『テトラポットの恋(3)』『妄想小説(7)』
『テトラポットの恋』
「ちょっといい話聞きたくない?」
大学の食堂でぼくがカレー口に運ぼうとしていた時だった。湯気を立てるうどんがたっぷり入ったどんぶりの向こう側で、彼女はそう言って微笑んだ。
「いい話?」
「そう。ちょっぴり甘酸っぱい文通の話」
「いいねえ。聞こう」
「ふふん」
スプーンを皿に置いて手を組み身を乗り出すと、彼女はおほんとひとつ咳をして得意そうに話し始めた。
「あるところにひとりの女の子がいました。その子は自分が住んでいる町が好きではありませんでした。田舎だし、ぜんぜんオシャレじゃないし。女の子はすぐにでも町を出たくて堪りませんでした。
だから、ある時手紙を書きました。誰にも送るつもりなどなかった手紙でした。思っていることを全て吐き出したのです。そうしないと女の子はもうダメだった。潰れてしまいそうだったのです。
あくる日、女の子は手紙を詰め込んだ瓶を海に投げ捨てました。――あ、女の子が住んでいた町は海が近かったのね。瓶は長らく波に揺られていましたが、やがて見えなくなりました」
さてさて、と、一息入れて続きを話そうとする彼女を、目の前に手を差し出してぼくは制する。きょとんと驚く彼女を尻目にぼくは話の続きを口にした。
「当たり前のように、女の子は返事が来るとは思っていませんでした。海は広いのです。きっと誰にも見つからないと考えていました。むしろ誰にも見つからない方がよかったのです。
けれど、どういうわけか返事は返ってきました。
とある日、再び訪れた浜辺に見知らぬ瓶が埋まっていたのです。女の子はびっくりしながらも文面を読み、そしてまた手紙を書きました。誰かに届いているような気がしたのです。数日後、また波打ち際に瓶が埋まっていました」
「どうして、涼太が知ってるの?」
目を大きくして驚きを隠さない彼女に、ぼくは少し恥ずかしくなりながらも答えた。
「……あの浜辺はさ、潮流が一度近くのテトラポットにぶつかるんだ。それから海の中に潜ってまた流れていく。だから海面に浮かぶものなんかだと簡単に拾えちゃったりするんだよ」
「えっと、つまり、あの手紙の相手ってのは……」
「まあぼくも、今の今まで相手が誰と文通してるかなんて知らなかったけどね」
言って鼻を掻いた目の前で、美奈の頬は音を立てるかのようにして一瞬で朱に染まってしまった。
(おわり)
☆ ★ ☆
『妄想小説』
一週間くらい前から中央公園には豚がいる。友達に話してみたところ、誰一人として信じてはくれなかったが確かに豚がいるのだ。食用に飼われた、ぶくぶくと肥った哀れな豚ではない。白と黒のぶち模様がキュートな、でも忙しなく鼻を動かしている豚だった。
「明日は槍が降る」
クラスで一番格好いい涼太君が私に向かってそんなことを言った。その時教室には私たち以外誰もいなくて、窓の外には痛いくらいの夕焼けが広がっていた。私は窓際の机で本を読んでいたのだけれど、良太君がどうして教室にいたのかは知らない。もしかしたら私にそのことを話すためだけにどこかから教室にやってきたのかもしれないし、本当にずっと教室にいたのかもしれない。どちらにしても、ずっと本を読んでいた私には分からないことだった。そんな分からない私に、涼太君は明瞭に、けれど絶対的な響きを込めて呟いたのだった。教室は静寂に沈んでいた。野球部の気だるい掛け声と冴えない吹奏楽部の演奏と下らないおしゃべりだけが小さく聞こえてきていた。
「篠崎、明日は絶対に槍が降るんだがどうしたらいいと思う」
本から目を上げた私に、涼太君は今度は真剣に話しかけてきた。目がキラキラ輝いていて、それほど短いわけでも、長いわけでもない髪の毛がとても自然に決まっている涼太君はやっぱり格好いいなと私は改めて思った。それから涼太君が尋ねたことを、本気で考えてみた。明日は槍が降る。今まで読んでいた本の中では空から王水のような酸性雨が降っていたけれど、それは本の中だから起こりえることであって、現実には決して起きないだろうことを私は知っている。知っているから、明日槍が降るなんてことも起きないだろうと思った。それから、もしかしてと思った。もしかして槍は空から、まるで雨のように降るのではないのかもしれない。
