『こいのぼりの背中にのって(3)』『香り、プレミアム、黒茶色の悪魔(2)』
始めはかなり好きな作品です。後半は暴走しました。
『こいのぼりの背中にのって』
猫のじろべえの姿が今朝から見当たらない。腹が減った腹が減ったと、腹を出し寝る私の口と鼻を肉球で器用に押さえて起こすという毎朝が、今朝は訪れなかった。
その代わりに、私は毎朝のように生死の狭間から苦しみあえぎ目を覚ますという、拷問のような寝覚めを体験せずに済んだのだが、いかせん毎日続いていたことだったので、朝食を一人済ませ、歯を磨き、昨晩の内に予約しておいた洗濯物を干し、部屋の掃除を終えて、優雅にコーヒーを飲んでいる最中に、私はじろべえのことが少し心配になった。
一体、どこへ行ってしまったのだろう。
私は部屋の中を探すことにした。
三分後、ソファーの裏とかソファーの陰とかソファーの下の隙間とか、見当をつけためぼしい場所にじろべえの姿がなかったので、私は泣く泣く捜索を打ち切ることにした。
まあ、その内に帰ってくるだろう。
そんなことよりも、一時間後に迫った正午調度においしい食事が食べられるよう、昼食の準備をすることにした。
ふと、じろべえの器に貼り紙を見つけた。猫語で、探さないで下さいと書いてあった。文末にじろべえの足形。短い文とその足形に強い決意を汲み取った私は、冷蔵庫からもやしを取り出し茹でることにした。
今日のお昼の一品目。もやしのナムル。
まな板の上で鶏肉を捌いていたら、小さな声が聞こえた。どうやら外かららしい。リビングまで行って窓を開けると、外の様子を眺めてみた。
気持ちのいい青空が広がっている。陽射しは穏やかで、絶好の散歩日和のような気がした。よし、今日は一日中部屋で寝て過ごそう。私は決心した。
と、また小さく声が聞こえた。どうやらたなびくこいのぼりから聞こえているらしい。私はぼんやりとこいのぼりを見た。とても気持よさそうに空を泳いでいる。
きっと、彼らなら今すぐにでも龍に成れるだろう。力強く輝く瞳と風に立ち向かう強靭な肉体が、私にそう確信させた。
さて、私も頑張りますか。
気持ちを切り替えて、私はまな板に向かう。おいしい昼食のために、私は頑張らねばならないのだ。
小さく声が聞こえる。こいのぼりの背中に、猫のような陰を見た気がしたが、多分気のせいだと思う。
(おわり)
★ ☆ ★
『香り、プレミアム、黒茶色の悪魔』
珈琲を飲むという事。一つのカップに注がれた暗黒色の液体を飲むという事。
俺にはそれが出来ない。
理由はよく分からない。気づけば俺は珈琲という液体が飲めなくなっていた。
一体俺に何が起きたって言うんだ!
以前は、朝起きてまず一杯、朝食のお供に一杯、部屋の掃除の合間に一杯、昼食を作りながら一杯、もちろん昼食を食べながら一杯、昼寝の前に一杯、目を覚まして一杯、夕食前に一杯、外食した後で一杯、寝る前に一杯と一日に必ず十杯は飲んでいたのだ。
そんな病的に好きだった俺なのに。今は目の前に珈琲があるだけで鳥肌が立ってしまう。その香りをかぐだけで、冷たい手に背筋を撫でられるような恐怖を覚える。
一体、一体俺はどうしちまったんだ!
今日、俺は俺自身を変える。恐怖から逃げ出してばかりでは前へ進めないのだ。
愛らしくも恐ろしく、そして俺を、この古今独歩の龍浪と呼ばれた俺をここまで追い詰めた憎らしい敵――珈琲!
ふっ、今日こそケリをつけようじゃないか。
怒れる俺の拳が、スタバの扉をぶち抜いた。
(おわり)