4月24日――暫定未来
4月24日。
僕は殺された。
「あ……ぁ……」
喉が熱い。息ができない。
体中から何かが抜けていき、このままでは自分は死ぬと理解できるのに。
指先すら動かせず、悲鳴をあげようにも出るのはかすれた空気の漏れる音だけだ。
「ごめん……本当にごめん」
そんな僕を見下ろして謝る女がいるけれど、その謝罪には何の意味もない。
僕を殺したのはその女なのだから。
急に襲いかかってきたその見知らぬ女に、僕は抵抗むなしく喉を切り裂かれ、こうして死のうとしている。
「……ごめんなさい」
なのに女が謝るものだから、なんだかちょっと可哀想になってきた。
だってこの人泣いてるし。きっと僕を殺すのも止むに止まれぬ事情があったのだろう。
死の間際だというのにそんなお人好しなことを考えてしまうのは、脳に血液が通っていないからだろうか。
ギロチンで首を切られてもしばらく意識はあるなんて話があるけれど、実際には一気に切断部から血が抜けて意識なんて保てないという説もある。
それくらい血液というのは生物にとって重要なものなのだ。
だからそんな重要なものが喉から垂れ流しになってる僕は、もうどうやったって死ぬしかないだろう。
「……ごめん。アンタが誰かは知らないけど本当にごめんなさい」
そう謝ってくるその人に、じゃあ何で僕は殺されたんだと聞きたいけれど、もうそんな疑問を口にすることもできない。
4月24日。世間の人にとっては何の変哲もない日曜日。
もうすぐ日付が変わろうかという深夜に青葉志龍は殺された。
・
・――時は少し遡る
・
4月21日木曜日。
走るのは嫌いじゃない。
慣れているというのもあるし、何より走り切ったという満足感は中々お手軽に自分に酔える娯楽とも言える。
まあそれでもうっかり限界を越えてしまったときの疲労感はくるものがあるし、口の中が干上がって血の味のするような何とも言えない感覚も知っている以上、走るのは嫌いだという人の思いも同時に理解できる。
だから今僕が人通りもない真夜中に閑静な住宅街を走っているのは決して趣味などではなく、ましてや体を鍛えようなどというある種のマゾヒズムによるものでもない。
「待て!」
アスファルトを蹴って駆ける僕の遥か後方。
途切れ途切れの街灯の明かりに照らされながら若い女が僕を追いかけてきている。
待てと言われて待つ人間がいるわけがないのは世の常だけれど、驚くべきはその声の聞こえる距離が先ほどから一向に開かないという事実だ。
自慢ではないが僕は少々普通から外れている人間だ。今だって正確なタイムは計っていないけれど、走るペースは一流アスリートでもなければ追いつけないようなギリギリの速さになっている。
そんな僕に追いつけはせずともほぼ同じペースで追跡してくる女性は一体何者なのか。
気になるが、かといって逃げるのをやめて「さあお話ししましょう」というわけにもいかない。
相手が女性であるという点も人によっては立ち止まりたくなる理由になるかもしれないけれど、生憎と僕はシャイなのでこの状況からナンパに持っていくような度胸もない。
それにお話をしようにも、話せないことがたくさんあるというのが問題だ。
先ほども述べた通り、僕は少々普通ではない人間だ。
しかし普通に普通の生活を送るのならば、その普通じゃない部分は当然秘密にしておかなければならない。
にもかかわらず、その普通じゃないところをあっさり見られた間抜けは、こうして目撃者に追いかけられる羽目になっている。
これが先輩にあたる女性だったら言葉巧みに口止めでもできるのだろうけれど、生憎と僕にそんな話術は存在しない。
かと言って口止めがダメなら口封じなんて思考になるほど僕は物騒な人間じゃない。
ならば後は逃げるしかない。
それでいいのかとつっこまれそうだけれど、人間というのは実にお目出たい頭をしているのだ。
例え信じられないものを見たとしても、時間が経てばあれは見間違いだったのだろうとか夢だったのだろうとか、自分の常識の範囲で納得できる答えをだしてしまうものなのだ。
まあ仮に相手がそんな常識的な人間でなかったとしても、事情を根掘り葉掘り聞かれるよりは有耶無耶にしたほうが断然マシだ。
後は野となれ山となれと諦めたとも言う。
「待て!」
「しつこい!」
しかし誤算だったのは相手の脚力と体力だ。
人目に触れる可能性があるので加減はしているけれど、それでも走り始めて十分は経っている。
距離にすれば軽く3キロメートルは越えているはずだ。普段運動していない人間なら、とっくの昔に地面とお友達になっている。
どうする。さらに目撃者が増えるのも覚悟して全力で振り切るか?
