5月10日――フォーリンラブ4
その瞬間生まれた感情は嫌悪か、恐怖か。
ともかく真っ先に思ったのは、この蛇のように手を絡めてくる女から離れたいということだった。
「ッ!」
「あら?」
驚いたように、不思議そうに女は振りほどかれた自分の手を見る。
「うふふ」
離れてしまった手をもう片方の手で嬉しそうに撫でる。
気持ち悪い。何だかうまく説明できないけれど気持ち悪い。
十八女学園の制服を着ているということは、間違いなくこの女は斎院さんの言っていた仲間とやらだろう。
ならば輪人迦夜のことをよく知っていて、僕のこともある程度は知っているに違いない。
けれどその目には、敵意というものが欠片も感じられない。
身長も体格も、平均的な女子生徒のそれだ。
武術の臭いもしない。今すぐ無力化できるだろうと確信できるほどに、この女には脅威というものを感じ取れない。
だがその熱に浮かされたような目も。
喜色に満ち弧を描く口元も。
敵愾心というものから対極に位置するはずのその表情に、何故僕はこれほど嫌悪を抱いているのか。
「はじめまして。私は叶彩夢。貴方の名前を教えてもらえるかしら?」
「青葉志龍」
「うふふ。いい子ね。ちゃんと教えてくれるんだ」
言わなくても知ってるだろうとは思ったけれど、聞かれたからには答えてしまうのは性分だろうか。
ただ女――叶さんには好感触だったらしく、頬に手を当てて慈愛に満ちた目をこちらに向けている。
何だこの人。
こんな感情を向けられる覚えはない。あちらが名乗ったということは、実はどこかで会ったことのある知り合いというわけでもないだろう。
誰にでもそういう対応な、博愛主義者の類だろうか。
いや、だとしたらいきなり人を狙撃してくるはずがない。
人を殺せる時点で大なり小なりイカれてる。
まともな人間性を期待しないほうがいいかもしれない。
「うふふ。そんないい子な青葉くんにお願いがあるのだけど」
そう警戒する僕に――。
「貴方……私を殺してくれないかしら?」
予想通りにイカれたことを言ってきた。
「うをっ!?」
予想外の事態に間抜けな声が漏れた。
叶さんがピョンと軽くはねたと思ったら、一気に僕との距離をつめてきたのだ。
単に一足で間合いをつめたのなら驚かない。
叶さんは垂直に、真上に跳んだだけなのに、そこから何もない空を滑るように飛んできたのだ。
物理的にあり得ない。
氣を使って空中を蹴るなり噴射でもして移動したのかとも思ったけれど、そんな素振りもない。
いくら距離を離そうとしても、それが世界の理であるかのように、叶さんは地面に触れずに僕目がけて飛んでくる。
もしかしてこれが彼女の異能なのだろうか。
何かを飛ばす異能。それで弾丸のようなものも飛ばすことができる?
それにしては今の彼女は大したスピードも出ていないのが気になる。
「何で殺してくれないの?」
「いや、何でと言われても」
そう広くない屋上をぐるぐると逃げ回っていると、不思議そうに叶さんが言う。
むしろ僕が何でと聞きたい。
この人僕を殺すつもりじゃなかったのだろうか。何で僕に殺されたいみたいなことを言ってるのだろうか。
そもそも何で殺されたいのかとかは、聞かないほうがいいだろう。
聞いたこっちの頭がおかしくなりそうな理論を展開してくるに違いない。
「ああ。ごめんなさい。私ったら」
そのまましばらく逃げ回っていたのだけれど、不意に何かに気付いたのか、飛ぶのをやめて着地すると両手で口を覆う叶さん。
「すっかり忘れてたわ。迦夜ちゃんにも言われたの『いきなり殺せと言われて殺せるわけないでしょ』って」
何て常識的な忠告なんだ輪人さん。
会ったこともないのに何だか親近感がわいてきた。
「だからね。こうしないといけないの」
叶さんが何かを懐から取り出す。
「私が殺そうとすれば、迦夜ちゃんも私を殺そうとしてくれるの」
そう言うと、叶さんは包丁を鞘から抜いて、その刀身に口付けした。
もう恐い。
ナイフとか刀とかじゃなくて、日用品なのが逆に恐い。
そして僕より有能だったであろう輪人さんもこの人を矯正できなかったと考えるとなお恐い。
説得は不可能と諦めて、この自殺願望のある殺人鬼との殺し合いに付き合えと?
