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接吻

「ああ君こそは姫の中の姫なり。僕ちゃんの愛も二人分そそぐよ」

 奇人の台詞が密閉空間にこだました。

 暗渠の空気はじめじめして臭気がきつい。

 おまけに真闇。

 三歩より先に明かりは届かない。

 イシュトの脳内に、つねに〈今〉しかないこととどこか似ている。

 ランタンをかざして振り返ると、秘密の暗闇をいいことにココシュがマリー・バリーと顔と顔を突き合わせ、いちゃいちゃを通り越した行為に及びかけている。

 イシュトは手を伸ばして制止した。

「それはちょっと」

 ただのマリー・バリー人形なら何をしてもご自由だが、今それはマリー・バリーであってマリー・バリーではない。

「僕ちゃんは不満なり」

 大の大人が口を尖らせて、ぶう、とふくれた。

「いや、完遂されると俺のほうが不満どころじゃなくなるので」

 自制してくれ、と言い含めた。

 ココシュの愛する美姫、マリー・バリー人形の中に、アイナ・デリがいる。

 まさに姫の中の姫、状態なのではあるが。

「いきなり刺激が強くてアイナも困ってるよ、ほら」

 瞳の部分に埋め込んだ双つの〈結晶液〉が、不思議なきらめきを返す。

 ――〈結晶液〉。

 それは大雑把に言えば人の脳機能を液体にしたようなものだという。それ単体で脳機能の代わりをし、もしくは脳機能を拡張することもできる。アイナ・デリの頭蓋内にも同じ液が注射されているのだと聞いてイシュトはのけぞる思いがした。かつてイシュトも兄から奇妙キテレツな術を施されたが、そこまでの凶行はなかった。あの頃、兄の研究はまだまだ発展の途上だった。マリー・バリー人形に急遽埋め込んだこれも、研究室に保管してあった試作品だ。

 エイナのなかに埋め込まれている完成品は、人工神経を通して人形の身体の隅々までを動かせる。アイナ・デリの血液を材料のひとつにしてつくられた〈結晶液〉は、アイナ・デリ固有の情報を、人形の体表組織に反映させる。人形の肌は粘土のように、どんなかたちにもなるのだ。自動的に。エイナがアイナ・デリそっくりの顔をしているのはこのゆえだ。

 マリー・バリーの瞳は目としての役割を果たし、状況を把握している。

 だが、判断を外に伝える手段をこの人形は持っていない。

 イシュトは〈結晶液〉の瞳が語りかける意思表示を懸命に解読する。

 きらめきは、今のところ凪いでいる。

「アイナ・デリは罠だと言っていた。充分気をつけよう」

 予測できない事態に対して気をつける、ということも、点と点の記憶の合間に漂うイシュトには苦手なことだ。

 道連れは奇人のココシュであった。

 政治に関わらないできたアイナには駒がない。

 皇太子の護衛を借りてくる手も使えない。皇太子の周りは当然、〈敵〉の息のかかった人間で固められていたはずだからだ。クラーラ・デリの周りにも〈敵〉の剣術門下が混じっている。

 皇帝の軍隊は治安出動に出払っている。交渉している暇もなかった。

 革命学生の漏らした出入口から、アイナ・デリの確信どおりに地下道を発見できたはいいが、ここから先の行動は一か八かだ。

 しばらく歩いたところで地下道が分岐していた。

「アイナ・デリ、どっちに行けばいい?」

 不思議に揺らめく瞳のなかに、一つの流れが生まれた。

 注意深く、渦の流れる向きを読み取った。

「右手だな」

 不自由な人形のなかから力強くイシュトたちを導く〈結晶液〉。

 それは、アイナ・デリの思いの結晶であるように感じた。

 アイナ・デリの本当の意志。

 アイナ・デリは、歩きたいのだ。

 歩いて、走って、決断し、息を切らして、選択の結果に辿り着く。そこに苦しみがあっても、自らの意志で進んだ道は、達成は、人に歓喜を約束する。そういう当たり前の人生を生きたいのだ。アイナ・デリにとっての道とはすなわち、皇族として国の平和と発展に尽くすこと。

 イシュトが幼いころから叩き込まれた義務心でもあるから、よくわかる。

 そして彼女の知性は、充分以上に導き手にふさわしい。

 本当は、彼女はそうやって歩きたいのだ。守られるのではなく、守りたいのだ。

 この帝国を。

 身体がそれを許さないから、本心を押し隠してヴェル・サクルムに隠遁している。

『外の騒ぎは偽装で……』

 アイナ・デリの頭脳が見通す一連の陰謀は、こうだ。

『今日一日、軍隊に終われて逃げまわった暴徒たちは、陽動よ。彼らの一部はリンクシュトラーセの地下に掘られた地下道を通って、宮殿に肉薄し、警備の壁に阻まれて進めないはずの要所へ入り込む』

 人形の瞳を覗くたび、脳裏にアイナ・デリの凛とした指示がよみがえる。

『明日の陽が昇るまでに彼らは、軍隊の背後をついて地上へ出るわ。混乱に乗じて暴徒が市の中心部へ雪崩れ込む。暴動は手がつけられないほど膨らんで、そこへもう一つ大砲の弾が落ちるの」

 見たことがない生き生きとした表情。

 薔薇色の朱がさしはじめるアイナ・デリのおもて。

 彼女の本性は、とても激しく強い。

 心を捉えて離さない瞳。

 精神の熱が込められた声。

 感情を揺さぶり、同じ熱を相手に沸かせる。

 ひれ伏したくなるのは同調せずにいられないからだ。

 彼女こそはクラーラ・デリの資質を濃く継いだ娘。

 アイナ・デリ皇女。

 帝国のアイナ・デリ。

『パンノニアの公子が皇太子を誘拐したことが、新聞に載ってひろまるのよ。警察の誰かが漏らした事実としてね』

 迷宮を照らすアイナ・デリの推理は、糸を引く黒幕の姿を今こそ、炙りだした。

『そうなればもう収拾がつかないわ。皇帝はパンノニア併合を諦めるしかなくなる。世論の沸騰をしずめるために、改革派に政策の多くを譲るしかなくなる……。これら全てが、オルブリッヒの書いた筋書きなのよ。革命学生の背後にいるのは彼だわ。オルブリッヒは、保守の皮をかぶっていただけよ』

『地下道の存在を告発したらどうかな』

 皇帝にさえ隠して、リンクシュトラーセ建設以上の用途に国庫の予算を使ったとすれば、それは横領以外のなにものでもない。なんとなればヴィルヘルム・クリンガーを国家反逆罪にも問える。

『ヴィルヘルム・クリンガーを潰すと、保守が力を失いすぎてしまうの。だからそれはだめよ。ヴィルヘルムがどういう考えで地下道を掘ったのかはわからないけれど、保守派は保守派で、オルブリッヒと同じような使い道を想定していたのかもしれないわね』

 だから私たちもまた、秘密裏に、そして確実に動かなければならないわ。

『ソーヴァたちを見つけ出して保護するのよ』

 アイナ・デリの決意が響く。

『侵入の阻止もだな』

 とイシュトが付け足すと、アイナ・デリは即座に否定した。

『いいえ。一つの作戦に二つの目的を持たせることは厳禁よ。戦の鉄則だわ。そちらは無視してちょうだい』

 アイナ・デリはきっぱりとそう命じた。

 為政者の顔つきにイシュトは気圧されるばかりだった。

『皇太子の身にさえ何も起きていなければ、世論は爆発まではしない……と、思うわ。人々の意識は読めない部分もあるけれど、少なくとも彼らの計画を崩せるわ。──なにもあなたを信頼できないからじゃないわ』

 引け目がイシュトの顔に出ていたのか、彼女は微笑んでそれも否定した。

『わかったよ』

『だけど絶対にソーヴァを助けてね』

『わかった』

 ――〈結晶液〉に封じられたアイナ・デリが導くのは、帝都を廻る暗渠の円環。

 歩くというよりも、闇を泳ぐ感覚だった。

 闇は濃くなったり、通気口近くではリンクシュトラーセに灯る街灯の明かりがほのかに届く場所もある。あとで記憶を掘り起こしたとしても、思い出すのは地下道のかたちではなくて、連続するその濃淡の記憶だろう。

 地図を見ただけで軍隊の配置と弱点を見抜けるアイナ・デリの高い分析能力にイシュトは舌を巻くばかりで。

 彼女の知性に影響を与えたのは、あるいはオルブリッヒ・クリンガーだったのだろうか。

「ココシュ、足で計った感じ、二十四番通りの入り口からどのくらいのところにきてる?」

 宮殿を中心にした放射状の通りは時計回りに順々大きくなる数字がつけられている。 

「一区画ごとに愛の深まる逃避行。君との愛は第三段階」

 地元人であるココシュの勘を、アイナ・デリは少ない手駒からイシュトに預けた。

「つまり二十六番通りか。シュニッツアー邸の真下あたり?」

 シュニッツアー事件の真相は、やはりアデーレによるストクレー謀殺だ。アデーレは商売上の遺恨をきっかけにした決闘による夫の敗北死への復讐を心に秘め、ストクレーへ秘密の使いをやってわざと誘惑し、邸へおびき出した。ストクレーはアデーレに教えられた通り、リンクシュトラーセ地下の通路を通ってシュニッツアー邸に忍び込んだ。爆破は凶行のすべてが終えられたあと、アデーレの自作自演だ。

 地下道がなぜシュニッツアー邸へ通じるのかは、死んだシュニッツアー氏へ問い質すか、地下道の存在を隠蔽しようと動いていたクリンガーを捕まえてみない限り真相はわかるまい。推理で語れば、シュニッツアー氏はクリンガーの協力者として地下道への出入口を提供していた、というところだ。

 同じ図式が、エバ・ワグネル事件にも当てはまる……。

「水音?」

 どこかで、壁をつたって滴り落ちるような流れの音がしている。湿った匂いも強くなってくる。

「下水は別に整備されているはずだよな……」

 進むうち、水の音は遠ざかった。

 だが。

「――? 何か聞こえないか?」

 ぶつぶつとマリー・バリーへの愛の詩が溢れるままに止まらないココシュへ制止の手をかざす。

 ふたたび耳を澄ませた。

 かすかに響く。苦しげに繰り返される荒い呼吸の音。どこから?

 足音に気をつけながら、イシュトは壁にそって次の角へ進んだ。曲がり角の手前で壁際に身を寄せ、慎重に向こうを覗く。

 誰もいない。

 音も止んでいた。

(誰かが待ち伏せを……?)

 待ち伏せはあり得なくない。だが、息を切らしていたのはどうして?

