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『ウサギの淋しさ(6)』『聖夜の過ごし方(11)』

『ウサギの淋しさ』


 ウサギは独りぼっちになって、淋しさがいっぱいになると死んでしまうのだそうな。愛情に慣れてしまうと、絶えてなくなっても忘れられなかったり、前に進めなくなってしまうからなのかもしれない。野生のウサギなどのことを考えてみると、どうにもぴんと来ないのだけれど、まあそういった考えがあるのは悪くないなあと思う。少なくとも、いまの私にはちょっと似ているから。

 もうどれくらい食べ物を口にしなくなったのだろうか。三日? それとも五日? あまり覚えていない。意識が朦朧としているからだ。栄養は大事だと思う。

 水も、昨夜ペットボトルが空になった。これからはまずい水道の水を飲まなければならない。あのカルキ臭さはどうも苦手だから、水も飲まないようにしようかなと、少し考えている。

 布団にくるまって、部屋の片隅でしゃがんでいる毎日だった。レースをかけた窓は、規則的に光と闇とを射し込んできていて、私がこんなでも世界はしっかり回っているようだった。当たり前なのだけれど。

 なんだか無性に淋しかったのだ。淋しすぎて、身体を動かすのが億劫になってしまった。ちょっとすごいことだと思う。人間の感情は、時として肉体の自由を奪うものなんだなあと、何もする気がおきないままの私は初めて学んだ。

 そういえば、昔母さんはいろいろなことを私に教えてくれていた。たとえばセックスのこととか、自殺のこと、風俗のこととか、いろいろな物事の光と影のことを。まだ小学校低学年だった頃から、それはもう毎日のごとく私はそういったことを聞かされて育った。その背後にある人々の葛藤を、もしくは心情をよくよく考えてみなさいと、最後に母さんに諭されながら。

 母さんに言わせれば、どのみちあなたはこういったことを考えて、その末に何もかもを傍観するような立場になってしまうからだったなのだそうだが、なるほど、このような状態になったいま考えてみると、あながちその予見は外れていなかったように思える。

 私は確かに物事の傍観者としての位置に居座りながら、ここ数年を生きていたのだ。

 それは誰かの色恋沙汰だったり、恨み言、もしくは社会に対する不満などであったのだけれど、私はいつもどんな時でも聞き手や観測者になるばかりで、決して自らの意見を表に出そうとすることがなかった。

 それは私が自らそう心がけたことでもあったけれど、周りの影響も少なからずあったように思う。私はいつの間にかそう言う性格であると周りから判断されるようになってしまっていて、そのために確実に私まで届いている誰かの気持ちというものがないことに気が付いてしまった。

 母さんは、将来の私を思って観測者たる私の心構えを教え諭したつもりなのだろうけれど、ある意味においては、母さんのせいで私は観測者にならざるを得なかったのだとも言えなくはないと思う。幼かった頃、私にはまだ様々な未来が待っていたはずだし、それを自らの思い込みで制限してしまったのは母さんなのではないだろうかと思うのだ。

 そのことで、私は母さんを少し恨んでいる。酷い親だったなあと思うのだ。

 その母さんが、ついこの間死んでしまった。母さんの死、それ自体は、まあ毎日どこかで起こっていることなのだろうからさして重大なことではなかったけれど、母さんが残した遺書が私にとって大変な影響力を持つものであった。

 母さんは遺書の中で、幼少の頃の私に対する一連の教えを振り返り、そして次のようにまとめていたのである。

『そうやって、母さんはあなたにいろいろなことを知るように仕向けてきたのだけれど、それは単に母さんを恨めしく思うように仕向けるからでありました。あなたは、その瞳を見るだけで、将来いろいろなことを知ってしまうことだろうことが分かりました。そしてその末に無感情に、無気力になってしまうであろうことも。だから、そこに私に対する思いだけでも残しておこうと思ったのです。それはどんな感情でもよかった。懐かしいだけじゃなくて、感情を残しておきたかったのです』

