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『頑固娘と放浪少年(4)』『ゴミ部屋の女主人(5)』

『頑固娘と放浪少年』


 雛森は面倒くさい人間だと思う。例えば、少しでも納得できないことがあれば、例え相手が誰であってもすぐにそれを口に出してしまうし、自らが折れれば事態が収まることが分かっていてもなかなか折れることをしない。愚直で頑固で、何よりも周りの意見を聞き入れることのない女なのだ。

 そんな雛森が、毎度のごとく今日も教師に突っかかっている。もしくは突っかかられている。原因がなんだったのかは知らない。気が付いた時にはもうすでににらみ合いが始まっていたのだ。廊下のど真ん中。ひそひそと廊下の隅で話し合いながら注がれる生徒たちの無数の視線に晒されながら、頭二つ分ぐらい大きい英語の谷崎に雛森は見下ろされていた。

「もう一度言うがな、お前が認めれば全て終わることだろうが」

 谷崎が少し疲れを滲ませながら声を荒げた。腹立たしそうに、右手が頭を掻いている。大体の生徒はこの大柄な谷崎という教師に言い詰められると、ぐうの音もなく折れてしまうのだが、やはりそこは雛森と言うべきか、首が竦むような迫力を前にしても小柄な身体は微動だにせず、果敢に力強い瞳でにらみ返していた。

 しかしながら、解決の突破口が見えないというのは、苛立つ谷崎はもとより雛森にしても、また周囲の生徒にしても厄介のことに違いなかった。俺はため息をこぼすと、そっと足を二人へと向けて、出来るだけ嫌味にならないような笑顔を顔面に貼り付けてると視線が交錯する間へと割り込んだ。

「はいはいはい。通行の邪魔ですよ、お二人さん」

 登場に、二人分の強烈な眼光が同時に俺を射抜く。気持ちのよいものではないが、状況打破のためだ、我慢しなくてはならない。俺はまず、まだ説得しやすい谷崎へと直ると、満面の営業スマイルを浮かべて話しかけることにした。

「せーんせ、そうそう怒ってもこいつは頷きませんって。ね、ここは俺に任せてくださいな」

 両手で、覆いかぶさるようにして雛森に対して身を乗り出していた谷崎の肩を押し返す。半歩下がらせると、かるーく調子を合わせて理解を示し、事の次第を俺に任せてもらうよう説得することに成功した。ぶつくさと何事かを愚痴りながらも立ち去っていく、苛立ちが滲み出した背中を見送る。手なんかも振ってやったので、これで万事オーケーだろう。

 角を曲がって谷崎の背中が見えなくなった。振っていた右手を下げて、背後の雛森に振り返る。じっと俯いたまま黙っている雛森は、少しだけ目尻に涙を浮かべていた。


「お前は馬鹿なんだよ」

 場所を屋上へ移して、俺は開口一番そう言ってやった。体重を預けた金属フェンスががしゃりと音を立てる。吹き付けた風は少し寒かった。

「あんな奴相手に頑なになって何の得があるっていうんだ。適当に笑って、適当に頷いて、適当に忘れた振りしてまいちゃえばいいんだよ」

 状況も把握していないままに、そんな適当な言葉をかけてやった雛森は、しかしやはりと言うべきかずっと俯いたままで何も反応を示さない。しばらくその頭の天辺を見ていたけれど、いつものように適当な説教垂れている俺も、それをじっと聞いている雛森も、全部全部急に馬鹿馬鹿しくなって、堪らず俺は空を見た。

 青い空には雲がぷかりと浮んでいる。上空の風は穏やかなようで、大きな雲はほとんど動かなかった。

「分かってるけど」

 小さな声がしたから、俺は雛森の方を見た。まったく、どこに詰まっているのかは知らないが、こいつは小柄な身体には不釣合いの硬さを持っている奴だ。ぎゅっと強く握りすぎている手がかすかに震えているようだった、

「分かってるけど、どうしてもそんな風に出来ないんだもん」

 言って、悔しそうにそっぽを向く雛森の姿は本当にガキみたいで、見ていた俺は反応を示すことすら出来ずにただただ呆れ返ってしまった。


(おわり)


 ★ ☆ ★


『ゴミ部屋の女主人』


 もしかして鼻がもげたのだろうかと、幸恵はアパートの扉を開いて思った。と言うのも、戸を開き一歩部屋に入ろうとした瞬間に、激痛と誤認しかねない強烈なにおいが瞬間的に鼻を突いたのだ。手で顔をなぞり、まだ鼻があることを確認すると、幸恵は目の前の暗闇が尋常でない状況に置かれていることを理解した。

