それでは、いま一度のお別れを
グラスの中で、氷が軽やかな音を立てた。
小夜子はグラスのふちを指でなぞる。グラスはカウンターの上にあったので、彼女の手の熱で溶けたのではない。やや強めの暖房ではあるが、自然と氷が溶け落ちるぐらいの時間は経った、ということだった。
「酔い覚まし中ですか? 先生」
隣の席に座った人が声をかけてきた。自分と同世代ぐらい、おそらく三十代後半ぐらいの男の声。
目線だけよこした小夜子に、男はにこやかな笑顔で応えた。
「皆様、帰られましたしね」
男が店内に目を走らせる。十坪程度のバーの店内には、他にもう客の姿はなかった。小夜子の二科展入賞を祝うささやかなパーティーに集う人数は、その広さで十分だったのだ。
小夜子は無言のまま、男を見定めていた。
いや、“見定める”という表現は奇妙である。これは小夜子のパーティー、つまり参加者は全て関係者であり、したがって知らないはずはないのだ。それなのに、彼女には彼がどこの誰だか見当が付かない。それは、自分にとってどんな相手か分からないことを意味する。言葉をさらす前に、少し確かめなければならない。
声で感じたよりも見た目は若い。整えた感じはしないが小奇麗な髪の下で、人の良さそうな目が笑っている、黒いスーツの優男。
目の奥が覗ききれない。
「いやだなぁ、先生。ギャラリー竜岡の那岐の代理で来ました、七峰ですよ。始めにご挨拶したでしょう?」
男が苦笑いを浮かべながら、軽く肩をすくめた。
そう言われて、小夜子の頭の中に、名刺を自分に向けて差し出す七峰の姿が浮かび上がった。そういえばそうだったような気がする。確か、花束もいただいた相手ではなかったか。言われるまで思い出せないとは、思ったよりも酔いが回っているらしい。少々飲みすぎたのだろうか。
そうこうと、頭の中がまとまらない間も、七峰は困ったように笑いながら固まっている。どうやら、あまりいい目つきではなかったようだ。ようやくそれに気づいて、小夜子は慌ててモードを切り替えた。
「ああ、失礼しました、ちょっとお酒が回ってしまっていたようで。ごめんなさい、七峰さん」
にっこりと微笑みながら、テンポ良くしかし礼儀正しく、小夜子は七峰に会釈をした。それを受けて、彼はほっとしたように、今度は本当に安心した笑みを浮かべて力を抜いた。それから、妙に礼儀正しく、
「隣、よろしいですか?」
と声をかける。その身振りに、小夜子の口から少し笑いがこぼれた。
「もう座ってらっしゃるのに?」
気の利いた言葉でもないのに、彼の振る舞いには不思議なひょうきんさがあって、小夜子の気も緩める効果があった。
「ええ、やはり、ちゃんとお伺いしないと」
「では、改めて、どうぞ」
七峰の笑顔に、彼女も笑顔で返す。
「改めて、というならば、改めて入賞おめでとうございます」
その一言で、一瞬だけ忘れかけていたことを、小夜子は思い出した。この場はオフィシャルの場だった。プライベートではない。
彼女のモードが整え直される。警戒レベルが元に戻り、“協力的な関係者への対応用”の自分が現れる。
「ありがとうございます」
礼儀正しく、そして親しみを込めたように感じられる声と笑顔で、彼女は軽く頭を下げた。
彼女にとって、画家として生活していくためには、こういった助けてくれる人は必要不可欠だった。ようやく、芸術に興味がない人でも耳にしたことはあるかもしれないぐらいの、全国的な展覧会の絵画部門で入賞できたところなのだ。三十代後半、早いとは言えない。そのことが、小夜子の評価を表している。事実、これまで絵だけで生きてこれたわけではないし、絵に専念できた時期は何かしらの“協力”が得られていた。誰かを利用し裏切った事も多々あり、その逆もまた多々あった。もう、良心の呵責というものに左右されることもなくなって、久しい。
それでも、引っかかっていることがないわけじゃないんだけれど…。
「えっと、気に障られましたか?」
七峰の想定外の返答に、どきりとした。彼自身はあまり深い意味で問いかけたつもりではないらしく、単純に意外そうな面持ちをしている。
しかし、むしろ小夜子の方が意外だった。営業用モードはもう完全に身についている。それを見破られることなどなく、会ったばかりの相手にあっさりと指摘されるとは思ってもいなかったのだ。
…ちょっと待って、私、今、何が気に入らないというのかしら?
