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『目撃者(5)』『空の魚(10)』

『目撃者』


 まだ保育園に通っていた頃、僕は人が空を飛ぶのを見た。それは、たとえば鳥が優雅に大空を旋回するのだとか、懸命に羽ばたいて飛び立つとだとか、もしくは蜻蛉みたいにじっとホバーリングするとか、そういった種類の“飛ぶ”ではなかった。どちらかと言えば、飛ぶなどと言うよりもモモンガみたいに“滑空していた”と表現する方が正しいのだろう。けれど、あの日僕が目にした人物の行動は、幼かった僕にとってはまさに飛翔そのものだった。人がビルの屋上から飛び降りる様を、僕は対面するビルの一室から確かに見たのだった。

 あの人は笑っていたのではなかっただろうかと、曖昧な記憶を辿りながら思い出してみる。あのよく晴れた日、音楽教室のささやかな発声練習を背後に、ふと見上げた隣のビルの上でおじさんはずっと俯いていた。顔は射し込む太陽の光もあって見て取れなかった。おそらく、その時はなんの表情も浮んでいなかったのではないだろうかと、今の僕には何となく分かる。おじさんがなにを思い、なにを苦にしてあの場所に立ったのかはまったくもって想像もつかないけれど、そういった場所に行ってしまった人の顔には、大体において表情など浮ばないものなのだ。

 ぼうっと見上げていた僕の視線の先で、おじさんは大きく両手を広げると空を仰いだ。僕にはそれが怪鳥の羽ばたきを示唆するかのようなものに思えた。そこはかとなく、姿が輝いて見えたのだ。僕はわくわくしていた。

 その胸の鼓動が、どういうわけかは分からないが、おじさんには聴こえたのだろう。彼は上に向けていた顔をぎゅるんと僕に向けると、にんまりと笑顔になった。

 ぞくりとした。

 肌が粟立つのと同時に、身体の中に冷たい何かを投げ込まれたかのように感じた。感じていた高揚感は一切消え去り、怖くて怖くて仕方なかってしまった。けれど、どうしても視線はおじさんから離れなかった。僕は彼が最後に口にした言葉を確かに聴いてしまった。

『ごめんなさい』

 聴こえるはずのない声は、しかし動く口の形からはっきりと分かってしまった。表情と内容とがちぐはぐだったことと、それが一体誰に対して発せられた言葉なのかは、今に至るまでひとつも分かりはしないのだが、まったく酷いことを見させてくれたもんだと、今の僕なら笑って済ますことが出来るような気がした。

 おじさんは飛んだ。高く高く、なににも縛られることのない大空を目指して飛んだ。それはとても優雅で、自由で、ゆっくりとした飛翔だった。おそらく、前進していたのではないだろうかと思う。両手を大きく広げ羽ばたくおじさんは、鬼気迫る表情で空に飛び出していた。あれは表情などと言うものではないと思う。言うなれば狂気が張り付いていた。

 けれど、おそらくおじさんは足首に繋がれた鎖に気付いていなかったのだろう。それか、もしかしたら、気付いていたからこそ飛んだのかもしれない。おじさんは確実に落ちていっていた。

 ゆっくりと滑空しながら、やがて見えなくなったおじさんの、どん、と地面にぶつかった衝撃音が僕には聴こえてしまった。音楽教室の和気藹々とした空間の中で僕はひとりがたがた震えて出した。ようやく自由になった視線を窓から外して、楽しそうなみんなと笑顔の先生を見ながら、一緒に歌を歌った。でも、がたがたは止まらなくて、次第に視界がぼやけていって、僕はどうしようもない気持ちになってしまった。

 それは恐怖なのか、悲しさなのか、それとも混乱なのか、よく分からなかった。ただ僕は感情の渦に呑み込まれてしまって、それ以上一言も歌を歌うことが出来なくなってしまったのは確かだった。

 気が付いたのは先生だった。

 伴奏を止めて、僕に声をかけてくれた。僕の震えと涙は決して止まることはなく、そのまま音楽教室から帰ることになった。

 あの光景は、僕の人格形成の中で大きな要因を果たしている。一生分の恐怖とか混乱とかそういったものを、僕はあの場で使い果たしてしまったのだ。だから、今も暗い部屋にぶら下がる首吊り死体を見たところでなんとも思わない。それがかつての音楽教室の先生であったとしても、ああ死んだんだね、程度にしか思えない。

 同僚の刑事と共に現場検証を始める。ほんの数時間だけであっても地上からの鎖から解き放たれていた先生は、醜く汚物にまみれていた。


(おわり)


