『鼠と梟(30)』
『梟と鼠・リライト』
――新月の夜に扉を叩く者があれば、そこには不幸を連れたものが立っている。
故に絶対に扉を開けてはならないと祖母から口うるさく言い聞かされていた男は、しかし暗闇の中、ぼんやりと淡い光を纏いながら心底困ったといった風貌で眉を下げていた女の容姿を見て、いや婆はああ言っていたがこれは案外幸運の知らせなのかもしれんと、浅はかにも胸をときめかせてしまっていた。
女は、夜な夜な暗い夜道を散歩するのが趣味だったらしい。さて今夜も一歩きと、外へ出たのだそうだ。が、今宵は新月。慎重に辿っていたはずの小道から、知らず知らずの内に外れてしまったのだと言った。己の学の無さを呪い、立ち尽くした後で、ここはどこぞと辺りを見渡した。まいったなあと頭を抱えたくなった折に、運よく、遠く木々の向こう側からこっそりと灯かりをこぼしていた荒屋に気がついたのだそうだ。もしや、樵か誰かが夜を明かそうとしているのやも知れぬ。失礼であることは重々承知しつつも、縋るような想いで一直線に向かってきたのだと言う。夜目には足下に出っ張った枝や沼などは見えづらかった。足を阻まれ苦心しながらも何とか戸口を叩いたのだと語った女は、確かに言うとおりひどく薄汚れていた。
「……風呂でも入るかい?」
身なりを不憫に思った男は、そそくさと女を座敷に上がらせて事の顛末を聞き終えると、気まずい沈黙を何とか執り成そうと、そう持ちかけた。親切心が半分、残りの半分は下心からだった。女は一目見ただけでも万人に美しいと言わせてしまう、まさに天から授かったかのように完璧な美貌を持っていたのである。
こんな女と寝ることが出来たのなら、さぞかし恵まれたことであろうなと、まだ女から風呂に入るかどうかの返事を受けてもいないにも関わらず、男は疚しい妄想を膨らませていた。汚れ肌蹴た着物から覗く女のみずみずしい脚に、激しく欲情してしまっていた。あの繊細でありながらも優美な曲線を描く肌にむしゃぶりついたらどんな味がするのだろう。匂いは。舌触りはどんなものなのだろう。この女はどのように乱れるのだろうか。声を漏らすのだろうか。それとも、表情を歪ませながら堪えるのだろうか。先へ先へと暴走を続ける妄想の中で、男はもはや女を脱がして交わっていた。脚と脚とが絡み合い、生々しくも湿っぽい体臭合わせ蒸発させながら、舌は肌に、手で局部を蹂躙し、激しく腰を動かし続ける。考えれば考えるほどに背徳的な情景は色を帯びていき、同時に過激なものへと変化し続けていった。
でも、と不意にそんな妄想にひびが入る。こんな美人だから、俺みたいな奴には目もくれねえかもしんねえなあ、と現実的に考えてみた。かような山奥で、じめじめと人とも会わずに生活している野猿のような男には、端から手の届かん女なのではないだろうか。高嶺の花とは、こういう女のことを言うのではないだろうか。花は野にあるからこそ美しいのであって、俺みたいな粗暴で卑しい人間なんぞがぽきりと茎を折ってしまってはいけないのかもしれん。
男はもんもんとした思考の渦に飲み込まれそうになっていた。女を犯したいという欲情と、手を出してはならないという理性とが激しく言い争っていたのである。だから、自らが尋ねたというのに向けられた女の返事をうまく聞き取る事が出来なかった。はい、と恥らいに顔を朱に染めた女は俯きながら小さく返事を寄こしたのだった。
「ぜひとも宜しゅうお願いいたします」
「は?」
「ですから、風呂のことでございます。かように汚れた身形で居ますのは私自身耐え難いことでございます上に、貴方様の目に悪うございましょうから」
「い、いや、俺はそんなこたあ考えておらんが」
「例えそうであってもでございます。……おこがましいことではございますけれど」
「いやいや、そんなこたあねえぞ。俺が言い出したことなんだから。あい分かった。あんたは風呂に入る。合点承知だ。すぐにでも沸かしてくっからさ、ちょっと待っといてくんねえ」
