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『あたたかなほっぺ(5)』『縫合(7)』

『あたたかなほっぺ』


 マンションの扉を開くと、部屋の中は真っ暗だった。それでも、ただいまと誰も出迎えてくれない玄関に声をかける。靴を脱いで、ネクタイを緩め、俺は照明の電源をつけた。

 ぱちぱちと明滅を繰り返した後に蛍光灯が光を灯す。小さなテーブルの上には、妻が作ってくれた夕食の残りがあった。カバーの側に、あっためて食べてくださいと書置きが残してある。

 レンジにご飯茶碗と焼き魚、小鉢を入れて、味噌汁はコンロで温めなおす。冷蔵庫を開けて発泡酒を取り出した。温まり終わるまでの数分間、ごくごくと咽喉を上下させて、珍しく深夜まで続いた仕事を終えた体を労わった。

 テレビをつける。もちろん、音量は必要最低限にまで絞る。空っ腹に温めた遅い夕食掻き込みながら勢いよく箸を動かし、合間にリモコンを操作して番組をジャッピングしていく。それなりに面白いバラエティ番組はたくさんあったが、結局それなり止まりばかりだったので電源を消した。

 ごちそうさまでしたと手を合わせえて、食べ終わった食器を流しに運ぶ。ステンレスの流しの中には、妻と小学生になったばかりの我が子の食器が置かれていた。それらの食器を洗うのは、俺の仕事だ。一日を締めくくる最後の仕事。スポンジに泡を立てて、ごしごしと洗っていった。

 二本目の発泡酒を片手に、ちまちまと皿洗いを進めていたら手から皿が滑ってしまった。フローリングの床にぶつかって、盛大な音と共に破片が辺りに四散する。頭が痛くなりそうだった。しゃがみ込み気をつけながら欠片を集めていく。

 細かい破片がまだ残っていたけれど、こんな夜遅くに掃除機をかける訳にもいかない。どうしたもんかなと思いながら立ち上がると、音に起きてしまったのだろう妻がリビングの入り口に立っていた。

「どうかしたの?」

「ごめん。お皿割っちゃった」

 眠たそうに目を擦るパジャマ姿の妻は、のそのそとキッチンへと近づいて来ると、床を見てしゃがみ込んだ。

「あー、このお皿結構好きだったんだけどな」

「……すまん」

「いいよ。今日もお仕事大変だったんでしょう?」

 柔和な笑顔に見上げられて、俺は少し恥ずかしくなる。連れ添ってもう十数年になるが、今でも上目遣いだけには慣れることができないでいた。

「でも、いくら仕事があっても、食器洗いをするって言い出したのは俺だ。不注意だったよ」

「ふふ。康平はずっと変わらないよね」

 言いながら、妻が立ち上がった。

「大学の時からそう。責任感が強くて優しい」

「そんなんじゃない」

「その上よく謙遜する」

 意地悪なにやけ方だなと思った。

「さっさと洗い終わってさ、寝なきゃだめだよ?」

「分かってるよ」

 返事を聞くと、満足したのか妻はうんと頷いた。掃除機、明日かけるから。言われた一言が嬉しかった。

「目が冴えてきちゃったな。ちょっとごめん」

 言いながら、足下に注して妻がコンロの前まで移動する。ミルクパンを取り出して、冷蔵庫から取り出した牛乳を温め始めた。

「何作るんだ?」

「ココア」

 食器を洗う俺の隣で、妻は黙ったままミルクパンの中を覗いている。流れる水道水の音と、ガスの勢いだけが響いていた。悪くない沈黙だと思った。

 と、唐突にリビングに三人目の人物が現れた。

「なにしてるの?」

 ごしごしと瞼を擦りながらやってきたのは、娘の奈々だった。

「どうした、こんな遅くに」

「トイレ行ったら、部屋が明るかったから」

 なるほど。それは気になって当然だ。キッチンに近づいてくる奈々の足取りは危なっかしいものがあった。

「奈々気をつけて。お皿割れたから」

 背後で妻が言う。声に、奈々はぴたりと立ち止まり、ぼんやりと足下を見た。洗い物が終わった俺は、ひょいっと大またで奈々の下に近づくと、両脇の下から手を差し込みそっと持ち上げてやった。

