『告白(3)』『証言(4)』『記憶(5)』
『告白』
今日、姉が死にました。買い物に出かけて死にました。交通事故でした。飲酒運転。即死でした。青に変わった信号機に従って横断歩道を歩いていただけなのに、轢き殺されてしまいました。
加害者はまだ未来のある少年だそうです。成人してもいない少年だそうです。彼には未来があるのだそうです。
本当にそうなのでしょうか。
ぼくの姉は、もちろん少年よりは年上でしたが、それでもまだ社会人として働き始めたばかりの若い女性でした。大人になったばかりの女性でした。お酒が苦手で、飲み会はあまり行きたくないなと困ったように笑う女性だったのです。そんな彼女には未来がなかったというのでしょうか。
もちろん、思考が飛躍していることは承知しています。少年には未来があるのに姉にはないのかなんていうのは何の脈絡もない、とても破滅的な思考であると思います。でも、そう考えずにはいられないのです。なぜなら姉はとても素晴らしい人だったから。誰からも好かれていて、誰にも綺麗な笑顔を振り撒いていて、そこにいるだけで空間に光が差し込むかのように華やいでいた人だったから。
だからどうしても考えてしまうんです。姉は未来がなかったから死ななければならなかったのだろうと。姉には未来がなかったのでしょうか。
……ぼくにはとてもそう思えません。姉は、姉はまだ生き続けるべき人だったんです。少なくともぼくみたいに生産性のない、閉じこもってばかりの人間よりは。もっと生きて、いろんな経験をして、恋をし、愛を育み、結婚をし、子供にも恵まれて、たくさんの笑顔に包まれて暮らすべき人だったんです。幸せな未来が約束されていたはずなんです。
でも、そんな姉が死んでしまった。享受するべき恩恵を受けないまま、明るい未来は閉ざされてしまった。やりたいことがいっぱいあっただろうに。殺されてしまった。
今日、姉が死にました。交通事故でした。飲酒運転。即死でした。加害者は、いえ殺人者はまだ未来のある少年でした。名前は藤堂大吾といいます。人生に絶望し言い表しようのない苛立ちと不安とを感じていた彼は、未成年にも関わらず酒を飲み、半ば自殺するつもりで車を運転し始めました。
ですが、そんな彼が奪ったのは自らの命ではなく他の誰かの命でした。
ぼくは姉さんを殺しました。
恐る恐る車から出た道路にはさんさんと太陽が照りつけていて、ゆらゆらとアスファルトが揺らめいています。その上に、姉さんは寝転んでいます。真っ赤な鮮血をじっとり広がらせながら、姉さんは寝転んでいます。
(おわり)
★ ☆ ★
『証言』
蛹は蝶にならなかった。身体が割れて、中から液が出てきてしまった。体液。正真正銘の体液。身体を構築していたはずの液体。どろどろの命の塊。
その日、藤堂香春は交通事故で死んだ。信号が青に変わったところを、意気揚々と、ターンなんか決めたりしながら飛び出していって、俺に向かって元気に手招きをして、死んだ。車が突っ込んできたのだ。
香春は空っぽの空き缶みたいにくしゃりと潰れて宙を舞った。衝突音は、どういうわけか空間からその音だけなくなってしまったかのようで、聞き取れなかった。夏の、町の馬鹿みたいに不快な騒音が、馬鹿みたいに、世界中の脳みそを軽くさせるかのように響いていただけだった。空き缶はその中で唐突に蹴飛ばされただけだった。
だから、よくわからなかった。意味が分からないとか、状況が分からないとか、あれ、さっきまで笑ってた香春はどこに行っちゃたんだろうとか、そんなことよりも、まず、よく分からなかった。何が分からないのかも分からない。一番最初にどこかで自我を持った生命体も、もしかしたら今の俺みたいにわけの分からない混乱の中にいたのかもしれない。
段々夏の騒音が小さく消えていった。代わりに虚空を覗くような力のないうめき声が聞こえてきたから俺はその声がする方へ目を向けた。車から出てきた男が、大きな大きな空き缶を前に嘆いていた。空き缶にはどうやらトマトジュースが入っていたらしい。彼は道路にトマトジュースを盛大にこぼしてしまったことを恥じて、どうしたらいいのか分からなくて、とにかく泣いて誰かに助けてもらおうとしている赤子のようだった。
なんだこれ。
浮んだ疑問が声になることなんてなくて、俺はただ遠くから、嘆く彼のことを見ているだけだった。
俺たちが待っていた交差点で一緒に汗を流していた人だかりの中で、誰かが携帯電話で連絡を取っていた。ガードレールから身を乗り出して、いろんな人が、たくさんの人がケータイを空き缶に向けていた。「すげえ」とか「こわぁい」とか言いながら、嬉々として無機質なシャッター音を響かせていた。
なんだこれ。
さっきまで、俺のとなりで香春は笑っていた。香春は俺にはもったないほどいい子で、可愛くて、誰からも好かれる女性だった。今から買い物に付き合ってくれないって連絡があって、待ち合わせをして、ちょっとしたデートに向かう途中だったのだ。腕を組んだり、冗談を言ったりして笑っていた。香春は花畑を飛び回る蝶みたいだねってなんて言ったら、おどけてひらひらと交差点へ飛んでいってしまった。