 右手の壁に格子の鉄扉が見えた。

「覚悟……!」 

 背後から飛びかかられたイシュトの反応が遅れる。

 ドガ、と壁に叩きつけられたのは、イシュトではなかった。斬りかかってきたはずの敵が、勝手に腰砕けて地面に伏す。巻き添えを食いかけてたたらを踏んだイシュトが振り返ると、ランタンの光の中に仁王立ちのマリー・バリーが照らし出される。

 その細首に腕を絡めて背後から、愛人の頬に口づけするココシュ。

「僕ちゃんのマリーは、強い女だよ」

 うめく敵に目をやってイシュトはぎょっとした。

 闇の中でも華麗に輝く金髪に見覚えがあり、脳裏で記憶の数珠玉がずるずるとつながっていく。

「ハインリヒ!」

「しー……。声を立てないでくれ……。見つかってしまう……」

 と言いながらこらえられずに自分がうめいている。うめきながらもハインリヒは気丈に顔を上げて注意の仕草をしてみせた。

「私兵が沢山いるんだ。たぶん、クリンガーの剣の弟子たちだ……」

「どうして君がここに?!」

 打ったところが痛いのか、訊かれたことが痛いのかハインリヒは顔を歪めて、

「エイナが彼らに攫われた……」

「何だって」

「僕の前で……。ああ、僕はなんて情けない……」

 絞り出す声で言うと、ハインリヒは両手で顔を覆って嘆きのうめきを上げはじめる。

「情けなくはない。ここへ追ってきたんだろう。たった一人で」

 イシュトは手を貸してハインリヒを立たせた。

「見つかって追われていたのか?」

「ああ……巻いたと思うけど……」

「君は剣は得意なのか?」

 落とした護身用短剣を拾うハインリヒが、すると恨めしげに笑った。

「今の攻撃を受けてわかるだろう……」

 不敵に仁王立つマリー・バリー人形を、二人そろって振り返った。

「ちなみに、俺には訊くなよ」

「攻撃してみてわかったよ……」

 公子たちは情けなく肩をすくめあう。

「とにかくまとまって行こう。──これを」

 歩き出しながらイシュトは書付綴りをハインリヒへ預けた。

 ハインリヒがエイナを探しに出てから新たに起きた事のあらましは、全部そこに書いてある。

 読み進んだハインリヒが意を得たように呟く。

「そうだよ……やっぱりクリンガーの手下だ……」

「剣の筋から見抜くなんて、そこはさすがアイナ・デリの幼なじみだよな」

「それほどでもないよ……」

 真面目にハインリヒは照れていた。

「ねえココシュ、アイナの身体は僕に運ばせてくれないかな……君の扱いは乱暴だよ……」

「いやだね僕ちゃんは」

 ぷいと躱すココシュの変則的な身のこなしにハインリヒの手は空振りするばかり。

「アイナを武器にするなんて……」

「頼もしいんじゃないか? いろんな意味で」

 するとハインリヒが意味深長な視線をじっとイシュトの顔によこした。

「何?」

「いや、何でもない……。これ……、これはさしずめ君の武器だな……」

 気を取り直したようにイシュトの書付綴りを返してよこした。戻ってきたそれは、イシュトにとって定位置の右腕に抱えているとやはり何となし安心できるものなのだった。武器であり防具でもある。

 仕方なくハインリヒは、ココシュがアイナ・デリから授けられた銃と軍用剣を代わりに携帯することとなった。

「僕は彼らのあとを着けてきて、三番通りの入口から地下道へ入った。二十七番通り付近まで進んだところで見張りに見つかったんだ……」

「そこに監禁場所があるらしいな」

 イシュトは今更だがハインリヒの公爵子息という立場を慮る。自分のそれは忘れたふりで。

「せっかく巻いてきたばかりで、また敵の陣地に突っ込んでいくことになるけど?」

「何度でも行くよ……。エイナがそこにいるんだ」

 弱いものの命を奪うことが嫌いで狩猟もしないというハインリヒが、フリントロック銃の薬室に慣れぬ手つきで火薬をそそぐ。

「エイナをどこで見つけたんだ?」

「エイナはカフェ・ニヒリズムで僕を待っていた……。エイナが僕を待ってる……。急ごう……」

 青年たちと一人の奇人と人形は、あえて闇への恐怖を忘れて闇の中へと踏み入った。



         □


 銃声。

 ひゅんという風切り音が耳をかすめた。

「マリー!」

 人形の胸に黒焦げた穴が開いた。

 人のものとも思えない絶叫が地下道に響き渡る。

 倒れた人形を掻き抱いて号泣をはじめる男。

 この光景には、撃った敵たちのほうがむしろ面食らったように、顔を見合わせた。

「――ッ」

 その隙をついてイシュトは剣を抜きはらい突進する。

 体当たりで一人、振るった剣先はもう一人の顎下を一閃した。喉元を押さえて後ずさる兵士の背後から、銃口がイシュトを捉える。

「ッ」

 イシュトに向けられていた銃が天井へすっ飛んでいく。鞘付きの剣の重さに逆に振り回されながらハインリヒが現れる。得物をかっ飛ばされた兵士にすかさずイシュトが突進をかけた。素人すぎる攻撃に翻弄される兵士たち。

 ――闇の奥で不吉に艶めかしい二つの銀色が閃いた。

 ダ! ダ! と立て続けに衝撃がくる。瞬間的に後方の石壁へ肩と頭を叩きつけられたイシュトは、目の前に散らばる星を数えてうめいた。体勢を取り戻そうとして、愕然とする。壁から身体が離れない。細身の剣が、イシュトの剣帯の金具のごく僅かな隙間をつらぬいて壁へ縫い留めていた。

(まさか偶然だろ、そこまで精密な投擲ができるはずは……)

 だが、反対側の壁に見えるのはやはり標本の虫状態のハインリヒであった。

 止め針を抜くだけの時間を敵は与えてくれなかった。

 剣士が二人、躍り出た。

「ハインリヒ!」

 上段の一閃をイシュトの剣はしゃにむに受け止める。錬者の振るう重い刃にたちまち腕が痺れた。背筋に力を入れられず、呆気なくイシュトの剣が飛ばされる。

 釘付けられた獲物はなぶり殺しの権利者をぞっとして仰いだ。クリンガーの私兵――個性を消すごとく目深に被った制帽は忠誠のしるしか。

 相手は余裕しゃくしゃくと距離をとり、シュヴァイツ剣術の正式な構えを見せつけた。

 見事に鏡像をなしているハインリヒの状況を見ながら、羞恥を押し殺してイシュトは確認した。

「ガラじゃないけど、エステルライヒ帝国のために一応は訊いておくけど、俺が誰だか、知ってるか? 向こうのハインリヒだって、傷物にしたらいろいろ面倒なことになるような人物だと思うけど」

「――アイナ・デリ皇女の手足はもぎとれ、と命じられている」

 何もかも織り込み済みだ。

――これは罠よ

 アイナ・デリだってそう言っていた。

(何を、目的にした、罠だ……?)

「パンノニアの剣技を見せてもらおうと思ったが、なまくら公子とはな」

 目に留まらぬ速さで喉元に刃を滑らせて、獲物の頸をもっと仰向かせる。

「頭を吹っ飛ばせば、面倒は多少減じるからな」

 鋼の刃に代わって、兵士の持ち替えたフリントロック銃の冷たい銃口が首筋を抉った。

 ──パァン!

 頭蓋が破裂したような衝撃を受けた。

「パァン! パァン!」

 ――衝撃を受けた。間の抜けた口真似に対して。

 飛来したマリー・バリーのかかとに後頭部を直撃され、兵士は身体を折った。兵士の頭がイシュトの蹴り上げた靴先で跳ねる。地面にその横面を踏みつけながら、標本針のような憎らしい短剣をイシュトは壁から引き抜いた。

「僕ちゃんのマリーは不死身だ!」

 地下道の真ん中に仁王立つマリー・バリー。その靴先にぬかずくココシュ。傍らには、長作りな真珠の首飾りに首を絞められたもう一人の兵士がぶらさがり、ハインリヒから銃を向けられている。不死身のマリー・バリーはさながら野蛮人の狩猟道具のような回転をしてみせ、遠心力で兵士二人を見事に倒したのであった。

「こっちに余裕はないんだ、すまない」

 一声かけて兵士の肩口に突き立てたイシュトの小剣が、肉をつらぬき石畳の隙間に刺さった。ぐおっ、と兵士の身体が跳ねる。

 もう一人の兵士は、盾であり人質だ。

「案内しろ。ソーヴァ皇太子がおられる場所にだ。……いるんだろう、オルブリッヒ・クリンガー」

 闇の奥にイシュトは視線をやった。

「言葉と目に映るもの以外にも記憶を喚起する要因がある。味覚と、……匂いだ。オルブリッヒ・クリンガー。そこにいるのはわかってる」

 黒衣の長身が歩いてくる。

 オルブリッヒ・クリンガーが、闇との境に白皙を覗かせた。

「なかなかよい鼻ではないか。これは東洋の香だ」

『伽羅、梵語のカーラアグルから名前が付いた沈水香木。カーラアグルの意味は、黒――』

 博識なアイナ・デリが、イシュトたちを送り出す前に、敵の姿をそのように例えたことを、思い出す。

「あんたには趣味が多すぎるとアイナ・デリが言ってた。少しは絞ったらどうだ」

「それだけ暇を持て余しているもので」

「寝てたほうが健康にいい時間に起きてるからだ」

「悪夢ばかりには飽きた」

 オルブリッヒは淡々と無表情に語る。

「かといって、美しい夢だけみていられる春の庭に引きこもるほど私は怠惰になれない」

 彼はマリー・バリー人形の瞳を見つめた。

 そこに何が宿るか知っているように。

 人質の兵士を刃で脅すイシュトの手に脂汗が滲み出た。

(勝負は決まってる)

 数の知れない私兵を従え、自ら相当な剣の使い手でもあるオルブリッヒに面と向かってしまっては、なまくら公子と奇人と人形の一行は袋の鼠と同類だった。

「こいつの首が惜しければ、皇太子の元へ案内しろ」

 通用するほうがおかしい下手くそな交渉だった。

 それでも、進むしかない。

「構わない」

 肩をすくめる仕草とともに快諾が返る。

「ソーヴァ殿下が退屈しているころだろう。ご自分が、リンクシュトラーセの秘密の探索を望まれたのだがね」

「イシュトバーン、これは罠だよ……」

 耳元にハインリヒが囁く。

「わかってる」

 ハインリヒの育ちのいい平和主義者な眼差しが、イシュトを窺う。

「ねえ君……、ふとした何かをきっかけに記憶が甦ったら剣の達人だったなんてことは……」

「まったくない、と思うぞ」

「そうか……」

 しかし、エイナのためならハインリヒが尻尾を巻いて逃げるはずもないのであった。

「心中こそは究極の愛なり」

 奇人の夢想は、隘路の先の恍惚を思い描く。

「ダヌビウス河に浮かんだ革命学生は貴様の仕業だとアイナ・デリが言っていた」

「相変わらず飛躍した推理をなさる」

 エバ・ワグネル事件。

 地下に閉じ込められたエバの腹に宿った子は、けして彼女の父親の子などではない。

 エバの愛人はリンクシュトラーセ地下の道から忍び込んでやってきた。

 初めの出会いは偶然か。

 それともダナエの運命か。

 革命運動に身を投じた学生は、地下道を使い、日毎夜毎に帝都中を暗躍していた。ワグネル邸もまた出入口の一つだった。あるとき学生はワグネル邸の地下室で美しく謎めいた少女と出会った──。

 虐待の惨劇などではなかった。それは神秘的にはじまり、激しい情熱とともに実って育てられた若者たちの恋だった。

 ゆえに、ダナエの微笑みはやわらかな愛の幸福にみたされている。

 しかしエバはまだ知らない。

 革命運動の途中で恋に堕落した学生が、口封じのために殺されたことを。

「たやすく道を外れた浮薄な学生の口から、情報が漏れることを予防したんだ」

 地下道は牢と同じ地下階に設えられた占い師のための部屋へ通じている――アイナ・デリはそう仮定する。ワグネル氏の関知しないところでワグネル邸を地下道の出入口にした実行者は占い師だ。占い師は邸の使用人も買収していたはずだ。

 では占い師の正体は?

 おそらく占い師を使ってワグネルを成功させたのもクリンガーだ。当のワグネルも知らないうちに。知らないままに。ワグネルという傀儡の新興実業家をもって、政敵に関わりのある古参実業家を潰す――そういう目的で仕組まれた姦計だ。当時の勢力図を思い返せば、有力資本家の顔ぶれ、その入れ替わりに心当たりがあるとアイナ・デリは頷いた。

「占い師がワグネルに囁いた予言はすべてリンクシュトラーセ開発に関わる新展望だった。関係者しか知らないような予定事項も混ざっていたらしいな。そしてワグネルのしかける商売は預言者のもくろみ通りに当たり、その〈当たり〉は、噂が噂を呼んでさらにリンクシュトラーセ新開発地域の価値を高めた。開発事業責任者にとって、それは功績に金箔がきらめくような結果だ」

 目を離せばすぐ闇に溶けようとする漆黒――。

 前方のオルブリッヒ・クリンガーの背中を凝視しながら着いていく。

「だけど……占い師はなぜ、ダナエの真似事みたいな予言をしたの……?」

 ハインリヒがイシュトを見返る。

「それは──」

 アイナ・デリは何と理屈をつけていたか。

「発掘家と同じだ」

 前方から冷たく優雅な低音が返る。

「同じ?」

 オルブリッヒ・クリンガーは、発掘家の正体──彼らのような人間が持つ特殊な能力のことを、知っているのだろうか。

 イシュトはその情報力と目的を警戒した。

 現実として、エイナが誘拐されている。

 アイナ・デリの写し身、エイナ。

 この世のものならざる奇跡の人形の存在を、彼は知り、狙ってきた──。

 占い師もまた、〈発掘〉の能力を持っているとでもいうのか?