 これが、結構重い。少し前までは楽に持ち上げられたというのに、子どもの成長というのは存外速いものなんだなあとしみじみと感心してしまう。

「起こしちゃってごめんな」

 言うと、奈々はふるふると頭を左右に振る。動作ひとつがとても愛おしく思える。

「ママは何作ってるの」

「ふふ。何でしょうか」

「んー、コーヒー」

「ぶっぶー。ココアでした」

「ココア? 奈々も飲みたい」

 肩越しに行われるやり取りを聞きながら、不意に幸せについて考えてみる。奈々の柔らかな匂いと温かさと柔らかさが、腕の中でとても大きく感じられた。

「分かった。じゃあ奈々の分も作ってあげる。パパも飲むでしょ?」

「ああ、頼む」

「パパ、ちょっとお酒臭い」

 言われてしまった。悔しかったからほっぺたを突っついてやった。柔らかなほっぺは突っついた分だけ小さく窪んで、奈々はこそばゆそうに笑顔になった。


(おわり)


★ ☆ ★


『縫合』


 綾子にはみんなに秘密にしていることがある。

「でさぁ、あたし本当に疲れちゃってさぁ」

「分かる分かる。何だかんだ言っても、男だって買い物には時間かかるんだよねえ」

「っていうか、変に拘りがあるせいで、あたしらよりも時間掛かってると思わない」

 いつものグループで机を寄せて、一緒に昼食を取っている最中だった。興味が惹かれない彼氏の買い物時間についての話題を、適度に相槌を打ちながら聞き流す。弁当を食べながら、時々筆箱につけたウサギのマスコットを握り潰していた。

「結局三十分だよ? 高校生にもなってプラモデルだなんて。ガキっぽいと思わない?」

「もしかするとさ、千恵の彼氏、オタクなのかもしれないね」

「冗談やめてよ。オタクとかマジで勘弁」

「でも、ひとつのことに熱くなれるってよくない?」

「へえ。麻美は彼氏がアニオタでもいいって言うんだ?」

「時と場合によってはありかも」

「本気で言ってんの? あたしは絶対やだな〜」

 途切れることなく会話は続いていく。みんなとても楽しそうだった。身の回りのことをほんの少しだけ曝け出して、脚色し、相手の出方を見ながら話題の攻守を変化させていく。膨らみそうなキーワードに寄って集って食いつく様は、さながら撒餌に群がる小魚のように貪欲で狡猾だ。

 誰もが狩人であると同時に無防備な被食者だった。潜んでいる微かな悪意は、閉ざされた空間の中で常に新しい刺激を求めている。

 綾子が何度目かマスコットを握り潰した時だった。

「ねえ、あっちゃんはどう?」

 急にリーダー格の女の子に話を振られてしまった。

派手な化粧とアクセサリー、着崩した制服のせいで何かと生徒指導室の厄介になるクラスメイトだ。声に反応してグループの視線が一身に集中する。

「……どうって?」

 握り締めた掌に込める力が強くなる。

「だから、彼氏がオタクでもいいかってこと。聞いてたでしょ? 彼女よりも好きなことを優先するような奴って我慢できる?」

「……その人にとってそうするしかないのなら、我慢するしかないんじゃないかな」

 ちりちりと、肌に電流が流れるような感覚を覚えながら口にした答えに、グループの空気はしばし固まった。

「オタクってさ、べつにそこまで重いことじゃないと思うんだけど」

 派手な女の子が最初に空気を入れ替えた。おどけるようにして、他の子たちもそれに倣う。

「あっちゃんは変に考えすぎなんだよ」

「そうだよ。そうするしかないオタクなんているわけないじゃん」

「っていうか、そんなオタクがいたら病気じゃない?」

「言えてる。絶対病気だよ」

 矢継ぎ早に会話が流れて、綾子はまた話の中心から遠ざかることになった。笑顔を浮かべてそれぞれの言葉に頷いて、そっと流れに身を任せていく。誰にも見えないように握り締めていた掌をスカートの裾で拭った。


 綾子は高校に進学するにあたって、学生寮に入るようになっていた。自ずと、生活はめぼしい変化など生じるわけもない六畳一間となる。かれこれ二年間、同じ空間で過ごしてきた。バイトを終えて帰宅した綾子は、鍵を開けて暗い部屋にただいまを言った。

 天上から釣り下がった丸い蛍光灯の紐を引っ張る。点滅を繰り返して、部屋の中に光が溢れた。

 鞄を床に投げ捨てて、ネクタイを緩め、上着を脱いでいく。堅苦しい服装は大嫌いだった。みんな違うのに、同じ集団に属すよう強制させられる。学校にいると、ふと息が詰まりそうになる原因のひとつだった。こういったどうにもならない無言の圧力が存在していることを綾子は知っている。

