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ダナエ

 大陸において名君の代名詞となりつつある女帝、クラーラ・デリ・サヴァッタリ。

 開祖以来六百年の栄華を誇るサヴァッタリ家の新当主として、版図広大な大帝国を夭折した先代皇帝から受け継いだとき、彼女はまだ十七だった。現在のアイナ・デリと同じ齢だ。

 産業の構造転換、諸民族自立の意識の勃興などにより、千年続くと思われたエステルライヒ帝国の繁栄にもそのころすでに陰りが見えはじめていた。

 内外の諸侯が女皇族の帝位継承にけちをつけて不穏に蠢いた。初期の治世に戦は二回起きた。小競り合いに終わったものと、五年の長期に渡ったもの。いずれのときも、クラーラ・デリは慎重と大胆の使い方を間違えなかった。どちらの戦の勝因も、現場の意見を大いに汲み上げて軍を掌握したクラーラ・デリの行動力が作用している。軍隊からの忠誠は皇帝の権威に実行力を与える。こうした図抜けた度量と調整能力で臣の信頼を得たクラーラ・デリは、領土の隅までよく目を配り、情報を重用してその地位を守った。クラーラ・デリは歴史の業病のごとき混乱の時代を、天与の才能と一人間としての魅力で切り抜け、今に至る安定期を築いたのである。

 彼女が北国スヴェーリエから皇配を迎えて産んだ長女は、生まれつき身体の大部分の自由がなく、そして病弱だった。

 立って歩くことはおろか座ることもままならない皇女の存在は、通常であれば公にされることがなかったかもしれない。

 その存在は、ほかの皇子皇女の婚姻の妨げにさえなるかもしれないものだ。

 だがクラーラ・デリは娘の生命を否定しなかった。

 それどころかクラーラ・デリは娘を他と同じように将来のある皇族のひとりとして育てた。

 与えられるべき教育をすべて与え、たとえ舞踏のようにアイナ・デリには参加不可能なものであっても、修養の内容から排除しなかった。

「皇帝陛下がお通りでございます」

 女官の先触れがあり、ヴェル・サクルムに、熟した花の威厳が咲く。

「アイナ、お前の庭は来るたび新しい発見があるわね。あの人たちは何をつくっているのかえ」

「巨大なマリー・バリー人形を膨らませようとしているんですの」

「それをしてどうするのだえ」

「ココシュが中に入って一生を暮らすんですって」

「――女の胎に戻りたい男たち、といったところですかしら」

 いつの間にかそこに立っていた発掘家が茶卓から紅茶を取り上げる。

「そうかもしれないえ。だからこそ、男はいつまでも子供なのでしょう」

 アイナ・デリは胸のうえに載せた茶碗越し、異国の黒髪の青年を目で追いかけていた。風船遊びに参加するイシュトは、創作作業中は気が荒くなるココシュから指図されるままにあちこち走り回っては、しゃがんだり、壊れた送風ポンプを蹴飛ばしたり、男同士の冗談に笑いあったり忙しそうだ。

 アイナ・デリは、イシュトとは朝から素っ気ない挨拶を交したきりである。

 しかしアイナ・デリは昨夜の会話が本当にあったことかどうか、わからなくなっていた。彼に会った記憶は夢かもしれないと思わないでもなかった。というのも、閉門後に一般人が宮殿敷地内に入ることはほんらい至難の技であるはずだからだ。暗殺者の男には何らかの手引きがあったとして、ではイシュトは?

 徐々に立ち上がりゆくマリー・バリーの風船人形。皺が伸びるにつれて、本人そっくりな化粧を施された顔が空を見つめる。真っ赤な唇。黒々としたまつげに縁取られた挑戦的な両瞳。

 アイナ・デリの指図でベルの音が鳴らされた。

 午後の散歩にきていた寄宿学校の子供たちが山盛りの菓子に群がる。

 作業が一段落した芸術家連中も、天幕へ戻ってきた。

「お疲れ様でしたね」

 クラーラ・デリが鷹揚に労うと、めいめい自己流の動作で皇帝陛下へ腰を折った。

 いちばん後からきたイシュトは、一人だけはっとした様子で一瞬足を止めた。アイナ・デリがじっと注目して見ている中、彼の顔つきがにわかに変化した。そして、何を思ったかすたすたと列から抜け出した。

 誰かが静止する暇もなく、クラーラ・デリの足元に当然のごとく跪き、その手に挨拶を捧げた。

「ご機嫌麗しく、皇帝陛下」

 ごく軽く一連の動作をこなして立ち上がった。

「あなたも混ざっておられたのですね。サポヤイ・イシュトバーン公子」

 皇帝から真名を呼ばれた青年が、盗み見るようにアイナ・デリを振り返った。

 アイナ・デリは顔中に広がっていた驚きを急いで引っ込める。

 目を逸らし合った二人の初対面を、皇帝クラーラ・デリが公式のものにした。

「アイナ・デリや、こちらはパンノニア公国の第二公子イシュトバーン。イシュトバーン、これが余の愛する一の姫、アイナ・デリですの。とはいえ、二人はもう顔を合わせていたのかえ」

 小さくこもらせて咳払いした公子はやや赤面していた。

「ダヌビウス河岸に寄越していただいたお迎えの日時がうまく伝わっておらず、私も目印の旗の前を素通りしてしまったために、直接宮殿へ上がりました折り、ここヴェル・サクルムに迷い入った次第です」

 むしろアイナ・デリへ弁解するように、ちらちらと小寝台を見ながら言った。

「ええ、宮殿へ直接いらしたとそう仰っていましたわね」

 迎えの目印を素通りしたとは、彼のもつ例の記憶障害が原因のすれ違いなのだろう。イシュトという青年は書付綴りをつどに確認しなければ、自分が何故今そこに立っているのかさえわからなくなる。たとえば旅の仲間など、連続した出来事の記憶をつねに思い出させてくれる何かがそばにあれば、イシュトの思考はつながっている。が、それがなければ、書付綴りを開くまで彼は糸の切れた凧と同じだ。

 迎えの者が掲げた旗には、記憶を喚起するような目印は描かれていなかったらしい。自在に記憶を引き出して物事を判断する普通の人間ならば、符丁は簡単に理解できたのかもしれないが。

 地味な服装からして、彼の旅は身分を忍んだものだったはずだ。

「そのようなお話、聞いておりませんでしたわ。母上」

 ヴェル・サクルムで隠居人のような生活を送っているアイナ・デリだが、双翼宮に誰がくるとかこれこれこうした行事や会議があるとかの政治日程については何故かいつのまにか把握させられているものだ。それは母からの、お前は帝国の第一皇女なのであることを忘れるでない、という伝心だ。しかし、今回に限ってイシュトバーン公子の訪問はアイナ・デリの耳に入っていなかった。

「非公式なものですからね。晩餐も組んでおらぬえ。ただし、宮殿に逗留いただいてはいる」

「そうですか」

 アイナ・デリは関心をなくした声で冷たく言った。

「アイナ・デリ皇女殿下、機会を逸したこととはいえ、名を明かさずに無礼講の中にまじって馴れ馴れしくお話し申し上げた失礼はお詫びいたします。心より」

「ええ、構いません」

 しかしアイナ・デリはすでにあらぬほうへ首を転がし、彼らから顔をそむけてしまっていた。

 関心をなくした、という態度を示す。

「むしろ公式な方はヴェル・サクルムには入れません。ここは公式な芸術に反旗を翻す者たちに提供している場ですから」

 よそよそしく付け加える。

 それきりだんまりを決め込んだ。

「非公式にとは、何か秘密のご用件でございますのかしら?」

 そう訊いたのは発掘家だ。

 芸術家たちはさすがに皇族たちから距離をとって喉を潤しつつ騒いでいるのだが、彼らとは一線を画して緋色の髪の発掘家がそこにいた。

 超然と居座る姿に違和感を覚えないのは、あたりを払う美貌のためか。

「秘密というほどのことはないんです。俺は、成人を前に諸国を一人でなるべく自由に歩かせて貰っているのですが、特にこちらには音信不通の知己の消息を聞いたものだから、期待を抱いてやってきました」