そんなことを考え始めたあたりで、道路の先に丁度いいものを発見する。
「よし……ッ!」
気合と共に地を蹴り、体が風を切り裂きながら宙を舞う。
眼下にはコンクリートで底まで塗り固められた幅六メートルほどの小さな川。小さくはあってもとても人が飛び越えられる距離ではないし、すぐ近くに橋もかかっていない。
大分余裕を持って川を通り過ぎ、膝を曲げて衝撃を殺しながらアスファルトの地面に着地する。
「よし、これで!」
相手はもう追ってこれない。
そう安堵して振り返ったわけだけれど――。
「なめるな!」
「ええ!?」
相手は当然のように川目がけて跳躍し、長い銀髪を風に遊ばれながら落ちてきた。
「ッ! 跳べた!」
「うわあ……」
どうやら本人は無謀にも本当に跳べるとは思っていなかったらしい。着地と同時にどこか誇らしげに拳を握りしめる姿は可愛らしくもあった。
しかし場合が場合なら拍手で褒め称えたであろうその功績も、追われる立場としては歓迎できるものではない。
「このッ。逃げるな!」
「断る!」
彼女がジャンプした瞬間「もしかして落ちるのでは?」と心配し、足を止めたのがまずかった。
今やその差僅か5メートル程。何かのアクシデントでもあれば捕まってもおかしくない。
どうしてこうなった。
そう愚痴りたいところだけれど、原因を考えればほぼ自業自得としか言いようがない。
・
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・
日本は犯罪が少ないと言われているけれど、まったく起きないほど平穏では無い。
「オラァッ! さっさと付いてこい!」
夜も更けたコンビニの前にて。
ナイフを持った大柄な男が女性を引きずるようにして移動していた。
コンビニ強盗か、はたまた個人的に女性と何かあったのか。
偶然通りかかった僕には分からないけれど、まあ犯罪には違いないだろう。
駅が近いためか、夜も遅いというのに周囲には駆け付けた警察官の他に野次馬の輪ができている。
しかしそんな中で警察官が動けないのも当然だろう。
相手は凶器を持っている。アメリカあたりだったら狙撃でもするのだろうけれど、日本では籠城事件でも起きない限りそんな対応はまず取られない。
「……」
そんな中で人目を盗むように動いている僕は、自分が何とかしてやろうという根拠のない自信家でも考えなしでもない。
あえて言うなら異常者だろうか。
異常というと聞こえが悪いけれど、少なくとも普通の人間からは外れているのだから。
「……」
ゆっくりと犯人が意識を向けていない側方に回り、周囲の人間から見られていないか確認する。
「――ハッ!」
そして徐に構えを取ると、犯人の威嚇するように掲げられたナイフ目がけて手の平を突き出した。
「早く……えっ?」
引っ張られて上手く歩けない女性に苛立ちを募らせていた男の手から、キンッと澄んだ音を立ててナイフが弾き飛ばされる。
「なっななな!?」
何が起こったか分からず動揺する犯人。
後は僕が手を出すまでもなかった。
人質の女性は拘束が緩んだ瞬間その手から逃れ、逃げた人質と飛んで行ったナイフのどちらを先に回収すべきかと迷った男は、周囲を包囲していた警察の皆さんにあっという間に取り押さえられた。
「……ふー」
その様子を確認して、僕はゆっくりと息を吐いた。
よかった。女性に怪我は無いし男も無事に取り押さえられた。
僕が手を出したこともバレていないみたいだし、結果を見れば満点と言えるだろう。
「……アンタ今」
「え?」
そんな僕をずっと凝視していた女性からすれば、その安堵した姿はさぞ間抜けだったに違いない。
「……」
「あっ! 待ちな!」
無言で背を向けて走り出す僕と追う女性。
こうして夜の追いかけっこは開始された。されてしまった。
・
・
・
「このッ! いい加減止まりな!」
背後に女性の声をあびながらひたすら逃げる。
というか何で僕はまだ逃げているのだろうか。
あの川を飛び越えてきたということは、相手も普通から外れた人間である可能性が高い。
いや、でも走り幅跳びの女子世界記録は7メートルを越えていたはずだし、今追跡を続けているこの女性がたまたま人類の限界に挑戦中だという可能性も。
「……試すか?」
なら人類の限界に挑戦するのではなく、軽々と越えてみればいい。
そう決意した僕は、わざと袋小路になっているであろう路地裏に逃げ込むと、気合を入れるべく大きく息を吸い込んだ。
案の定狭い路地は途中で途切れ、目の前には無機質なビルのコンクリート壁が立ちはだかる。
「よし。観念しな!」
追跡を続けていた女性がそう言うが、生憎と僕は観念するつもりは毛頭なかった。
むしろ君こそ観念しろ。能力任せでは無理な曲芸に近い技術を見せてやる。
「ハッ!」
と内心で大見得を切ってみたものの、恐らく傍から見た僕の動きは凄くはあっても地味だったことだろう。
「なッ!?」
徐に跳躍し、ビルの壁を蹴り、反動で近づいた隣のビルの雨どいを足場にさらに跳躍。そして窓のヘリを使いさらに上へと跳び上がる。
