『鏡の中から出てきたもの 1(5)・2(4)』
秘密基地のお題から生まれました。大幅にひとつは没になったもの、ひとつは貼ったものに大幅な肉付けを行いました。
『鏡の中から出てきたもの 異次元の悪魔』
それは、二日酔いのせいで身体が重く、酷く頭が痛んだ朝のことだった。気分は最悪ながらも、食事をし、身支度を済ませ、いやいやながらも会社へ出社するために化粧をしにドレッサーに向かった私は、鏡から飛び出す一本の指を見つけた。
そんな光景を見たら、誰しも我が目を疑うと思う。だってあまりにも非現実的すぎるから。私も例に漏れず、我が目を疑った。目を閉じ、瞼の上からマッサージする。深く呼吸して息を整え、もう一度目を開いてみる。目にした鏡には指が依然として飛び出していた。
そうか、二日酔いのせいで幻覚を見ているんだな。ああ、創に違いない。残念だなあ。これでは会社に行ったとしても仕事もままならないだろう。みんなに迷惑をかけてしまう。仕方ないが今日は仕事を休むしかないな。うん、それしかないだろう。とかなんとか、現実逃避をして私は一目散にその場から離れようとベッドのある寝室へと向かおうとした。が、背後に声がかかった。
「あのー、誰かそこにいらっしゃいますよね?」
よく言えば可愛らしい。悪く言えば甘ったるくて腹立たしい女性の声だった。かなり高い声である。一応確認のため振り返ってみたが、当然のごとくそこには誰かの姿などあるはずもなく、ともすればこの声は鏡から聞こえてきているようだった。
「もしもーし。あのー、いらっしゃいますよねー?」
「ええ、いるわね。いるわよ」
ああ、いますとも。頭痛が酷くなるのを感じながら返事をする。不幸とか災難とか面倒と言うものはこうも重なるものなのだろうかと、信仰もしていないどこかのおっさんみたいな神様を呪った。
「なに?」
「あのー、大変申し上げにくいのですがー、私悪魔なんですけどー、なんか召喚の途中で間違ってここに飛ばされちゃったみたいでー」
変なことを間延びする声でいう女だ。同性であっても、実に腹立たしい。鏡の前に立った私は、飛び出した指(どうやら声の主らしい)の話の先を促す。
「どういうことなの?」
「あのですねー、私もよく分かんないんですけどー、術者がかなりのへっぽこだったみたいでー、どうやらあらぬ次元に飛ばされて召喚されちゃったみたいなんですねー私」
聞きながら私は指を見ていた。と言うのも、鏡には私しか映っていないし、声の主として視線を集めるにふさわしい存在は指しかなかったのだ。私は何となく落ち着かない気持ちで、仕方なく指を見つめつしかなかった。話の途中からその指の爪の美しさにふと気が付いて、思わず目を奪われてしまった。
それは綺麗な爪だった。自爪でありながら、指から一センチほど飛び出しているのだろうか。鋭利な曲線を描くその爪は、すうっと優しく透き通っていて、奥に見える肌色を穏やかに透けて見せていた。表面はつややかに光を反射している。爪だけ見せられると、奥にいる人物を美女と間違えてしまうような爪だった。もちろん美女でない可能性もなくはない。けれども、私にはそんな区別さえつけることが出来ないのだ。なに相手が見えないのだから。
爪に見とれていた私は、声の言うことなどてんで右から左に聞き流しながら、興味の赴くままにそっとその指を撫でてみた。
「でー、私が解放されるにはー、何とかって言う薬が必要って、うわっ! び、びっくりするんじゃないですか。急に触らないくださいよー」
「ああ、ごめん。綺麗だったからつい」
「……ついじゃないですよう、もうー」
言って、指はくにゃりと曲がる。なんだ、結構かわいいじゃない。
「で、なんだったっけ?」
「聞いてなかったんですかー?」
「悪いね。二日酔いで集中出来てないんだ」
「だからですねー、私がこの状態から元に戻るには……」