「お知り合いが行方不明ですの?」

 美貌の女性が面白そうに問い重ねたので、イシュトが怪訝そうな顔になる。いささか不謹慎にも感じられるその美女の好奇心を、逆に問い詰める表情だ。

 そもそも、皇族の前で堂々煙管をふかして寛ぐ、この白衣の女性は誰か、と。

「発掘家、異国の方のご事情に立ち入ってはだめよ」

 ただただ儀礼的にアイナ・デリがたしなめる。

「……発掘家?!」

 素っ頓狂な声を上げてイシュトが振り返ったときにはもう、その場から緋色の髪の美女は忽然と消えていた。

 険しい顔つきで辺りを見回すイシュトの後ろから、クラーラの威厳ある声が響く。

「すでに知り合いならちょうどよろしい。アイナや、イシュトバーン公子の逗留のあいだ、つまらない時間のなるべくないように、お前がお相手をしてさしあげて」

 今度はアイナ・デリが目を開く。

「非公式とはいえ粗相のないように。あえて余が信頼するお前に任せるのだえ」

 アイナ・デリは哀願に近い目で辞退を願ったが、母は鷹揚に頷くばかりであった。


         □


「イシュトバーン公子、双翼宮のすべてをご覧になりまして? よろしければ私がご案内しますわ。東の宮の庭園などは、東洋趣味の粋をあつめた大変うつくしい景色ですの」

 飴色の大廊下を滑るように軽やかに美姫は歩む。異国の公子を導き、自らもてなす帝国皇女の華やかで親切な声音が、きらきらと日差しを通す硝子窓の列に撥ねかえる。

 イシュトは目の前の皇女を今もまだ、まじまじと見つめていた。

 困惑混じりに。

 奇々怪々な現実がまだ目に馴染まない。

「それとも国立美術館に参りましょうかしら? 我がエステルライヒ帝国の誇るサヴァッタリ開史六百年来の美術作品が、最高の状態で展示されていますのよ」

 皇女は絹手袋を嵌めた両手を宙に漂わせて振り向き、首を傾げて、公子の希望を聞き取ろうと待ち構える。

 その青い大きな瞳の前で、悪い化け物に化かされているような気持ちでイシュトが立ち止まる。

「どうかなさいまして」

「戻ってもいいかい」

 人差し指で首筋を掻きながら、来た道を振り返り、イシュトは言った。

 化け物に化かされる公子は不機嫌な顔を隠せない。

「忘れ物ですの? 〈書付綴り〉はお手に持っていますわよ」

「納得を忘れてきたので」

「納得を? 書付綴りをお開きになればもしかしたらそこに書き付けておありなのじゃないかしら」

 無邪気そうに皇女は助言をくれた。

「書いてないよ。訊こうとしても彼女が無視したからな」

「私が無視を? まさか、とんでもない。こうしてお相手していましてよ」

「君のことじゃない」

「アイナはエイナ。エイナはアイナ。からくりの詳しい仕掛けは〈発掘家〉に訊いてくださいね」

「からくりになんて興味ない。納得していないのはそこじゃないよ。確かに、目には奇異だが……」

 皇女は悲しそうな表情を瞳に浮かべた。

「まあ……」

 演技を見抜いてイシュトは首を振った。かまわず言葉の続きを言い通した。

「だけど、アイナ・デリの態度に比べたらそれも大したことない」

 アイナ・デリ皇女はクラーラ・デリから与えられた役目を確かに果たしていた。エイナはアイナ。アイナはエイナ。呪文のごとく繰り返される言葉を信じるなら、目の前の少女は――。

 エイナと名乗るアイナ・デリそっくりの少女。髪の色のみがわずかに異なるが、ほかの造作は寸分違わずアイナ・デリと同じ可憐な少女。少女はアイナ・デリの声でアイナ・デリと同じ言葉を喋った。

 色素のうすい銀色の髪。

 まっすぐ立って歩けること。

 異なる部分はそれだけ。エイナの頭のなかにはアイナ・デリの記憶のすべてがある。だからエイナは、アイナ・デリと同じように考え、同じように話し、同じように感じることができる。

 アイナはエイナ。エイナはアイナ。

 発掘家がアイナ・デリ皇女に捧げた人形は、まるで魂の乗り物だ。

 不自由なアイナ・デリに自由を与える乗り物。

「なんでもご希望をおっしゃってね」

 わがままな旅人をやさしく宥めるように、にっこりと微笑む。

 しかし当のアイナ・デリ皇女本人はといえば、クラーラ・デリが退出したあとはイシュトと目を合わせようともしなかった。どこからか呼び出したエイナが積極的にイシュトの相手を始める後ろで、これもエイナと一緒に現れたハインリヒに寝台のそばを占領させていた。

 よほどイシュトと口をききたくないらしい。昨夜イシュトが行きがかり上ふっかけてしまった喧嘩のせいなのか、身分を隠していたことのせいなのか、あるいはイシュトの身分を推理して見抜けなかったせいなのか。

(言い過ぎたのは、認める。でも)

「街に出かけましょうか。宮殿は人の目がありますものね」

 ふわりと両腕を泳がせ、エイナは大廊下をつるつると歩む。

「君の感じたことはアイナ・デリに筒抜けなのか?」

 後ろ姿がかぶりを振った。

「いいえ、アイナとエイナは一日に一度、一つになるの。夜になったら、エイナはアイナの中に戻るのよ」

 童謡(リート)の一節でも歌っているようだった。

「エイナがいるのは、アイナが望んだことなのよ」

 イシュトは少女の言葉にはっとした。

 抱える〈書付綴り〉を、強く掴む。

(強く強く望んだことが――)

 大きな青い瞳は抱えきれない秘密を零すように小さく振り返る。

「願いが叶うって、素敵なことじゃない?」



【ダナエ】



 叶えられるはずのないことが、ありえるはずのないことが、もしも現実になったとしたら。

「処女懐胎、ですって?」

 アイナ・デリの猜疑に充ちた声音で、ヴェル・サクルム常連の脳裏に繰り広げられていた幻想がぱちんとしぼんだ。

「いったい神聖さの欠片もない今の時代にそんな奇跡が起こると思って? ありえないわ」

 アイナ・デリ以外の一同は揃って緋色の髪の発掘家のほうを見たが――さっきイシュトバーン公子の前から忽然と姿を消した彼女はまたいつのまにか茶会の席に何食わぬ様子で座っていた――変人ぞろいのヴェル・サクルムでも異彩を放つ麗人は、我関せずの表情で煙管の煙をあやつるばかり。

 人間一人の〈写し身〉を創り出してアイナ・デリに捧げた発掘家の技こそ、奇跡じゃないのか、という一同の視線がいいかげん鬱陶しくなって初めて、麗人は気紛れな唇をひらいた。

「からくりを知らないものは飛ぶ鳥を見ても奇跡と言いたがりますわね」

 なるほど神の技のごとき発掘家の発明にも、発掘家だけに理解できる仕掛けが存在する。誰が何を言っても発掘家には発掘物の仕掛けが理解できている。理解していない物をこの世に作り出すことは不可能だ。

「発掘家がこの事件に関わっていたとしたら、関わり方を解き明かしていけば済むことよ。そこに理屈がある限り、解き明かせない事象はないわ。奇跡が存在しないことに変わりはないのよ」

「ちなみに申し上げておきますけれど、 私に関わりのあることではありませんわ。どうぞ、話をお続けになって」

 飄々と促されたブルーノが、帽子をとって咳払い。

「では」

 美談に回収されたアデーレ・シュニッツアー事件の余韻も冷めぬうち、飽きっぽい市民の注目を惹きつける次なる騒動が起きていた。

 帝都の新聞紙上を塗り替えつつある名前は、またも美しき薄幸の女のそれだ。

「エバ・ワグネル。大商家ワグネルの一人娘である彼女に妊娠が発覚したことから、騒ぎは始まったのでさ」

「何のおかしい事があろうか、年頃の娘の孕みしが?」

 ココシュに向かってブルーノはちっちっちと指を振る。

「ちょいと、この件は、時間を遡ってお話ししなけりゃ全体がわかりません。まずもって、このワグネルという成功者の一代記から……」

「そこは、だいぶ端折れるでしょう」

 新聞記事を読み込みながらアイナ・デリが注文した。

「はい。ザルツカンマーグート地方の一雑貨屋が、帝都に出てきて商売をはじめた折は、都会のやり方に馴染まず立てつづけに三度も店を潰したそうで、相当な苦労をしたようです。だがある時からワグネルは運を掴んで、しかも強運中の強運を掴んだようで、瞬く間に成功街道を爆進したってわけで。今では帝都の目抜き通りに百貨店を構える大事業家、名士の一人であることはご存知のとおりで。ここからが聞き所ですよ?」