 ★ ☆ ★


『空の魚』


 少年は不思議なパズルのピースを持っていた。

「ねえ、それ見せてよ」

 と、幾度となく少年は言われたが、決して誰にも見せなかった。ピースはとても大切なものだったのだ。もしも誰かに見せて、その誰かがふとしたきっかけでピースを失くしたり、または盗んでしまっては堪ったものではなかった。ピースは何よりも大切で、だから少年は片時も手放そうとしなかったのである。

 そのピースにはどこまでも蒼色が広がっていた。いや、掌に乗ってしまうほどの大きさなのだから「広がっていた」などという表現は適切ではないのかもしれない。けれど、少年がピースを手に乗せじっとその蒼を覗いていると、どこまでも飛んでいけるような、自由な広がりを感じずにいられなかった。それはまさしく空の広さであり、海の雄大さであった。ピースを見て、そんな大きさを感じ、少年はいつもそっと微笑んで勇気を貰うのだった。

 少年は、ピースがどこにはまるのかを知らない。知らないけれど、いずれはめなければならないことを知っていた。少年はそのためにずっとピースを大切に持っているのだ。果たしてこのピースがどこにはまるのか、空か海か、またはどこかの絵なのか風船か、判別はまったく出来なかったけれど、少年はいつか必ずピースを完成させようと心に決めていた。

 きっと、このピースは最後の一枚なのだ。

 それは漠然とした、しかし確かな確信だった。このピースがなければ何かは絶対に完成しなくて、不完全なまま漂うことになるのだ。それはとても悲しいことだし、少年を不安にさせることだった。少年は何よりも調和を好いていたし、不安定な物事が近くにあると知っているとじっとは出来ない性質だったのだ。

 だから、少年は旅に出た。学校はまだ行かなければならなかったし、話をしたら両親は烈火のごとく怒り出してしまったけれど、それでも少年は旅に出ることにした。

 まだ、両親ともども起きていない早朝。こっそりと家を抜け出して駅へと向かった。肩にはショルダーバック。中に昨夜のうちに貯金箱を壊して全額しまいこんだ財布と、お気に入りの漫画、目覚まし時計と、昔お祭りの時に親戚のお姉さんに買ってもらった指輪を詰め込んで歩いていた。朝食はりんごを齧った。しゃくしゃくとしておいしかった。住宅地はまだ眠ったままで、白みがかった空はどことなく寂しさを内包しているようだった。

 少年は一人駅のホームへと辿り着く。冷たいプラスティックの椅子に座って、電車が来るのを待ちわびた。

 しばらくすると隣に誰かが立った気配がして、少年は顔を持ち上げた。そこには魚が立っていた。どういうわけかスーツ姿の足がにょっきり飛び出したその魚は、死んだような、またはどこも見ていないような真っ黒の瞳を顔の両側につけて、少年のことを見下ろしていた。

「やあ」

 魚がそう声をかけてきたので、少年はびっくりして椅子から飛び上がった。

「あはは。まあまあ、そんなに驚かないでくれよ。見ての通り、僕はただの魚なのだから」

 ただの魚が地上を歩いたり、人間の言葉を話すわけがないと少年は思った。

「まあ、それもそうだけれどね」

 魚はそんな少年の思ったことに返事をした。少年は声を出していないにも関わらずだ。なんなんだろう、この魚は。少年はじっと考えた。

「まあ、今はそんなこと理解できなくていいよ。それよりもさ、隣、座っていいかな。足がだるくて。ずっと立ってるのは苦手なんだ」

 それはそうだろうなあと少年は思い、横へずれた。

「ありがとう」

 言って、魚が少年の隣に座る。途端にむんと生臭いにおいが少年の鼻を突いた。

 くさい!

 強烈にそう思った。

「はは、ごめんよ。これでも香水とかデオドラントとかいろいろしてにおわないようにしてきたつもりなんだけどね。いやあ、やっぱりにおうかあ。でも、仕方がないよね。僕は魚なんだから」

 確かに、魚なのだから仕方がないのだろう。少年は鼻を摘むと隣の魚を見た。目が大きくてぎょろぎょろしていた。少し気味が悪い。

 魚と少年は、そのまま随分と喋らなかった。駅には電車ひとつ来なかった。それどころか、毎日のように仕事に向かうサラリーマンも、学校に向かう学生も、駅員さんだって来なかった。駅の中はしんと静まり返っていて、それが少しだけ心地よかった。

「ねえ、ピースを見せてくれないかなあ」

 唐突に魚が口にして、少年は思わずポケットの中に入れていたピースをぎゅっと握った。

「ははーん、そこにあるんだね」

 魚がぎょぎょぎょと笑った。少年の緊張はいよいよ強くなった。それもそのはずである。友達にだって見せたことはないのだ、こんな見ず知らずの魚になんて見せることは出来なかった。