 まったくもって、嫌な親だったと思う。私のことを勝手に推し量ってしまっているのも気に食わないけれど、それ以上に私を勘違いしてもらっていたのが腹立たしかった。

 私が、親に対して懐かしい以外の感情を抱かないとでも思っていたのだろうか。そもそも、母さんは思い込みが激しいところがあった。それも妙にひねくれた思い込みだ。今の私があるのも、そのせいだと思うと、本当に怒りを通り越して悲しいくらいになってくる。

 でも、そんな母さんがいなくなったことで、本当に私と繋がりを持っていた人も、全ていなくなってしまった。それがどうしても淋しくて、私はもう随分と動けなくなってしまっていた。

 果たして、このまま私は淋しさに食いつぶされてしまうのだろうか。ウサギみたいに死んでしまうのだろうか。自殺の原因が淋しさによる餓死だなんて少し滑稽なような気もするけれど、まあそれはそれで仕方がないことなんじゃないかなあとも思った。

 また今日も日が沈む。部屋の中には夕陽が射し込んできていて綺麗だと思った。


(おわり)


 ★ ☆ ★


『聖夜の過ごし方』


 クリスマスイブは、一年のうちで一番多くカップルがセックスをする日であるのと同時に、一番多くの自殺者が出るでもあるらしい。ラブホテルのいちバイトとして雇ってもらっている身としては、ちょっと考えてしまう事柄だ。俺がカップル達のためにベッドを整え、掃除をし、また、ことが済んだ後でシーツを取替え、掃除をし、部屋を整えて新たなセックスの場を提供するのと同じくして、どこかでは人が飛び降り、または首を吊り、過度の服薬をしたり、密室でガスや練炭で自殺の準備をしているのだから。

 ビルの裏側でタバコを吸いながら、自ら死にゆく人たちのことを考えていた。夜は深く寒くて、煙と共に吐き出す息も白くなってまっすぐ立ち昇っていく。さっきから側で猫がくつろいでいた。

 俺はときどき人生ってなんだろうと考えることがある。それは俺が社会一般の認識からすると異質な仕事についているからなのかもしれないし、または大学を中退して何を目指すわけでもなく、ただだらだらとバイトを掛け持ちしながらフリーター生活をしているからかもしれなかった。

 そこのところは、本当によく分からない。もしかしたら俺と言う人格が、元来そういったものを考える性質を有しているからなのかもしれない。たとえば、もしそうだとするならば、考え始めてすぐに、こんなことには形ある答えなど存在しないのだと、半ば自虐するかのように思ってしまいながらも、そのことについて考えないわけにはいかない俺自身のことが少しだけ理解できるような気がする。

 俺は、俺という人格であり人間であるにも関わらず、俺自身のことについて多くを知らない。それは生きてきた過去とか、好きな料理、嫌いな音楽などといった趣向でもなく、もっと本質的な、俺についての理解だった。

 まあそんなことは今は特別問題ではない。とにかく、人生そのものについて、俺はいつものように、またこんな不毛なことを考えるのかと思いながらも、ぽつぽつと考えてみることにした。

 猫はときどき欠伸をしていた。もしかしたら、俺がいい風除けになっているのかもしれないし、その場所がいつもの休憩場所なのかもしれなかった。

 随分と考えていた。そろそろ戻ろうかなと思い、時間を確認する。手が指から手首の辺りまでかじかんでいるような気がした。もう一本だけ。もう一本だけ吸おうと思い、ポケットからタバコを出そうとしたときに、いつの間にか隣に座っていた美由紀さんに気が付いた。

 彼女は猫を愛おしそうに撫でていた。

 俺は思わずポケットから取り出そうとしていたタバコを落としてしまった。それは、美由紀さんの姿が、遠くネオンの煌めく生々しいにおいを有した夜の街の中では異質な姿だったからだ。街から切り取られたビルの狭間で、そっと猫の額を撫でる美由紀さんの姿はとてもいい画になった。