 前かがみに声をひそめて、ブルーノは独壇場を大いに意識する。

「前々から噂されていたことなんですが、ワグネルの成功の影には一人の占星術師が糸を引いていたというんですな」

「木星とか、火星とかってやつか?」

 グストーの混ぜ返しをきっかけに、意外と美声な鼻歌を奏じはじめたのはココシュ。

 携帯型マリー・バリー人形と踊りに繰り出した。

「君と僕ちゃんとが出会いしは〈天体交響曲〉に心打たれた夜」

 世紀末帝都に鳴り響く名曲。その作者は、マリー・バリーの亡夫である大作曲家だ。 

「天体軌道の計算盤で運勢を読む、この占い師の助言ひとつでワグネル氏が何か決断をする。すると不思議だ、ことごとくその選択が吉と出る。店舗を建てればリンクシュトラーセ再開発がぶちあがって地価が上がるし、工事現場を見に観光客が来るぞと言われて土産を売り出せば人気が人気を呼び、第二第三と増やした店舗も大当たり、強気で繰り出す戦略が顧客の層をだんだんと広げていき……。ええ、その裏にはぜんぶ占星術師の助言がある。こういう繰り返しで、ワグネルの地位が出来上がっていったんです。そりゃあもう、ワグネルにとって占星術師の言葉は神の予言も同然です」

「そりゃ占い師のほうに商才があるな」

 幻想に溢れた絵を創り出すくせに、グストーは俗物の一面を強く持った男である。

「占星術師はもちろん専属も同然で、ワグネルはその存在を口外したがらなかったが、家事一切まで占いで決める夫の神秘主義に嫌気がさしたおかみさんの口から愚痴がばらまかれたんで、公然の噂となっていたんでさ。この夫婦に決定的な亀裂が入ったのは、娘のエバが生まれたときです」


         ◇


「神に愛された娘、ダナエ。人間的な神々が祀られていた時代の、生命の奔放さが画面に横溢しているわ」

 エイナの靴先が一枚の絵の前でとどまる。

 帝都美術史美術館。ここに公開される絵画、彫刻はいずれも時代の波を経てなお名品と認められた一流芸術だ。数十万点に及ぶ所蔵のすべてがサヴァッタリ皇帝家にゆかりの宝物である。

「ダナエはアルゴス王アクリシオスの娘。あるとき神託は告げた。ダナエの子供が王を殺すだろう、と。父はダナエを青銅の地下室に幽閉した。誰もダナエには近づけない。ダナエが子を孕むはずはなかった」

 迷宮のごとく連なる個室に展示をたどれば、美意識の変遷が手に取るようにわかる。

 異教時代のダナエのものがたりは、芸術家に愛されてきたモチーフだ。それぞれの時代の個性によって描かれた、さまざまな表情のダナエが存在している。

 幾人ものダナエからもっとも心に響く一枚を、共感を呼び起こされる表情の乙女を求めるように、エイナたちは年代に区分された展示室を渡り歩いた。

「けれどある夜、黄金の雨が格子窓から降り注いで……。それは好色な主神(ゼウス)の仮の姿だった。ダナエは神の子供を産んだ。父は親子を箱につめて海へと流すのだけれど、孫息子は英雄に成長して帰ってくる。英雄はたまたま立寄った街で競技会に参加し、円盤を投げた。手元が狂い、円盤は客席の一人を直撃した。頭を割られて死んだのは、神託の実現を怖れて逃げてきたアクリシオスだった。偶然みたいな神託の成就」

 エイナがこの神話を語りだしたのは、館内を巡る市民らの口にダナエの名前が囁かれるのをさんざん耳にしたからだ。

 巷ではダナエを主題とした作品を観に来ることが、紳士淑女の流行となってでもいるのだろうか。

 さすが爛熟の都の趣味は、田舎公国に生まれ育ったイシュトには理解できないところがある。

「偶然みたいだからこそ、よね。神託に予言された未来からは逃げられないというお話」

 華奢な肩をすくめて、街遊びに馴染んだ服装のエイナが靴の爪先で床を叩く。

 寝台に縛られたアイナ・デリと対照的に、エイナには少し目を離した隙に壁の向こうへ消えている身軽さがある。脈絡を持たずにどこにでも飛んでいってしまいそうな、奔放さが。

「今の時代にも神託というのがもらえたら、きっと楽でしょうね」

 脈絡としてはダナエの神話に通じているが、アイナのその呟きが唐突に思えたのは、感情の彩度を落とした声音のせいだったろうか。

 イシュトは首を傾げた。

「神託? 決められた運命を知ってしまうことが? 俺は知りたくないけど」

 明日の運命を知ってしまったら今日を生きられなくなる気がする。イシュトはごく自然にそういう危惧を持つ。神話が語り聞かせる教訓でもあるだろう。

 エイナは振り向かなかった。

「私は知りたいわ」

 次のダナエを探しにエイナは裾を翻した。


         ◇


「アイナは占いで未来が知りたいと思う……?」

「いいえ、私は知りたくないわ」

 即答にハインリヒが笑う。

「僕に発掘家みたいな能力があったら、アイナのために星の位置をずらしてみせるよ。いつでも君の未来が幸運なものであるように……」

「今日は何だか楽しそうね、リッヒ」

 そう言われて一瞬、ハインリヒは茶色い前髪の陰に同色の瞳を揺らしたが、

「しばらく君といられるって聞いたからね……」

 素直なハインリヒは嘘を言えない。

 とにかく全身から幸せ感がだだ漏れで、にこにこと嬉しそうだった。

「娘のエバが生まれたとき、占星術師は実に不吉な予言をしたんでさ。曰く、この娘が産む旦那さまの孫は、旦那さまの命を奪う凶星です。とね。ワグネルは震え上がって、エバを家から一歩も出さずに育てたんでさ」

「馬鹿げているよ……」

 痛切に呟くハインリヒ。

「声はすれども姿は見えずの状態だったそうで。良家の子女ならそれもたいしておかしなことではないんでしょうが、問題はここから、エバが十歳を迎えた翌日、あろうことか、ワグネルは娘の死亡届を出したんでさ。生きていたのにですよ。生きていたんですよ。こんど初めてわかったことですが! ちなみにおかみさんはとっくに家を出ていましてね、家を出ていい代わりに、口外無用の約束をさせて、慰謝料もたんまりつけてやっているというわけで。で、娘のエバは十歳の誕生日を境にその声さえ聞く者がなくなっていたんだが、これがどこへ消えていたかというと、ずっと屋敷の地下室に閉じ込められていたんですよ! むごい!」

 むごい仕打ちの発覚は、ワグネルその人が警察に訴え出たことに始まる。


         ◇


「ワグネル百貨店の社主が私に会いたいと?」

 お飾りの警視庁総監室は、就任から半年余りのあいだにエゴン伯爵の私的な書斎と化している。趣味の蒐集物の陳列に大部分の面積が割かれていたが。

 許可ののち、慌ただしく踏み入ってきたワグネル氏。

 四方八方に佇立し、あるいは壁から生える野生動物の剥製に取り囲まれたワグネル氏は、帽子を取っての挨拶もそこそこ、流れる汗にてかる頭頂部をふきふき、相手の顔はろくに見ずに要件をまくしたてた。