声の途中で鏡からぬうっと手が飛び出してきた。驚いた渡しは息を呑んでしまって声が出なくなる。鏡から飛び出す掌と言うのは、この目で間近に前にすると恐ろしいと言うよりもなかなかにシュールな光景であった。心臓を落ち着けてから、一応握手をしみる。
「どうしたの?」
「え、えっと、どうやら術者がまた詠唱を始めたみたいでー、なんか私このままここに召喚されちゃいます」
「え、それはまずい」
「あー、ごめんなさい〜」
鏡の向こうで声はぐずる。やがて鏡から腕、肘、肩、そして顔が出てきた。耳の先が尖がっている。化粧っ気はない綺麗な顔立ちをした女の子だった。そんな女の子が、鏡の中からずるりと這い出してくる。私は出方を見て後ずさったが、その子にはどうにも出来るはずもなく、無様にも顔から床に落ちた。
「……大丈夫?」
「……痛いです」
床に顔をつけたまま呟いた女の子。私がアズミと出会った瞬間だった。
(おわり)
★ ☆ ★
『鏡の中から出てきたもの 暗い空間の中』
最初に気が付いたのは父さんで、その時ちょうど剃刀で髭を剃っていたもんだから悲惨なことになった。
「母さん、指が、指が鏡から飛び出してる」
真っ青になって洗面所から駆けてきた父さんは。頬をすっぱり切っていてどばどばと血を流しながらそう叫んだ。それを見て、台所で朝食を作っていた母さんが声を上げて気絶する。血が大の苦手なのだ。更に慌てふためきだした父さんを宥め落ち着かせ、姉ちゃんは素早く薬箱を準備すると父さんの傷の手当をし始めた。
「本当だ。本当に指が出てたんだ」
震える声で父さんが呟く。いくら父さんは気弱だと言っても、尋常じゃない状態だった。そこで、姉ちゃんの指示に従い母さんを寝室へと運んだあとでひとり手持ち無沙汰になった僕は、暇ついでに洗面台に向かうことにした。確認しておきたかったのだ。そろり覗いた洗面台の鏡には、おお、言う通り指が出ていた。でも、それはもはや指がどうこう言うよりも手そのものだった。ひとつの掌が鏡から飛び出していた。
僕は恐る恐る鏡の前に移動して飛び出す手に近づいてみる。綺麗な爪をした手だった。動かないその手に触って、そっと撫でてみる。生々しく温かな手だった。気味が悪いなあ。そう思い、手を引っ込めようと思った時だ。掌に急に掴まれた。声が出て、腰が砕けそうになる。
「引っ張って!」
ひっ迫した声が響いた。見渡す周りには誰もいない。そもそもいるはずがない。声の主はどうやら掌の持ち主らしかった。
声は感覚を隔てて何度も繰り返される。お願いとか、早くとか、本当に誰かが助けを求めているみたいに。目の前の鏡には恐怖に慄く僕しか映っていない。パニックに陥ってなにがなんだか分からなくなってしまった僕は、とにかく声が求めるとおりに一生懸命、手を引っ張ることにした。だって、他に何も選択肢がなかったのだ。やがて、ずるりと何かが動く感触があって、鏡の中から女の子が出てきた。
「ああ、よかった。ようやく終わる」
言って彼女はにっこり笑った。綺麗な笑顔だった。なんて、そんなことをぼんやり思っていたら、急に身体が浮いた。飛び出す彼女と入れ替わりに、僕は鏡の中へと取り込まれてしまった。
今見えるのは見知らぬ家の洗面台である。そこではひとりの男の子が歯を磨いる。
あれからどれだけの時間が経ったのか分からない。僕の周りはとても暗くて、生暖かくて、気持ちが悪い。見ることが出来るのは、ちょうど手がひとつ通るくらいの大きさの小さな穴から見える洗面台の風景だけだ。
その子のこの中をずっと過ごしてきたのだろうか。そう、入れ替わり出て行った女の子のことを思い出す。同時に、ならば僕が出て行くにも、代わりが必要なのではないかと思った。
相手はまだ幼く、小さな男の子である。けれど、僕はもうこんな暗くて気味の悪い場所に居たくはなかった。時として罪悪感は、恐怖の前には感嘆に押しつぶされてしまうものなんだと思う。
僕はそっと穴の中に手を突っ込んでみた。どうか握ってくれと、微かに願い、歪な笑顔を浮かべながら。
(おわり)




