『記号と計算士(7)』
『記号と計算士』
起動した真っ白な「Word」の作業画面を前にして、紗枝は途方に暮れていた。学校での情報の授業というものは、パソコンの一番面白い機能を無視して、つまらないながらも実用的でかつ将来に活用できる用法を学ぶ、最高に退屈な授業でしかなかったのだ。計らずも少しだけ楽しみにしていた紗枝は、授業開始後五分でこれからの授業の流れを理解し楽しめないことにがっくり肩を落としていた。
そんな紗枝のところへ降って下りてきたのが目下の課題だった。実際は課題などというまでもないものだったが、紗枝にとってはとても困難なものになってしまった。
何かを書き込めというのである。授業の進行行程を一通り説明し終えた教師は、全員がプログラムを起動したのを確認するや、唐突に、そんなことを言い放った。別段、目の前の機械に打ち込みたい何かがあるわけではない紗枝は困り果て、現在に至るまで白い画面を前に頬杖を突いているというわけである。
紗枝の顔を照らす真っ白な画面では、アシスタントキャラクターのイルカが静止し、作業バーが虚しく点滅を続けている。そんな紗枝の周りでは、対照的に、クラスメイトたちが口やかましく会話を続けながら楽しそうにキータイプをしていた。こんな四角い機械を前にしただけで、どうしてみんなはそんなに浮き足立ってしまうのだろう。こんなものの中に望む答えはないだろうに。周りの生徒をちらりと流し見ながら紗枝は思った。
その唇から小さくため息がこぼれ落ちる。そんなこと、個人の問題じゃないか。どうでもいいじゃないか。首をたれてそう思う。みんなはただ楽しんでいるだけなのだ。少しだけじっとしてから再び視線を画面へと向けた紗枝は、とにかく何か書き込むことにした。書き込まなければいけないのだ。普通の生徒の中なのだから。紗枝は己がクラスの中の異物であることを自覚していた。
ばれているんだ。みんなも先生も、わたしがクラスの中で浮いてることに気付いてる。紗枝は画面と向かい合いながら思った。元から、つるむとか群れるということが出来ないのが紗枝という生徒だ。どうしても「トモダチ」の輪というものに入れなかった。紗枝自身どうして群集に帰属することが出来ないのか理解出来ないでいたが、まあ仕方ないことだと半ば諦めにも似た思いで受け入れていた。諦めることは紗枝にはもう慣れ親しんだ対処法だった。
周囲はそんな紗枝を受け入れていた。いや、無視して取り込んでいたというべきなのかもしれない。紗枝が「違う」ということを意識しながらも、それを声に出して表しはしなかったのである。
だから、紗枝はここでぼろを出すわけにはいかなかった。少なくとも周囲の動向と似たようなことをしておく必要があった。特別異分子は、独自の行動をとってはならない。いつの間にか根付いていた本能だった。
紗枝は頬杖を突いたまま、開いていた左手でキーボードを打った。画面にひらがなが浮かび上がる。変換。「新山紗枝」と打ち込んだ。エンターキー。
四つの漢字の後ろで作業アイコンが、「これだけなんですか」と心配そうに点滅しているようだった。別にいいじゃないですか、と紗枝はアイコンに返事をした。
これ以上書き込む事柄が思い浮かばなかった紗枝は、自分の名前を阿呆のように見つめながら、いつものように時間を消費することにした。べつに特別なことをするわけではない。心を止めて、意識を閉じて、外部の刺激に身を委ねるだけのことだ。心持ち少し前よりも体重をかけて頬杖を突きながら紗枝の聴覚は周りのタイプ音を受信していた。
そんな折にはいつも虚空のような思考の片隅から、ぽつりと感情が浮んでくる。今回は周りのクラスメイトへの感情だった。よくもまあそんなに書きたいこととか表したいことがあるもんだ。紗枝は深く感心する。それから考えてみた。彼彼女たちは、いつもどこか何かに飢えているのだろうと。それは例えば恋人だったり食べ物だったり睡眠だったり自分自身だったりるのだろう。彼彼女たちが決して潤うことのない飢餓感に悩まされているのだと思うと、哀れなような気がしてくるから面白い。紗枝はくだらない時間を潰しながら少し愉快になった。
まあ、そんなわたしは哀れまれるような存在でもないのだろうけれど、と紗枝は苦笑をこぼす。異物に同情は向けられやしないのだ。向けられる哀れみの質が、どうしても違ってきてしまうから。
ふと、紗枝は画面の中でイルカがうとうとと眠そうにしているのに気が付いた。そっと微笑ましく思う。同時にこんなプログラムだけの存在に、どうして感情を示すようなものを組み込んだんだろうと不思議に思った。
こんな記号の羅列で組み上がったものに何が出来るというのだろう。
紗枝は左手の小指で「A」のキーを深く押し込んだ。とたんに「あ」の文字列が書き込まれ、白かった画面をどんどん侵食していく。やがて始めの方に打ち出した「あ」の列は、「嗚呼」とか「ア」、「ああ」などに自動変換されていき、いよいよ意味のなさない「あ」の連続が画面を占めるようになった。
最中、画面の右下でイルカが忙しなく動作を続けていた。嘲笑を込めた小さな息が、こっそり唇の隙間から溢れた。
コンピュータ室にぽぽぽと連続的に音がした。限界まで入力した文字列が、何かしらの変換方向を示せと紗枝に文句をたれているようだった。オーケー。分かりました。
紗枝がキーから手を離してエンターを押すと、画面には「あ」という記号の羅列が表示された。長く長く、記号だけが表示されていた。
馬鹿みたいだった。
マウスを操作して、全ての文字を反転させる。紗枝は削除キーを押した。すっきりと全てがなくなる画面。イルカがうんうん頷くような動作をした。そうしてまた紗枝は頬杖を突く。今度は左手。生徒の進行加減を見に来た先生が紗枝の背後に立った。
「お、新山、まだ何も書き込んでないじゃないか。何でもいいから書き込んでみなさい」
朗らかに言い残して、彼は紗枝の元から去っていった。四角い画面を前に、紗枝はじっと下唇を噛み締めた。
(おわり)