「娘が、娘と孫が私を殺そうとしているのです。どうか助けていただきたい! 娘らを捕まえていただきたい!」

「ご令嬢とご令孫があなたを殺そうと? して、ご令孫はお幾つか」

 短銃の手入れをしていたオルブリッヒ・クリンガーはグリスに汚れた手を拭きながら、ワグネルの年格好に目を細めつつ訊ねた。

「孫はまだ生まれておりません!」

 生まれていたら大変なことじゃないか、という剣幕でワグネル氏は怒鳴った。

「生まれてからでは遅い。遅いのです! 何もかも俺はなくしてしまうことになる。そうでなければ俺がなくなることになる!」

 クリンガーは物言わぬ野生動物たちに向かって肩をすくめた。

 話を聞こうとも言われないのに、ワグネルは勝手に事情を語り始めた。いちばん偉い奴に会わせろと乗り込んだその要求が通って引き合わされたのがクリンガーだったが、頭に血がのぼって興奮しているワグネルは目の前の人物がエゴン伯オルブリッヒ・クリンガーであるとは意識していない。

 エゴン伯もまた、新興事業家のワグネル氏とは面識がない。

「妊娠したのですよ、エバが!」

 占星術師の予言からはじまる苦悩の経緯を切々とたどってそこへ話が至ると、卒倒寸前の形相で叫ぶ。

「するはずがないのに!」

 グリス布を取り直して別の銃の手入れにかかっていたクリンガーが、〈刃の優雅〉と称される切れ長の眼を持ち上げて、やや思案する。

「住所をお伺いしましょう」

「リンクシュトラーセ十六区の一番です。おお、警察が動いてくれるか! 神よ!」

「エバ嬢の様子を見てみましょう」

 決断すれば素早く立ち上がったクリンガーが、外套を羽織りながら促すと、ワグネルは喜色満面の嬉しがりようであった。

 ワグネル邸はリンクシュトラーセの高級分譲地に新築された豪邸で、市中心部にあった旧邸から引き継いで『女屋敷』と呼び名されている。使用人に男が一人もいないので、そう揶揄されるようになった。

「総鑑閣下、これは、もしや……」

 同行する帝都警視庁の警邏部長が、地下へ降りる階段の途中でクリンガーに耳打ちする。漆喰の壁が両側に迫る狭い階段が、えんえんと奥深く穿たれた底に通じている。

 どこか神経を病んでいる調子のワグネルの訴えは話半分に聞いておくとして、もしこの下に、本当に一人の人間が監禁されているとするなら、事件性を確かめる必要が出てくる。

 先立って役所に人を遣わせて調べたところ、ワグネルの一人娘は六年前に死亡届が出ている。ますますワグネルの精神状態が疑われるところとなり、クリンガーの訪問に警邏部長以下八人の同行者がついた。

「おきゃくさまですの? おいしゃさまをつれてきてくださいましたの? おとうさま」

 響く声。

 女の声。

 ――奥底の行き止まりで。

「あんた、どういうつもりだ。こりゃあ……」

 有名工房製の硝子灯が贅沢にあしらわれて橙色の明かりを投げかける。

 重厚な調度の一つ一つにも資産価値が窺える、そこは王宮の一間にも見紛う一画だ。

 視界を邪魔する鉄格子さえ、とりはらえば。

「初めまして、ご令嬢(フラウ)。あなたのお名前を伺ってよろしいかな」

 娘のまわりに咲き乱れる草花は真紅の絨毯に織られた柄である。ふかふかな花園に足首を沈め、ゆったりと肘置きにしなだれる娘。まだあどけない表情を残した少女。

 肌は抜けるように白く、唇は夢みるように紅い。

「エバ・ワグネルともうしますの」

 娘は恥ずかしげに真珠の歯列を零した。


         ◇


「地下の檻に囚われていた娘が、子を宿した状態で発見された……」

 アイナ・デリの口をハインリヒが急に塞いだ。

「?!」

 と思うと、彼の両手は今度はアイナ・デリの両耳を塞いだ。

 半ば彼女に覆い被さり、ぶんぶんぶんと首を左右に振っている。

 少し赤い顔をして。

「ハインリヒ?」

「アイナに聞かせたくない、きたない話だよ……」

 ごく真面目に。

「何を指してそう言うの?」

「……あーあーあーあーあーあーあーあーあーあー」

 聞きたくないのはハインリヒであって、悲壮な顔で絶叫した。

「娘と娘の子供が自分を殺そうとしているなどと、正気をなくして訴え出たのだが、今じゃ被告席に座っているのは父親のほうなんで。監禁と強姦の罪でね。聖書も法典も厳しく禁忌と断ずるところの近親相手の行為ときてりゃ、死罪を免れないでしょうな」

 手遅れになったことを知り、ハインリヒが寝台に崩れる。

「リッヒ、重いわ」

「重いよ……ひどい事件だ……! ワグネルという男、許せない……!」

 ブルーノがめくる素描の綴りを取り上げたグストーは、保護されたエバの姿を写した一枚にじいっと見入っていた。

「新聞にエゴン伯の談話が載っているわ。彼の私見によれば──

 〈ワグネルは不吉な占いに惑わされた心で必死に回避策を考えたのだろう。占いの文言はこういうものだった。『この娘が産む旦那さまの孫は、旦那さまの命を奪う凶星です』 ワグネルにとって凶星となるのは彼の孫だ。だがこの今、エバの胎内にいるのは彼の子だ。正確には子供の子供でもあって、つまり孫ということにもなるのだが、歪んだ彼の精神中ではそれが災厄から逃れる唯一の方法であるように煌めいたのだろう。〉

 ですって」

 素描から難しい顔を上げてグストーが問う。

「しかし、だったら何故、ワグネルは錯乱したように警察へ訴え出たんだ? 自分の首が締まるっていうのにな?」

「元から錯乱しているような精神状態なわけでさ」

「禁忌の意識に凡人は狂いぬ」

 ──大きなため息を一つ、ハインリヒがついた。アイナ・デリの胸の上で彼は首をごろりと傾けた。

「ねえアイナ、もうそろそろ冷えてきたから中へ入ったほうがいいよ……」

 アイナ・デリは広げた新聞を掲げて隅の記事を熱心に読んでいた。

「まだ何か別の事件かい……? 帝都には嫌な話が多すぎるよ……。ねえアイナ、この前も話したけれど、たまには帝都を離れて、南の海へ旅行しようよ……」

「今朝、ダヌビウス河に水死体が上がったのね。学生が、こうして人生を寸断されるなんてもったいないわね。革命運動に参加していた疑いあり、内ゲバか、ですって」

 アイナ・デリの関心は血なまぐさい現実にある。こんなに浮世離れした聖なる春の庭を居としているくせに。

 ハインリヒはもうひとつ優しく溜息をついた。

「ノイシュタット伯爵の高圧的な発言に革新派はいちいち反発して、巷がいよいよ騒がしいわ。ノイシュタット伯爵が皇太子の後ろに立つのを放置して、その発言力の増大を許している皇帝陛下にも、不満の矛先が向いている。陛下は保守にも革新にも舵を大きく傾けるおつもりはないのよ。反動の恐ろしさをわかっていらっしゃるからよ。大事なことは適切な距離の取り方で……」

 途中でアイナ・デリは口を閉じた。我に返ったのだ。

「リッヒ、そうね、そろそろお部屋に戻りたいわ。じきに日が落ちるもの」

「今日は良い一日だったね。夜はきっとよく眠れるよ……」

 身体を動かさない上に読書家であるアイナ・デリが不眠症気味なことをハインリヒはよく知っている。

「僕が抱いていくよ……」

「落とさないで頂戴ね」

 ハインリヒは銃を撃つのも怖がる室内派の青年だが、そんな彼でも軽々と抱き上げられるほどアイナ・デリの身体は小さい。

 ココシュがまだ〈惑星交響曲〉十二連作を通しで歌い踊りつづけていたので、ハインリヒはアイナ・デリとともにヴェル・サクルム舞踏会の舞台に躍り出る。

 くるくると芝生に輪を描く。

 公爵家の貴公子にとって、身に付けた舞踏の感性はグストーにとっての絵筆捌きと同じものだ。グストーが自由自在な愛の世界を描けるように、ハインリヒに手を取られれば東方の涅槃仏のごとくどってりと横たわるマリー・バリー風船すらも生き生きと軽やかに踊れるだろう。

