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『夏色(3)』『すずめの命(4)』『マナーズレス(3)』

『夏色』


 燦々と照りつける太陽に、山の木々が一層濃緑の葉を生い茂らしていた午後だった。

 川で遊んでいたせいで全身水浸しになっていた僕は、田んぼの畦道を自転車をぎこぎこと押しながら進んでいた。

 頭上に広がる晴天の碧空から注がれるのは、何も焼き付ける太陽光線ばかりとは限らない。

 四方八方から取り囲むように鳴り響く蝉たちの声と、旋回する鳶の甲高い鳴き声とが反響して耳から離れなかった。

 額にいっぱいの汗玉を作って祖母の家に到着した僕は、縁側に乗り込んで開口一番、麦茶が欲しいと大声を上げた。

「おかえり。麦茶くらい自分で注いでおいでよ」

「やだよ。疲れてるんだから」

 頑として譲らなかった僕に、高校野球を見ていた母はやれやれと重い腰を上げてコップいっぱいに注がれた麦茶を持ってきてくれた。

 受け取った僕は、一息に傾けて空にしてしまう。さすがにもう一度頼むのは忍びなかったので、二杯目は自分で注ぎに行くことにした。

 台所の水船の中に、大きなスイカが浮かんでいた。

「ねえ、母さん。今日スイカ食べるの?」

「ああ、それ。お婆ちゃんが畑から持ってきてね。夕食の時にでも切ろうかって」

「ふーん」

 夜が楽しみになった。

 身体にこもった熱が引かない僕は、冷凍庫からソーダアイスを取り出すと、もう一度縁側へと戻った。

 日陰になった縁側の正面で、立ち並ぶ数本の向日葵が太陽と合わせ鏡をするかのように空を向いている。

 宙を大きなカラスアゲハが横切っていった。入れ替わるように、オニヤンマが反対側から現れて素早く飛び去った。

 光景を、口の中に広がる甘美な冷たさを味わいながら眺めていた。風紋を刻む田んぼの向こう側には、深々と盛り上がった森が鎮座している。

 麓に石造りの鳥居があるせいか、静謐な存在感を放つ森だった。クワガタやカブトムシがたくさんいる森だ。明日足を運ぼうと決心した。

 食べきったアイスの棒を咥えながら仰向けに寝転がる。山の端に、隆々と猛り始めた雲塊の一団を見つけた。

 夕立になるのだろうか。なってほしいな。

 うだるような暑さに、希望的に思った僕は額に腕を当てた。

 閉じた瞼の向こう側から、すとんと眠気が迫ってくる。

 服が生乾きだったことを思い出した。でも、そんなことはどうでもよくなってしまった。

 意識が暗闇の中に落ちていく。


 あの頃の夏へ。あの頃の夏へ。


 遠くで気の早いヒグラシが鳴いているのが聞こえたような気がした。


(おわり)


 ☆ ★ ☆


『すずめの命』


 ラジオ体操から帰ってきた弟が、俯き消沈した様子で背後に立っていた。

 胸の前で大事そうに包まれた両手に気が付いて、少なからずの驚きを覚えていた私はどうしたのか訊ねてみた。

「玄関におった」

 言って、開かれた手のひらの中には、ぐったりとした様子で硬直したすずめの亡骸が横たわっていた。

「姉ちゃん、どうしたらいい? どうしたらこの子助けられる?」

 今年小学校に入ったばかりの弟。垂れ下がった目尻からは、今にも涙が溢れそうだった。

 できることなら、なんとかしてやりたい。

 けれど、もう一度すずめに目を向けた私には、否応がなしに分かってしまった。小さな両手に包まれた命は、もうどこかへ飛び立ってしまっている。

 聖職者でもなければ魔術師でもなく、奇跡など産まれてこの方一度も遭遇したことのないごく普通の高校生に過ぎない私には、掛けてあげる言葉さえ見つからなかった。

「なあ、姉ちゃん。さっきまで動いとったんよ。口とか動いとったんよ。どうすればいい? ぼくはどうすればいいんかな」

「……たぶん、もう死んじゃっとるわ」

 言葉の意味が正確に理解できたとは思わない。けれど、全てを悟ったらしい弟は、ぎゅっともう一度両手を閉じると、亡骸を包んだ拳を額に当てて、ごめんなごめんなと口にした。