そして空き缶になった。
路上で男がひとり嘆いている。ずっととなりにいたはずの蝶は、たった一瞬、香春が俺の数歩先に飛び出して、いきなり世界の主役になってしまった。俺は脇役だ。
カシャパシャとケータイがシャッターを切る。電話で誰かに交通事故見ちまったと連絡をしている人がいる。男が嘆いていて、香春は空き缶になってしまっていた。トマトジュースじゃない、真っ赤な血をいっぱい溜め込んだ生きた人間だった。
「なんだこれ」
ようやく俺は言葉を声にすることが出来た。
(おわり)
★ ☆ ★
『記憶』
なんか、いきなり視界がすごいことになった。
左側から持ち上げられたような、ひゅうっと空を飛んでいるような、そんな景色が突然広がった。その瞬間、まだ人だかりの中にいた弘くんは穏やかな微笑を浮かべていて、周りの人たちは誰もが私に無関心だった。いや、違うか。そう言えばいくつかの無感情な視線を浴びていたような気がする。ケータイを弄繰り回しながらとか、イライラと腕時計を見やってから視線を上げたみたいな視線。ちょうど何かに引き寄せられるような、無意識の糸と言えばいいのか、そんなものに手繰り寄せられたかのように数人の視線を感じていた。
その時わたしはそんな視線と目があった気がする。もちろん、全てと。
大体の人が口を半開きにしていた。魂が抜けていってしまった跡なんじゃないだろうかと思うような開き具合だった。うん、わたしはたった一瞬のことをよくよく詳しく覚えている。
そう言えば、暴力的に宙を舞いながら、そしていろんな無表情と弘くんの微笑を堪能しながら、思ったことがあった。瞬間的に胸を覆いつくした感動だったのじゃないかと思うのだけれど。わたしは確かに、強烈に現状を受け止めて、理解し、感動していた。
いま、わたし、そらとんでる!
魂が抜けてしまった人形さんたちと、弘くんにピースしてあげたくなった。得意技の、にっこり満面の笑みを浮かべて、ちょっぴり意地悪っぽくピースをしてあげたく思った。どうだ、わたし、いま、飛んでるんだぞ、って。で、腕を動かしてポーズをとろうと思ったらアスファルトに叩きつけられていた。
喩えるのならオーケストラの大合奏を零距離で一身に浴びるコンダクターの気分なのだろうと思う。ただその数千倍の波が全身を通り過ぎたのだけれど。なんて言うのだろうか、衝撃でもないし、音でも振動でもない。一番あってるのは、やっぱり波だと思うのだけれど、その波がわたしという肉体を構成する肉という肉、骨という骨、腱、細胞、神経、脳みそまで全部揺さぶって、共鳴して、ぐわんぐわんと宇宙を振り回しているかのようなものだった。
それをわたしは素晴らしいと思った。気持ちいいと思った。この波に飲まれて溺れることが出来るのなら本望だと思った。一瞬の内に。ただ、その波は刹那に消え去って、わたしの心と身体はバラバラになってしまった。
たぶん心は波に飲まれたせいで、クッションに覆われていたのだろうけれど、肉体はそうはいかなかったみたいだった。ばらばらに砕けてしまった。もちろん比喩的な意味で。
わたしは、わたしという器である肉体と心がばらばらになったまま、それでも肉眼でいろいろなものを見ていた。車から飛び出してきて、ごめんねごめんねとうるさい高校生ぐらいの男の子とか、横断歩道の前で立ち尽くす顔だけぼやけて見ることが出来ない弘くんとか、どうやら魂が戻ってきたらしいぎらぎらと輝く目をケータイに向ける人形たちとか。ああ、あと広がっていく真っ赤な血も見えていた。
頭は動かなかったから、どうやってそれほど広範囲の情報を視覚で得たのか、よくわからないのだけれど、どうやらわたしはそういったことを知っていた。と、同時になんだかわたしが世界の中心になったみたいで恥ずかしいような気まずいような気持ち悪いような意味不明な感情に飲み込まれてしまっていた。
あの波が少しだけ恋しい。あそこはどこなのか分からないし、場所として存在するのかも分からないけれど、もしあるのならば是が非にでも行ってみたいなあと思った。きっと、とても素晴らしい場所なのだろうと思う。何がか素晴らしいかは予想も出来ないのだけれど、とにかく素晴らしいことだけは確定している気がするので何となく安心した。
だからだろうか、肉体の頬がゆっくり緩んだような気がした。ふふ、たぶんわたしは今笑っているのだろう。おかしな人間がいたものである。なんて同じ人間なのに、まるで異星人になったかのような気分でわたしを客体化してしまった。異星人か。そう言えばあうことは出来なかったな。
出来ることなら、このまままどろんでしまう前に一度でいいから異星人と言う存在を見てみたかった。あ、鯨の羽根でもいい。星の命でもいい。人の心でもいい。何でもいいからとにかく見ていたかった。
でも、どうやらそれももう出来ないみたいだ。
白くなる視界を見続けながら、わたしはとても安らかな気持ちになっていった。
それじゃあ、バイバイね。さようなら。おやすみなさい。
なんとなくそれだけ列挙して、わたしは、死んだ。
(おわり)