 庭園に集う者たちはアイナ・デリ皇女の動かない足のことをしばし忘れて、姫と公子の気高く華やかな踊りを眺めている。

「グストー、あなた」

 地面にかがみこんで一心不乱に真白いカンバスを殴りつけるグストーの隆々とした背中の後ろから、アイナ・デリが歓声をかけた。

 殴りつけているのではなく、書き殴っている。下書きしているのだ。新しく湧き上がった絵を、情熱のままに。

「ダナエね」

 黄金の雨に身体をひらかれた女。神の子を宿した歓びに浸る恍惚の表情。女という性のみに許された至福。正方形の画面いっぱいにダナエの幸福が描かれていた。

 グストーの芸術は必ず現実の女の顔を捉えて成り立つ。ダナエの目鼻立ちは紛れもなくブルーノの素描したエバ・ワグネルだ。

 アイナ・デリはグストーの新作を満足そうに見つめた。

「あなたは、その絵を描けるわよ」

 確信と期待を込めてアイナ・デリは言った。

「ほう、それは」

 ――黒い声が聖なる春の宴にひびをいれた。

 ココシュの鼻歌さえ、やむ。

「どういうことでしょう。幸福のかけらも窺われない歪な事件を主題に、女の喜びの絵を発表するなど、世間に敵を増やすばかりの行為に思えるが」

 〈刃の優雅〉とは、けして笑わぬ目の奥の冷たい光。

 それへ惹き寄せられてしまう蝶や蛾たちによる礼賛の言葉だ。

 夕方にさしかかる光線のなか。日と影の境から、噂の青年貴族が夜を連れてくるようにして現れた。

 冷たい風に乗って流れてくる香り。香水のものとは違う、東洋趣味の香。清爽で、甘く、少し苦味の残る――。

 洒脱な漆黒の装いこそ、彼独特。

「エゴン伯。とても珍しい方が訪問してくださいましたのね」

「ご機嫌麗しゅう、アイナ・デリ皇女殿下。取次ぎの扉が見当たらず、このような道に迷い入りました。無礼をお詫びする」

 アイナ・デリ皇女は政治的な訪問者をいっさい迎え入れない主義を取っている。誰の使いが来ても女官は『皇女殿下はお加減が悪くどなたともお会いになれません』と繰り返すだけだ。実際にアイナ・デリの体調には波がある。予定を入れてその通りにこなすことができないような人間は、公的な世界にそもそも関わるべきではない。

 資質がない。

「ここは、誰でも出入り自由なヴェル・サクルムですわ」

「こちらに皇太子殿下がいらしてはいないかと探しに参った次第です」

 らしからぬことだがアイナ・デリはやや戸惑っていた。アイナ・デリにとってエゴン伯オルブリッヒはあまり好ましく思えない人物である。彼の口からソーヴァの名が出るとなれば複雑な問題も絡むであろう。しかも今、アイナ・デリはハインリヒの腕の中にあり、少々体裁が悪い。

 目線はちょうどよいくらいの位置で合うのだが。

「どういうことかしら。ソーヴァがここへ来ると言ったの?」

 漆黒を着こなす警視庁総監の表情は、常に感情の向きをまったく読ませない。

 その秀麗な相貌は、体温を感じさせない肉のつきかたをしている。

「いいえ、そうではないのですが。皇太子の姿が半日ほど見えないのですよ」

 含みがあるのかないのかも読めない口調だ。

 アイナ・デリはごく軽く微笑んだ。

「お得意の推理でも見つからない?」

「わたくしよりも殿下がお得意と聞き及びますよ。それゆえ」

 皮肉なのかそうでないのかも判別がつかなかった。

 その声音だけを取り上げるなら、だ。

「私の推理には先ほど遠まわしに痛烈な否定をいただいたわ」

 そこで初めてエゴン伯オルブリッヒは、表情らしい表情としての優雅な驚きをあらわした。

「ではやはり、エバ・ワグネル事件に別の答えがあるとおっしゃる」

「私はそう思うわ」

「趣味を同じくする者として興味がありますよ」

「あなたには私から教えて差し上げる必要を感じないわ。逆に何故と問いたいことがあるのだけれど、問うたところで教えいただけるとは思わないから、やめておくわ」

 革手袋の手を顎に当ててエゴン伯オルブリッヒが考え込むふりをする。 

「何か……魔法のような仕掛けを想定されておいでか。だがしかし、殿下がお飼いの科学者のような天才は、一時代に二人といるものではない」

 そう示唆して、天幕の下の麗人へ目をやる。

 煙管の煙越しに、寛ぐ発掘家とエゴン伯オルブリッヒは視線を交わした。発掘家、という名の由来である真の能力は、けして公にしてはならないものだ。発掘家自身が許した極小数のヴェル・サクルム関係者とアイナ・デリ腹心の女官しか、この土地でそれを知る者はいない。宮殿においては、単に一風変わった科学者、として通っている。エゴン伯オルブリッヒも部外者の一人に過ぎない。

 科学も機械のからくりも、宮殿においては元より異物だ。

「そこまで大層な技は必要ではないわ。暇な落ちこぼれ学生にもできる簡単なからくりよ。きっとね」

 そんなことよりも、とアイナ・デリは話を変える。

「ソーヴァはどこへ消えてしまったの?」

 帝国の皇太子が消えるとは、呑気に構えていられないはずの一大事ではないか。

「ここでないとすれば、田舎酒場(ホイリゲ)か、遊戯場でしょう。近頃の皇太子はあのような場所での遊びを大層気に入られている」

「酒や賭博を?」

 アイナ・デリはきつく眉根を寄せた。思いのほか心が衝撃を受けている。

 それはそれで由々しき堕落の道へはまりこんでいるのではないか。

(ソビー……)

「社会勉強ですよ」

 アイナ・デリにはその声がとてつもなく冷酷に感じられた。

 貴族の体裁という以上に、無関心と酷薄さはエゴン伯オルブリッヒの本質なのではなかろうか。アイナ・デリはそういう印象を以前から持っている。

 気紛れに市井の事件現場へ赴く好奇心の強さとは、矛盾するが。

「ワグネル事件だが、胎児の父親が現れて進入経路を証するのでない限り、現状予想される判決が覆ることはない」

「そうでしょうね。警視庁総監閣下がお墨付きを与えたのなら」

 アイナ・デリは相手に負けず劣らずの無意味な表情を心がけて、言った。「たとえ無実の罪でも、そうでしょうね」

 エゴン伯オルブリッヒがこちらを嘲笑った気がしたが、目に見える現実としては気のせいだ。

「では失礼」

 聖なる春の庭に息をつける温度が戻らないうちに、天上から陽が落ちた。


         ◇


「二度めとは思えないね、その足取り。俺より上手い」

 生き生きと三拍子を乗りこなすエイナの舞踏は音楽を身体で描き出すように流れていく。その手をとりながら、かろうじて無様にならぬ程度についていくのが精一杯のイシュトである。

「もうすぐあなたに逆転されるわね」

 奏者席に加わるマンドリンを見てエイナが舌を出す。

 その通り、一曲が終わり拍手が鳴り終わると、次に音楽は四分の二拍子のパンノニア舞曲(チャルダッシュ)に変わった。憂愁を帯びた緩拍子の輪舞。足取りにも独特の型がある。初心者はこの型になかなか戸惑うものだ。子供の頃からイシュトの身体に馴染んだ拍子だ。

 だが。

「ちょっと待てよ、嘘だろ、俺より……くそ、完全に負けた」

「ふふふふふ」

「パンノニアの踊りまで習ったのか。一時期帝都で流行りすぎて禁止されたって聞いたけど?」

「だって友好国発祥の文化ですもの。皇族のたしなみだわ」

 足取りを進めるたび景色が変わる。

 ちらほらとイシュトの顔見知りがグラスを掲げて賛辞を寄越した。

 マンドリンの哀愁的な弦響が満ちる。

 くる、くる、と音楽に流されるまま舞踏場を巡りながら、束の間イシュトは郷愁なのかもしれない感傷を覚える。だがその感傷は、エイナの軽やかな身のこなしによって、つかのま現実を置き去りにする心地よさへと昇華されていった。

「みんな、暗黙の了解というところなのかしら?」

 エイナが悪戯っぽく訊いてくる。

 舞踏会へ行きましょうといったのはエイナだ。互いに障りがあるのでおおっぴらに顔を見せびらかすことはできない。だから信頼できる知人を訪ねて、帝都に逗留するパンノニア貴族たちのサロンへ紛れ込ませてもらった。