 宇宙の始まりから終わりまで、何度も繰り返される再生歴史を、透視する力……。

「芸術家とも同じだ。彼らは大きな括りで言って、みな芸術家なのだ。人と違うものが見え、またそういう者はみな自己顕示欲が強い」

『占い師はワグネルを通じて自分の価値を世間に知らしめたわ。占い師はオルブリッヒによって才能を見抜かれ、この重要な役に抜擢されたのよ。あるものを利用して流れを操り、印象を操作する……オルブリッヒは、そういうやり方を好むわ』

 占い師もまた操られたがわである。占い師は、己の言葉でワグネルの人生を操る優越に酔ったかもしれない。己の力を錯覚したかもしれない。

「学生をエバと巡り合わせたのは占い師かもしれないね……」

「だがワグネルの人生はどうなる」

 怒りをこめてイシュトはオルブリッヒ・クリンガーに問う。

「イシュトバーン公子。君はワグネルの代理人でもなんでもない」

 さて、という顔でオルブリッヒが振り返り、明かりの漏れる一室の扉を開けた。

 それは塹壕司令部のような穴倉で、扉といっても鉄格子の簡易なものだ。

「オルブリッヒ! まちくたびれたぞ!」

 小さな四角い卓に二人の人間が着いていた。照らす灯かりは燭台が二つ。部屋の四隅は闇に塗りこめられていた。

「とても不愉快だ。気色の悪い女と一緒にさせられて」

 尖らせた唇で不満を並べる小さな王様――ソーヴァ皇太子は、オルブリッヒの後ろから続いてやってきたイシュトたちを見て、特にハインリヒの姿に仇敵と鉢合わせしたような不快さを表した。

 入口に背を向けて座っているのは銀の髪の娘――。

「エイナ……っ」

 駆け寄ったハインリヒの声に彼女が振り向く。

「リッヒ――」

「無事なのかい……」

 頭のてっぺんから足の先まで全身をまさぐるハインリヒの過保護な抱擁に、はたからソーヴァ皇太子が小さな顔をしかめる。

「ソビー皇子と遊んでいただけだわ」

 卓上にはシャッハ盤が置かれ、盤上ではみるも無残な敗北と圧勝が象牙製の駒で演じられていた。

「オルブリッヒ、あなたの教えてくれた戦術には欠陥があるぞ!」

「実は私も承知しております」

「あら、戦術は悪くなかったわソビー。〝使い方〟が少しこなれていなかったけれど。でも八回戦目までくるとだいぶ進歩も見えたわよ?」

「オルブリッヒ、この無礼な偽物を皇族僭称の罪で早く警察に引き取るんだ」

「あらいやだ。そんなことをされようものなら私はオルブリッヒの御父上を国庫歳出予算横領の罪で告発してよ。宮殿の足元にこっそりと、大した迷宮を建造していたものだわ」

「リンクシュトラーセの建設に当たり、基礎を補強したのみですよ。帝都の地下に迷宮を掘ったのはクリンガーではない。これが掘られたのは少なくとも三百年前に遡る時代だ」

「なんだって……」

 ハインリヒがエイナと顔を見合わせる。

「旧市壁の下にすでにこの迷宮はあった。ここは元々、捕虜を収容する地下牢だったようだ。牢であると同時に、返還することもなかった捕虜の処理場だったらしい。工事関係者がここを発見したとき、迷宮の至るところうずたかく白骨で覆い尽くされていた」

 ぎょっとする表情を見せたのはソーヴァ皇太子だ。

「環状道路建設にあたっては、現代の技術で地下構造を補強する必要があった。埋めたてる選択肢もあったが、調査の結果、この地下道が都市の排水口の役割をして大雨時の浸水を防いでいることがわかった。埋めずにおいたのはそういうわけだ。専門家が調べれば証明できる」

 クリンガー家はリンクシュトラーセ建設の命を忠実に果たしただけ、ということになる。

 恐喝は論破された。だがエイナは他人事にように涼しい顔をしている。

「そんな気持ちの悪い場所にはこれ以上いたくない。オルブリッヒ、帰るぞ」

「殿下にはここにいていただく」

 格子扉の外から閂がかけられた。

 マリー・バリーとココシュだけが締め出しを食った。相手側はオルブリッヒと私兵が二人。イシュトが羽交い締めにする人質の兵士を入れて、向こうは四人だ。──いや。

 人質に、なったのは――。

「オルブリッヒ。私は帰る。明日の朝は聖堂礼拝があるからな」

 オルブリッヒはソーヴァ皇太子の言葉を無視して鉄格子に振り返る。

「忘れていた」

 外の兵士に命じてココシュのマリー・バリー人形を取り上げる。格子の隙間から部屋に持ち込まれた人形が、オルブリッヒの手中で不安気に〈結晶液〉を揺らめかせた。

「マリー! マリー! おのれ僕ちゃんとマリーを引き裂くか?!」

 ココシュは半狂乱になって鉄格子に取りすがった。

「偽者は無用だ」

 優雅な冷酷を崩さずにオルブリッヒは人形を何気なく床に落とした。次の瞬間、磨かれた靴がマリー・バリーの高慢な顔を踏み潰す。

 奇人の絶叫が響いた。

 顔を背けたのは優しいハインリヒだけだ。

 布張りの顔面から流れ出した二すじの液体。その色にイシュトは釘付けられる。さっきまで、眼窩のくぼみに不思議な揺らめきを見せていた〈結晶石〉が、壊れて、砕け、流れた。それは瞳であるとき固体だったが、散った姿はきらきらと光る液体だった。それは布に浸潤せず、粒となってさらさらと落ちた。

「マリー!」

 鉄の棒を手にした兵士たちが人形の関節を砕きにかかる。ハインリヒが止めに入ろうとしたが、彼の背中をエイナの手が掴んでいた。その手は震えている。

「エイナ……」

 ハインリヒはエイナの肩を抱きしめて庇った。

 人質を抱えてイシュトが前に出た。

「やめさせろ、クリンガー!」

「ただの人形だ」

 無表情にオルブリッヒはイシュトを見つめる。

「人形遊びは卒業してもらいたいのだ。この場の誰もが、アイナ・デリ皇女に対して同じことを思っていると思うが?」

 オルブリッヒは次にエイナを見つめた。

 無感情に。

「アイナ・デリに何の関係があるんだ。革命を支援するお前の目的は、パンノニア公子のせいにしてソーヴァ皇太子を……」

 繰り広げられる光景を把握できないまま目を白黒させているソーヴァ皇太子の前で、イシュトは口ごもる。

「オルブリッヒ、どういうこと?」

 やや子供じみた声でソーヴァ皇太子が訊く。

「オルブリッヒ?」

「ソビー、こっちへきて」

 エイナが立ち上がった。

「ねえ、この者たちは何がしたくて、私に間抜けな顔を見せているのだ?」

 言ったあとでソーヴァ皇太子は、燭光の届く境に初めてイシュトの脅す刃を認めたようだ。

 心底から驚いた顔でオルブリッヒとイシュトを交互に見ている。

「彼らは真実を暴きに来たらしい」

「ソビー、オルブリッヒと話してはだめ」

「煩いな、姉上の口真似をするんじゃないよ。偽者!」

 ソーヴァ皇太子が苛立った。

「ソビー、お願いだから」

 エイナが伸ばす手を避けてソーヴァ皇太子も立ち上がり、椅子の背を盾にする。

「あっちにいけ! 気色が悪いぞ!」

 ソーヴァ皇太子は小さくて贅沢な靴の留具を鳴らしてオルブリッヒのもとへ駆け寄った。ソーヴァ皇太子にとってオルブリッヒは信頼する師であった。オルブリッヒはソーヴァの元々よろしくない性状を放置して増長させた師であった。ソーヴァは傲慢で、小心で、十二の齢を数えてもまだ物事を表面的に見ることしか出来ないままであった。

「殿下、最後に一つだけ忠告申し上げよう。成長しない者もまた、本物にはなれない」

 オルブリッヒ・クリンガーの口調はいつも同じだ。相手によって、気分によって、それを変化させることはない。身分が上でも下でも、優雅で傲岸な冷たさを聞かせ、支配する。オルブリッヒはソーヴァに甘言のひとつさえ聞かせてきたわけではない。宮廷人に一目置かれるオルブリッヒがアイナ・デリから皇太子の指導に移ったという事実をとらえて、ソーヴァが勝手に幻想を抱き、自意識を肥大させただけだ。

「オルブリッヒ、最後って……?」

 オルブリッヒの態度に変化はない。

 それでもソーヴァ皇太子は、いよいよ状況の異常さに気付きはじめたようだった。

「どういうことだ!」

 不吉な金属音がソーヴァ皇太子の耳元にこすれる。

「王者は活路のない戦いを選んではいけない。だが、一つでも生き残る道が示されているならば、全知識と力を注ぎ、これを切り拓く義務がある。私があなたに捧げた剣にかけて、最後だからと無残に殺すことはしませんよ」

「何を言ってるんだ? ふざけていないで彼らを早く摘み出すんだ! オルブリッヒ……!」

「剣を抜かれよ、殿下」

 冷然と、オルブリッヒは部下に皇太子の相手となるよう指示した。

「ソビー、オルブリッヒはあなたの味方ではないわ! 逃げて!」

「エイナ……出口がないよ……」

「くそっ」

 状況を見てイシュトに生じた迷いは格好の隙になった。拘束していた兵士がイシュトの腕を振りほどく。てだれの剣士は虎視眈々と時を待っていたに過ぎない。やすやすと剣を奪われた。

 その切っ先は瞬く間、イシュトの左胸に突き立てられた。まっすぐ伸ばされた剣士の腕。シュバルツ剣術の所作は優雅であるが、追い込みの残酷さでも知られる。剣先にいなされるまま、下がれるだけ下がれる所まで後ずさる。壁がイシュトの退路を塞いだ。

 卓と椅子の倒される音がむなしく響く。視界の両端で、絶望した顔のソーヴァ皇太子と、エイナを庇うハインリヒが、シュバルツ剣術の餌食になろうとしていた。

 弄ぶように兵士が少しずつ沈めてくる剣先は、パンノニアチュニックの布地を突き通り、皮膚をきりきりと焼いた。男が柄に両手をかけた。とどめの一押しだ。


──左に三歩。背中の格子にぶつかって、落ちなさい。


 囁く声がした。

 イシュトは迷わず左に逃れた。兵士はむろんイシュトの動きにまさって先回りし、剣をふるったが、空振りだった。塗り込められた闇の隅で、石壁の削れる音を残してイシュトは消えた。

 燭台を掴んで剣士が照らし出した脱出路は、空気孔――その奥に拓けた奈落の空洞。錆びた鉄格子の破片が足元でざりざりと鳴る。

 果て知れぬ底から冷たくしめった空気が吹き上がり、蝋燭を消した。


         □


 目覚めるといつも。

 どこにいようと、朝であろうと夜であろうと。

 目が覚めるといつもイシュトバーンは真っ白な頭の中でもがく。

 ここはどこで、今はいつで、俺はそれまで何をしていて、次に何をすべきなのか。

 何もわからなくて息が苦しくなる。空白が、虚無が、脳裏を真っ白に塗りつぶして、喉の奥で悲鳴がつぶれる。

 身体に叩き込んだ習慣で頭の周りをまさぐる。分厚い紙の綴りが手に当たる。運命の恋人のようにそれを引き寄せる。飢餓民が糧を貪るように頁を繰る。そしてやっと、時の流れを把握する。イシュトバーンの時間が流れ出す。──いつもなら。