 綺麗だ。

 圧倒されるようにして素直にそう思い、俺はしばし呆然と見惚れてしまった。

 やがて視線に気が付いた美由紀さんは俺に振り返り、さっとその表情を変えた。ちょっと怒っているようだった。

「三谷くん、仕事が一段楽して暇になっているのは分かるけれど、持ち場にいてもらわなければ、いざと言う時に困るんだけどな」

「ああ、すみません」

 美由紀さんは年齢不詳の飛び切り綺麗な(あくまで俺の美的感覚からしてなのだけれど)女の人だ。見た目は若く見える。今年からタバコが吸えるようになった俺と大差ないほどだ。そんな女の人が、どうしてラブホテルの経営なんてしているのか知らないけれど、俺は彼女がこのホテルにいてくれていることが何よりも嬉しかった。同じ仕事するならば、綺麗な女性とするに越したことはないのだ。

「さあ、早く中に入ろう。寒くてかなわないわ」

 言いながら、美由紀さんは猫に別れを告げてさっさと中に入っていてしまった。

 美由紀さんは切り替えがものすごく早い。感心してしまうくらいに早い。きっと、もう俺に対する小さな怒りもなくなってしまっているのだろう。そんな態度は、ともすると演技をしているようにも思えなくはないけれど、美由紀さんに限ってはそうじゃないと、俺は思う。

 猫が小さく鳴いた。残念だな。お前は入れることが出来ないんだ。

 心の中で謝って、俺もビルの中へと入った。

 小さなテレビと、簡素なテーブル、パイプ椅子が数個並んでいる事務室で、美由紀さんはテーブルに肘を突いて、つまらなそうに深夜のバラエティ番組を見ていた。いや、もしかしたら見ていないのかもしれない。目を向けているだけで、意識はそこにはないようだった。

 美由紀さんはなどんなことに対しても拘らない人だ。たとえば、今さっき俺に注意したことにしても、目の前に置いてある、おそらく俺が随分前に差し出した冷え切ってしまったコーヒーにしても、もうそのことがあったことすら忘れてしまっているんじゃないだろうかと思う。何と言うか、全てを捨てているような、何ものも手に入れようとは思っていないような、そんな寂しい感じがするのだ。俺は椅子をひとつ引いて腰掛けた。

 かちこちと、丸時計が時を刻む音と、少し耳障りなテレビの笑い声とだけが室内を満たしていた。石油ストーブは付いていて、その上で薬缶が湯気を立ち昇らせているけれど、少し寒い感じ。それは肉体的な温度ではないのだと思う。おそらく、精神的な心の淋しさから来る肌寒さなんだと思う。

 いつもなら客足が、少しずつではあるものの、決して途絶えないホテルの仕事なのだが、クリスマスイブである今日はそんなこともなかった。おそらく、その一日をベッドの中で過ごそうと言う客ばかりなのだろう。汗ばんだ身体で愛を貪り、心地よい疲れと温かさを側に感じながら眠りに落ちていくカップルばかりなのだ。

 だから、今日の仕事は楽だ。でも、仕事が楽だと、いらないことばかり考えてしまって少し面倒だと思う。

 たとえばそれは美由紀さんとのセックスのことであるし(俺はまだ美由紀さんと寝たことがない)、または今も俺の頭上のどこかで行われているのだろう誰かのセックスのことでもあるし、もっと違った、たとえばどこかで起きている自殺とか家庭の団欒でもあったし、俺自身の、果ては人間と言うものの人生のことであった。俺は美由紀さんと同じようにテレビを見ながら、ぐるぐるぐるぐる、目まぐるしく変化していくそれらのことを考え続けていた。

 じっと、いつの間にか頬に視線を受けていた。気が付いて目を向けると、美由紀さんが微笑を浮かべながら俺のことを見つめてきていた。

「いま、難しいこと考えていたよね」

 美由紀さんはときどき妙に鋭いことがある。

 俺は頭を掻いて、少しおちゃらけて、分かりましたかと訊き返してみた。

「顔に書いてあったもの。三谷くんはね、難しいことを考えると、少し淋しそうな目をするんだよ」

 知ってた、と美由紀さんは楽しそうに尋ね、そして微笑んだ。俺はそれに苦笑で返すしかない。淋しいとかそんな気持ちは全然なかったのだけれど、表情と言うものはなかなか面白いものなのだなあと思った。