 イシュトバーン公子を知る者はイシュトの顔を見ると一瞬目をひらくが、何も言わない。紹介は偽名を使ったため、暗黙の了解が成立したようだ。

 帝都にいるパンノニア貴族は都会の風を求める遊び人ばかりで、政治の堅苦しさからは遠い。

 特にこのサロンに集う彼らは、そういうものから弾き出されたり、自ら放棄した者たちだ。

「彼らみたいな人たちでも、あなたがここにいる理由に察しがつかないわけはないでしょうね」

「何?」

「何って言うことないじゃない」

 イシュトは困惑してエイナを見つめた。

「旅する目的は一つだけって決まってるわけじゃないでしょ?」

 含みのある話し方が、イシュトを急に現実へ引き戻した。

「ああ……そうか……ここはパンノニアじゃなくて在帝都パンノニア貴族の舞踏会で君はアイナ・デリ皇女の代理のエイナで」

「忘れていたの?」

「で……君たちは俺が人を探しに帝国へ来たことを知っている。でも、この頃のパンノニアと帝国の動きと俺の旅が関係しないわけがないとも思ってるってわけだ……ってとこまで思い出した」

 それと同時に、なぜエイナから探りを入れられなければならないのかという気持ちも浮かび上がってきた。

「思い出した。不愉快だ」

「それは記憶じゃなくてたった今の感情でしょう?」

 イシュトはそのとおりだと頷いた。

「そうだよ」

 イシュトのしかめ面をエイナは面白そうに眺めている。

 多分、イシュトのそれが挑発であることをわかっている。

「知りたいならアイナ・デリが自分で訊けばいい」

 するとエイナは教え諭すように肩をすくめる。

「おんなじよ? 私はアイナ……」

 曲調が変わる。緩急激しいチャルダッシュの展開は、踊る人々の心拍数を振りまわす。高揚がのぼりつめていく。イシュトは踊りの動作の範囲内で少し乱暴に彼女の腕を掲げた。

 軽快にエイナは意地悪な導きをくぐり抜けて舞ってみせた。

 情熱の蕾のひらくような華のある姿に賞賛が上がったほどだ。

「君はすごく元気そうだね」

 盛り上がる拍手によってむしろ違和感をつのらせてイシュトは懐疑的な口ぶりをつづけた。

「腕もこんなに太いしさ」

 すると大袈裟にわざとらしくエイナが瞳をひらく。

「まあ何て仰りようなんでしょう」

「声もよく通る」

 くすくすとエイナが笑う。

「アリアだって歌えましてよ」

 息を吸って口を開いて、声を出さずに舞台歌手の典型的な表情を真似た。

「アイナ・デリのためか?」

「アイナは私よ」

「アイナ・デリはヴェル・サクルムにいる。君はここにいる。少なくとも今このとき、君は君、アイナ・デリはアイナ・デリだ。違うかい」

 その言葉でエイナが怯んだようにみえた。

 だが、先に顔を背けてしまったのはイシュトのほうだ。

 言葉の矛盾に気付いてしまった。 

「そうだな。君を責めるのもお門違いだよな」

 エイナの足取りは止まらない。拍子に執着するみたいにいつまでも、いつまでも。食い下がるように踊りつづけた。

「……あなたはハインリヒとは違うのね」

「……?」

「皆、アイナ・デリのことを真綿でくるむように扱うわ。誰もあなたみたいにアイナ・デリを責めないわ。何をしても。何を言っても。私はそんなふうに否定されたことがないわ。怒られたことがないわ。ハインリヒを見ていて、わかるでしょう……? 皆、多かれ少なかれ、あんなふうに赤子をあやすようよ」

 小さな寝台に横たわる純真無垢な金髪の天使の姿がエイナの上に重なった。アイナ・デリはヴェル・サクルムの揺りかごを自ら造り、そのぬるま湯のまどろみを自ら選んでいる。真綿でくるむ扱いをアイナ・デリもまた自ら受け入れているのではないかと思う。

「だから嫌われたのかな」

「嫌いな人に、大事な“この身体”を使って相手させると思う?」

 それがアイナ・デリの公式見解なのかエイナのこの場での考えなのか、混乱を覚えるイシュトだ。

 考えの元となる記憶、記憶と感性の積み重なりである性格を共有しているのだから、それはアイナ・デリが言う可能性もある言葉、ではあるだろう。まるで、不思議な共振性を持つ一卵性双生児が、片割れの想いを代弁するような。あるいは、片割れの言葉を予言するような。

「まるで予言――」

 予言、ということに思い至って、イシュトははっと気が付いた。

 舞踏に取り憑かれたエイナの一心不乱な熱狂。その横顔にときおり兆す不安の影。その影の意味に気が付いた。

 エイナの片割れもまた、エイナにとっての予言者である。エイナの明日はアイナ・デリによって生まれる。あるか、ないかが決められる。エイナという人形に息を吹き込まれる明日があるか、ないか。それは常に不確かだ。

 エイナが欲する予言はきっと、明日、明後日のことではないだろう。

「私の見解はね、この舞踏室の彼らとは少し違うわ」

 ふわりと裾をひるがえして一回転したエイナが、話を巻き戻した。

「私ね、あなたはきっと、パンノニアから逃げてきたんじゃないかと思うわ」

 それを言い放ったエイナの瞳の虚ろさに驚いて、イシュトの反応が遅れた。

 空白をつくようにエイナがイシュトの手を振りほどく。

 我に返ったとき、イシュトの視界からエイナの姿が見切れようとしていた。

「エイナ……?」

 人を詰め込んだ舞踏室の狭さが、災いした。

「エイナ」

 追いかけたが、待合の向こうの廊下で靴音が遠ざかる。

 うしろ姿の残像が薄れるにつれ、イシュトの中から急速にエイナの存在が消えてゆく。この場所にエイナと親しい人間はいない。エイナを連想させるよすがはここには見つけられない。彼女の記憶を掴まえておくことができない。いつまでも慣れることのない忘却の感覚。取りかえしがつかない忘却の。

 恐怖感。

「エイナ、エイナ、エイナ、エイナ、エイナ、エイナ……」

 口に覚えこませるようにその名を呟きながら、イシュトはサロンを擁する邸のなかを駆けた。手当り次第に扉を開けて、取次ぎの小間使いが控える一間へ飛び込み、外套の山から預けた荷を掘り返す。

 分厚く、重い、紙の綴り。

 記憶という、重い荷だ。

「エイナが」

 炭筆を、考えるより先に走らせる。

「消えた……逃げる……エイナが」

 彼女は何を言って、イシュトは何を言った。

 彼女はどんな思いを伝えようとしていたか。最後に?

 何と言い残した?

「きっと、逃げて……」

 ――逃げてきた。――逃げていった。イシュトの混濁する記憶のなかで、その言葉、残された言葉の中心だけが、チャルダッシュの拍子にのって、巡っていた。



「お嬢ちゃん、一応、約束のものは持ってきてあるが……」

 昼の風船人形騒ぎも夕方の天敵来訪に感じた寒気も、静かな闇に吸い込まれて消えた宵のこと。

 一人残った愛の画家が、女官を相手にした素描の手をそろそろ休めて、麻の道具袋を拾いながら口にした。

 秘密めいた贈り物を手にしながら、彼はちっとも心の浮き立たない顰め面でそれを手のひらに転がす。

「あら嬉しい。どうぞこちらにくださいな。置いてらっしゃって」

 アイナ・デリは女官を下がらせた後で、寝台の左側をぽんぽんと叩いた。

 横たわる身体を挟んだ寝台の右側では、アイナ・デリの願いで連日エイナに街を連れ回されているハインリヒが上半身をうつぶせにし、穏やかな眠りに規則正しく肩を上下させている。