「うん、確かにそれはそうだね」

 魚が、また少年の心を読んで口にした。

「でもさ、それは今とても重要なものなんだ。僕にとっても君にとってもね。だから見せてくれないかなあ」

 言われても、少年は応じなかった。ぎゅっと握り締めるこぶしに更に力を込める。絶対に渡すつもりはなかった。

 そんな少年の様子を、魚はじいいいいっと見つめる。それから不意に興味を失ったようで、

「まあいいけどさ」

 と口にした。

 そして再び沈黙が訪れる。少年は次第に不安になってきた。

 折角朝早く起きて駅までやってきたというのに、そこには電車も人もいなくて、その代わり魚がいたのだ。もしかして僕はとんでもないところに迷い込んでしまったんじゃないだろうか。お父さんもお母さんも、今頃とても心配しているんじゃないだろうかと思っていたら、涙が滲んだ。

「まあ、あながち間違いじゃないかな」

 魚が口にした。少年は驚いたような表情で魚を振り返り、そして急に立ち上がって数歩下がった。魚が急に怖くなったのだ。

「まあ、それも無理ない反応だ。でもね、そんなに心配しなくてもいいよ。僕は君に危害を与えるつもりはないし、そのピースさえ見せてくれたら全てが解決する」

 言葉を、少年は信じることが出来なかった。魚に対する不信感は拭い切れれいなかった。

「まあ、僕はいいんだけどね。でも、もうそろそろ君は危ないと思うよ」

 そう魚が口にすると、急に辺りが暗くなった。ずっ、ずっ、と下から闇が這い上がってきているかのような暗くなり方だった。見れば、線路が水浸しになり始めている。それもどこか毒々しく濁っている水だ。激しい腐敗臭までせり上がって来た。少年は思わずむせると、目尻に涙を浮かべて魚を振り返った。

「僕じゃないよ。僕にはこんな力はない。それに、僕にはくさくもないし、君が見ている汚い水も見えていない。だから僕はいいんだ。安全なんだ。危ないのは君なんだよ。だからさ、ピースを見せてくれよ。そうすれば全てが上手くいくんだから」

 少年は迷った。迷ったけれど、魚にピースを見せることにした。

 立ち上がった少年を見て、魚はこう言った。

「そうこなくっちゃ」

 魚の前に立って、少年はポケットからピースを取り出した。ピースはとても激しく光り輝いていた。

「やっぱりねえ。こうだろうと思ったよ。ちょっといいかい」

 言って、魚は器用にヒレでピースを掴み挙げると、なにを思ったのかぱくりと飲み込んでしまった。

 唖然とする少年の目の前で、状況は恐ろしく早く、めまぐるしく変化していった。

 まず、魚が弾け飛んだ。血肉が少年の顔とか身体にぶち当たって重力にしたがって落ちていった。それからぐらりと駅全体が揺れた。空が赤黒く変色していて、雷がごろごろと落ちてき始めた。くさい水はホームの縁まで嵩を増してきていて、竜巻か台風か、激しい風が轟々と吹き始めた。

 少年は怖くなって、目を閉じ耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。終われ、早く終わってくれと強く念じながらしゃがみ込んだ。

 どこからか、魚の声が聞こえてくる。

「まあ、こんな風になるだろうね。想定の範囲内だ。世界が組み直る時には、荒々しい変化が生じるものだからね。でも、もう少しさ。もう少しで君は目が覚める。そして真っ白な天井を見上げるんだ。そしたら、そうだなあ、まずは横にいる人に謝るんだね。次にお礼を言いなさい。それから、いつでもいいけれど、僕のことを思い出してほしいな。うん、それだけだ。それだけ出来れば君は完璧さ」

 少年の感覚では、もう身体がぐるぐると回っているかのような感じだった。上も下も、地面がどこにあるかも分からない。とにかくすごいぐちゃぐちゃだった。

 そして少年は意識を失った。

 次に目を開けたとき、少年は確かに魚が言ったように白い天井を見上げていた。そして隣には少年の両親がいた。疲れきって寝ているようだった。少年はそっといろいろなところに目を向けてみる。そこは病院で、少年はどうやら随分と長いこと眠っていたようだった。

 窓の外に空が広がっていた。そこに魚が一匹泳いでいるような気がした。少年はポケットの中のピースを探してみた。けれど、ピースなんてどこにもなくて、きっとあの魚がもっていってしまったんだろうなと思った。

 少年は小さな窓から空を見上げる。広がる大空は見ようによっては海に見えなくもなくて、きっとあの魚は今も自由にそこを泳いでいるんだろうなと思った。

 ピースは永遠に失われてしまった。


(おわり)

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