驚きのあまり早口で返事を繋げながら、男はいそいそと外へと向かっていった。外に出るや、おいおい、これはどういうことなのかね、もしかしてあの女も俺に気でもあるのだろうか、などと考え始めてしまう。風呂になんか入るなんて。確かに少なからずの好意から口にした言葉ではあったが、その後に待っているだろう情事を予想できないわけではあるまい。あの女は、それを望んでいるのだろうか。自ら交わう覚悟があると、そう言うことなのだろうか。いやいや、待て待て。これはもしかするともしかして、とても空恐ろしいことが始まる前兆なのではないのだろうか。例えばあの女がどこぞの神様の使いで、俺の行動のいかんによってはその神様がお怒りになるのではないのか。俺は試されているのやもしれん。しかし、どうしてなのだろう。男は混乱しながらも、いそいそと水を汲み、薪をくべ、風呂の準備をこさえていった。
一通りの準備を終えて、あとは湯が沸くのを待つばかりになった頃、男はひょいっと女が待つ部屋へと顔を覗かせた。女はじっと正座をしたまま、身動ぎひとつとっていないようだった。後姿、特に覗く項の辺りに、匂い立たんばかりの肉の生々しい匂いがまとわりついてるように見える。男は唇をぞろりと嘗め回すと、にやりと抑制の効かない下衆のように口角を吊り上げてしまった。これは、ともすれば寝ることができるかもしれない。卑しい妄想が、男の中で再び膨れ始めていた。
男は出来るだけ紳士的な態度を貫こうとした。もしこの心にある卑しい欲情が、たとえ片鱗だけであったとしても、女にばれてしまったら逃げられてしまうことが考えられたのだ。そのような状況に陥ってしまった場合、乱暴のひとつやふたつ振るってでも女を押し倒す算段を立てていたが、そうではないのならできるだけ穏やかにことを進めようと決心していた。それは突然尋ねてきた女を犯すことへのささやかな罪悪感と、女の前では格好良くありたいというちっぽけな虚栄心とが生み出した優しさであった。
だから男は、目の前にある衝立の向こう側に女の裸体があると認識しながらも、意識的にそのことを考えないように気をつけていた。
「火加減の方はどうだろうね」
「ええ、とっても気持ちようございます」
「ああ、そりゃあ良かった。俺は熱い風呂が好きでね。いっつも湯を沸かし過ぎてしまうきらいがあるんだ。あんたの白磁のような柔肌を茹でちまっちゃあ悪からね。心配だったんだ」
言いながらも、自ずと浮かんでくる湯船に浸かる滑らかな肌を、なんとか頭の端へ追いやろうと懸命だった。まったく、こいつはとんだ悪女だぜ。男は苦笑と共にそんな風に思った。
「……どうか、いたしましたか?」
「あ、いや、なんでもねえよ。ちょっと思い出し笑いをしちまっただけさ」
「思い出し笑いですか。私もよくあります。急に来るから困るのですよね」
「ああ、その通り。こっちの事情なんて考えちゃくれねえなあ、ありゃあ」
この女は本当に、本当の本当にいい女やもしれん。会話をしながら男はふと思った。もし、もしではあるが、ことが全てうまく運んだあかつきには、嫁にならないかと持ちかけてみようか。この女は、俺と感性が合っているような気がする。なんたって穏やかで美しい上に、こんな辺鄙な場所に住んでいる俺にでさえ心を開いてくれているんだから。どうだろうか。嫁に出来るだろうか。嫁に、したいなあ。男はそこからぼんやりと空想を膨らまし続けた。山間の小さな家の前で、男が薪を割り、屋内では赤子を背負った女が給仕をしている。お昼ですよと、女が呼びかけて、男は額を拭うや、おうと威勢のいい返事をする。互いに向き合いながら食卓に向かうのは、いついかなるときであっても穏やかな笑みである。とても幸に満ち溢れた光景だった。やがて子も大きくなり、一人二人と家族も増え、男は長らく余生を過ごしていく。隣には、いつも女が寄り添ってくれているのだ。考えてみた限り、これ以上ないほどに恵まれた人生のように思えた。
が、男が安らかに息を引き取ろうかとするところで、まるで針が刺さったゴム鞠のようにぱちんと妄想が弾けとんだ。