「……」

 身体中が軋んだ。痛みにこわばりながらイシュトは頭を起こした。

「……暗い」

 眠っていたわけではないらしい。意識が途切れるのと睡眠とはまったく違う。泥から這い出た泡粒のひとつであるような空白ではなく、鮮やかな焦燥を引きずりながらイシュトは起きた。

 むしろ周囲の深い闇が、まるで冬の空気の冷たさが体温を奪っていくように、記憶の余韻を消し去っていく。身についた動作で身体の周りをまさぐる。からからと乾いた硬いものが手に触れて転がるのみで、探しているものはどこにもない。

 どこにもない。

 何を探していたのだったか。

「わからない」

 ここはどこで、俺は何をしていたのか。

 何をするべきなのか。

「……寒い」

 根こそぎ熱を奪う冷気。

 時間が経っても目が慣れることはなかった。それだけ濃い闇だ。

 歩く足元はすぐにがらがらと崩れる。しばらく歩くと壁にぶつかった。

 反対側に歩くと、またしばらくして壁にぶつかった。壁に沿って歩いた。しばらくすると壁。そこからまた壁に沿い、しばらくすると壁。しばらくすると壁。しばらくすると壁。

 何も見えず、何も聴こえず、しばらく経つとイシュトバーンの頭の中から目覚めてからの記憶が消えた。イシュトは崩れる足元に苦労しながら歩いた。

 しばらくすると壁にぶつかった。

 反対側に歩いた。またしばらくして壁にぶつかった。壁に沿って歩く。しばらくすると壁。しばらくすると壁。しばらくすると壁。しばらくすると壁。

 何も見えず、何も聴こえない。

「……暗い」

 とイシュトは呟いた。

「……寒い」

 足元で固くてもろい乾いた球体が砕けた。崩れやすく歩きにくい場所だった。

 しばらく歩くと壁にぶつかった。

「ねえ、お前、いつまでそれをやっているつもりなの」

 他人の声がした。イシュトははっと闇を見回す。

 記憶が一つ、呼び覚まされた。

「兄上?」

 パチン、と弾ける音とともに淡く青白い明かりが灯った。

 ぼう、と浮き上がる白衣。

 しなやかな緋色の髪をひとまとめにして左肩から垂らした、美しい女性が姿を表す。だいぶ上方から見下ろされていた。壁の途中に腰かけるようにして、悠々と煙管をふかしていた。組んだ脚の角度が艶めかしく危なげでイシュトは慌てて目を背ける。

「……じゃなかった、女性でしたか、こんなところに??」

「何、知っていてとぼけているのじゃなかったの? 私の正体について」

「……正体?」

 どっさ、と足元に重たいかたまりが落ちた。

 拾い上げたそれは、イシュトの防具で武器である〈書付綴り〉。

「三百三十五頁、六百九十頁、読んでご覧よ」

 青白く光る光源が、ぼとん、と落とされる。

 言われたとおりにイシュトは頁をひらく。



〝昼過ぎ、剣術の稽古から部屋に戻る途中、ラースローが兄上の女装癖の噂をしながら通った。俺は見たことがないが、たいそうな美人らしい。

 ところで今日も剣術の勘の記憶は戻らなかった。十歳のあの日の以前はとても才能に恵まれていた俺のはずなのに。ちくしょう、返す返すもあの悪魔──兄上め。なにが〈発掘家〉だよ! 〟 


〝グストーは〈発掘家〉を女だと信じているらしい。三百三十五頁に書いてあるとおり、兄上には女装癖があるとの噂だったから、アイナ・デリ皇女が庇護、重用している発掘家は兄上だろう。俺は兄上の女装を一度も見たことがない。会っても兄上だとわからないかもしれない。

 女好きのグストーにして〈発掘家〉には(たいそうな美人なのに)不思議と食指をそそられないらしい。〟 



 そうだ。

 言われてみれば。

 イシュトの兄は昔から、中性的なところがあって。

 最後に姿を見かけたのはイシュトが十二のとき──三百三十六頁に記録された日の前後だったと思う。相変わらず疎遠な兄弟だった。まともに顔を見つめて会話した記憶なんて、それこそ木の上で取引を交わしたあの日ぐらいのもので。

 最後に見かけたときはだいぶ痩せこけていた。

 とりつかれたように何事か呟きながら森の方に歩いていく姿を城の廊下の窓から見た。

 そのうち兄は、パンノニアから消えた。

 今では青年期も半ばを過ぎて、兄の顔はだいぶ変わっているだろう上に、女装までされては。

「何のつもりで……」

「この恰好のこと?」

「違う。そんなことどうでもいい。俺は……」

 イシュトは唇を噛みしめる。

 イシュトは武器で防具である〈書付綴り〉を閉じて、捨てた。

「俺は」

 イシュトの記憶と忘却の仕組みには、法則がある。複雑で、無秩序なようでいて、ただこれだけは確かといえる法則が。

 繰り返し引きずり出しては新しい珠をつなげつづけた記憶ほど、思い出しやすい。

 それは、たいてい、自分自身に深く関わること。

「パンノニアを逃げてきたのかもしれない。でももう一つ、目的はあった。兄上に、どうしても訊きたいことがあったんだ。あんたは、どうしてパンノニアから出ていったんだ」

 闇に腰かけた兄の姿は、透明な枝に止まっていたあのときの彼と重なった。

 不思議そうな面持ちで、弟の真剣さを見つめていた。 

 堕ちろ、と人に囁いては、何食わぬ顔であとの始末を観察している彼――いつも彼はそうだ。

 だが。

(人の心の中は、目には見えない)

「父上は慣例通り後継ぎをあんたに決めていたのに、あんたは城に居つかないまま、ついにはパンノニアからいなくなった。出ていくならちゃんと言い残してくれればよかったんだ。継ぐ気があるのか、ないのか。俺はいつまでも中途半端でいなきゃならなかった。記憶障害のことで公人として使い物にならなくなってから、持ち上げる連中はいなくなったけど、あんたが逃げ回っていつまでも態度をはっきりさせない限り、いざというときの代用品として中途半端にぶらぶらしていなきゃならなかった」

 兄を仰いで発する言葉は、だんだんと恨み言の色を帯びていった。

 兄は相変わらず傍観者めいた表情で耳を傾けるだけだ。

「いなくなって五年も過ぎたら、父上だって腹を決めるしかない。来年には俺の次期大公指名が発表される」

「めでたいじゃないの」

「何がめでたいんだよ!」

「何がめでたくないの?」

 イシュトは頭を抱えたくなる。

「俺みたいなのが、サポヤイ家を継いだって」

「どうせパンノニアは〈大きな政治〉を帝国に丸投げするんでしょう、これからは? そう怖気づくような地位でもなくなるじゃないの。もうちょっと力抜いたらどうなの」

 帝国に併合されれば、パンノニア公国は外交の自立性を失う。ほかの統治権、裁量権は併合協議次第だが、帝国領内でパンノニア民族全体の地位が向上するのと引き換えに、大公個人の決断の自由度は減じるだろう。以後のパンノニア公は、中間的な調整役に徹することになる。

「だったらあんたが戻ってこいよ」

「それはお断り」

「どうして」

 兄はにやにやと笑っていた。優雅に目じりを和ませて。

 手ごたえのない兄の、お得意の、とぼけた風情だ。その兄をイシュトはぎりぎりと睨みつける。躱されたくなかった。

 どうして出ていったんだ。

 いちばん訊きたかったことだ。

 それを確かめるために、イシュトはパンノニアを出てきた。

「あんたは、俺にしたことを、実は気にしてるんじゃないかって、俺は思ってた」

 イシュトバーンの頭の中をめちゃくちゃにしたこと。取り返せない障害を負わせたこと。イシュトバーンのまともな未来を奪ったこと。

 ――本人たちが望むと望まざるとに関わらず、競争者であった弟公子の、未来を。

「だから、俺に大公位を明け渡すつもりで、パンノニアから消えたんじゃないかって」

 宙ぶらりんな立場に置かれた五年間、イシュトは周囲が向けてくる期待と失望の圧迫感の中で悶々とそのことばかりを考えつづけた。

 逃避口としての疑いでもあった。

 もし兄公子が、イシュトバーンへの負い目に潰されて故国を捨てたなら……。

 誤解さえ解けば、イシュトはこの閉塞から開放されるだろうか。

「でも帝都へ来て考えが揺らいだよ。だってあんたは、まだ性懲りもなく研究をつづけてる。輪をかけて大胆に発掘を進めて、あんなものを造ってる。人の記憶を移した、本物みたいな人形を造ってた。おそれおおくも帝国皇女を誑かして」

 呆れた気持ちがよみがえって、イシュトは言葉の継ぎ目に息を乱した。

「ぜんぜん反省なんかしてないじゃないか」

 イシュトが一人で悩んでいたことは、まったくの虚像――幻の問題だったのか。

「誰にでも馬鹿をやる自由はある。でもねえ、馬鹿をやる人はただの馬鹿」

 イシュトは怪訝に首を傾げた。

「ということは、お前も私もそれぞれ自由な馬鹿。わかっているくせに、いまさら絡まないでほしいものよねえ」

「……」

 絡みに来たわけじゃない。

 上目に兄を見据えながらイシュトは戸惑い、拳を握る。

「私がいつ、お前に施術を強要したというのかしら」

 イシュトは首を振った。

 兄は強要などしていない。忘却の術を望んだのはイシュトだ。危険性の説明が多少足りなかったからといって、そもそも最初から兄の関わる怪しげな術に絶対の信頼など置いていない。

 それでも未経験の領域へ踏み入ろうとしたのはイシュトだ。

 空の近くの枝へ逃げのぼったのと同じように。

 現実から逃避したのはイシュトだ。

 イシュトの選択だ。

「わかってるよ。でも……」

「着いたその日に終わった話のようね」

 そう言われてしまうと、その通りだ。

 イシュトの気がかりは、取り越し苦労そのものだった。

「まあでも、お前に対して少しもすまない思いがなかったわけじゃないわよ。公子の荷物を放り出してパンノニアを出たときからは、ねえ」

 珍しく殊勝な内容の言葉が聞こえて、顔を上げた。

「でも、それもやっぱり、お前が帝都に着いたその日にぱったり消えて終わった話。私のすることって、よかれあしかれ歴史を動かしてしまうのだわね」

 宙から意味深なにやにや笑いが降りそそぐ。

「どういうことだよ?」

「やだー。とぼけちゃって。この皇女たらしが」

「はあ? どういうことだよ」

 兄はやれやれと仕草でイシュトを虚仮にした。

 十歳のときとまるで同じだ。まともに相手にしても疲れるだけという気がしてきた。

「こんな暗い寒いごちゃごちゃした場所でするような話じゃないな……」

 イシュトは対話の意欲を失ってその場にしゃがんだ。

 靴の底でまた固い塊が崩れた。

 淡い光に、拾った塊を翳してみる。かさかさと乾いた棒切れだ。元は白かった骨が、年月に晒されて黄ばんだ、ような……。

「人骨?!」

 慌てて飛びのく。

 だが、避けても避けても足の踏み場はない。

 至る所が遺骨の山だった。打ち棄てられ、吹き溜まった無念の抜け殻たち。封印された歴史の闇の底で、なすすべなく渇ききった彼ら。

 思い出した。

 ここは、捕虜となり、密かに始末された哀れな未帰還者の墓場だ。

 ここは──。

「リンクシュトラーセの地下。俺たちは──」

 オルブリッヒ・クリンガーの罠に嵌まって、絶体絶命の瞬間ここへ落とされた。

「皆は──」

 思い出したとたん、絶望がイシュトを襲う。新鮮な絶望が頭の中を染めていく。あのまま、みなクリンガーの刃の露とされたのだろうか。

 まだ助けに行ける時間だろうか。

 ここから出られるのだろうか。

「発掘家」

 あえて、その〈通り名〉で彼を呼んだ。

「あのあと、どうなった?」

「さあ、私もお前とともに逃げて落ちてみたから、知らないねえ」

「無責任だな!」

「だって死にたくなんかないもの。やつらに捕まっちゃったのは不覚だったわ。狭い部屋の中やっとで隠れていたところ、弟が死にそうになっていたから、しょうがない、危険をおかして活路を教えてやったじゃないの」

