『死にたがり屋さん(3)』『ソラユメ(5)』
『死にたがり屋さん』
ビルの隙間を通り抜けてきた海風は、ひとつ建物を過ぎていく度にその勢いを増しながら、遠く霞の向こう側にある山を目指しているようだった。
「あーあ」
予備校帰りに通った人通りの多い高架橋の上で、手摺にもたれかかっていた千早が声を漏らした。
「どうしたん」
じっと、隣で紙パックのジュースを飲んでいた、同じく予備校生の梨絵が視線だけ動かして千早の顔を見る。千早はへへっと力なく笑うと、冷たい鉄製の手摺に頬杖を突いた。
「なーんかさあ、急に死にたいなあって思ってさ」
「ほう」
「こうやって車がビュンビュン走ってて、仕事している人がいるのに、私たちは何もしてないじゃない」
「私も入れるのか」
「もちろん」
言って、千早はにっこり笑顔になった。
「もうよく分からなくてさー」
千早は右の頬を突いていた手を崩し、手摺の上に俯いた。背中を手摺に預けていた梨絵は、ふーん、と相槌を打ちながら橋の上をどんどん歩いていく人の波を見ていた。
スーツ姿の若い男性がいる。女性もいる。学生らしき集団もいる。携帯電話を耳に優雅に歩いている人もいる。みんな前を向いて歩いていた。歩き続けていた。高架橋の上で立ち止まっているのは千早と梨絵だけだった。
「死にてえなあ」
ぼそりと、千早が呟く。
「そうだねえ」
目を瞑った梨絵が微笑みながら応えた。
「あー、死にたい! 死にたいー!」
千早が叫ぶ。何事かと歩いていた人たちが振り返った。
「死にたーい!」
絵梨も続けて叫んだ。千早は過ぎ去る車に向かって、絵梨は歩いている人々に向かって、大声で物騒なことを叫び始めた。
「死にたい死にたーい!」
「死にたい死にたい死にたーい!」
「死にたい死にたい、すっごく死にたい、今すぐ死にたい!」
「死にたい死にたい、よく分かんないけど、とにかく死にたい!」
叫んで、叫んで、叫び疲れて、行き交う人々から哀れみと軽蔑と拒絶を一緒くたに含んだ眼差しを一身に集めた千早と絵梨は、お互いに顔を見合ってからどちらともなくくすくす笑い出した。
べつに何が可笑しいわけでもない。あえて挙げるとするならば、物騒なことを叫んでいるというのに、のうのうと生きている自らの不甲斐なさが可笑しいのだった。
「……あーあ、馬鹿みてえ」
言って、千早は柔らかく微笑んだ。
「まったくだね」
応えて、梨絵は紙パックのジュースを飲み干した。
立ち止まる二人を残して人々は歩いていく。車は走り去っていく。街はどんどん前に進んでいる。
ビルの谷間から差し込む陽射しに照らされて、二人の影は身長の倍以上になり始めていた。高層ビル群のガラスに乱反射する夕焼けは、二人の目にはちょっぴり綺麗過ぎた。
「帰るか」
「うむ」
呟いて、ようやく二人は歩き出す。
「世知辛れえ世の中だ!」
「まったくだ」
声を上げる二人の姿は、やがて人ごみに紛れて見えなくなった。
(おわり)
☆
『ソラユメ』
どうして空に近い場所はこんなにも心寂しくなるんだろうと、病院の屋上で高谷は思った。どうして空はどこまでも続いているんだろう。どうして空はこんなにも近いのに遠いんだろう。どうして、どうして……。
背後でドアの閉まる音がした。コンクリートの屋上に、ぺたぺたと高谷に近づいていく足音が響く。珍しく風の穏やかな日だった。穏やかに晴れていたから、そよ風にはためく整然と立ち並んだシーツ類はもう全部干せてしまっていることだろう。足音はそんなシーツの隙間を縫うようにして高谷に近づいていく。
「またここにいたんだね」
「ぼくはこの場所が好きなんだ」