いかん。いかんいかんいかん。俺は普通じゃないんだ。普通の幸せなど願ってはならん。そうだった。何のためにこんな山奥に引きこもっているのか。見たこともないような美人が現れたもんだから忘れてしまっていた。自惚れるな! 俺は普通ではないのだから。
そう自省してしまうと、さっきまでは秋の空を駆ける蜻蛉のように自由だった妄想は、雪に閉ざされた冬の曇天へと姿を変えてしまった。馬鹿げた夢を見ていたものだと、男は己を罵った。このけだものめ。いい加減、身の程を弁えたらどうなんだ。
「……どうかなされましたか?」
どうやら声を失っていたらしい。急に静かになった男を不審に思ったのか、女が心配そうに訊ねてきた。
「……いや、何でもねえ。ちょっと考え事をしてただけだ」
「ふふっ。考え事が多いお方ですこと」
笑い声に、男は力なく笑って答えた。駄目だ。やっぱり俺みたいなろくでなしが、こんな麗女の人生を閉ざしてしまっては駄目なのだ。……諦めよう。女とはこのまま、清らかな関係のまま別れよう。それが女のためであり、俺のためにもなるはずだ。正体を知られてしまうよりはよっぽどいいことのはずだ。男は暗鬱たる思考に揉まれながら、ふごうと焚き木に息を吹きかけた。出会わなければよかったと、しゅんと萎んだ心が泣き言を訴えた。煽られた炎がぐらりと形を変えて、勢いよく薪を呑み込んでいく。
「あの、少し熱いのですが……」
「あ、いや。これは失敬」
立ち上がって、水を汲みに行った。
風呂から上がってからというもの、男と女の間には妙な空気が漂っていた。どことなく掴みようがない、方向性を見出せない人間関係の縮図がありありと具現化しているかのようだった。
女はちらりちらりと男の方へと目を配らせている。いつでも襲っていいのだぞ。私にはその覚悟が出来ているのだから。衣服を乱し、舌を這わせ、時には猛々しく噛み付いたりしながら、獣のように攻め立てるがいい。眼差しは、間違いなくそう言っていた。が、男はじっと俯いたまま一言も口にすることなく、床の一点を見つめ続けていた。こうやって拒絶し続けることが、男が結論付けた最高の行動だったのだ。
「……気分がよろしくないのですか?」
遂に耐え切れなくなった女が口を開いた。しかしながら、男が返事をすることはない。はあ、と女は小さくため息をついた。一体どうしたことなんだろう。
女は、この男に少なからずの好意を抱いていた。このような宵闇の中を、ひとり山中を出歩く女など、あやかしか物の怪の類と疑うのが当然だろうと思っていたのである。にも関わらず、男は二つ返事で女を座敷へと上がらせてくれた。あまつさえ風呂まで勧めてくれたのである。これで食事まで出てきたのなら完璧だなと期待していたものの、流石にそこまではなかった。けれど、本当に丁寧に親切に、優しく女を扱ってくれたのである。この男になら、わが身を捧げてもいいかなと考えていたくらいだった。
だから、かような沈黙が訪れるとは露ほども考えてなかったのである。そういえば、と風呂に入っていた最中になにやら男の様子がおかしくなってしまったことを思い返す。何かあったのだろうか。もしくは、私が気に触るようなことを言ってしまったのだろうか。女はうじうじと思い悩み始めた。
しかしどれだけ考えてみても、自身に何か落ち度があったとは考えられない。そもそも男の変化は急すぎたのだ。なにやら沈黙したなあと思ったその瞬間から、かように寡黙な男になってしまった。それまでは内に秘めたるひょうきんさが、髪の毛一本の先からも滲み出るかのような朗らかさを有していたというのに。まったくもっておかしな男である。何があったのだろう。それとも何を思い出してしまったのであろうか。女は、寡黙な男に変わってしまったその原因に興味を持ち始めていた。
「あの、私が何か粗相をいたしたのでしょうか。……かような山奥に、一人幽玄と住まわれていた貴方様に、私は知らぬ間に失礼なことを……」
「い、いやいや、そんなことはねえ。別にあんたは悪くはねえよ」