「俺が死んだら無理にでも父上に連れ戻されるからだろ!」

「そう、そう。当たり」

 イシュトは発掘家から目を離して天井を仰ぐ。どこまで深い穴倉なのか想像がつかない。どうやらイシュトはほどよく劣化した遺骨の積み重なりの山に落下して、一命を得たらしい。死者に救われるとは。

 跪いて鎮魂を祈る。

「俺もここから出られないとすると、どうあれそのうちお仲間だけど……」

 ふとひっかかることがあり、頭上を見やる。

「死にたくないってなんだよ。昔と言うことが違うじゃないか」

 その昔、兄は言った。〈人生は繰り返される〉と。だからいちいち人の死を悲しむな、と言わんばかりだった。

 すると愛煙家な発掘家は、紫煙の向こうでふふんと笑った。

 「細かいことを思い出すわねえ」と呟いて、丁寧に化粧した両瞳を細める。

「お祖母さまに言われたのよ。その言葉を、自分の人生をあきらめる言い訳に使ってはいけないと」

 意外すぎる告白に、イシュトは目をひらく。

 兄のその口からエメシェ公太妃との思い出が語られようとは思わなかった。

「この人生を目一杯生きなさい。この人生をやり尽くした人だけが、次の人生でまた新しいことを始められるから」

 お祖母様が、そう言ったのだと。

(……だから)

 だから兄は、パンノニアを旅立ったのか。

 自分の才能を、諦めることなく突き詰めるために。

 この世界で、この世界の彼に与えられた研究を、やりつくすために。

「そうか……」

 兄らしい、と思う。

『人生は繰り返される。あの人もこの人も、何度目かわからない人生をここで過ごして、また再びいつか復活するのだよ』

 きっと兄は、不治の病床にあったエメシェ公太妃にその言葉を聞かせたのだったろう。

 旅立つ人は、再生の希望とともにこの世界を離れ、残る若者にこの世界を生きるための力を預けた。そういう思い出が兄と祖母とのあいだにあったのなら、イシュトの経験にも記憶とは違った意味合いが浮かび上がってくる。木の上で泣いていた少年は、単に狂科学者の実験に目をつけられて利用されたわけではなかったのかもしれない。

 記憶とは、かくも真実と虚構の境の曖昧なものだ。

 憶えていても、いなくても、結局は。

「……憶えておくよ」

 噛みしめるように、イシュトは言った。

 発掘家がくゆらす煙管から立ち昇る紫煙のゆくさきをイシュトの視線は追った。

 空気の流れがある。

 上方へと吸い上げられる流れが。

「上に開口部があるのか」

 青白く発光する球体を掴んで掲げ、頭上を充たす果て知れぬ闇をじっと見つめた。首が痛くなるまで。

 光の届く範囲には、開口部や壁の凹凸は見つからない。

「壁のぐるりにも出入口はないわよ」

「あれからどのくらい経ってる?」

 発掘家の答えを聞くより先に、イシュトは人差し指を、しい、と立てた。

 音が聴こえる──。

「……聴こえないか?」

 壁の止り木で発掘家は瞳を閉じた。

 組んだ脚をぶらつかせる。

「音楽かしら」

 そう、音楽だ。

「惑星交響曲」

 マリー・バリーの亡夫である大作曲家の遺作。

 帝都の夜には、日替わりで〈月〉から〈土〉の惑星が昇るといわれた。

 いずれかの楽堂ではかならず〈惑星交響曲〉のどれかがかかっているという意味だ。

 流行の衰えない不朽なる名作。

 だんだんと音が鮮明になる。まるで音源が近づいてでもいるように。

 そして。

「変わった。音楽が」

 こんど鳴りはじめたそれは……。

「パンノニア舞踏曲(チャルダッシュ)──」

 音響がさらに迫る。遺骨の山からいくつか髑髏が転がり落ちた。一定の間隔で、地面がズズ、ズズ、と震えているのだ。

 暗い天井を凝視しながらイシュトは、もはや一つ一つの音が鮮やかに聴こえるようになった音楽を浴びていた。

「おーい! おーい! ここにいる! おーい!」

 月の光のように淡い一条の明かりが、遥かなてっぺんから差し込んだ。

 光の中に、ぬっ、と覗いた巨大な瞳。いったん離れて、そのさい開口部をよぎったのは高慢に口角の上がった美しい赤い唇。

「マリー・バリー……?」

 ふたたび闇が戻り、ずりずりと音を立てて何かが迫ってくる。

 球形にたゆんだ〝天井〟が、ずりずりと落ちてきた。

 イシュトの目の前で、五弁の帳がひらく。

「……」

 把握が現実に追いつかなかった。

 足元の発光球が少女の黄金に波打つ髪をしらじらと照らす。見開かれた青い瞳の中に映り込むのは驚愕するイシュト自身の姿。

「アイナ……!」

 腹心の女官ヒルデに背中を抱かれたアイナ・デリが風船人形の手のひらから、現れた。

「よ、よかったわ。あ、あなたを見つけられて。無事だ……ったのね」

 話す声が覚束ないのはアイナ・デリ自身が恐怖に目を回しているからだ。

 呆気にとられてイシュトは巨大なマリー・バリー人形の腕から肩にかけてを順に見上げた。楽器を抱えた交響楽団員が一人、一人、風船の腕のそこここに乗せられた状態で健気に音楽を奏でつづけている。丈夫そうな綱が椅子と身体とをかろうじて縛りつけ固定していた。

「彼らはマリー・バリーのつてで、呼べたの」

 乗って、とアイナ・デリはさっそく気を取り直してイシュトを招いた。

「発掘家もよ!」

「これはいったい……。宮殿からこれに乗ってきたのか?」

「そうよ」

 アイナ・デリを支える女官はさすがに半泣きである。

「いきなり無茶をする……」

「怒るの?」

 挑発するように、でもおそらく照れ隠しなのだろうとわかる強気さで。

 アイナ・デリが首を傾げる。

「いいや」

 イシュトは笑うしかなかった。

「まさか」

 でも、とイシュトは言いかけた。

「何?」

「いや……」

 イシュトはどこかで違和感を覚えていて、それを質そうとしたのだが、その理由を自分で思い出せずに、曖昧に口をつぐんだ。

 チャルダッシュが収束し、交響楽団が譜面をめくる。

「復讐に燃えたココシュが、世界を呪わんばかりの形相で戻ってきたのよ。何があったのかと思ったわ」

 ゆっくりと引き上げられた腕が、寒風吹きすさぶ夜闇にアイナ・デリたちを浮かばせる。ランタンを掲げたココシュを肩にのせ、巨大風船のマリー・バリーが奔放に笑んだ。

「夜の女王、月光を道連れに愛の旅へと。さあ、凱歌よ高らかに!」

 音の揃った交響楽団がいっそう華やかなエステルライヒ舞曲を響かせる! 帝都に咲き誇る三拍子の華!!

「ああ、僕ちゃんと踊ってくれるんだね、マリー」

〈今夜だけはね。こんなにおもしろいこと滅多にないわ。帝都があたしのモノみたいだわ〉

 狭い道路を高いかかとで縫うようにして三拍子を自由に踊る、踊る、マリー・バリー。アイナ・デリたちは悲鳴を上げかけ、やっとのことで歯を食いしばった。舌を噛むところだ。

「いつの間にこんな仕掛けを……」

 イシュトは発掘家を睨んだ。

 巨大風船人形マリー・バリーに、〈命〉を吹き込めるように細工してあったとは。

「こうなったら愉快だわ、と思ったときが科学の発展のきっかけなのだわよ」

「言ってろよ……」

 しかし兄弟喧嘩の場合じゃないと向き直る。

「言いにくいことだけど、アイナ・デリ……」

「皆が危険な目に遭ったのね?」

「ああ」

 イシュトは悄然と目を伏せる。

「すまない。俺がなまくらなせいで、ごめん。結局まんまと罠に嵌っただけで……終わった……のか?」

 大事なことを間違えてはいけないと、回収した〈書付綴り〉を繰る。その手をアイナ・デリが叩き落とした。

 はっと顔を上げるイシュト。

「探すわ」

 大きな青い瞳が語る。

 アイナ・デリの意志を。

「自分の目で見るために来たのだもの」

 マネキンのマリー・バリー人形に宿した〈結晶液〉の中のアイナ・デリの意識は、アイナ・デリから離れた時点でアイナ・デリからは独立したものだ。宮殿のヴェル・サクルムで一人待つアイナ・デリは、送り出した先の状況が全くわからないことに苛立ち、怯え、恐怖したことだろう。どんなにか不安だったろう。

 しかし今までのアイナ・デリなら、帝国に立ちこめる暗雲さえ、ヴェル・サクルムの外へ押しやって無視していた。知らない振りをすることができていた。彼女はそれを自らに課していた。でも今は違う。

 今ここにいるアイナ・デリは違う。

「ありがとう」

 イシュトはその瞳を見つめて言った。

「あなたという人は、頼りになるのだかならないのだか」

「ごめん」

「……嘘よ。正義を持てば何でも上手くいくというわけじゃないわ。わかっているわ。わかっていなければいけないことよ。現実はままならないものだってこと」

 アイナ・デリの言葉は重い。すべて彼女が生まれ持って経験してきたことだから。

 現実を見据え、彼女は冷静だった。

「けれど」

 だがその奥で、激しい闘志を燃やしていた。

「終わらせないわ。終わっていない限り」

 これこそがアイナ・デリの本質だ。

「アイナ……」

「一緒に戦って、イシュト」

 小さく痩せ細った手が伸びる。

 イシュトは救われるようにその手を握った。

「もちろん」

 何事かと路地に出てきた帝国市民たちが、一様に唖然として巨大な風船人形の歩みを見上げている。街のあちらこちらではいまだに革命家、労働者たちがバリケードの陰で抵抗をつづけている。なんとも騒々しい夜だ。