思わぬ指摘によって、小夜子は自分が不機嫌であることに気が付いた。ただ、それには気付けたが、なぜ不機嫌なのかが分からない。ささやかとはいえ入賞の祝いの席、そうそう気に障るようなこともなかったし、これまでの経緯や、絵描きで生きるためにしてきたことを振り返っても、負い目やら後悔やらで思い悩むほどきれいな心でもない。
それでも、どうやら何かが心の中に引っかかっている、ということなのだ。となると、もっと昔の記憶の中の話になるのだろうか…。
「あ」
その答えにたどりついて、彼女は思わず小さな声を上げてしまった。それから、あまりの意外さにかすかに笑ってしまう。
「えっと? 何かありましたか?」
急にくすくすと笑い始めた小夜子に、七峰が不思議そうな顔を向ける。
「ああ、ごめんなさい、何でもないんです。ちょっと昔のことを思い出しまして」
彼の顔にやや不安の色が浮かんできたのをみて、小夜子は慌てて取りつくろった。しかし、そう言われても彼にしてみれば納得できることでもなく、困ったような、怪訝な顔のままで首をかしげている。
人の気分を無意味に害するのを好む程には、小夜子もくたびれてはいなかった。
「いえ、その、幼いころの猫のことを思い出して」
口元に笑いが残ったまま、小夜子は話を始めた。
「猫、ですか?」
「ええ。まあ、飼っていたとか言うわけではなくて、親猫からはぐれた生まれたての子猫だったんですけれどね」
話し始めると、彼女の中で記憶がはっきりしてきた。まだ小学校に入りたてだったころ、帰ってきたらマンションの花壇の植え込み辺りから猫の鳴き声が聞こえてきた。その鳴き声が、かすかながら必死な響きを含んでいて、幼い彼女は気になって声の出所を探したのだ。
そこにいたのは、小さな子猫だった。いや、子猫と呼べるほどに育っていない、大人の親指ぐらいしかない、まさに生まれたての猫だった。まだ目も見えないらしく、ただひたすらに鳴き続けている。それは、幼心にも痛々しい図だった。
放っておくことが出来なかった小夜子は、家に帰って母親に相談した。しかし、マンションは動物を飼うことを禁止していたのでどうすることもできず、結局、小さな箱の中にくるんで、元の場所に返すことになった。
幼い彼女の指を一生懸命に舐める子猫の姿が思い出された。
その後、小夜子が眠るまで鳴き声は続いていたが、目が覚めた時にはもう聞こえなかった。そのことに気付いた彼女は、着替えもせずに飛び出して花壇へと駆けつけたのだが、そこにはもう子猫の姿は見当たらなかった。
「それなら、きっと親猫が迎えにきたんですよ」
そこまで話を聞いて、七峰が軽やかに口をはさんだ。
「そうでしょうか?」
同意しかねた。もちろん、その可能性もある。しかし、他の動物の仕業かもしれないし、そう都合のいい話ばかりではない。
「きっとそうですよ」
重ねて、七峰が頷く。そうとも思えないが、あえて否定することもない。「そうですね」と相づちを打って、小夜子は笑顔を作っておいた。
それにしても、そんなことがなぜ今頃出てくるのだろう? いや、もしかしたら、ずっと心に引っかかっていて、自分が気づいていなかったのだろうか。それならば、なぜこの人はそのことに気付いたのだろう?