動揺と共に声を大にした男を見て、探りを入れた女はしめたと思った。反応が返ってきたのだ。沈黙を続けられては分かることも分かりはしない。僅かばかりであったとしても、返ってくるものがあれば、追及はやれないものではないのである。事態が少しだけ前進したことに、女はとても満足した。と、同時に新たな疑問が浮かび上がてくる。男は、あんたは悪くないと言ったのだ。それはつまり、男自身に問題があるということだろうか。このひょろりと頼りない男に。
そう考えて、女はまじまじと男の姿を見つめた。男はずっと俯いたままだったし、女自身、風呂に加えて予期していた行為に覚悟を決めていた心が多少なりとも身体を火照らせてしまっていて、またそうであるが為に普段は踏み込まないような部分にまで興味が伸びてしまっていた。足を組んだままじっと固まる男の様子を見つめる。この男の一体どこに、何かしらの問題が隠されているのであろうか。
知りたい。
ごくりと唾を飲み込む音が辺りに響いた。気が付いた男が顔を上げる。そのどこか放心したような、虚脱の表情を見つめて、女はにこりと笑って見せた。とたんに男は顔を赤くし、そしてすぐさま沈痛な面持ちで心痛めて、さっと俯いてしまう。おやおやと女は思った。
なんなのだろう。初心なのだろうか。女に苦い経験でもあるのだろうか。かように過剰な反応を見せつけてからに。これでは更に追求したくなってしまうではないか。女は内に秘めたる可虐の心に火が点くのを感じていた。ふふ、こうなったら徹底的に苛め抜いてやろうかしらん。ぬらりと唇を舐めて、艶かしい潤いを与える。さあて、どうしたものかと女は思案を始めた。
この男、口ぶりは粗暴なそれだが、内心ではかなり思慮深く物事を考えているきらいがある。確証はないが、勘というやつだ。私の中の、研ぎ澄まされた帳の勘がそう訴えているのである。この、限りなく動物的な勘は、今まで外れた例がない。つまり、男が思慮深く考えることが出来る人物であるということはまず間違いない事実であろうと考えられるのだ。さて、そんな思慮深い人間の拒絶を、一体どうやったら崩すことが出来るのだろうか。相手は慎重に物事を考えてしまう人物である。とかく私が艶かしく誘惑したところで、指一本私には触れてこないのではないだろうか。大体、今現在においても私は空恐ろしいまでの色気を放っているのではないだろうか。たぶん、この風貌で町中を歩きでもしたならば、風紀がどうたらこうたらでお上に縛られてしまうかもしれない。それくらいの匂いを私は漂わせているはずである。確証にも近い自信があった。にも関わらず、なのである。この男は、どうして私を襲おうとしないのか。かような山中、ひとつ声を荒げ叫んでみたところで誰にも届きやしないだろうに。脅しのひとつでも言えば、大体の女なんぞ素直にことを受け入れるだろうに。ともすれば、これは侮辱にも近いのではないのか。私に女を見ていないということではないのか。いやいやいや、正常な男であるならば、そうは考えまい。よくよく見てみれば、男の股間は膨張しているようにも見えるではないか。とすればである。男は私に欲情しているのである。けれど、ではなぜ、かようなまでに男は自身の欲望を押し殺しているのであろうか。やはり何かしら女に苦手意識があるのだろうかしらん。ふむ、おそらく女に慣れていないということはないだろうと思う。男に変化が見られる前の会話は、滞りなく気分よく進められていたのだ。どぎまぎと、変な仕草を示すこともなかった。ならば、やはり苦い経験があるのではなかろうか。手痛い失恋か、もしくは想い人を亡くしてしまっているのか。いつの頃のことだろうか。この男、見立ては二十をいくつか超えたぐらいであろうから、それほど昔のことでもあるまい。は、さてはその苦心によってかような山奥に潜んでおるのやもしれん。はて、それなら万事に説明がつくのではないだろうか。男は傷ついた、または傷つけた傷を癒すために、忘れるために人里を離れて山中に逃げ込んだのだ。行動が多少なりとも女々しいような気がしないでもないが、まあそれもこれもこの男の優しさがなせることなのだろう。考えてしまうが故に、行動を制約してしまうというのは、なんとも不器用で可愛げのあることではなかろうか。