         □


 巨大な風船のこぶしが、リンクシュトラーセを叩き潰した。

「丁寧にやってね、マリー」

〈あら、爪が割れちゃったわ〉

 のんびりと爪の先を月に翳して呟いて。

 マリー・バリーは崩れた道路を人差し指と親指で剥がし取る。つけまつげでも扱うように。

「そう、オルブリッヒが、ソビーを……」

「あいつ、真っ黒だったぞ」

「真っ黒く恰好つけた姿しか見たことがないわ」

 噂をすれば影だ。

 漆黒をまとった怜悧な悪人が、露わにされた地下道の一画からマリー・バリーを見上げた。

〈あーらオルブリッヒ、お久しぶりねー〉

「ぬぬ! マリー、よもや彼奴とまでも、いつぞや懇ろになりしか」

〈男の嫉妬は見苦しくて嫌いよ、ココシュ〉

「見苦しくとも君を一途に愛するのが僕ちゃんさ」

 瓦礫の影から私兵たちが狙撃銃を構えた。

「オルブリッヒ、いま私が降りていくわ。銃を下ろして」

 手のひらのふちから、イシュトに抱かれてアイナ・デリが顔を覗かせる。その凛とした命令に、オルブリッヒが笑む。

 彼は私兵を退かせた。

「いいのか、アイナ?」

「埒があかないもの。風船を萎まされないで済むなら、マリーは大きな力になるわ」

 イシュトは地下道に差し出された手のひらから飛び降りた。

 着地の反動から腕の中でアイナ・デリがくしゃっと潰れたようになる。地下道の湿った冷たさ。奥知れぬ闇。待ち構える悪魔。

「大丈夫かい」

「ええ」

 青い瞳の中の炎はイシュトの視線さえ圧する。

 それをオルブリッヒ・クリンガーに向けるとき、アイナ・デリの全身から気迫がのぼった。

 こんなに細くて軽い身体から、けして脆くはない魂が溢れて零れる。

「どういうことです、エゴン伯」

 持って生まれた威厳で辺りを払い、アイナ・デリは皇帝の臣下を詰問した。

「この裏切りは、どういうことです」

「誰に対して?」

 意にも介さぬ冷淡さがオルブリッヒの答えだ。

「むろんソーヴァ皇太子に対して、ひいては帝国皇帝に対しての」

 オルブリッヒが闇を揺らしてかぶりを振った。

「私は貴女を裏切ってはいない」

 イシュトはオルブリッヒの視線から思わずアイナ・デリを隠したくなる。腕にこもった力を感じたのか、アイナ・デリがイシュトの肩に手をかけてそれを制止した。

「やめて」

 まっすぐとアイナ・デリの瞳は仇敵に相対する。

「私をあなたの野望の道具にするのはやめて」

 衝撃的なアイナ・デリの言葉よりも、それを受けたオルブリッヒの会心の表情にイシュトはぞっとした。

「あなたの理想を実現したいなら、ソーヴァを使っても可能なはずよ、あなたなら」

 途方もなく優雅で、冷酷なまなざしをオルブリッヒはアイナ・デリに注いでいた。

「これは野望ではなく、愛だ」

 腕の中でアイナ・デリが震える。心底から可笑しそうに。

「愛ですって。笑ってしまうわね」

「理想ではなく、現実だ。アイナ・デリ、貴女の存在が」

 合図が地下道の闇を蠢かせた。

 轡をされ、両手を後ろ手に縛られた娘が私兵によって連れてこられる。

 縄に絡んだ銀色の髪。

 瓜二つの顔。生き写しの、青い瞳。

「エイナ」

「愉悦は私のものだ。可笑しいではないか、アイナ・デリ。貴女と私は、少なくともいっとき同じ考えを抱いたはずだ。そうでなくて、こういう異形が生まれるだろうか。これは貴女が望んだ写し身だ、アイナ・デリ」

「過ぎた詮索だわ」

 勝手な推量は不快だと──、苛々とアイナ・デリが反駁する。

「彼女は私が望んだものよ。でも、あなたと趣味を同じくしたことなど一度もなくてよ。私はただ、自分の足で歩いてみたかっただけ。街を自由に歩いてみたかっただけだわ」

「血税を湯水のごとく発掘家へつぎこみ、望んだことはそれか?」

 痛撃だった。

 そこでアイナ・デリが選んだのは賢明な沈黙だ。

「むろん、違う。聡明な貴女には、ご自分の役割がはっきりと見通せていた。傾きゆく帝国を支えられる手の持ち主の名を知っていた。神に祝福された才能の持ち主だけが、神の視点を持つことができる。貴女のことだ」

 神の御心を見抜く冷徹さで、オルブリッヒは真実を暴き立てた。

「貴女は器を欲したのだ」

 身についた紳士的な仕草でエイナの背中をいざなう。

「舞台上に立つための器を」

 無造作に腕を伸ばし、人形の舌を押さえている轡を剥いだ。

「これは人ではないのだ。舌を噛んでも死ねない」

 部下の無粋な仕事を酷評する。

 つづけてオルブリッヒは、「そちらはしかし──」と、あらぬほうへ視線を流す。

 半死半生のハインリヒが引きずられてきた。

「ハインリヒ!」

 一見、服装に傷が見当たらないのは、てだれを相手に圧倒的な力の差で敗北したからだ。その内側は至る所、肉を打たれ、骨を砕かれて、ハインリヒはやわな精神を丸ごとから折られてしまった。引きずられた地面に頬を着けたまま呆然としばたたく瞳の表面を、こめかみから垂れた血が覆って膜をつくる。意識は虚ろだ。

「大事な人質だ。この男を殺すと言えば、恩のある人形は私の命令を拒めまい」

 ともに地下道へ挑んだ友人の姿にイシュトはぎりぎりと歯を食いしばる。その腕にアイナ・デリの立てる爪が食い込む。

 恐怖ではない。

 ハインリヒをあのようにした眼前の男への怒りだ。

「あなたにエイナを渡さないわ」

 揺るぎようのない意志だ。

 両者の対峙には息をつく間が一切なかった。イシュトは自分のために考える時間を、そしてアイナ・デリのために休息を欲した。

「ちょっと待ってくれ、オルブリッヒの思想は、革新だよな……? だから革命家たちの援助を……」

「いいえ、それさえも偽り。つくりごとよ。表では保守の顔をし、裏では革命に味方し、けれど本当のオルブリッヒ・クリンガーは──」

 円環の内側から、閧の声が聴こえてくる。

 革命の朝が明けようとしている。

 止まることを知らず時は流れる。

「こういう見出しを載せた号外が、もうすぐ帝都に撒かれる。

 [ソーヴァ皇太子謀殺さる。犯人はパンノニアの公子」

 情報が知れ渡ったとき、革命の波は帝国国民の爆発的な怒りの波との区別を失い、帝都は混乱に陥る。宮廷と議会は機能を失うほどに紛糾するだろう。賢帝クラーラ・デリにさえ、事態を良好に鎮める策はない。旧世代であるクラーラ・デリにはしがらみが付いてまわるからだ。現状を守ることだけを目的としたとき、取り得るいずれの策も、あとに禍根を残す悪手だ。国民の怒りに従いパンノニアとの併合策は棄てざるを得ないが、そうなれば、ソルブ人など被支配派民族の不満を抑えるすべもなく、いずれにしても議会は革新に振れる」

 オルブリッヒの口を借りて喋っているのはアイナ・デリかもしれない。あるいは逆かもしれない。両者の予言は驚くべき同調を見せている。二人は同じ知識と頭脳を共有している、政治的予知能力とでもいったものを。

 教え施して作り上げられるものではありえない、それを。

 人は、一人一人みな違うものだ。アイナ・デリが持てたエイナはとても特殊な写し身だ。

 もう一人の自分。たとえばアイナ・デリにとってのエイナは、救いだ。

 ではオルブリッヒにとってのアイナ・デリは?

「そののちは、また別の大波が寄せ返す。今度は支配階級を占めるエステルライヒ民族が黙っていない。その頃、皇室はどうか? ソーヴァ皇太子はすでになく、求心力を落として形骸化した皇室は? ──いいや、一人、唯一人、希望を託せる人物がいる」

 オルブリッヒ・クリンガーがお墨付きを与える真相は、事実がどうあれ真実となる。

「聡明にして豪傑なアイナ・デリ皇女。大波がすべての膿と懸案を押し流した混乱のあとのこの国に、あなたは最高のかたちで君臨することができよう」

 神を怖れぬ、傲慢な予言だ。

「それがあなたの愛だというの」

 アイナ・デリがぽつりと呟く。

「私は貴女を裏切らない」

 完全に閉じた環のように、オルブリッヒの言葉は傲慢であればあるほど奇妙な説得力を持って響いた。

「私は貴女以外には跪かぬ」

 胸が疼いた。

 俺の、胸が、疼いてどうする、とイシュトはオルブリッヒの端正な顔から目を離した。

「私を殺さないつもり?」

 計画には、エイナが存在すればいいだけではないか。エイナはアイナ・デリの記憶を持ち、アイナ・デリと同じ考え方ができ、そのうえに若々しい年相応の体力を備えている。

 エイナだけで充分のはずだ。

「私の邸に居場所をご用意しようと考えている」

「アイナ・デリを蒐集するつもりかしら」

 彼は思惑を見抜かれて嬉しそうに目を細める。

「とんだ忠誠心ね」

 オルブリッヒの忠誠とはすなわち――、

「愛とは運命だ。運命の予言するところ、あなたが帝国の行く末を見捨てることはありえない。私は貴女の命令を実行するだけだ」

 そこに嘘偽りはない。傲慢すぎるほどの愛は、信仰に似ていた。

「何でも言うことを聞けるというの」

 オルブリッヒはアイナ・デリの前に跪いた。

 優雅に。

 闇を凝らせたような外套を翻し――。

「私は貴女だけの臣下だと申し上げた。何なりと」

 忠誠の儀式を目前にしながら、イシュトは戦いのさなかに放り出されたような気持ちを味わう。

「これを」

 アイナ・デリが、その懐から小さな手で取り出したもの。

「飲みなさい。オルブリッヒ」

 美しい硝子の小壜。

 それを捉えるいっとき、オルブリッヒの視線は、鋭く尖った。

 口の端に、意味を窺わせない微笑を刻む。

「ア……」

 声を失ったのはイシュトだ。

 アイナ・デリの瞳の力を間近にしては、とても止めに入ることができなかった。

 それはイシュトに許されていなかった。

「承知」

 と、オルブリッヒが言った。表情は勝ち誇った自信家のそれのまま。冷たい眼の奥に隠された心酔の情熱で、オルブリッヒはアイナ・デリの手から小壜を拝領する。

 得がたい賜物であるかのように。

「……」

 イシュトは最後の瞬間まで迷った。

 止めるべきか否か。

 イシュトは逡巡した。

 何が最善かはわかっている。オルブリッヒは敵だ。……だが、心の隅に困惑がある。

 理由はわからない。

 思い出せない──。

「帝国の聖なる春に」

 オルブリッヒが小壜をあおった。

 夜明け前のつかの間、闇が深くなる刻。

「ただの水だわ」

 そう。何事も起こりはしなかった。オルブリッヒもアイナ・デリも、平然と相手を見つめあっている。

 短くて長い一瞬が過ぎ去った。

「あなたの忠誠を信じることにします、オルブリッヒ。私はあなたの予言の通りには動かない。全力を以ってこれを阻止してみせる。受け入れなさい」

 両者のあいだで、勝負はいつの間にか終わっていた。イシュトの計り知れないところで。それは神と悪魔が予言の成就か阻止かを競うようにして、遠回りに重ねられた賭け。

 オルブリッヒという神の予言は、アイナ・デリという悪魔によって覆されたが、その予言はアイナ・デリを神にする企みである。アイナ・デリはそれを覆すことで神の座に立った。予言は成就している。巡る環の中で。

「承知した」

 こんなに不敵な恭順の表情を、イシュトは見たことがない。

 勝負は着いたらしいが、オルブリッヒには疑問がありそうだ。

「この場の撤収については承知した。だが、すでに止めようのない流れそのものはどうする」

 アイナ・デリがふふんと笑ってみせる。

「あなたはソーヴァの師への心酔を甘く見ていたのじゃなくて?」

 崩れたリンクシュトラーセのふちで、白みかける空を背に、鳥が羽ばたいた。

「素直じゃない子だから、けして表には出さないけれど、最終的に師と互角になれる日を夢見て鍛錬していたはずよ」

 頭上から細かな破片が降り、足元にパラパラと音をたてた。仰いだ場所に、逆光の人影が、地下道を覗いている。小さな人間の影だ。

「私とのシャッハだってそうだったもの」

「姉……上?」

 小さな顔を出して下を覗く人影が、驚く声を落としてよこした。

 腕の中で身じろぎしてアイナ・デリは誰より早く弟の生還を祝った。

「よく逃げ延びたわ、ソーヴァ。褒めてあげる」

「な……」

「生き残ることだけが王の仕事ではないけれど、王になるのは生き残った者なのよ」

「え、……え、偉そうな口を閉じてください姉上っ。粉塵で窒息しても放って逃げますよっ。しかも、そのように情けない格好でお出ましになるなど、皇室の品位を考えてくれないかなあ!」

 素直ではない弟のわめき声は放っておいて。

 アイナ・デリは再び彼に向き直る。

「今頃は二十六区分署のホフマン署長が、捜査報告と称してクリンガー邸へお邪魔しているわ。いいえもう帰ったわね。首尾がよければ邸の地下に忍び込んで、革命家に提供されていた作戦室を見つけるでしょう。今夜の行動図面が手に入ったら、それを軍に持っていくよう言ってあるの」

