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『夕日で埋める隙間風(3)』『猫を積む男(5)』

『夕日で埋める隙間風』


 病床の母は、長らく生活した木造の家から決して離れようとしなかった。夫がすぐ側に新築の家を建てたというのに、移り住むことには頑として首を縦に振らなかった。歩いて二分とかからないとは言え、老婆の一人暮らし。いつ病状が悪化するとも分からないというのに、どれほど言葉を尽くし説得しても母は折れなかった。元来病院と言うものに不信感を持っていたためか、医者ですら家に呼ぶほどだった。

 そんな母が、とうとう死んだ。医者はまだ持つでしょうなどと言っていたから心底驚いた。朝、いつものように朝食を作るついでに様子を伺った寝室で、母は静かに息絶えていた。

 穏やかな表情だったなと、葬式を済ませ、遺品も整理した母の寝室で思い出す。古い木造の家は吹く風に揺られて、入り込んだ隙間風が足を撫でていった。こんな寒い家で幾夜を過ごし、誰にも見守れずに死んでいった母のことを思うと、とても悲しかった。

 ずっと母が横たわっていた床に、母と同じように寝転んでみる。薄暗い部屋の天井は、黒くしんと覆いかぶさってきていて、これが母が長らく見ていた景色なのだと思うと辛かった。

 どれほどの時間横たわっていたのだろう。部屋の中は一層暗闇に侵食されたような気がした。びょおと風が吹いて、隙間風が足を撫でる。この部屋にもこんな風が吹いていたのかと、ずっと知らなかった自分が情けなくなって私は辺りを見渡した。風がどこから入ってくるのか気になったのだ。

 それは床に接した壁の一辺に出来た、ひびのような隙間だった。思ったより大きなそのひびからは、どういうわけか光が漏れていて、絨毯の上に小さな陽だまりを作っていた。

 そういえば、この壁の向こう側は廊下だった。きっと差し込む夕日が光を作っているのだろう。

 私はその小さな陽だまりを見ながら、どうしようもなく切なくなった。きっと母もこの光に気が付いていたに違いない。ずっと母が見ていた陽だまりが、そこにはあるのだ。温もりを感じようと手を伸ばして、掌は懸命に宙をかいた。けれど寝転がったままでは決して届かなくて、悔しくて、涙がぼろぼろと零れ落ちた。

 びょおと風が吹く。隙間風は冷たく私の足を撫でて行った。


(おわり)


 ★ ☆ ★


『猫を積む男』


「いくつになりましたか」

「五万とんで十三体だ」

「目指す目標値は」

「一億八百四十九万七千三十四体」

「道のりはまだ遠いですね」

 暗くじめじめした病室の片隅で、黙々と平べったい石を積み上げる男を見ながらそう呟いた。彼の名前は大崎。この精神病棟にかくまわれて、かれこれ二十年は経つ初老の老人だ。

 事の発端は道で見つけた野良猫だったのだと言う。大学教授をしていた大崎は、何を思ったのか突然その猫に飛び掛ると、首を絞めて捻り取って、頭の皮膚を丁寧に剥ぎ取り、側に落ちていた頭蓋を石で砕くと、額の骨を大切に抱えて家へと持ち帰った。

 彼はその全てを白昼の路上で行い、素手でもって全てをやり終えた。その後、犠牲になった猫は三百とも、四千とも言われている。

 誰にも見つからなかったことがまた不思議なのだが、ある意味において見つからなかったことは喜ぶべきことでもあった。

 大崎は、嬉々とした表情で、また時には盛大な笑い声を上げて猫を解体していたのである。それは病棟で、保健所から貰い受けた毒殺処分を待つばかりの猫を用いた実験で明らかになったことだ。その姿はまさしく具現した悪魔そのもののように思われる光景であり、見るものに底知れぬ恐怖を与えるものであった。

 大崎が何を思って猫を解体し、その額を持ち帰るのかは分からない。どうして突然そのようなことを行うようになったかは、未だもって謎に包まれている。前日まで、いや始まりのその日にしても、彼はなんら普通の大学教授であり、いつも通りであったと数多くの証言が指し示していたのだ。

 私はかれこれ二年間、彼の精神状態を研究している。興味深い人物だったのだ。大学教授という、権威ある立場にありながら、突如として覗かせた狂気にどうしても惹かれてしまった。けれどこの二年間、どれほど調べてみても大崎の精神状態はこれっぽっちも分からなかった。

 大崎はいたって普通の人物だったのである。それどころか、やはり大学教授というべきなのか、ずば抜けて頭がよい人物であった。広く知識に精通していて、思想哲学、倫理、歴史、科学、数学どれをとっても常人以上に頭が回った。加えてそれぞれを結び付けて持論を展開することも多かった。

 そんな中で特に際立っていたのが数学である。彼は数に対して非常に稀有な執着を示す人物であった。

 何回目かのカウンセリングを試みた時だ。すでに何度もカウンセリングを経験したことのある大崎は慣れたもので、私が何か言う前に「好きな数字はなにかね」と自ら尋ねてきた。私は笑顔で数字の二だと答えた。途端に大崎は顔を真っ赤にして怒り出した。

「二。二だと。今君は数字の二が好きだと答えたのか。それはいかん。それはあまりによくない。君は二と言う数字のことを、はたしてどれほど知りながらそのような馬鹿げたことを口にしているのか。あなたははたしてどれほどに二と言う数字の歴史を知りながらそのようなことを言っているのか。二と言う数字は、決して好いてはならん数字なのだ。それは哲学的観点から見ても明らかなことだし、倫理面においても否応なしに分かることだ。存在すら忌々しい。ああ、今日はもう気分が好かん。終わりにしてくれ」

 思えば、この時だけは大崎の異常性を視覚的に明らかに出来たような気がする。

「山崎くん」

「なんでしょうか」

 呼ばれて、私は大崎の手元を見た。

「見てくれ。この猫は額が欠けてしまっているよ。ああ、可哀想だ。とても哀れだ。生きながらにしながら、彼は、または彼女は欠落を抱えていたのだ。それも自らの頭の中に。ああ、可哀想だ。私はこの猫のことが愛おしくて堪らないよ」

 言いながら、大崎はその石に頬ずりをした。

 猫の額は、いつからかそれそっくりの石に変えられていた。無駄な殺生をするわけにもいかないので、逐一河原から拾ってくるようにしたのだ。大崎はそうとも知らずに、毎日私が持ってくる山のような猫の額を大いに喜んだ。

「君はまるで神様のような存在だ」

 無邪気に言われた時、ズキリと胸が痛んだ。

 大崎がどうして猫の額を積み上げるのか、その目標値にはどんな意味があるのか、そんなことはまったく分からない。積み上げた猫の額は毎日増しているものの、目にする高さは日に日に違っていたのだ。加えて気分によってか現在値も目標値さえも毎日ころころと変わっていた。

 彼が何を思い、何を考え行動しているのかは、まったくもって計り知れない。けれども、私が部屋を訪れるたびに、額を差し出すために浮かび上がる優しい笑顔を見ることが出来るのはささやかな楽しみだった。

「大崎先生、今日も持ってきましたよ」

 ビニール袋いっぱいの猫の額を差し出しながら、私は今日もかつての教授を観察するのだった。


(おわり)

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