「涼太君、私には槍が降るなんてことを想像することは出来ないのだけれど、もしかしてその槍は雨みたいに降るのと違うんじゃないのかな」
「篠崎、お前はよく本を読んでいるよな」
私の質問には答えることなく、涼太君は質問してきた。仕方なく私は頷く。同時に話が長くなりそうになったので今まで読んでいた頁に栞を挟み本を閉じた。
「篠崎、本の中ではいろんなことが起きる。それこそ大地震が起きて日本の地形が変わってしまったり、宇宙から敵が攻めてきたり、恐ろしい殺人事件が起きたり、呪いがあったり。本の中ではそれらは当然のこととして、もしかすると主人公たちにとっては当然ではないかもしれないが、それでも当然のこととして生じている。それはどこまでも当たり前のことなんだ。な、分かるだろう」
訊かれたので私は頷いた。物語の中ではどんな理不尽なことが起きようとも、それを受け入れなくては先に進めやしない。それが物語であり、小説なのだから。さて、そうではあるのだけれど、涼太君は一体何が言いたいのだろう。私は明朗と話す良太君の声に聞き惚れながらも、行き着く先のまったく見えない話に少し不安を覚え始めていた。
「本は完結しなくてはならない。どんなに残虐で辛く哀しい終わりだとしても、納得できなくても、終わらせなくてはならない。じゃないと本は完成しない。物語は出来上がらないんだ。そうだろう。だから明日は槍が降るんだ。槍が、絶対に降ってくるんだ」
よく、分からない。涼太君は何を言っているのだろう。物語と槍の因果関係がまったく掴めないのだ。が、とにかく涼太君の中で槍は絶対降ってくるらしいことは分かった。それも明日。必ずだと言う。
「槍が降ってくる時間は分かるのだろうか」
「午後五時だ」
「本当に?」
「午後五時十分だ」
「確実に?」
「ああ。午後五時十分に、槍は降ってくる」
さて、訊いてみたところ、槍は長らく降り続くようなものではないらしい。時間が確実に分かっているのだ。それ以上もそれ以下もないのだろうと思った。確認のため訊いてみる。
「槍は、降り続かないんだよね?」
「降り続くとはどういう意味だ?」
「雨みたいに時間をかけて降ること」
そう言うと、涼太君は首を傾げて考え始めてしまった。しばらくそのまま時間が過ぎる。私は沈黙の中にありながら、もし、本当に槍が午後五時十分に降ってきたらどうしようか考えてみることにした。
槍が、降ってくる。どんな降り方かは分からないが、どうやら降ってくるらしいとする。はてさて、地上にいる私には何が出来るのであろうか。避難する方法はあるのだろうか。建物の中にいれば、おそらく安全ではないだろうか。槍は、その先端が金属で出来ているとは言え、いくらなんでも建物を貫通することはないだろう。窓から出来るだけ離れて、地上に近い背の高い建物の中に入っていれば大丈夫な気がする。
でも悲惨な光景を見ることになりそうだなと思った。例えば空からたくさんの槍が一斉に降り注いだとする。槍が降ってくることを、私と涼太君しか知らないとすると、外にいる人たちは何も知らないまま槍の餌食になってしまうのではないだろうか。脳天に突き刺さって死んでしまう人や、腕を失う人。路上には肉片と流血と槍とが溢れかえる。血生臭い臭いが一気に辺りを包み込み、運よく建物の中にいた人たちの悲鳴が木霊する。凄惨な光景だと思った。
あ、豚が危ないじゃないか。
「涼太君、槍は……」
見上げたそこに、先ほどまでいたはずの涼太君はもういなかった。あるのは朱過ぎる太陽に染まった教室だけだった。
翌日、槍はひとつも降らなかった。涼太君はいつもどおり格好良くて、みんなと一緒に笑いあっていた。昨日のことなどなかったかのように。笑い声が私をとても悲しくさせた。
そして、帰り道。私は中央公園によってみた。久々に豚を見ようと思った。でも、どこにも豚はいなかった、気配すら感じられなかった。始めから豚など存在していなかったかのように。空気は澄んでいて、公園は綺麗だった。
私はその日、本を一冊読み終えた。
(おわり)