 閧の声と聞こえていたものは、地下道から警備網の内側に出ようとした革命家たちが一絡げに捕まった騒ぎの声だったのだ。

「何社か新聞社が潰れるかもしれないわ。まあ、すぐ名前を変えて出直すのでしょう。明日、売上を伸ばすのは──」

 地響きが近づく。帝都を〈太陽〉の音楽によって目覚めさせるマリー・バリーの歩行。

「巨大な人型飛行船の目撃談が載ったそれでしょう」

 アイナ・デリは一息の言葉を発するために、大きく息を吸った。

「オルブリッヒ。もう一つ。最後に一つ命じます」

 オルブリッヒが余興を待つように、首をかたむける。

「帝国から去りなさい。二度と戻ってこないで」

 皇女アイナ・デリの一の臣下は、片腕を広げ、優雅に命令を承った。

 ひとかけらの気持ちも残さずに、オルブリッヒは漆黒の外套を翻す。まして、最初から期待を外れた駒のことなどは一目たりと顧みない。……闇の奥へと消えるオルブリッヒを、ソーヴァ皇太子が憎しみの眼で睨んでいる。

 遠ざかる足音は、終息の調べだ。

 破壊の残骸を照らし、朝の陽が昇った。



【接吻】



 ほっと深い息をつきながら、アイナはイシュトの胸に小さな顔をうずめた。

「疲れたかい」

「疲れたと言ったらきっと疲れてしまうわ」

 一瞬で別人のように弱々しくやつれたアイナ・デリの目つきに、イシュトは改めてそれまでの緊張を知る。

「帰りましょうか。……イシュト、どうしたの」

「……いや、何でもない」 

 緊張の記憶を辿りながら、ふと首をひねったのは、何かに引っかかりを覚えたからだ。ごくごく小さな違和感が、イシュトの頭の中で存在を訴えている。違和感。違和感といえば、今夜はそれが初めてではなかったような気がする。

 しかし。

 わからない。思い出せない――。

「エイナ」

 アイナが呼んだ。

 エイナはずっと同じ場所に立ち尽くしている。一言も発せず。淡々と、すべてを諦めたように出来事を眺めているだけだった。

 まるで、人形のように。

「戻って来たくないなら戻らなくてもいいのだけれど、その前に私はあなたと話を──」

 途切れた言葉にイシュトは下を向く。

「アイナ?」

 アイナの青い瞳が、焦点を失っている。

 がくんと頭が垂れた。

「アイナ?!」

 イシュトはその場で膝をつく。

 アイナにかかる負担を減らしてしっかりと上半身を抱きなおし、呼びかけた。アイナの首は左右に揺れるばかりだ。

 意識が、ない?

「アイナ!! アイナ・デリ!!」

 小さな頭を抱えた。

 熱はない。震えてもいない。心臓の音は規則正しく打っている。身体は正常だ。意識だけがすとんと、消えた? 虚脱した身体は、魂をからにしてイシュトの前に投げ出されている。

 背後でどさりと音がした。

 見返ればエイナの身体が力なく仰向けに倒れている。

 釣り糸を失ったみたいに。

「何で……」

(──っ)

 ……今このとき、イシュトは思い出す。

 違和感の正体。

「エイナと、アイナ……」

 今夜、いや昨日からエイナはアイナ・デリのところへ帰っていないのに、二人はその間の記憶を共有していないのに――。

 ――チャルダッシュ。

 それはパンノニア貴族の館で、イシュトとエイナが踊った曲だ。何故それをアイナ・デリが合図に使った? 

 エイナの失踪を詳しく話すために、エイナと行動した内容をイシュトは時系列順にアイナ・デリへ語りはした。が、チャルダッシュと総称される曲は幾つもある。

 エイナとイシュトが踊った同じ曲を、どうやってアイナ・デリは知った?

 偶然?

 いや、もうひとつ引っかかったことがある。

 ――シャッハ。

 さっきまでソーヴァ皇太子とシャッハを打っていたのは、エイナだ。

 そしてその話をイシュトはアイナ・デリにしていない。

「してない。話してない」

 なぜだ。

「記憶が」

 混ざっている?

 額と額を近づけて〈結晶液〉を寄せ合ったわけでもないのに、記憶が共有されるわけはない。

 そういう設計を発掘家はしていないはずだ。

 おかしいことが起きている。

 〈結晶液〉の異常が、アイナとエイナに異変を引き起こしている?

「アイナ……」

 イシュトは白む空に向かって叫んだ。

「発掘家! どういうことだ!」

 叫んだ途端、イシュトの脳裏で景色がたわむ。頭痛に似た衝撃で目を剥いた。よみがえる記憶。

『どういうことです?! 兄上……これは……?!』

 おかしい。おかしい。おかしいじゃないか、と。頭の中の秩序がまったく乱れている、と。初めて自覚して気づいたあのときの、記憶。混乱と不安と絶望の記憶が。

 祖母の死の記憶の抽出は失敗だった。それはまだ途上の技術だった。未完成だった。七年前、イシュトに対して施されたときは。

「発掘家!!」

「あれあれ」

 飄々と呑気な声が降ってくる。

「あら、まあ」

 マリー・バリーの背中、縦につらなる金釦のいちばん上のそのふちで発掘家は悠々と寝そべっている。

 怒りのままイシュトは声を張り上げる。

「またかよ? また失敗したのか?! 今でもまだ完成してない術なのか?! くそっ」

 帝国の皇女に──アイナ・デリに、なんという危険を負わせたのか。

「てめえ! この狂科学者ッ!」

 鳴り響く交響楽を掻き消すほどの音量で叫んだ。

「落ち着いたらどうなのよ。失敗は初めてのことじゃあるまいに」

「──」

 怒りに眩んであらゆる記憶が飛びそうであった。

 無責任だ。

 あいつはいつも無責任だ。

 やりたい放題に破壊と混乱を残し、義務を押し付けてイシュトを置いていった。

 ああ、まったく変わってやしない。

「アイナを返せよ……」

 あのときは、自分自身の選択だった。後悔はしていない。後遺症がどんなに不便でも、人を責めて取り返せるものではないとわかっているから、誰を怨むこともしまいと決めた。

 だが、この今は。

「アイナを元に戻してくれよ!」

「だから、落ち着きなさいってば。そんなに元気があるなら、お前が迎えにいってちょうだい」

「迎え……?」

「お前のここの中にも、〈結晶液〉の試作品は入れてあるから」

 発掘家は煙管の吸い口でこめかみを指した。

「え」

 イシュトは額に手を当てる。

「え?!」

「お注射したのに、憶えてないのかしらねえ。ああ、眠らせておいてだったから、どうせ憶えていないか。当時つくれたものは〈結晶液〉といっても、不完全で精度の悪いやつだったわけだけれど。パンノニアの貿易規模じゃ材料揃えるのにも限界があったのだもの。そう、それが失敗の原因。ごめんなさいねえ」

 悪びれたようにも見えない謝罪など、どうでもいい。

「どうやって……。どうやったら連れて戻れる?!」

「ふむ。考えられるところで言うと、アイナ・デリ姫はエイナとの誤同調によって自我を失い、混沌をさまよっているのだろうね。無数の記憶がばらばらになって海に浮かんでいる状態──一枚の硝子が割れて、粉々になってしまったようにね。破片はエイナのそれとまぜこぜになってることでしょう。元々それはひとつだったのだから」

 どこまでもあっけらかんと、科学者は分析を続ける。

「どうして誤同調が起きたのかがわからないわねえ。とにかく今、アイナ・デリ姫の中は混沌の嵐によって、真空の状態とでもいったような──いわゆる陰圧状態になっているから、通信触媒である〈結晶液〉を抱えている人間なら、個体情報が違うものでも、もしかして同調できるかもしれない。やってみたい?」

 やってみたいかやってみたくないかの好奇心の問題ではない。何度も言わせるな、とイシュトは相手を睨みつけた。

 発掘家は意地悪く目を細めた。

「ただしお前もバラバラになるかもしれない。意志を忘れれば」

「行くよ」

 運命よりも、予言よりも、それは決まりきっているイシュトの意志だった。

「言わなきゃいけないことがあるから。それさえ憶えていればいいだろ」

 にやにやと目じりを和ませると、発掘家はお気楽に手を振った。

「行ってらっしゃい」

 苦しげな咳を聞いてイシュトは振り返る。ハインリヒが、倒れるエイナの元へと、土砂まみれの地面をにじり這う。片肘で身体を引きずるようにして、のろのろと進んでいた。

 途中、血に濡れた瞳をイシュトへ向けた。

「エイナを……」

 イシュトは頷いた。

「わかってる」

 腕の中で、朝の日の光を浴びて冴え冴えとした蒼白な肌を晒すアイナ・デリのかんばせに、目を落とす。

 見開かれたままのふたつの瞼をそっと撫で閉じた。一緒にうずくまるようにして、イシュトはアイナ・デリを抱いた。

 沈んでゆく。沈めてゆく。

 少しずつ。

 わずかずつ、慎重に。

 壊さないように。きみを。

 壊されてしまわないように。俺が。

 少しずつ距離をなくして。

 境目の見えないところまで、近づいて。

 ――額に額を、寄せた。




         ◇



──アイナ・デリ!


──アイナ・デリ?


──アイナ……



 年季の入った木枠の硝子扉をひらくと、喧騒が耳を押し潰す。

 活気に満ちた店内。昼間からかんかんがくがくの議論に身をやつす紳士たち、学生連中。

燻ぶり漂う紫煙。モカの香り。

「アインシュペンナーを一杯。砂糖多めでね!」

 飛びまわる少年給仕に注文の声をかけ、疲れた身体を隙間の席に沈める。

 隣からばさばさと新聞を捌く音がする。

 丸眼鏡を鼻先にのっけた紳士が頁の端からぎょろりと覗いた。

「旅の人かね?」

 イシュトはちょっと考えた。

「ええ、はい」

「帝都は初めてかね?」

「多分、そうですね」

「ウィーンは両手を広げて走り出したくなるような都市だろう?」

「ウィーン?」

 それは都市の名前だろうか。

 聞いたことがない。

 だが少し懐かしい響きだ。

「未来を感じる街だろう。明日への希望に心が浮き立つだろう。すると心が軽くなり、身体は羽根を取り戻したようになり、こう、腕を広げてな、走り出したら、飛び立てる気がしてくるんだよ。じっさい私は、アウガルテン橋でなんども試してみたのさ」

 かもめのごとく腕を泳がせる初老の男。唇の上から双葉のごとく左右に垂れる口髭は、えもいわれぬ愛嬌をかもす。いつも変わらぬ格子縞の上着、半丈のズボン、傍らには籘のステッキ。

 彼の名を知らぬ者はウィーンにいない。

「ただあとちょっと、心の高揚が足りないんだな」

 丸眼鏡の奥の小さな目を残念そうにしばたたく。

 彼はカフェ・ツェントラールの常連客、ペーター・アルテンベルク。

 世紀末ウィーンを日ごとに徘徊し、人々の暮らしや、移ろう季節の顔色や、普遍であってかけがえのない風景を細やかに印象的に切り取るいくつもの佳作を後世に残した作家である。

