『電車と寝顔(6)』『ニンジン母さん(6)』
『電車と寝顔』
綺麗に眠る人が好きだ。特に車とか電車内で。うつらうつらしててもいい。身体を弛緩させて深く眠ってしまっても、まあ平気だ。でも、だらしなく眠るのにだけは腹が立つ。無防備な寝顔やふらふらと左右に動く頭を見ると、ついつい叩きたくなってしまうのだ。
寝るならしっかり寝て欲しい。寝ることに集中して、気を張り詰めて寝て欲しい。そうすれば私は瑣末なことでイライラすることもなく、日々を順調に過ごしていけるのだ。順風満帆。
……だと言うのに、どうして私の目はいつもそういった人を視界の端に入れてしまうのだろうか。通学に使っている電車。私は座るのが嫌いなのでいつもつり革に掴まる、ドアの前に陣取るのだけれど、乗車して一息ついて、ほっと視線を上げるといつも彼の姿が目に入ってしまうのだ。
毎日大体同じ椅子に座っている人物。誰かの肩に頭を預けていることもあれば、口を大きく開けてだらしなく上を向いていることもある。あるいは、電車が大きく揺れるたびに、はっとして目を覚ます。そしてまたすぐに目を閉じるのだ。
寝ろよ。どうしてもっと寝てこなかったんだよ。彼を視界の端に捉えながら、私は毎日そんな二つの思いを抱きながら苛立っているのだ。
それは、ともするとこの電車にいつも格好良く眠る人が数人乗車しているからなのかもしれない。立ちながら敷居に背中を預けて目を閉じている女の人、腕を組んでまっすぐ項垂れてじっと動かない男の人。または杖を突いて顔を上げて微動だにもしない老人。たとえ子供であったとしても、彼ほどだらしなくは眠らないだろう。それに子供の寝顔は可愛らしいから苛立つことがない。上手に眠る人は、見ている側までも安らかに、穏やかな気持ちにさせてくれるのだ。
しかしながら、厳密にどうであるかなど知るわけがないのだけれど、少なくとも二十歳は越えているはずの彼の姿といったら。精悍な顔つきではあるのだ。にも関わらず、そのだらしない姿はいかがなものか。もっと、しかるべき姿と言うものがあると思うのだ。
こんな風に苛立ちながら私は今日も電車に揺られている。そして、当然のように彼はだらしなく寝ている。それはいつものことだった。ただ、いつもとは少しばかり状況が違っていた。
それは二人の位置関係だ。
気分はずっと最悪だった。どうして、彼の前に立たねばならなかったのだろうと、さっきから後悔してもしきれないことを考え続けている。
電車はいつも以上に込み合っていたのだ。けれど、込み入った人に押し流されようとも、何も彼のまん前になることはないのではないだろうか。私はミッション系の高校に通っていたので相応にキリスト教を信仰していたのだけれど、この時始めて主を憎んでしまった。呪ってしまった。どうしてかような試練を与えるのですかと、私が一体なにをしたんだと、どうしても思わずにはいられなかったのだ。
彼は睡魔に侵された重たい頭を、隣に座った女性の肩に預けていました。あからさまに嫌そうな、困惑した表情を浮かべている女性のことなど、降りる時に目を覚ました彼は考えもしないのだろう。こいつは絶対にそう言う種類の人間なのだ。間違いない。私はその女性を気の毒に思いながらも、動き出そうとする右手を精一杯押さえることに必死だった。
叩きたかった。おそらく中身などない、あったとしてもちゃらんぽらんな夢に満たされた頭を、力一杯叩きたかくて仕様がなかった。叩きさえすれば、さぞかし気持ちよかろうに。けれど、私にも怖いものがある。周りの人の、不思議そうな目や好奇にしまった目に射すくめられることは嫌だった。だからどうにかこうにか我慢した。んがぁ、と彼が痙攣した時が一番危なかった。
けれど、何とか私は我慢し通すことに成功した。よかった。ミッションコンプリートだった。少なくともたくさんの目が集中することはなくなったのだ。本当によかった。
ただ、その日、彼と私とに関することはそれだけでは終わらなかった。
私は芸術大学に通っているのだけれど、構内で男子生徒の中に彼の姿を見つけてしまったのだ。彼は被写体をデッサンしながら、へらへらと笑っていた。笑いながら並んで座った女の子と楽しそうに時間を過ごしているようだった。
まあ、それはいい。恋することは悪くない。並んで座っていた女の子に私が嫉妬するなんてことがあるわけもなく、とにかくは平気だった。しかしながら、その光景を見てからというもの、大学に通うことが少し奇妙なものに思えるようになってしまったのだ。
彼がいる。その事実は思った以上に大きな影響力を持った事実だった。できれば知らないままでいたかった。知らなければ、電車の中で抱き続けていた苛立ちの対象が同じく空間で毎日を過ごしていることへの奇妙な親近感や罪悪感、そして寝顔を知っていると言う秘密を抱えることもなかったのに。楽しそうに笑っていた彼の表情。そして電車に揺られる間抜けな寝顔。その双方を知りながら、私は今日も彼の寝顔を視界の隅の捉えながら電車に揺られている。
相変わらず彼の眠る姿はだらしなくて、早朝からイライラして毎日を送っているのだけれど、このごろは、まあそんな日々も悪くないのかなと思ったりもする。
電車の中はへんに蒸し暑くて空気が悪い。けれど、いつかは降りなければならなくて、寒い冬のプラットホームに立ち尽くすと随分と温かさを懐かしく思うものなのだ。