背後で立ち止まった足音に、高谷は振り返ることなく応えた。顔を見なくても、声さえ聞かなくっても、孝也には誰が来るかが分かっていた。
「でも、ぼくとしてはあまり出歩かれちゃ困るんだよね」
「知ってる」
そうか、と高谷の背後の人物は呟く。
「それならいいんだ」
人物は高谷の隣に歩み寄った。白衣を纏った、ひょろりと背の高い、若い男。彼は高谷の主治医だった。高谷の、三人目の主治医だった。
「何を見てたんだい?」
男は高谷の側にしゃがんで柔らかな声で訊ねる。
「空」
応じる高谷は、どこまでも素っ気ない。反応に困った男は、しばらく二の次を告ごうと試みたものの、苦笑をひとつ浮かべた後にがりがりと頭を掻いた。それからまったく男の方を見ようとしない高谷に倣い、まっすぐに空を見た。
「青いね」
男は呟いた。高谷もそうだなと思った。いつもなら塵や埃や煙、または水蒸気などによって少し白んでいるはずの空は、果てしなく青かった。青いのに、果てなどないように見えるのに、空は面のように見えていた。
「先生、空はどこにあるのかな」
高谷はぽつりと尋ねた。
「どこにかあ、難しいな。空は、遠くに見えているけれど今ぼくを包んでいる空気も空と繋がっているわけだからね。厳密に言えば、ここだって空だ」
そこで初めて高谷は男の方を見た。まっすぐに見つめる高谷の視線を受け止めて、男は穏やかに微笑んで見せた。
「どうした?」
「べつに」
応えて、高谷は再び空を見る。大きな鳥が一羽、羽ばたくこともなく空を旋回していた。
高谷は、決してその鳥を羨ましいなどとは思わない。自らを蝕んでいる謎の病のことを疎ましいとも思わない。転々と、まだ小学校に通うはずの歳だというのに、病院ばかりで日々を過ごすことを悲しいことだとも思わない。
それは、一縷に高谷がそれ以外の日々を知らないからであった。
高谷は病院から離れると急に息切れや動機が生じ、酷い時には呼吸困難、意識不明の状態まで陥ってしまう体質だったのだ。
だから、高谷はこの四角い箱の外の世界を知らない。身体で感じることができない。そしてそのことを仕方のないことだと諦めていた。どんなカウンセリングも投薬治療も効果がなかったのだ。もうできることなど何もないのだと、幼いながらに高谷は悟っていた。
「いつか、あの山からも空を見ることができたらいいね」
そんなことを、男が呟いた。高谷は何も応えず、ただぎゅっと拳を作る。くちびるはまっすぐに結ばれていた。
「大丈夫。絶対よくなるよ。絶対だ。ぼくが約束する」
似たような言葉を何度聞いたことだろう。高谷は泣きたくなった。それでもダメだったのだ。だから、固く結んだ口を開いて、震えないように震えないように気をつけて、懸命に男に話しかけた。
「もし、もしよくならなかったら?」
「そんなことにはならない」
「もし、約束が守られなかったら?」
「そんなことは起きない」
「もし、ぼくのおかあさんとおとうさんがまたぼくを違う病院に通わせようとしたら?」
「その前にぼくが何とかしてみせるよ」
「もし」
そこで、高谷は一度地面を見た。コンクリートの見慣れた床。高谷の足はべたりと張り付いていて、決してそこからは浮くことなどできない。
「もし、ぼくが普通に病院から出ることができるようになったら?」
震えながら呟いた。
「一緒にあの山に登ろう」
男はぽんと高谷の頭に掌を載せてそう応えた。高谷の視界が少し滲む。それを見て、男は手をがしがしと動かした。
病院の屋上でじっとしている二人の人間の姿を、空を駆ける鳥はそっと見ていた。
(おわり)