 彼は一風変わった『人体飛行説』論者としても知られた。

「ぺー・アー先生、郵便が届いてました」

 銀盆に封筒の束を載せて給仕がやってくる。

 カフェを愛したカフェ文士は住所を〝ヴィーン一区 カフェ・ツェントラール〟といつも書いていた。

「俺は……人を探しにきたんです」

「探し人かね。どんなひとだね」

「どんな……どんな……」

 おぼろげな影が、閉ざした瞼の底でゆらゆらと揺れる。不確かで膨大な記憶をかきわけて、それを掴もうとするが。逃げ水のように逃げて、手は届かない。

 どこの誰を探しているのか。

 大切な誰かを探しているのに。

 ──ゆら、ゆら。

「ええと……何だったかな……」

 ──ゆら。

「芸術……芸術が好き……だったかな」

「それならここよりも、カフェ・ムゼウムのほうを当たってみたらどうだろうね。あそこは芸術家の常連が多いからね。知ってるかな、別名、カフェ・ニヒリズム」

「そう! カフェ・ニヒリズム!!」

 突然に思い出す。

「そうだ、グストー、ココシュ、ブルーノ!」

 ぺー・アー先生が、いま手に取ったばかりの郵便物から一冊の小冊子を放ってよこした。

 何かの団体の機関紙であるらしい小冊子の美しい表紙には、『ヴェル・サクルム』と題が打たれている。

「グスタフ・クリムト? オスカー・ココシュカ? ああ、分離派やウィーン工房のあいつらもよく集まっているよ、カフェ・ニヒリズムにね」

 これはきっと、幾たびと終わりまで辿り着いては繰り返される、星の記憶だ。堆積した記憶のなかなら、過去、あるいは未来には確かに存在した歴史の一場面が、イシュトに語りかけた。

「若者よ、悩みがあるときは、カフェに行こう!」



 真っ赤な扉をひらいて、イシュトはカフェ・ニヒリズムへ飛び込んだ。

 ふふっ──。

「君は……」

 彼と腕を組んで店内へもつれ入った娘のはしゃいだ笑い声に、驚いて振り返る。

「どうしたの? イシュト?」

 大きな青い瞳が、照明を受けてきらきらと輝いた。

「いや、何でもないよ。エイナ……」

 銀色の髪の娘が、窓際の空いた席へイシュトを引っ張って連れていく。

「ねえ、イシュトは何が飲みたい? 私はね……」

「えっと、確か──」

 せーの、と娘が向かいから首を突き出す。

「「メランジェ!!」」

 青い瞳の目尻にしわをためてエイナが笑い転げた。

 給仕の少年が鼻歌しながら注文のモカを運んでくる。イシュトは店内をぐるりと見回して、いくつか壁に飾られた印象的な絵にいちいち関心を引かれた。

 挑発的な微笑を湛える女の絵。黄金の首飾りに彩られた半裸の肢体が抱えるのは、死相のどす黒さに染まった男の生首だ。

 ――

 恍惚の空間に押し込まれた乙女の絵。密室へ降り注ぐ黄金の雨。神の愛撫が至福の震えに乙女をいざなう瞬間を描いている。

 ――

 それから……

「イシュト、今日はこれからどこに行って遊ぼうかしら?」

「エイナ、君に、訊きたいことが……」

「何?」

「君はどうして、ここに引きこもってしまったんだ?」

 白い泡を匙でくすぐるエイナの手が止まる。

 笑みを引っ込めた瞳でイシュトを見つめた。

 ゆっくりと首を振った。

「ハインリヒは無事だぜ?」

 はっとしてエイナの瞳が、探る色を浮かべた。

「無事だよ。君のことを心配してる。戻って欲しいと願ってる」

 エイナは窓の外へ向いた。

「私、戻れないわ」

 かたちの良いくちびるが、そっと呟きを零す。

「私がいるから、アイナは死にたくなるのよ。自由を知ってしまったから」

 メランジェのそばに肘をつく腕から肩に至る曲線、女性らしい首筋、テーブルの下で大人っぽく組んだ両脚の先まで、健康な肉体にしか持てない造型の自然さがそこにある。自然な生命力が隅々までいきとどいて張りつめている。

 アイナ・デリに与えられなかったもの。

 肉体の自由。

「アイナは死なない」

 はっきりとイシュトは言った。

「俺が死なせない」

 エイナは首を傾げてその言葉を検証するようだった。半端な、その場だけの言葉はエイナには通じない。エイナは他の誰よりアイナに近しい存在だ。代理人よりも、きょうだいよりも、なお。

「でも、私、やっぱり戻れない。不自由には戻れないから」

 エイナは鏡像。

 鏡うつしと言うべき存在だ。

 エイナはアイナの不自由さの中に戻りたくない。アイナの思いであるそれは、エイナの思いでもあるのだ。

「君を自由にしてくれるやつが、待ってるよ。血の涙を流してね」

「リッヒはアイナを愛しているのよ」

 メランジェを受皿ごと少し動かして遠ざけながら、エイナは肩をすくめた。

 自由なエイナは帝国皇女の顔ではなく、一人の娘の表情をしている。

 自由な身体を持って、エイナは人に世話されるのではなく、人に優しくできることの嬉しさを知った。

 その喜びが、彼女にとってハインリヒを特別な人にした。

「そうだな。でも同じぐらい君のことも放っておけないよ。アイナも君も、彼にとって命を張ってでも守りたい相手だ。アイナはエイナ、エイナはアイナ──じゃ、なくてさ、彼にとっては、アイナの大事なものは自分の命より大切なもの、って、ところか」

「アイナが大事にしている人形をね」

 イシュトは『違う』と首を振る。上手くない表現力に唇を噛む。そうじゃない。

「アイナが望んだ、君っていう、夢を、ハインリヒは守りたいんだ」

「ややこしいわね」

「ちょっと無理やりかもな」

 無理やりにでもそうしておかないと、イシュトが困るのだ。

 見抜いてエイナがわざと呆れた顔をつくる。

「あなたは彼女〝だけ〟が好きなのね?」

「好きじゃないよ」

「あら?」

「好きじゃないね。だってさ、君に対して心から腹を立てたことはないけど、アイナ・デリに対して煮えくり返るほど腹が立ったことは二回くらいあるぜ? 俺がいちばん憎んでることを、二回もやりかけたんだからな」

 メランジェを一口飲んで、イシュトは席を立ち上がった。

「だから、一言、言ってこないとさ」

 頑張ってね、の声に送られて、店の奥に歩く。

 一枚の絵の前で立ち止まる。

 肩から下は、幾何学的図形のモザイクによって身体の存在が消失している。モザイクは渦を描き、激しい奔流を構成している。身体を持たない人間は、俺たちとは違う流れの中にいるのだろうか。そんなことはない。断じてそんなことはない。何も違わない。何も変わりがない。彼女は――。

 角を尖らせたり、丸みをおびた、様々なかたちをしたモザイクたち。混ざり濁った流れは人の運命そのものだ。奔流の真ん中にはっきりと描き出された顔は、運命を支配する者の顔だ。

 人は誰でも、自分の運命を生きてる。

「と思うんだ、俺は」

 額縁の中へ一歩入ると、金や銀のモザイクが、ふわふわと立体的に漂い、視界を埋め尽くす。天上にかかる霧はこんなにも美しいのかもしれない。意志を振るって、片腕を伸ばし、輝くモザイクの粒の群れを、かきわけて進む。

 どこか遠くに隠れているわけじゃない。

 すぐ目の前に彼女はいる。

 声は届いている。

 華奢な肩に流れる金色の髪にもモザイクが戯れる。ゆらゆらと揺れ、さらさらと鳴る。神々しい触れ合いにイシュトは目を細めた。

 背中を見たのは、初めてだ。

「私はわがままなの?」

 黄金の髪の毛の奏でる音楽に包まれながら、彼女は天を向いた。

「神がお定めになった運命から逃れたいと願うのは、罪?」

 その一房を指に搦めとったら、不協和音が旋律を乱した。

〝グストーの絵に散りばめられた異なる形たちは、永遠に重ならないものを表しているのだと思うわ──〟

 いつかどこかで聞いたのかもしれない彼女の言葉を、思い出す。

「あなたはそうやって罰を受けたの?」

 秩序なく仕舞われたイシュトの記憶。

 それは彼が犯した過ちに対する罰なのか。

 だとすればイシュトの人生は永遠に、罪にとらわれた失敗の人生と烙印されるのか。

「そうなのかな」

「そんなわけないじゃない……!」

 抗議の声を詰まらせてアイナ・デリは泣いていた。全身全霊をふるわせて。

 けれど重ならない。相容れない。イシュトの背負う宿命はイシュトだけのもので、アイナ・デリが憤ったところでどうにもならない。

 その怒りはイシュトのものではない。

「罰なんかじゃないわ」

「ああ」

 混ざることはない。それでもイシュトはアイナの髪と関わり、不協和音を鳴らしつづける。

「たとえ罰だとしても、俺は後悔なんてしない。でも、この回り道を人に薦めたりはしないよ。これは俺の人生だから。もしかしたら、いつか、俺自身が代償の大きさに納得できなくなるということだってありうるかもしれない。その時はやっぱり俺が、自分の弱さをあがなうしかないだろう」

 永遠に追いかけっこなんだよ、とイシュトは呟いた。

 少年は耐えがたい最愛の人の死の哀しみを、生命を冒涜する技術であがなおうとした。その取り返しのつかない失敗は、もっと絶対に後戻りできない一歩でしか、打ち消すことは出来ないのだろう。

 人はある程度生きると、つねに正か誤かの選択の断崖に立たされているようになる。

「……」

 いつまでも胸を逆撫で、耳にこびりつく不協和音を、アイナは嫌がって振り払う。

 アイナの瞳が、振り返ってイシュトを見つめた。

「君は、宿命を受け入れるよ。君はとても賢く生まれついてしまったという宿命を」

 馬鹿をやる自由は誰にでもある、とヴェル・サクルムの芸術家たちは言った。

 でも、馬鹿をやる自由を行使したくて、どうしてもそれを行なえない人間がいる。

 賢い人間の不自由さだ。

「とっくに、わかっていたんだろ」

 この夢に逃げ込んだのはアイナではない。それを望んだのはエイナだ。アイナはエイナの逃亡に同情しただけだ。エイナの生みの親として。エイナをつくった神の立場で。

 そして引きずられた。

 もともとは、それはアイナが持っていた絶望だったからだ。

 ひきずられて、アイナとエイナは自我の境界を失った。

「生きていけるような気もしたけれど、またわからなくなったわ」

「アイナ」

 アイナはエイナ。エイナはアイナ。

 ひとたび精神世界で混じり合えば、たやすく輪郭は失われる──。

「アイナ……」

 アイナの輪郭にまつろう抽象のモザイクが流出をはじめた。

 とっさに手を伸ばし、イシュトは彼女の身体を掻き集めようと……。

「いいえ、今更だめよ。もう、ここから出られないみたいなの」

 白い、白い小さな手が、イシュトの必死な腕を掴んだ。 

「ごめんなさい」

 制止のために力を込めて震えている手は、同時に叫んでもいる。

 助けてと。

「アイナ。君にどうしても言いたいことがあって、来たんだ」

 渦を巻く奔流が、足元を削っていく。自分の声が聞こえない。大きな青い瞳さえ見失いそうで、イシュトは一歩を踏み込む。捉えた手に手を絡め、その腕を引いて、もう一歩。

 透きとおった青い光彩に、イシュトの瞳が映り込む。

 アイナの細い頸を片手につかまえた。

「何?」

 アイナが不安に揺れた。

「君は約束を守ってくれた。人が死ぬのは悲しいことだって、憶えていてくれた。だからオルブリッヒを殺さなかった」

 アイナが求めた死の毒は、もともと帝国の未来を守るためのものだった。帝国のために自死を選びかけたアイナならば、帝国のためにオルブリッヒに死を与えることを躊躇いはしなかったろう。

 だが、すでに彼女は──。

「ありがとう」

 彼には、彼女の身体が背負う苦しみのすべてはわからない。彼の願いがどれだけ彼女を苦しめることになるのか、わからない。わかりはしない。わからないから言えることだ。わがままなのは彼だ。だからそれを受け入れてくれた彼女に彼は感謝を告げる。

 アイナの口元が、イシュト、と動いた。崩壊した身体は、削り取られる断崖に巻き込まれて転がり落ちていく。

「アイナ」

 イシュトはしっかりと、その頬、その(おとがい)を両手でつかまえた。アイナの小さな指が、彼の首筋にすがりついて爪を立てた。さんざめく黄金の世界で、けして同じものになることのできない男と女が、互いの心を確かめ合うために。

 わななくくちびるに、囁きながらくちづけを重ねる──。




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