きみとわたし
わたしという存在を証明するモノはなにがあるだろうかと、ふと思うときがある。
記憶?
その記憶は本当に正しいの?
誰かと一緒にいた時間?
それは自分、相手が否定してしまえば無かった事になる?
事は無いけれど、証明するモノが無ければ無かった事になるかもしれない。
そんなことはわたしはいやだと思う。
結果が大事?
過程が大事?
第三者と言う名の観測者。
わたしはワタシと言う自分を立てる為に、
他の証明、証拠を立てる。
他の幸せは自分の幸せであれば自ずと立つ事が出来るのかもしれない。
喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。
良き気持ちを持たせ持って入れれば、
存在を認められるのだろうか。
綺麗事なのは承知。
綺麗事だと言って、それを全否定してしまうのは何か寂しい。
生まれて来たのならどうせなら認められて笑顔で死にたいとわたしは思います。