「こんなものを持って来てやるのは確かに俺くらいだろうね。お嬢さんにもそれを手に取る自由はある、そう思うからだ」

「ええ、あなたはそういう人だと思って。だから頼んだの」

 グストーは凝った首筋を片手で揉みほぐす。さりげなく彼の口はこう応えた。

「誰でも馬鹿をやる自由はある。馬鹿になる自由はある。何をやるのもそいつの自由だが、しかし馬鹿をやるやつはただの馬鹿だ」

「有害な鼠を殺すのは愚かなことではないわ」

 アイナ・デリが小さな指でつまみ上げた硝子の小壜の中には、致死の毒薬──砒素の水溶液が月明かりに妖しく揺れる。

「宮殿にも鼠は出るのよ」

 指図一つで女官が全てを整える皇女のそらぞらしい言い分だ。

 少し笑いながら首を振ってグストーは立ち上がる。

「あなたは次にどんな絵を描くの」

 翳した瓶の向こう側に、アイナ・デリは、グストーのもじゃもじゃ頭をとらえる。

 〈生命の画家〉と皇女自ら評した、彼の。

「今の俺が描く絵は、決まっている。俺が描くのは究極の愛。それは究極の女。断崖に立つ究極の男女。描きつづけていればいずれその絵に辿り着くはずだ」

 アイナ・デリはグストーの芸術を愛していた。彼の絵を観るときの自分の心の動きを大事な経験として数えていた。そのひとときをこよなく至福と感じていた。

 だから、アイナ・デリにとって彼のその宣言は、それ自体が愛の誘惑に等しい。

「そう……」

 アイナ・デリの吐息にまじるものは、憧れと、みれんだ。

「それを観なきゃ、損をするぞ」

 自信に満ちた表情を残し、閉門時間に呼ばれてグストーは去った。



 入れ替わるように血相を変えて駆け込んできたのはイシュトだ。どっと音たてて外気を連れてくると、〈書付綴り〉を片腕に抱えたまま蹴躓くように寝台へ手をついた。大きく肩を膨らませて呼吸する。

 頁の半ばに二本の指を挟んだまま。

 もたげた顔が息切れして歪んでいる。

 あまりにもせっぱつまった表情なので、子供じみた無視をつづけるのも難しいと思われた。

「どうかなさったのですか、公子?」

「エイナが消えた」

「エイナとおはぐれになったのですか? そうですか。かたちは違えど、不自由さを同じく纏うものとして、公子の障害を理解致しているつもりです。すれ違いになられてさぞ動転なさったでしょう。でも、落ち着きになって。心配ありませんわ。心配ありません。公子のせいではありません。私どもの至らなさです」

 イシュトが激しく頭を振った。

「そうじゃない。いや、俺の追いつかなかったのは記憶障害のせいも確かにあるけど。はぐれたんじゃない。エイナが逃げた」

 イシュトはこちらを責めるような目つきで言い募った。

「どこかへ消えたよ。ここへ戻ってきてはいないだろ?」

 後を追いかけてほうぼうを彷徨ってきたのであるらしい。汗だくで疲労困憊状態のイシュトを見て、アイナ・デリは状況を悟った。

「まだ、戻ってきていないわ」

 声こそ強張ったが、アイナ・デリは冷静だった。

 ふと右側を見ると、いつのまにか上体を起こしたハインリヒが、真剣な顔でイシュトを仰いでいる。

「何か言っていた……?」

 指を挟んでいた頁をイシュトがざっと確かめてからハインリヒの前に開いて置き、 

「それが――」

 霧の林のなかに立たされたように頼りなく口をつぐむ。

 イシュトはアイナ・デリの顔をじっと見つめた。エイナと瓜二つのその顔を。同じかたちのその唇が、さっき彼に何と告げたかを記憶に辿る。

 よすがさえあれば、記憶は彼の内側によみがえる。

 そのとき押し寄せる映像と感情の渦は、いつもイシュトにとって、わずかに苦痛であるようだった。

「そうだ、思い出した。あなたはパンノニアから逃げてきたんじゃないかと思う――、俺に、そう言った。私にはわかる、と」

 泣きそうな顔でそれを聞いたのはハインリヒだ。

「エイナ……」

 すくりとハインリヒが立ち上がる。僕が……、ハインリヒの瞳が許可を問う。――僕が行かなければ。

 アイナは彼の瞳を見上げて、少しだけ怯む気持ちを覚えた。

 何故なのかはわからない。

 ハインリヒはアイナのためにエイナを探しにいくのだ。エイナはアイナなのだから。だから、アイナが取り残される心細さを覚える必要なんてないはずなのに。

 男たちは揃って身体の向きを翻した。

 足音高く硝子扉へ向かう。

「心当たりがあるか?」

「ある、いくつか……」

 アイナ・デリは彼らの後ろ姿を傍観者みたいに眺めていた。

 ハインリヒの答えに頷いたイシュトは、露台へ出ていく彼の背後で足を止めた。

 彼は寝室の奥を見返った。

 彼は何を見ようとしたのだろう。アイナ・デリは、寝台の端に置かれたままの書付綴りを彼は見ているのだろうと思った。忘れたなら取りに戻ってくればいい。それから再び出ていけばいい。イシュトは寝台の近くに歩いてきたが、さっきのように急ぎ足ではなかった。

 足元に佇んで、再び出ていく気配がなかった。

「行かないの?」

「ああ」

 自分では役に足りないと思ったのだろうか。

 人を探す能力が不足していると。

 その記憶障害のせいで。

「そう」

 イシュトはハインリヒが出ていったほうを気にしながら、手近な椅子の背もたれを掴んだり叩いたりしていた。

 手持ち無沙汰に。

 そのあいだにも記憶は、彼の頭のなかで掠れていくのではないのだろうか。

 昨夜からつづくアイナ・デリとのわだかまりのことも、イシュトにとっては断絶した記憶だろうか。

 どこから、どこまでが。

「あなたはパンノニアから逃げてきたの?」

 イシュトが振り向いた。

 アイナ・デリが投げた疑問が、芋づる式にエイナの言葉を甦らせて、イシュトの眉間が険しく狭まる。

 地図を手にしてもなお、道に迷う人のように。

「思い出せないの?」

 しばらく黙ったままで、やがてイシュトは俯いた。

「思い出せても、解読できない感情はある。自分のものでも。……自分のものだからこそ、か」

 それは理解できなくもないような気がした。アイナ・デリにも。

「それはそうね」

 自分の元から逃げたもう一人の自分のことをアイナ・デリは思った。

「私にもエイナの今の気持ちはわからないわ」

 イシュトの瞳が、険しいまま何かを言いたげに揺れた。

「……」

 けれど彼は、何も言わなかった。今日は。今は。

 代わりに視線をアイナ・デリの手元に落とした。

 眉間の皺を濃くする。

「それは?」

 言われるまでアイナ・デリはその硝子の小瓶の存在を忘れていた。

 手のひらの熱で温められた硝子を、月光で冷やす。

「砒素よ」

 驚きもしない代わりに、イシュトは表情の厳しさを揺らがせもしなかった。

「また怒るの?」

 挑発に聞こえたかもしれない。アイナ・デリは誰かが自分の口を塞ぐか、誰かがイシュトの眼をふさいで連れ出すかしてくれないかと思っていた。

「いや」

 イシュトの答えは意外に静かだった。

「それより、その前に考えたい」

 イシュトは今までになく迷いのない視線をアイナ・デリに据えて、言った。

「一緒に考える」

「何を?」

「どうして君が、そんなもの手にしたがるのか」

 非難ではなかった。哀れみでもなかった。同情みたいに差し出がましい土足の接近が試みられているわけでもなかった。慎重だった。ひっくり返ってもがいている昆虫を助けたくて、距離と加減を間違えれば踏み潰してしまいかねない。だから間違えたくない。そういう慎重さだろうか。彼は距離感をはかるようにアイナを見つめる。ただ少し、苦痛があるようだった。自分の中の何かを思い出そうとしているような。