「釈然としませんか?」
小夜子の心の中を見透かしたように、七峰が覗き込んできた。
どうにも、彼には小夜子の仮面が通用しないらしい。心外なところだが、思ったよりも不愉快でもなかった。
「じゃあ、ちょっと聞いてみますか」
事もなげに軽やかに言って、彼は懐に手をいれる。引き出されてきたのは、鎖に繋がれた懐中時計だった。
あっけにとられている小夜子に、七峰が人懐っこい笑みを浮かべる。
「酒の席の余興、ですよ」
「はあ」
聞いてみる、とは何のことだろうか? 彼の手に現れた懐中時計は、銀の鎖に銀の細工物のようで、かなり凝った造りのようだった。
そして、美しい時計だった。
しかし、どこかがおかしい。
「簡単な自己催眠、みたいなものですかね? 少しの間この時計を見つめていただければ、見たいものが目に浮かぶんですよ。人によっては、何か聞ける方もいます。まあ、成功するしないは人それぞれですし、程度も人それぞれですから、本当に酒の余興です。何人かで飲んでいる時にやると、結構盛り上がったりもするんですよ?」
七峰が笑いながら説明する。ということは、つまり、場合によっては、あの時の猫が目に浮かぶということなのだろうか。かなりふざけた話だが、始めから余興だと言われれば文句もつけられまい。要するにお遊びということだ。
「どうです? ひとつ、思い出と語らってみませんか?」
彼のいたずらっぽい提案で、小夜子の口元に笑みが浮かんだ。ふざけた話で、乗るような話でもないのだが、七峰が振ってくるとあまり嫌悪感がわいてこない。
「いいですよ、受けて立ちましょう」
小夜子もいたずらっぽく笑いながら応える。その応えに「受けて立たれてしまいますと緊張しますねぇ」とにこやかに肩をすくめてから、
「それでは、この時計を見てください」
といって、小夜子の目線に合わせて懐中時計をぶら下げた。
「なかなか凝った造りの時計でしょう? 何気に良いものなんですよ、コレ」
確かに、先に思ったことではあったが、凝った造りの時計のようだった。時計を集める趣味はないので分からないが、もしかしたらアンティークでかなり高価なものかもしれない。ふちには美しい模様が刻まれていて、文字盤には何か動物をモティーフにした図面が刻まれている。双頭の鷲、だろうか。由緒もある代物? そんなことを思っているうちに、どこがおかしいのかようやく気付いた。
長針しかない。盤面の数も1、2、3、4、そして真上に5と五つしかない。
「これは…」
「はい、この時計は五分しか計れません」
目を向けた小夜子に、七峰は苦笑で応える。
「五分だけ?」
「ええ。残念ながら、私に許されているのはそこまでなんですよ。それを越えると帰ってこれなくなってしまいますし」
引っかかる言い回しだ。許されている、帰ってこれなくなるとは一体何のことだろう?
小夜子は眉をひそめたが七峰は気にも留めない。そして改めて時計をかざして、変わらない笑顔のままで口を開いた。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
目の前で時計の針が音を立てて進んだ。
左周り、に。
逆だった。進んだのではなく、時計の針は、戻った。その瞬間、一瞬だけ、軽いめまいに襲われる。そして、すぐに視界は元に戻ったが、戻ったのは元の場所ではなかった。
小夜子は、外に居た。あのマンションの、あの花壇のそばに。
面食らった彼女が周りを見回す。すると、自分の状況がより把握できて、そしてより困惑した。
辺りは真っ白だった。目の前の花壇とその周囲以外は、全て鈍い白色の空間が広がるのみ。
つまり、過去に戻るとか、場所が移動したとか、そういうことではない?
