の中に仕舞っておくことにした。
鍵をかけて、目立つよう部屋の中央に置いておくことにした。
時が経って、ぼくの部屋には様々なものが溢れるようになってきた。
漫画やゲーム機、野球のバッドにサッカーボール。勉強机の上には様々な教材が年々増えていった。
そのそれぞれを、その都度適度に整頓していく。中央の小箱は次第に物陰に身を潜めるようになってしまっていた。
このままではいけない。小さいままだと、整頓したものに隠れてしまう。
気が付いたぼくは、一回り大きな箱に小箱を仕舞い込むことにした。鍵をかけると、とても安心することができた。
また時が経って、ぼくの部屋には更にたくさんのものが溢れるようになってきていた。
ギターにバイク、煙草にお酒、いやらしい雑誌なんかも床を埋め尽くすようになっていた。
とてもじゃないけれど生活するだけの場がなくなりかけていたので、かつて部屋を埋め尽くしていたものたちは隅に堆く積み上げることにしていた。
あるとき、そんな山の中にかつての夢を詰め込んだ箱があることに気が付いた。
ああ、あんな場所にあったのかと煙草を咥えながら思ったぼくは、山の中から箱を引っ張り出すと、更に大きな箱に仕舞って大切に鍵をかけることにした。
これで大丈夫。目立つし、まだ夢を失くしたわけじゃない。
思って箱を抱えると、そっと暖かな気持ちになることが出来た。
やがて、ぼくの部屋の中にものが入りきらなくなってきた。
もともと部屋の大きさには限度があったのだ。至極当然のことだった。
だから、仕方なく仕舞い込んだたくさんのものを整頓することにした。
かつてのぼくには必要だったかもしれないけれど、今のぼくにはもうまったく必要のないものがたくさんあったのだ。
ぼくは、漫画をまとめてゲーム機を捨てて、勉強机を処理し、一度使っただけで二度とは読まなかった教材を紐で縛ると部屋の外へと放り出した。
とっくに飽きてしまっていたギターは売り払って、禁煙に成功していたから煙草はいやらしい雑誌と一緒に燃やしてしまった。
掃除機をかけて、雑巾で拭き清め、様々なものを片付け終わった部屋を眺めてみると、存外広かったということに初めて気が付いた。
部屋が、ほんの少しだけ虚しくなってしまうほどに広かった。
その中央には、かつての夢を詰め込んだ大きな箱が鎮座している。
埃を被り、少々薄汚れていたけれども、ずっと大切にしていた確かな宝物だった。
――これさえあれば、ぼくはぼくとしての指針を作っていける。
胸を張って誇らしく思うと、鼻が大きく膨らんで空気が逃げていった。
ただ、これだけ伽藍堂になった部屋の中では、箱の大きさはかえって邪魔になってしまっていた。
もう少し小さな箱の方がちょうどよかった。
思い悩んだぼくは、かつて箱の中に小さな小箱を入れたのを思い出す。早速鍵を開けようと内ポケットに入れておいた箱の鍵を取り出そうとした。
けれど、どれだけ探したところで、小さな小さな鍵は見つからなかった。
――おかしい。失くすはずなどないと信じていたのに。
焦ったぼくは、更に恐ろしいことに気が付いてしまう。
――箱の中にはどんな夢が入っていたんだったっけ?
すっかり広くなった部屋の中で、ぼくはただただ大きくなってしまった夢の箱と対峙する。
部屋から出すこともできないその箱は、ぼくを非難するようにじっと黙り続けていた。
(おわり)