普段着に着替えると、コンポの電源を入れて音楽を流し、それから押入れの引き戸を開いた。

 隙間なく押し込まれ、堆く積みあがったウサギのぬいぐるみが、真っ黒な視線を投げかけてきていた。ぞくりと背筋が粟立つ感覚を覚えてしまう透明な眼差し。手を伸ばし一体を引っ張り出すと、重く大きな鋏で勢いよく首を刎ねた。

 分断された頭と体に指を差し込んで、はちきれんばかりに詰め込まれた綿を全部掻き出す。耳の先も、手も足も、小さな尻尾も、蠢く五指が容赦なく蹂躙していく。

鬼気迫るような表情でぬいぐるみを手にしていた綾子は、布切れ同然になってしまったウサギの外貌を確認すると、ようやく少しだけ、本当にほんの少しだけ安堵することできた。押入れに目を向けて、二体目のぬいぐるみに手を伸ばす。

 昼食の時からずっと胸がざわついていた。部屋の押入れに詰め込んだぬいぐるみの中に、本物がいるかもしれないと気が気じゃなかったのだ。ぷっくらと膨れた腹に鋏の刃を走らせる。

 綾子は次々とウサギのぬいぐるみを裂き、その中身を取り出し続けていった。

 一体を引っ張り出して右手を断つ。続いて別の一体の左足を切断し、また他の一体の後頭部を切り開いて、あるぬいぐるみの股を切り裂いた。

全てのぬいぐるみの中身を確認し終えた頃には、かけていたアルバム曲が一巡してしまっていた。

 周囲には毛皮だけになったウサギと、真っ白な血肉が散乱している。確かな顔を保っていたはずの双眸は、それぞれがあらぬ方向を向いていて、部屋の中心で鋏を手にしたまま呆然としていた綾子を見てはいなかった。

 床に鋏を置いた綾子は、いつの間にか感じていたはずの安堵を手放してしまっていた。

 親元を離れて、ひとり寮に住むようになってから様々な眼差しが怖くなった。友達の好奇に満ちた眼、クラスメイトの獲物を探している瞳、教師の、親の、街を行き交う人々の値踏みをするかのような視線の数々。

中でも、ぬいぐるみの目が怖かった。何を見ているのか、何を考えているのかがまったく想像もできない眼差しは、綾子を混乱させ、どうしようもない不安を与えるようになっていた。

 どうして人はぬいぐるみなど作ったのだろう。この問いを綾子はこの頃よく考える。なぜ、生き物を模倣する必要があったのだろうか。物言わぬ器に、どうして造形を与えてしまったのか。

 ――目があるということは、何かに見られている可能性を生み出すことなのに。

 思った綾子は、散らばったぬいぐるみだったものに目をやった。せっせと買い集めては、鋏で切り裂き、中身を確認することが習慣になってしまったぬいぐるみばかりだった。

校則で禁止されているバイトで稼いだお金が、全て散在する残骸に取って代わっていると思うと虚しくなってしまった。集めたぬいぐるみの総数は、そろそろ三桁に達しようとしている。

 おもむろに立ち上がった綾子は、机の奥から裁縫道具を取り出して切り裂いたぬいぐるみを縫合し始めた。綿を詰めなおして、ちくちくと時間をかけて全てを元通りにしていく。散らばる骸を再び押入れに詰め込むまでには、優に三時間はかかりそうだった。

 刻まれた縫い目の痕がまたひとつ増えていく。

 すん、と、淋しくなった綾子の胸がすすり上げたような気がした。


(おわり)


△宣伝△ ファンタジーライト小説『エルシル記』第二話(全十一回)を連載しています。お時間に余裕があれば、どうぞ読んでみてくださいませ。



以下、解説という名の言い訳のようなもの。


『あたたかなほっぺ』

ちょっとあれですね。以前書きなぐったものを、ちょちょいと修正入れて投稿しました。ほんわかして貰えたら嬉しいですが、出来が出来だけに、ね。難しいです。


『縫合』

ライト路線に進んでいましたが、ちょっくら短編を書いてみました。ちょっとした精神病っぽいのかな? 詳しい病気など調べずに書きましたのでいろいろおかしなところがあると思いますが、ちょっと頑張りました。


※これからのがーちゃん

今回みたいにときどきの更新になると思います。よろしくお願いします。

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