「ねえ、何考えていたの」

 美由紀さんがテレビのチャンネルを変えながら、俺に訊いてきた。

「いろいろなこと」

 俺は変わりゆく番組を見つめながらそう答える。ぷつんと、画面が黒に変わった。

「暇ね」

 つまらなさそうに美由紀さんは口にした。そしてテーブルの上に腕を敷いてその上に顔を乗せた。盛大なため息。一連の動作が、少し子供っぽかった。

「あ、いま笑ったでしょ」

「いえ、そんなことないですよ」

「うそだあ」

 言う美由紀さんはどこか楽しそうだった。俺は唐突に、どうして美由紀さんがこんな夜の街でラブホテルなんか経営しているのか猛烈に気になってしまった。だって、美由紀さんならもっと他にいろいろ出切ることがあっただろうに。すごくもったいないような気がした。

「美由紀さん」

「ん?」

「美由紀さんは、どうしてこの仕事をしているんですか」

 気が付けば、自然とそんなことを訊いていた。美由紀さんは、始めこそ突然の質問に驚いていたみたいだったが、やがて柔らかく破顔すると、「どうしてだろうね」と呟いた。

「よく分からないな」

「他に何かしてみたいこととかないんですか」

「さあ。私はどうしてこの仕事をしているのかよく分からないけれど、仕事自体は結構好きだったりするからね。あんまり他にしたいこととか思いつかない」

「好きなんですか、ここの仕事が」

「もちろん。じゃなかったらやっていけないよ」

 美由紀さんの笑顔はいつも自然で、見ていてもぜんぜん嫌な気持ちにならない。近しい笑みというのか、親しみを持てる空気を放っていると言えばいいのか、もしくは嘘偽りがないからなのかもしれないけれど、あまりにもはつらつとしているために、卑屈な気持ちにならざるを得ない笑顔とはまったく質が違うのだ。

「誰かが幸せになるのに手を貸してあげられるのは嬉しいことじゃない」

「俺には、よく分かりません」

「かもしれないね」

 言って、美由紀さんはクスリと笑った。何が面白いのか、そんなことは分からないけれど、俺はその笑顔を見て幸せな気持ちになった。

 たぶん、俺は美由紀さんに恋をしている。

 でも、それを伝えようとは思わない。美由紀さんのことだ、気にもしてもらえないと思うのだ。それに、美由紀さんには恋をして欲しくなかった。恋をすると、美由紀さんは俺の好きな美由紀さんじゃなくなってしまうような気がするのだ。

 それを、人は臆病者の言い訳と言うのだと思う。

 そんなことは分かっているけれど、できないものは仕方がないのだ。俺はコーヒーを淹れに席を立つ。

「あ。私にも淹れて」

 そう言って、美由紀さんはなみなみに冷え切ったコーヒーが注がれたマグカップを俺に差し出した。

「飲まないんですか?」

「冷えたコーヒーはまずいじゃない」

 それもそうだ。俺はマグカップを受け取って奥へと向かっていった。

 なんだか奇妙な感じだ。聖夜の夜に、たとえば熱く肌をこすりつけ合っているのでもなく、かといってほのぼのと幸せを噛み締めているわけでもなく、同じ部屋で男女が事務的に時間を過ごしている。どこかでは人が死んでいる。思わず窓の外の月を見てしまうほどに、奇妙な感覚だった。

「あ、綺麗だね」

 後ろで美由紀さんが言った。

「そうですね」

 俺は排水溝に吸い込まれていくコーヒーを見ていた。

 雪が降ればいい。雪が降って、幻想的になれば、少しはこの奇妙な感覚もそれらしくなると思った。

「おいしいの、頼むね」

「もちろん」

 そんな会話をしながら、俺と美由紀さんの夜は更けていく。


(おわり)

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