 においはどれほど鼻を強く、また痛くなるほど抓んでいたとしても、どういうわけか厭に臭った。肌に滲みこんできているのではないだろうかと、幸恵は暗い部屋の奥に進みながら思った。歩くたびに様々な音を立てる足下には、ビニール袋やビールの空き缶、カップ麺の容器とか弁当のパックなどが散乱しているようである。間違っても清潔などとは言う言葉は当てはまらない環境にあるのは確かだった。そしてそのことを幸恵は戸を開けた瞬間にすでに悟っていた。

「せんぱーい。いますか。生きてますかー」

 鼻を抓んでいるせいで情けないほどにくぐもった声になった幸恵は、暗闇に声を投げかける。日中だと言うのに、ぶ厚い遮光カーテンを引いているために、室内はまるで洞窟のように仄暗く空気が湿っていて気味の悪い場所になっていた。早く外に出て新鮮な空気を吸いたいと幸恵は切に願う。けれど、そのためには連絡を寄こした張本人を見つけなければどうにも収まりがつかなかった。

 幸恵がこの部屋にやってきたのにはわけがあった。早朝、一件のメールが幸恵の携帯電話に入った。件名には一言「寒い」とだけ記されていて、本文はまったくの白紙だった。そのメールの差出人がこの部屋の主なのである。取り立てて幸恵と仲がいいわけではないのだが(そもそもこの部屋の主は人が嫌いであり、誰かと交友関係を結ぶなど皆無に等しいのだ)、たまに来たメールだ。何かがあったんじゃないだろうかと、少しだけ心配した幸恵はそそくさとこの部屋までやって来たのだった。

「せんぱーい。どこですか。いるなら返事してくださーい」

 呼びかけながら幸恵は部屋の奥へと進んでいく。がそごそと散らばったビニール袋は音を立て、どこかでは何かが倒れた。また何かが踏み割れたような感触に時折襲われ、幸恵は気分が悪くなった。靴を履いたまま入ってこればよかったと、部屋の中ほどまで進んだところで後悔した。

「いないんですか。もしもーし。……ったく、もう」

 言って、幸恵は猛然とカーテンへと歩み寄った。部屋中が盛大にざわめき立てたが、全て無視した。遮光カーテンを力一杯引き開ける。中天の太陽が鋭い陽射しを部屋の中へと差し込んできた。

 そのまま窓を開けて、ベランダへと逃げ出して、ようやく幸恵は一息つく。空気がうまいなどと、都会のど真ん中で思うことになろうとはつい数分前までは思いもしなかった。数回深呼吸を繰り返してから振り返る。広がる惨状に恵美は言葉を失った。

 足の踏み場もないという言葉は、まさにこの様な状態を指すために生み出された言葉なのだろう。あたり一面にありとあらゆるゴミが散在したその部屋は、すでに床と呼べるものがどこにもなく、見ている者にある種の驚嘆さえ与える有様だった。重ねてあった雑誌は崩れていて、所構わずビニール袋は散在している。また洗うことが面倒だったのか、衣類は部屋の隅に堆く重ねられていて、あろうことか食べ終わったバナナの皮が上に捨ててあった。瓶や缶もあちこちで倒れている。見ればまだ中身が見えるものまであった。

 ぞくりとして、幸恵は靴下を確認してみる。案の定、白い靴下は何かしらの液体に汚れてしまっていた。液体はもはやどす黒く変色してしまっていて、元がなんなのか判別すら出来なかった。

 においの正体は数限りないカビと汚物と腐敗とが生み出した結果なのだと、幸恵は確信した。こんなところにはもう一秒たりともいたくなかったが、脱出するためにはもう一度通らなければならない。カーテンなど開けなければよかったと、幸恵は深く後悔した。

 しかしながら、当の主の姿がどこにもない。先輩はどこにいるのだろうと幸恵が思ったのも束の間、ふと目に留まった衣類の山に視線が釘付けとなった。

 何か、黒いものが見える。

 それは衣類の下からはみ出していた。長いひも状のもの。もしやと思い、近づいて幸恵が発掘したその下に、目的の人物はいた。目を閉じ、青白い肌をしたいかにも不健康そうなその人物はゆっくりと目を開くと幸恵を見てにやりと微笑んだ。

「やあ、よく来たね。ウェルカム、我が部屋へ」

 澄んだ高音を響かせた彼女こそ、この限りなく汚い部屋の主であり幸恵にメールを寄こした張本人である、朝香千鶴その人であった。にひひと歯を見せて笑う千鶴を見下ろしながら、幸恵はどうやって罵倒しようかと数限りなく浮んでくる言葉の中から何を選ぶか思案し始めた。


(おわり)

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