だからどうだと言うわけではないけれど、要はそう言うことなのだ。
電車が揺れて、んご、と、彼は身体を震えさせた。
(おわり)
☆ ★ ☆
『ニンジン母さん』
ニンジンを食べよう。
母さんが唐突にそんな強化週間を予定した日は朝から快晴だったわけなのだけれど、冬だったせいもあって放射冷却の厳しいとても寒い朝だったわけで、そんな中意気揚々とわたしを起こした母さんは、他になにを言うでもなく、ニンジンを食べよう、と、ただそれだけを言ったのだった。
「おはよう」
「おはよう。そう言うわけだから、早く朝ごはん食べちゃいなさい」
言い残して颯爽とわたしの部屋をあとにする母さんの背中を見送る。さてどうしようか、このまま二度寝をしてしまおうかと考えた。けれど、ふと目に入った目覚まし時計は、なるほどすでに八時半を回っていて、見れば窓の外はいい天気だし、考えてみれば日曜日だったので起きることにした。日曜日は寝て過ごすのもいいけれど、無駄にぼうっとするのもいいと思う。
空気が寒かったお陰で、まどろんでいた頭がすっきり目覚めてしまった。わたしは、極めて外気に左右されやすい身体構造をしている。それはどういうことかというと、つまりは寒ければ目が冴え、暑ければだらけきってしまい、また温かければ眠くなってしまうと言う見事に分かりやすい体質のことだ。冬の昨今は寒いので寝るときが大変なのだけれど、起きるときは便利だから、まあどっこいどっこいかなと思っている。
リビングに向かうと、母さんはソファに座って“とくだね”を視聴していた。
それはまさしく視聴と呼ぶに相応しい姿格好であって、ずっと待ち望んでいた映画を公開初日に映画館まで詰め寄って見ているときのような姿だなあと思った。それがどんな姿か、具体的には思い浮かべてもいないのだけれど。要はだらけていないのだ。しゃんと背筋が伸びていて、ともするとかえって疲れてしまうのではないかと思わせる姿勢だった。母さんはとくだねをいつもそのような姿勢で見る。
そんな姿を一瞥してわたしはテーブルにつくと、冷めてしまったトーストとこれまた冷めてしまったカフェオレと、千切って盛り付けただけのグリーンサラダを前にして、頂きますと手を合わせた。
話は変わるけれど、我が家の母さんはとても時間に厳しい。かれこれ何十年も自分時間に家族を巻き込んできた人物である。彼女の思考に相手の事情を考えるだけのスペースはない。
それは成長し自分の時間を持ち始めるようになったわたしたち姉妹にとってはなかなかに面倒なもので、中高とよくよく衝突することになる原因にもなったのだけれど、仕事を始めるようになって、また二十年以上もその生活スタイルに浸かることによって、少しではあるけれど有意義なもののように思えるようにはなった。
妹などは、形こそ違えど、わたしのこういった考え方はある種の洗脳を受けてしまった結果なのではないだろうかと言うのだけれど、元々が時間にしっかりした母さんなのだ、その時間に生活スタイルを強制されるということは規則正しい日々を送るためにはとても役立っていた。少々煩わしいのも確かだけれど。
フォークでグリーンサラダを掻き分ける。
わたしはレタスが嫌いなので、いつもレタスを他の食器に移してからじゃないとグリーンサラダを食べることができない。今朝はその作業の途中で、驚くべきものを見つけた。
「母さん」
「ん?」
とくだねに見入っている母さんは、顔すら動かさず声だけで反応を返してきた。それは毎度毎度いつものことなので、今ではもう腹が立つようなことではなくなってしまっているのだけれど、返事だけの母さんの態度を見る度に、どんなものなのだろうかと考えないこともなかった。そのことを母さんに伝えることは、おそらく一生ないのだけれど。
「なんですか、これは」
「グリーンサラダじゃないのかしら」
素晴らしい。なんと母さんはこちらを振り返ることなくそう言ってのけた。予知能力か透視能力でも持っているのかもしれない。けれど、そんな話、今まで一度も聞いたことがないような気がする。
「いやね、そうじゃなくて。このさ、器のそこに敷き詰められているオレンジ色の物体は――」
「ニンジンよ」
ほう。ニンジンであるらしい。まあたへんなことをし始めたのだなあと、寝起きのぼやけた脳みそでは思っていたのだけれど、それは母さんが今までにもいろいろとへんなことを言ってやり始めることがあったからで、今までにも度々そう言うことがあったから、今回もそんなへんなことの一環だとベッドの上で思っていた。
確かにニンジン週間も、後から考えてみればそういったへんなことの延長上にあると判断できることなのかもしれない。けれど、何となくこれまでとは違って、途中でやめるようなことがないような気がした。今までは長くても二、三日だったはずなんだけどなあ。
非常にまずい感じだった。
「ねえ、母さん」
「ん?」
ようやく振り返った母さんは期待と希望に満ち満ちた表情をしていた。わたしの中の嫌な感じは加速度的に増長していく。
「ニンジン……」
「たくさん食べるのよ」
嬉しそうに笑った母さんの表情を見て、わたしは急に真っ青な空を仰ぎたくなった。
でも、視界に入ったのはしみったれた木造の天井だけだった。
残念。
(おわり)