七峰は、見たいものが目に浮かぶ、といっていた。つまりこれは夢か幻の類、ということになるのだろうか。それにしても、酒の余興というには度を越している、と彼女は思った。自己催眠を実践したことはなかったが、それとてここまでいくものではないだろう。
困惑したまま目を花壇に戻すと、その向こうから現れる影があった。
その主は、猫だった。
どこにでもいるような、取り立てて目立つ特徴もない、良く見かける三毛猫。
それなのに、小夜子には確信があった。
「…あの子なのね」
彼女の呟きに応えるように、猫がにゃあと一鳴きした。
姿は、小夜子の知っているものとは全く違う。彼女の記憶の中では、猫は生まれたてであまりにも小さくか細い存在だった。今、目の前にあるのは、立派に大きく成長した姿だ。その間をつなげる特徴も記憶もない。それでも、彼女には、それがあのときの猫の成長した姿だということが確信できた。
猫と向かい合ったまま、小夜子がその場にしゃがみこむ。そして一度、苦しそうに目を閉じた。
「…ごめんなさい。あの時、あなたに何も出来なかったわ」
小夜子の口から、思いがこぼれ落ちた。
理屈では、十二分に分かっている。六歳の子どもに出来ることなど限られている。それに、あの後どうなったのか、その真実は知るすべもない。自分が負い目を感じる必要など、特にはない。
それでも、彼女にとってはそれこそがぬぐえない記憶だったのだ。もっと後悔することも、もっと償わなければならないことも、これまでの人生で山とあるというのに、小夜子の心に突き刺さっているのは、この猫のことだった。
彼女は、自分の心の中に残っているものを、目を向けなくなっていた自分の姿を、見た。
猫の鳴き声が聞こえる。恐る恐る目を開くと、猫は目の前まで近づいていた。
小夜子の手が、ぎこちなく伸びていく。そして、その指先が、猫に触れる。
猫が、その手に身をすり寄せた。懐かしそうに、心地良さそうに。
小夜子の目から、一滴こぼれ落ちる。
「ありがとう」
その声に、鳴き声が応える。そして、目の前のグラスの氷がまた溶け落ちた。
突然な変化に、すぐには対応できなかった。しばらくぼうぜんとしていた彼女は、ゆっくりと現実へと立ち戻ってきた。
バーのカウンターで、グラスに指を添える自分がいた。
目が覚めた、ということになるのだろうか。夢というにはあまりにも鮮やかだった。幻というにはあまりにも確かだった。それは、確かに、彼女の中に何かを残していった。
そう、残して、去った。
七峰の姿がなかった。店内には、客の姿はもう小夜子一人しか残っていなかった。
そのとき、改めて気がついた。あんな男は、本当にいたのだろうか? ギャラリー竜岡の那岐さんからは元々欠席で連絡をもらっていて、代わりに花束が贈られてきたのではなかったか。なぜあの時にそう思ったのか分からないし、今はもうその顔すら思い出せなくなっている。彼自身も込みで、丸ごと夢の中だったかのようだ。
理解に苦しむところではあったが、全く不快ではなかった。いや、むしろよどみの晴れた様な、軽やかさすら感じられた。
グラスに指を添えたまま、彼女は静かに微笑んだ。
「ふむ。奥深いものだなぁ」
真夜中の路地裏で、若い男が小さな手帳になにやら書き込みながら呟いていた。
「まあ、これで彼女の絵にも味わいが、ね、っと」
そこで言葉を区切って、手帳をパタンと閉じる。そしてそのままスーツの内ポケットへとしまいこんだ。それから、足元の少し先へと目を向ける。
「あなたも、三十年とは、また長い間よく待たれましたね。最後にご挨拶されるためにとはいえ、大したものだ」
そう語りかけられた猫は、男へと鳴き声で応えた。そして振り向いて路地の向こうへと姿を消していく。
「ごきげんよう」
軽やかに言いながら、片手で簡単に敬礼する。
「さて、次の仕事は、っと」
懐中時計を取り出して、男は時間を確認する。
男とともに終わらない時間を過ごしてきた時計の、ふちがかすかにきらめいた。