4月24日――剪定3
目覚めは最悪だった。
「つぅ……」
頭はズキズキと痛むし、もう四月だというのに何だか寒い気がする。
布団をはぎ取った瞬間冷たい空気が肌に触れる。
「……え?」
自分が布団の中で寝ていることに気付き思わず声が漏れた。
僕は庭に面した縁側で意識を失ったはずだ。なのに何故布団でお行儀よく寝ているのだろうか。
「夢……?」
そう考えるのが妥当だろう。
しかしそれにしては、庭で見たあの光景にリアリティがありすぎた。
一体彼女は何者で、僕は何をされたのか。
そう考えた瞬間、頭を再び強烈な痛みが襲った。
「ツゥッ……何だ……コレ?」
同時に頭の中に浮かび上がる見覚えのある光景。
姿見くんに話しかけられる。
仲辻さんに話しかけられる。
屋上で結木さんと出会う。
しかしそれらに混じって、知らないはずの――あり得ない光景が飛び込んでくる。
誰とも仲良くならず一人で学園生活を過ごす。
仲辻さんと仲良くなりすぎて他の男子の顰蹙を買う。
結木さんと知り合うことなく休日を終える。
他にも様々な「在り得なかった光景」が次々と脳裏に浮かんでは消えていく。
これは何だと疑問に思うと、それは過去だと本能的に悟る自分がいた。
――過去視。そんな異能があると聞いたことがある。
確定していない流動する未来を視る未来視とは逆に、確定した過去を視る能力。
問題は、氣という一定の<力>を習得している僕が、何故今更<異能>に目覚めたのか。
そして何故当然のように、複数の過去がこの世界に居座っているのかということ。
「ああ……クソッ!」
思わず悪態が漏れる。
理不尽に存在する複数の過去はここ三日間に集中しているようだけれど、その数が把握しきれない。
それこそ無限にあるのではないかと思わせるほどだ。
それらが頭に入ってくるたびに、自分がどの過去から連続して存在するのか分からなくなりそうになる。
だが所詮は三日間だけだ。自己認識が揺らぐほどの誤差は存在しない。
それにもしこの分裂状態の過去がここ三日間のことでなければ、アイデンティティの消失どころか、僕の脳は不可に耐えきれず焼き切れていたかもしれない。
どういった原理かは知らないけれど、この過去視とやらは目の奥の神経が捩られたみたいに痛み、焼けつくような感覚が脳を侵していく。
「薬……効くかな?」
これはどうにもならないと、とりあえず居間へと移動して薬箱を探す。
頭痛の原因が異能である以上、効くかどうかは怪しいが、鎮痛剤としての効果や睡眠誘導ぐらいにはなるだろう。
うん。そうしよう。
考えるのは後にして、薬を飲んで寝てしまおう。
そう結論したところで、しかしそうはいかないとばかりに携帯に着信が入った。
「……」
軽快な木琴を思わせる音がポケットから鳴り響く。
反射的に時間を確認したけれど、もう深夜と言っていい時間帯だ。
常識のある人間なら電話なんてかけてこない。
「……結木さん?」
しかしディスプレイに映った名前が、常識的な用件でないかもしれないと思わせた。
結木月咲。
恐そうな見た目だけれど、猫好きで意外に可愛い同級生。
わざわざ電話で雑談なんてするような人とは思えない。ならば緊急の用事、あの黒猫に何かあったのだろうか。
そうやって考えている間にも、携帯からは着信音が流れ続けている。
聞き慣れたその音楽が、何故こんなにも心胆を寒からしめるのだろうか。
「……もしもし」
意を決して、通話ボタンを押して呼びかける。
「もしもし。青葉?」
「うん」
聞こえてきた声に少し安心する。
その声は昼間に聞いたそれと変わりない。これで奈落の底から響いてくるような慟哭でも聞こえてきていたら、僕は恥も外聞もなく漏らしていたことだろう。
「……今日会った神社まで来て」
「……は?」
いきなり何を。
そう問い返す前に通話は一方的に切れた。
慌ててこちらからかけ直すが通じる気配はない。
一体何を? こんな真夜中に神社に? 何で?
「……ぐっ」
顔に汗が垂れたのは、状況が把握できない焦りからだけではない。
またしても、知らない過去が次々と視えてしまう。
電話がかかってくるのはほぼ同じ、しかしその相手が姿見くんだったり仲辻さんだったり、はたまた今の僕は知らない生徒だったりとバラバラだ。
だというのに、電話をかけてきた人間は全て「神社に来い」と僕を呼び出している。
「……何だこれ」
これが本当にあり得たかもしれない過去なら、おかしいにも程があるだろう。
まるで僕を神社へと呼び出したのは、結木さん以外の誰かの意思であるかのように。
「ッ!?」
震える手で氷雨さんの連絡先をコールする。
ヤバい。何がヤバいのか具体的には分からないけれど、とにかくヤバい。
何がきっかけだったのかはさっぱり分からないけれど、僕は既に日常からはぐれて異常の中へと足を踏み入れてしまっている。
わけの分からない異能に目覚めただけでも脳の容量が足りなくなるどころか一部焦げているというのに、これ以上フラストレーションになるようなことを考えたくなかった。
『おかけになった番号は……』
「……そう来たか」
だから氷雨さんを頼ろうとしたのに、携帯からは感情のない機械音声の声が流れるだけ。
助けを呼べない。
そう分かったら心臓の下から体を冷たい何かが通り抜けていくような感覚に襲われた。
恐い。泣きたい。逃げ出したい。
ここまでお膳立てされているということは、今この瞬間も誰かに見張られている可能性すらある。
そう思うと、家の中に留まっていることすら危険に思えてきた。
かと言って外に出て何かが待ち伏せでもしていたら……。
「もう……勘弁してよ……」
何も分からない。ただそれだけのことがこれほど怖いとは思わなかった。
目覚めた異能は意味が分からないし、頭は痛いし、結木さんは変だし。
もう全てをなかったことにして眠ってしまいたい。
「――ッ!」
そんな思いを振り払うように、渾身の力で手近にあった木の柱を殴りつけた。
同時に腹が立ってきた。
誰が何を企んでこんな三流ホラーみたいな展開を演出したのかは知らないが、何で僕がそれに乗せられて女々しく崩れ落ちそうになってんだ。
上等だ。乗ってやる。
何処の誰だか知らないが、正面から粉砕してやる。
後から思えば、このとき僕は既に正気ではなかったのだろう。
しかし正気でなかったからこそ、僕が生き延びる可能性が現れたのだろう。
やけくそ気味に家を出た僕は、車庫の隅から自転車を引っ張り出し、夜の闇の底へと走り出した。