「さあ。私を殺してね?」
「お断りします」
爛々と目を輝かせ、ピョンと地面から離れて飛んでくる叶さんを冷静に拒絶する。
心理的には恐いが、実のところ叶さん自体はそれほど脅威ではない。
どうやって飛んでいるのかは不明だけれど、その速度はそれほど早いわけでもない。微妙に加速するのが気にはなるけれど、逃げきれない速度ではない。
何より肝心の叶さんに格闘技の類の経験がないのが丸分かりだ。
今だって包丁を逆手に持ち、これから刺しますよと予告するみたいに振りかぶっている。
「あら?」
だからいくら接近されても、そんなもの振り下ろされる前に止められる。
「ヤァッ!」
「ぐぅっ!?」
振り下ろされた包丁を持った腕を左手で弾きながら、踏み込み体をねじりながら右の掌底を鳩尾目がけて突き出す。
「……?」
しかしその感触がおかしい。
掌底を無防備に受けた叶さんは、あっさりと吹き飛ばされた。
「ああ……痛いわ」
しかし叶さんは倒れることなく地面に足を着けて踏みとどまり、恍惚とした笑みを浮かべ上目遣いにこちらを見つめている。
硬い。
氣こそ使わなかったとはいえ、遠慮なく鳩尾を殴ったのだから、普通なら這いつくばって吐いていてもおかしくない。
だというのに叶さんは平然と、むしろ嬉しそうに笑っている。
これは彼女の性癖とかではなく、ダメージがほとんどないからだろう。
掌底が当たった瞬間、返ってきたのは布越しに石にでも触れたような感触だった。
注意深く叶さんを見てみるが、服の下に何かを仕込んでいるようにも見えない。
むしろその体の中に渦巻くように、氣が高まり表面を覆っている。
「もしかして……輪人さんに氣の使い方とか教わりました?」
「ええ。そうしたら迦夜ちゃんも遠慮なく私を殺せるから」
ああ、うん。それはそうだろう。
氣の使い方の中には、自分の体を硬くする硬功というものも存在する。
しかし驚くべきは叶さんの硬功の練度だ。体を石と同レベルにまで硬化するなんて一流と言っていい。
恐らくは、輪人さんは万が一にも叶さんを反撃で殺してしまわないように硬功を仕込んだのだろう。
こちらを殺せる技術は教えずに、こちらの攻撃に耐えられる技術だけを教えた。
いくら体を硬くしたって、しこたま殴れば沈めることは可能なのだから。
問題は、僕レベルの人間が今の叶さんを沈めるのにはかなりの時間がかかるだろうことだ。
浸透勁なんてものもあるが、体全体を硬化している叶さんには大した効果はないだろう。
「うふふ。やっと手を出してくれたわね」
そして叶さんが肉体的に潰れる前に、満足したり音を上げたりする可能性も低い。
何せ反撃されたことを、クリスマスにサンタさんからプレゼントをもらった子供のように喜んでいるのだから。
「その調子で、私が貴方を殺すから、貴方は私を殺してね?」
「いやです」
「ありがとう。じゃあ行くわね」
駄目だ。話ができるようでまったく通じてない。
「仕方なかったんだろうけど、恨むよ輪人さん」
説得を諦め、とことんこの殺し合いに付き合う決心をする。
太陽が傾いて空が夕焼けに染まる中、友情なんて芽生えそうにない不毛な戦いが始まった。