「よっと。……よかった。できた」
ようは小さな足場を利用してビルの屋上まで上がっただけだ。
しかし普通の人間ならやろうとは思わないし、彼女がそれを可能とする身体能力を持っていたとしても、実行する技量や度胸はないだろう。
「クソッ!」
案の定登ってくるのは諦めたらしく、悪態をつく声が聞こえる。
女の子がクソなんて言うんじゃありませんと思ったけれど、口に出したら間違いなく彼女の長い髪が怒髪天を突くことになるだろう。
それはそれで見てみたい気はするけれど、余計な恨みを買うのは勘弁だ。
「……」
なので僕は、そのまま無言で息を殺してビルからビルへと跳び移り逃走を続行した。
うん。今気づいたけど降りるときどうしようこれ。
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・
「何それもったいない。もしかしたら運命の出会いだったかもしれないじゃない」
ようやく謎の女を振り切り帰宅した所にそんなことをのたまったのは、僕の先輩とも言える何とも眠そうな目をした女性だ。
彼女の名前は崎森氷雨。昔僕の祖父の世話になったという自称幼馴染のお姉さんだ。
祖父が亡くなり天涯孤独となった僕の面倒を見てくれている、今となっては家族のような存在でもある。
しかし何という無責任な発言だろうか。
あまりに無責任すぎてこの人が自分の後見人だという事実が絶望的なものに思えてくる。
「失礼な。それが姉に対する口のきき方?」
「はいはい。ごめんねお姉ちゃん」
Tシャツにジーンズというラフな格好で畳の上に転がっているその姿に、説得力なんてものは欠片もない。
しかしまあ、様々な手続きやら遺産の管理やらでお世話になっているのも事実だ。そういう点ではとても感謝しているのだけれど、普段の様子を見ていると素直にそれを言い辛い。
初めて会ったときは長い黒髪にキリッとした表情だったから不覚にも憧れそうなほどに格好よかったというのに、少し付き合いが長くなり本性を現わしたらこれなのだから。
そしてそんなに世話になっているけれど、僕と氷雨さんの間に血縁関係はない。
それでも本人が言うには僕のおしめも変えたことがあるという話だけれど、僕にはまったく記憶にない。
まあそもそも。僕は五歳以前の、祖父に預けられるまでの記憶が曖昧なのだけれど。
僕の祖父は古い武術を継承している道場の主だったのだけれど、門下生の中にはそれなりに出世した人も多いらしく、警察だの自衛隊だのといったところのお偉いさんが訪ねてくることも多々あった。
氷雨さんもそういう手合いの人間ではあるのだけれど、その所属組織があまりに胡散臭かったために、当初はお引き取り願ったほどだ。
まあすぐににっこりと笑って本性の一部をさらけ出した氷雨さんに、この世には不思議なことがあるんだなあと嫌になるほど思い知らされたわけだけれども。
「それに志龍程度の能力を見られたところで隠し通す必要もないわよ。どうせ通りすがりの地縛霊でも祓っただけでしょう」
「地縛霊は通りすがりませんから」
まあ実際やろうと思えばできるのかもしれない。
あの時僕がやったのは氣を用いた遠当て。
そういう何とも胡散臭いことができる程度には、僕は氣というものの扱いに長けている。我ながら超人的な身体能力も、単なる修練の結果だけでなく氣の運用に通じている結果だ。
しかし逆に言えば出来るのはその程度。
どっかの宇宙人や自分より強い奴に会いに行く人のそれみたいに必殺技なんてよべるものではなく、せいぜい相手の気をそらす牽制程度の威力しかない。
身体能力の向上に比べたらおまけみたいなものだ。
「へー。強盗から人質をね。いいことしたじゃない。名乗り出れば表彰状でも貰えたかもしれないのに」
「むしろ怪しすぎて取調べ受けますよ」
「アハハ。大丈夫よ。そのときは私がちゃーんと迎えに行ってあげるから」
「はあ」
そういってコテンと寝返りをうつ氷雨さんを横目に、とりあえず風呂でも沸かすかと居間を後にする。
「あ、お風呂沸かすなら熱めにね。なんなら一緒に入る?」
「入りませんから」
「ざんねーん」と少しも残念そうではない笑顔で言う氷雨さんに苦笑しつつも、ご注文通りに温度の設定を高めにしておこう。
まったく。からかうのも程々にしてほしいものだけれど、それにどこか安らぎを覚えている僕も中々図太い人間らしい。
もしかすれば、昔は本当に氷雨さんの世話になっていて、無意識にそれを覚えているのかもしれない。
「……姉か」
そしてどうにも姉という言葉にひっかかりを覚えるのも、忘れてしまったそれが原因なのだろうか。
氷雨さんに聞けば思い出話でもしてくれるだろうけれど、自分の覚えていない醜態までご機嫌で話してくれそうだから中々にリスクが高い。
「ま、いいか」
どうせ大したことではないだろう。
そう考えを切り上げて、お湯をはるために風呂場へと向かう。
――そしてその日から三日後。まるであらかじめ決められていたように、あっさりと僕は殺された。