……いや待てよ。仮にそうだとしよう。男は何かしらの出来事があって誰かを傷つけたものだから山の中に篭っている。でも、だとしたら何故私をあんなにも簡単に招き入れてしまったのだろう。女に痛い想いをしたのならば、あのように安易に招き入れることなどないのではないだろうか。あれも優しさが成せるわざか? いや、しかしである。女を招き入れるとなると、その優しさにさえ痛みが伴うのではなかろうか。こやつは女々しい男である。痛みが伴う優しさを発揮するくらいなら、無視することを選ぶのではないだろうか。いや、きっとそうであるはずだ。私など、座敷に遠さねばよかったのだ。しかしながら、男は私を受け入れた。それも、微かではあったが微笑を浮かべながらである。なぜなのだろう。一体なぜ、男はかような沈黙を死守するようになってしまったのだろうか。
沈黙を続ける男と思考を展開する女との間には、互いに向き合って座っているにも関わらず、言葉一つないという奇妙な空間が広がっていた。夏虫の心地よい鳴き声だけが空間を満たしていた。ろうろうと蝋燭の火が燃える。かさりと音がしたかと思うと、二人の間に鼠が一匹姿を現した。
先に声を上げたのは一体どちらだったのか、広がる夜の空気の中に「あ」と短く溶けていった。もしかしたら二人同時に声を漏らしていたのかもしれない。が、そこから起きた変化は、互いにまこと異質なものであった。
男は鼠を見た瞬間にまずいと思った。女が鼠を見て喚きたてるかもしれないなどという空優しい心配からではない。これは、こいつがここにいるということは、奴らが集まってきているということなのではないだろうかという保身からなるものだった。
奴らとは、他でもない、鼠たちのことである。数匹、数十匹などという単位ならまだ分からなくもないが、その鼠を見た時、男は数百万の鼠の大群が、この家の近隣に集まりつつあることを確信していた。それは絶対的な家長の下へと、馬鹿正直に集まる愚鈍な家臣のそれと似たようなものだった。
こんな時に、と男は苦々しく思った。いや考えて見れば男が沈黙という拒絶の表現を使ったのが悪かったのだ。家臣たちは家長の様子を心配に思い、全てのことを投げ出して一心に様子を見に来たのだから。やってしまったと、男は頭を抱えたくなった。折角、目の前の女には何も知られずに帰ってもらおうと思っていたというのに。全て台無しになってしまった。男は恐る恐る顔を上げ、女の顔を見てみることにした。
鼠を凝視していた女の顔に、表情と呼べるようなものは何一つ浮かんではいなかった。あえて表現するのならば、無表情というのがもっとも適当なのだろうが、それはもはや無表情と呼べるようなものですらなかった。ただ顔があるだけだ。顔という仮面を被った肉塊がじっと佇んでいる。
「あ、その、鼠は嫌いかね」
男が尋ねても返事ひとつしない。それどころか眉ひとつ動かさない。はてさて、これはどうしたものかと男が思っていたところに、その音は盛大に鳴り響いた。
始め、男は家の床かもしくは壁か、ともすれば柱に亀裂が走ったのだと思った。バキリと、音は何か割れるような折れるような響きを持っていたのである。困ったことは重なるものだと、男は辺りを見渡した。一体全体、どこがやられてしまったのだろうか。きょろきょろと注意深く視線を這わしていった。が、途中で奇妙なことに気がつく。待て待て。どうしてこの家が壊れるようなことがあるのだろうか。この家には今、俺と目の前の女と二人しかいないはずなのである。それも身動きひとつ取らないままに、じっと向き合っているのだ。どこかに負荷がかかるようなことなどあるのだろうか。いや、もしかしたら鼠の仕業かもしれん。奴らがなにかしておるのやもしれん。おい、お前ら、俺の家に何をしておるのだ。男は二人の間に割り込んできた鼠に訊いてみた。