「ごめん。ぼくがもうちょっと早くに帰ってきたらよかったんや。友達と喋ってたてから。まっすぐ帰ってれば、助けられたかもしれんのに」

「陽ちゃんがそんなこと言う必要ないよ。仕方なかったんやって。それがすずめの運命やったんよ」

「そんなん知らんわ」

 向けられた眼差しが錐のように突き刺さった。

「そんなん関係ないわ……」

 項垂れる弟の肩に、そっと手を添えて上げることしか出来なかった。


 その後、埋葬することを勧めると、弟はすずめを庭先に埋めてやった。墓標代わりに拳大の石を乗せると、そのままじっとしゃがんで動かなくなってしまった。

 後ろに立つ私は、じっとその背中を眺めるだけ。気の早い蝉たちが、朝早くから鳴き声を響かせていた。

「陽ちゃん、陽差し強くなってるから、早いとこ家ん中入ろ」

「……姉ちゃんだけ入ったらいい」

「そんな、たかがすずめやんか」

 返事はなかった。背中が怒っているようにも見えた。

 肩をすくめて、私は玄関へと戻っていく。台所に居た母さんに口を愚痴をこぼしてしまった。

「よう分からん。どうしてあんなにショックを受けるのか」

「あんたも似たようなもんやったんよ」

 食器を洗いながら口にされた一言に、思わず耳を疑ってしまった。

「何が」

「何がって、初めて生き物を埋葬した時よ。雨ん日やったのに、傘差してずっと庭に蹲って。母さん呆れてしまったよ」

「覚えとらんな」

「ちょうど、いま陽介がしゃがんどる隣ぐらいや」

 窓から様子を伺いながら、母さんは穏やかに口にした。

「ああやって、命の大切さを覚えていくんかもしれんね」

「私は忘れてしまっとったけど」

「思い出せんだけだね。身体というか、心というか、ちゃんと記憶されとるもんやと思うよ」

 そんなものなのだろうか。いまいちぴんとこなかった。

「暑い。アイス食べよ」

 冷蔵庫からチューペットを取り出して、半分に割る。玄関でサンダルを履くと、未だしゃがんだままだった弟の背中に声をかけた。

「陽ちゃん、アイス食べん?」

「……いらん」

「そんなこと言わんと。片一方は誰かに食べてもらわんといかんのやって」

 言うと、弟はようやくのそのそと振り返ってくれた。

「すずめさんにもちょっとあげたらいいよ」

 微笑んで差し出したチューペットを、弟の小さな手が握り返してくれた。


(おわり)


 ☆ ★ ☆


『マナーズレス』


 静まり返った地下鉄の中ほど、ヘッドホォンから漏れ出す音楽が鬱陶しく思える場所はないと思う。

 読んでいた文庫本から目を上げた僕は、向かい席にだらしなく座っていた青年をじろりと睨みつけた。

 絶対に歩く時に踏みつけてしまうだろうダボダボのズボンに、意味など分かっていないだろう汚い英語がプリントされたTシャツ。

 夏なのにニット帽を被っていた青年は、くちゃくちゃと不躾に口を開きながらガムを噛んでいる。

 唐突に、彼のヘッドフォンを外して、耳元で「迷惑なんだ」と叱ってやりたくなった。隣の若い女性も居心地が悪そうに身体を縮めているのである。

 ここはお前の部屋じゃないんだ!

 脳内で叫ぶと、情けなさに嘆息が漏れ出しそうになった。歯がゆさを噛み締めながらも、再び文庫本に目を戻す。

 アナウンスが響いて、電車が駅へと滑り込んだ。

 打ち寄せる波のように入れ替わる乗客の雑踏に、しばしの間読書を中断せざるを余儀なくされた。

 その流れが落ち着いてきた頃に、左端から杖を突いた老婆が歩いてくる。

 目指しているのは、どうやら青年の左隣に空いた座席のようだ。

 歩きづらそうだと思いながらも、僕は歩みの遅い老婆の姿を目で追っていた。

 ああ、もうちょっとで座れる。そう安堵を覚えたときだ。ずかずかと息を巻いてやってきた中年女性が、どしんと席に腰を据えてしまった。

 再び動き出す地下鉄。

 振動に、心もとなさそうに立ち尽くす老婆の姿が哀れに思えた。同時に、胸の中で中年女性に対する憎悪が煮えたぎっていく。

 誰がどう見ても、老婆が席に座ろうとしていたのは明らかだったのだ。

 周囲に目を配らせてみれば、同じような思いを抱く人が厳しい視線を中年女性に投げかけている。

 にも関わらず、彼女はせっせとハンカチで汗を拭い始めていた。視線には露ほども気が付いていない様子である。

 行為を、僕は甚だ醜悪だと思った。

「あの、よかったらこの席座ってください」

 どす黒い感情に包まれていたときだった。爽やかな声が響いた。ヘッドフォンの青年が席を立っていたのである。

 突然の申し出に目を丸くしていた老婆は、やがて事態を飲み込むとにんまりと笑って御礼を言った。

 ゆっくりと腰を据えた老婆の隣で、中年女性が大きく腰をずらしたのが見て取れる。

 ざまあみろ、と僕は胸の中で悪態をついた。

 気分がよくなったところで、再び視線を文庫本へと移動させる。どういうわけか、耳の飛び込んでくるヒップホップの音楽が心地よく聞こえてきた。

 こういう音楽も悪くないのかもしれない。

 そう、調子よく思いながらも、僕は浮かぶ微笑をどうしても隠すことができなかった。


 地中内部に張り巡らされた暗闇の中を地下鉄が疾走していく。

 明々と照明に照らし出された車内では、青年以外の人物が優雅に座席に腰掛けていた。


(おわり)

全て某所に張ったものです。

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