『噴水前にて(6)』
『噴水前にて』
にじみ出る汗の存在感を身体のいたるところに感じながら、ぼくはぼんやりと辺りを見渡してみた。こんこんと、噴出す水が涼しげな傘を作り続ける噴水がある広場。じっとしているだけで身体中の水分を奪われてしまいそうになる炎天下だというのに、水際には座っている人が何人もいる。こんな熱い中で待ち合わせなんて、物好きもいるもんだなあと変に感心してしまった。どうせするなら、どこか日陰があるところか、冷房の効いた建物の中でしたらいいのに。まあ、ぼくも人のことは言えないのだけれど。
腕に巻いたデジタル時計を確認する。十三時四十分。待ち合わせ時刻を過ぎて十分経ったところだ。こんなに熱い中じっと座り続けなければならないのなら、もっと遅くに来たら良かった。零れ落ちたため息と共に虚脱感が襲ってきて、周りの気温が更に一度くらい上がったような気がした。
俯くと太陽が背中にじりじり暑い。噴水の音、行き交う雑踏、誰かの話し声、等々。空気が熱いからなのか、半透明のフィルターをやっとこさ通り越してきたみたいに現実味を失ってぼくの耳に飛び込んでくる。音までも暑さにやられてしまったのだろうかと、半ば本気で心配になってしまった。視界の隅で隣に座っていた女の子の靴が、さっと元気よく向きを変えるのが見えた。気になって顔を上げると、さっきまではやつれ精気のなかった女の子の表情には命が戻ってきてみたいだった。手を振る先に、一人の青年がいる。駆け寄ってきて、青年は何度も申し訳なさそうに謝った。青年が手を伸ばし、女の子が受け答える。二人は噴水の前から立ち去っていった。一体今日一日をどんな風にして過ごすのだろうかなんて、勝手ながら二人のこれからを想像してみたりする。浮かんだ場面には全て満面の笑みが浮かんでいた。
なんだか虚しくなって、ぼくはもう一度視線を地面に戻した。自嘲気味な笑い声がひとつ零れ落ちる。一体全体ぼくは何を望み、誰に希望を抱き、どうなることを待っていると言うのだろうか。
隣に置いたショルダーバックの中から小さな花模様が可愛らしい色褪せた便箋を取り出す。両手で持ってじっと眺めていると、やっぱり十年も昔のことになると覚えてやしないよなと寂しい気持ちでいっぱいになった。
広げた便箋には幼い文字が綴られている。『十年後、あたしがあげた朝顔の花が壁いっぱいに大きくなるようになったら、またあの噴水の前で会おうね!』。約束を伝えてきたのは君だったと言うのに。
まあでも仕方のないことなのかもしれない。十年もたってしまったのだから。ぼくは一緒に同封されていた写真を眺めそう思う。ずっと幼馴染で、お隣さん同士で、この写真を撮った夏に離れ離れになってしまったぼくと君。この頃はまだ別れのことなんて知りもしないで、大声で遊びまわっていたんだっけ。あの夏のむせ返るかのような匂いが胸の奥底から込み上げてきた。
あれから十年。時はいろんなものを変えていってしまった。街の外観、夏の暑さ、噴き出す水のバリエーションなどなど。身近なものでさえこんなに変わっていってしまったのだ、君に心だって変わってしまったに違いないのではないだろうか。
時計を見る。十三時五十五分。……もう、君は来ないんじゃないだろうか。知らず知らずの内に積もり重なっていた焦りはいつの間にか不安に形を変えていて、もうそろそろ絶望に様変わりしようとしている。君はぼくとの約束を忘れてしまったのではないだろうか……。
目を閉じて、深く息を吐き出して、一息に立ち上がる。噴水を振り返った。穏やかな傘を作っていたはずの噴水は、幾つもの小さな水柱となってサークルを作っていた。
変わってしまったのだ。ぼくはそう思い、手にしていた手紙と写真をバックの中にしまった。待ち人はまだ来ない。きっともう来ない。だからぼくも違う一歩を踏み出さなければならないのかもしれない。
さっちゃん、じゃあ、ばいばいね。
心の中で呟いて、ぼくは独り噴水広場を後にした。蝉の鳴き声ならぼくが立ち去った空白までも埋めてくれるような奇妙な安心感があった。やがて流れ続ける人ごみの中に身を委ねるようにして入り込んでいく。その瞬間、さっきまでは〈さっちゃんを待ち続ける待ち人〉という人物だったぼくは、ただの〈通行人G〉になってしまった。
こんなものだよ、人生なんて。結局、もらった朝顔は枯らせてしまったし。ああ、そうか。だからダメだったのかもしれないな。そうだよ、朝顔を枯らしてしまったから……。
急に目頭が熱くなってきたから、ぼくはぎゅうっと歯を食いしばった。それでも危なかったから下唇を噛み締めた。泣くもんか。絶対に泣いたりしない。ぼくは〈通行人G〉として前に進むんだ。
歩く。歩く歩く。後ろからも前からも人がひっきりなしに通り過ぎていく。男、学生、女、老人、親子連れ。何人も何人も見知らぬ誰かが通り過ぎていく。幾つも前だけを見つめる知らない顔とすれ違い続けた。
ぼくのすぐ側を一人の女性が追い越していった。肩まで伸ばしたストレートの髪をたなびかせて大またでずんずん進んでいくその人は、しかし少し元気がないようだった。
もしかしたら物語と言うものは、人それぞれに微妙に違ったものが与えられていて、待ち人とか通行人とか、そんな鋳型にはまった役割じゃなくて、正真正銘ぼくが主役の物語というものもこの、ぼくの掌の中にはあるのかもしれないなと、遠くなっていくその人の背中を凝視しながらぼくは考えた。
「さっちゃん?」
思いかけず、ぼくの唇はそう動いていたんだ。
(終わり)