しかし、尋ねた鼠はまるで石にされてしまったかのごとくにじっと固まったまま動くことがなかった。まるで西海より伝わったとされている、蛇の髪をした女の化け物を見た兵士のような様子だった。おい、貴様、俺が聞いているのだぞ。何か答えたらどうなんだと男は重ねて訊いてみたものの、相変わらず鼠はうんともすんとも口にしない。そこに至ってようやく男は何やらただ事ではないことが鼠の身に起きているのだなと思い始めた。
どうして鼠は返事を返さないのか。よく見れば、鼠はただ一点を見つめて動かなくなっていた。その視線の先は――男と向かい合って座っていた女であった。女もまた鼠を見つめたまま固まってしまっていた。
「どうか――」
したのか、と聞こうとして、男は口を噤んだ。女の目が、先ほどまでのそれとはまるで異なるものになっていたからだった。ゴキリと女が盛大に首を鳴らす。バキリバキリと、しきりに首の位置を確かめている。ああ、これは女の首が出していた音なのかと男は妙に納得してしまった。
やがて得心したのか女はすっと首をまっすぐにして、視線をすっと上に、目の前に座る男へと向けた。その瞳に色はない。まっくろによどんだどうこうはまるでやみよにまぎれてえものをかるふくろうのめのそれとおんなじいろをしていて――
と、じっと座り続けていた女に変化が訪れ始めた。ゴキンと鳴り響いたその音を聞いて、男はまたも家の骨組みの繋ぎ目の部分が外れてしまったんじゃないだろうかと思ってしまった。それほどまでに異常な、到底正常な人間の骨が出すことのできる音ではなかったのだ。
だから男は今目の前で起きている出来事に対しても、どこか現実として受け入れることができないでいた。夢を見ているのかもしれないなと思った。そうだとも。こんな美しい女が山奥に尋ねて来るはずがなかろう。始めっから夢だったのだ。
女の首は水平に、ぐきり、ぐきりと、捩れ始めていた。
男は声を上げることも出来ず、ただただその異常な光景を目の当たりにすることとなった。女の首は、長年にわたってこびりついたさびを無視して、無理やり動かそうとした歯車のようにぎしぎしと音を立てて捩れ続けた。その視線が男から外れる。長い髪の毛が男の方を向く。あとどのくらいで俺はもう一度この女に見つめ返されるのだろうと、男はぼんやりと思った。
夏虫の静かな鳴き声が外から忍び込んでくる。室内は骨の軋む音ばかりで満たされている。
首の肉が、螺子のような溝を作って、女はようやく動きを止めた。その赤い、青い、紫色に変色した筋が幾つも刻まれた首から、どうして血が流れ出ないのだろうと、男は思った。どうして肉が裂け、骨が突き出し、見るも無残な崩壊が訪れないのかと。待てよ、もしかしたらあの状態が限界なのかもしれん。もし俺がここで立ち上がって、あいつの首をよいしょと捻ってやったら、案外簡単にもげてしまうかもしれない。男はぼそぼそとそんなことを考えた。
「ごめんなさいませ。お見苦しいところをお見せいたしました」
男の意識を混乱する思考から救い出したのは、虫の音に掻き消えそうになるほどにか細い、女の涼やかな声だった。見上げると、先ほどまで灯っていた暗黒たる獰猛な目の色はどこかに影を潜めてしまっているようだ。代わりに女の目の中には深い羞恥と悲しみ、絶望の群青と灯っていた。
「いつの頃からかは分かりません。ですが、気がつけばこんな身体になっていました。時折、どうしようもなく首を捻りたくなってしまうのです。鼠や兎など、小動物を見るとどうしても止められないのです」
いやいや、それはもう捻るとかそういう次元を超えているのではないだろうかと男は思った。が、それを口にし、目の前の女を傷つけるのは少々野暮なことのような気がしたのでただ頷くだけに留めておいた。だから、代わりに男は痛くないのかと訊いてみた。至極簡潔な質問であったし、何よりも男自身気になっている事柄であった。
「痛い、痛くないという感覚は、今の私の首には存在しません。面白いことに蚊など、羽虫に刺されたり擦りすぎたりすると痛みを感じるのですが、こうやって捩れることに関しては、とかく私の首は鈍感なのであります」
それは一体どんな鈍感だと言うのだろうか。鈍感にも程があるのではないだろうかと喉元まで競りあがってきた言葉をなんとか飲み込んだ。だから代わりに医者に見てもらったのかと訊ねてみた。すると女は大層慌てふためいた様子で、ばたばたと両の手を顔の前で振りに振った。
「とんでもございません。お医者様になんて相談できるはずもありません。こんな汚らわしい身体……。見てもらったとしてなんと言われることか。悲鳴を上げて逃げ出されてしまうかもしれません。そんな姿を目にしたら、私はもう生きていとうなくなります」
最後の方は涙目になりながら女は話した。なるほど。こやつも一介の女であるらしい。身体は化け物に成り果て、自らでもどうしようもなく混乱し不安に襲われているのであろうが、やはり女としての体裁だけは残っているのだ。男は涙を流し、手で口を覆う女を哀れに思った。
「……こんな俺でよかったら何か相談に乗ろう。普段の生活で困ったことはねえのかい」
男は極めて優しく、そう女に声をかけていた。他人事とは思えなかった。
咽び泣いていた女は、そんな男の一言にひどく感動したらしく、嗚咽の中にこめていた悲喜こもごもの感情を一層強くして涙を流した。やっぱりこの人は優しい。優しすぎるといっても過言ではないのではないだろうかと思った。ありがとうございます、と覆った掌の奥から搾り出した声は何とか男の耳にまで届くであろう大きさにまでなってくれた。
が、そこで女は目にしてしまう。本来そこにあってはならない、異形の存在を。涙に溢れ、輝かしくも温かな感情に満たされていたはずの視界は、しかし一瞬のうちに野生に生きる狩人のそれと同じ色になってしまった。
唐突に泣き声が止んだことに気が付いた男は、さっと女の顔を覗き込んでみた。そこには先ほどまで人らしい感情が浮かんでいた瞳はもうなく、獰猛な獲物を見つめる猛禽の眼だけ浮かんでいた。ぞくりと、男は背筋が粟立つのを感じてしまう。
ゴキリと、首が鳴った。
口を覆っていたはずの両手をぶらんと傍らに投げ出した女は、ゆらりと立ち上がると、じっと男を見つめたままひとつ足を進めた。グキリと大きく首が鳴る。見上げた女の顔は、今度は垂直に、時計回りに捩れ始めていた。
一体全体どうやったらあのように首が廻るのだろうかと男は不思議に思いながらも、一歩、また一歩と、非常にゆっくりにもかかわらず確実に近づいてくる女を目にして困ったなと心底狼狽した。
困った。このままでは食われてしまうかもしれん。
バキリとまるで年代がかった床の板を踏みしめるような音がした。女の顔は、それはそれは奇妙なことになっていた。顎が、本来あるべき午の刻を指さずに、戌の刻を指していたのである。
ゆらりゆらりと女が近づいてくる。男は背中いっぱいに冷や汗が流れ始めているのに気が付いた。
はてさて、どうしたものだろうか。
床にじりじりと尻をつけながら後退していた男の背後から、ひょっこり細長い紐のようなものが天を指した。
梟は鼠を喰らう者だからなあ。
ぼんやりと、まるで他人事のように思いながら、男はへへへっと破顔してみせた。瞬間、女の瞳孔がぎろりと大きくなり、もはや十二時を指していた顎の下で口が歪な笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。せっかく相談に乗ってもらおうと思っていたのに。どうしてもお腹が空いてしまって」
「なあに、仕方のないことだ。ただ、問題があるとすれば、俺がまだ死にたくはないってことだなあ」
言って、二人は奇妙に笑った。喰う者と喰われる者。男と女。異形の二人。今まさに捕食の時を迎えようとしているにも関わらず、二人の腹の底から湧き上がってきた笑い声は、止むのに今しばらくの時を要するようだった。
二人の間に割り込んできた鼠は、未だにじっと固まったまま動くことが出来なかった。
夏の虫が、りりりと音を立てている。
(おわり)
夏ホラーという事なので、新作を書いている暇が無かった私は、過去作品のリライトでひっそりと参加(非公認)したいと思います。
個人的に、女の1,400字ほどの思考が好きだったりします。
これからがーちゃんは更にフリーダムに指定校と思います。それでは。