「どうしてだ」

「弟が馬鹿だからよ」

 アイナ・デリはやぶれかぶれに本当のことを言った。

 そうまで知りたいなら教えてやる。

 どうせ、たいした理由じゃないのだから。

 人が死にたくなるのに大した理由なんて要らないのだから。

 アイナ・デリは、けして悲劇の主人公を気取るつもりはない。

「ますますおかしいだろ」

 さすがに面食らった顔でイシュトが返した。

「だったら君が彼を支えればいい。支えるべきだと思うけど? それでもよほど彼が無能な君主なら、そのときは……」

 アイナは枕の上で首を振った。

「ソビーは私が嫌いだし、あの子の首根っこを掴まえる力も私にはないのよ。私にはない。でも、エイナにはあるわ」

 イシュトの瞳が見開かれる。アイナの真意に気付いたようだ。

「まさか」

 言葉を失って立ち尽くした。

「国のため、国民のために皇族が尽くすべき仕事はたくさんあるわ。でも私にはできないの。私のこの身体にはできないの。私のこの身体は、婚姻外交の役にすら立たないの。何の義務も果たせない」

 声が震えてすらこないのがアイナは自分で不思議だった。

 エイナという分身を得てから、この身体は前よりも現実感をなくしてしまったのかもしれない。

「だから、エイナが立つべき。私は消えるべき」

 ごく当たり前の結論に同意を求めてアイナはイシュトを見返す。

「そうでしょう?」

「エイナは逃げた」

 それもまたごくごく単純な事実として、イシュトが繰り返す。

「俺は、エイナは明日の自分が存在するかどうかわからない不安から逃げ出したのだと思った。いつ捨てられるか知れない人形としての不安だと。君の話を聞いたら、それは違うみたいだ。エイナは……エイナは俺と同じ……」

「あなたがパンノニアの次期大公指名から逃げてきたみたいに?」

 アイナの真意へ近寄る代償に、イシュトはアイナの指摘を受け入れた。

 あっさりと頷く。

「それは本来、俺のものじゃない。兄のものだ。先に逃亡したのは兄なんだ。俺の記憶をこんなふうにしたのもあいつだ……」

 そのとき、かそけき囁きが虚空で発せられる。

――あら、責任転嫁かしら?

 左右をきょろきょろと窺ったイシュトの元にも声は聞こえたらしい。が、それきりのものだったから空耳として片付けられた。

「何があったの?」

 アイナはもうもっとも恥ずかしい部分を話したのだ。だから、イシュトについても深く知る権利がある。視点の高い低いは動かせなくても、二人のあいだは対等だった。


         ◆


 ――イシュトバーン公子!  イシュトバーン公子!

 侍従たちの呼ぶ声がする。

「見つからないよ。見つかるものか」

 木の葉に隠れてイシュトは呟いた。

 彼らはイシュトを見つけることができない。なぜならイシュトは自分でも予想のつかない感情に振り回されて、今まで一度も試みたことのない危険な登攀を始め、今まで到達したことのない場所に座を占めた。

 すなわち、城北の森の梢のなかに。

 登ったはいいが、無事に降りられるかどうかわからないような高さに手足をぶらつかせていた。十歳の少年を乗せてもびくともしない枝。イシュトの姿を下界から遮るように茂る青葉。ここから眺める空は、いつもより近くて、それでも手が届かないのだと思うといつもより遠い。もしも枝から降りられなければ、あの空に魂ごと飛び込んでしまえばいい。イシュトはやぶれかぶれの覚悟で足を揺らした。服地のあちこちにかぎ裂きができ、擦り剥いた肌から血が滲んでいる。

 侍従たちの声が遠いままに、遠ざかる。

 規律ただしい生活から逸脱したこと自体が、初めてだ。

 彼らはまさかイシュトバーン公子が悪童の真似事をするとは思っていない。

 品行方正、優等生を絵に描いたごときイシュトバーン公子が。

(くそくらえ)

「僕はもうやだ……。僕はもう……」

 わかってしまったことがある。

 光を反射する硝子の覆いが取り払われたら、その中に安置されていた宝物はまるで神秘性を失ってしまう、ように。

 品行方正、優等生を絵に描いたごときイシュトバーン公子だって、たまには道を外れることがある。何もしたくなくなるときくらい、ある。

 けれど、いったん努力を惜しんだが最後、イシュトは急転直下に自分の価値が失われていくのを感じていた。学びにも、鍛錬にも、終着点というものはない。継続だけが、努力の本質だ。立ち止まったら、人間は穢れて堕ちるだけの存在なのだ。

 〈前途有望なイシュトバーン公子〉は、周囲の期待によって成り立つ存在だった。

 幻想が崩れたら、――硝子の覆いが砕かれてしまったら、中に転がっているのはただの曇った石ころで。

(何もしたくないんだ。もう)

 イシュトは怠けることを覚えた。怠けながら輝きつづけることができるほど、彼は特殊な人間ではなかった。イシュトそのものには何の価値もない。

 そう気づいた。

 ますます気力が失せた。

 悪循環だ。

 今の、こんなイシュトを見たら。

(お祖母様が悲しむ)

 だが、そもそもイシュトが何もかもを放り出して怠けるようになったのは。

「お祖母様は、もうどこにもいないじゃないか……」

 大切な支柱を、失ってしまったからだった。

 エメシェ公太妃は、夏の盛りに病を進ませて亡くなった。

「お祖母様……」

 自分は空っぽな存在なのに、涙はどうしてこんなに熱いのか。燃え尽きてしまったイシュトなのに、不思議なくらい熱い涙が涸れることだけはない。

 べそべそと泣くのは好きじゃなかった。だが感情は場所を選ばず、のべつまくなし込み上げてくる。御しきれずやってくるべそべそ時間を人に見られたくないのも、講義や稽古を怠けるようになった理由だ。

「ねえ」

 飛び込んできた声に枝の上でイシュトは肝を潰した。

「ねえ、そこで泣いてるきみ?」

 恐る恐る地上を覗いた。下を見るほうが怖い。くらくらした。

 遥か足元、杉の木の根元に、鮮やかなパンノニア刺繍のチュニックを纏った少年が立って、梢のイシュトを見上げている。

「その枝を私のと取り替えてくれないか。その枝は私のお気に入りの場所なのだよ」

 緋色のチュニックに明るい栗色の後れ毛がかかる。イシュトよりやや年上の彼は、伸ばした長髪をたかだかと緩やかに結い上げていた。中性的な面立ちは、服装を度外視すればとっさに女と見間違う。

「兄上……?」

 髪の結び目を飾る四角い宝石が陽ざしを受けてぴかぴかと光った。

 どうしてこの人は髪の毛をあんなに長たらしく伸ばしているのだろうとイシュトは思った。美しいからかな。自分の容姿が特別美しいことを知っているから、それを生かそうとしているのかな。よほど自分のことが好きなのだろう。

 だってあんなに楽しげに笑んでいるものな。

 そこにいて楽しいのなら、わざわざ人の居場所を取ることないじゃないか。

「いやだ」

「おやおや」

 そもそも。

 五つ離れた兄は、疎遠な存在だった。

 父も母も同じくしながら、まるで他人のごとく隔てられていた。

 イシュトが生まれて一年後に母は、年子の弟を死産で産み落とし、産褥で衰弱したまま亡くなった。父は子たちに対し、平等に冷淡だった。イシュトと兄とはかすがいのないまま、ばらばらに育った。互いの乳母が犬猿の仲だったし、イシュトに物心がつくころにはもう、自然と湧いた取り巻き連中の舌が、兄弟の対立という物語を都合よく紡いでいた。

 イシュトバーン公子派の言辞を除けても、兄の評判は芳しからざるものだった。イシュトバーン公子に今ほどの後援がついたのも、兄公子の資質にだいぶ以前から懐疑の目が向けられていたせいと言われる。城内でも、城下へいっても、とにかく兄公子に関してまともな噂を聞いたことがなかった。

「けちな弟だことだ」

「どっちがだ」

「何かに拗ねて泣いているの?」

 無視しようかとも思ったが、そこまで矮小化されては癪である。

「幼児みたいなことで男が泣くものか。僕はお祖母様を偲んでいるんだ」

「え、お祖母様死んだの? いつだい? うそお、どのお祖母さま?」

 イシュトは枝の上で呆れ返った。

 確かに葬儀でも兄公子の姿を見なかった。それで口さがない悪口をまた煩いほどに聞いたが……。

「エメシェ公太妃様ですよ!」

「そうか。それは残念なことをしたなあ。エメシェさまは私も大好きだった」

「空々しい……」

「けれど、しょうがないね。私、ずっと出かけていたからさ」

「お祖母様の病気の重いのは一年前からだったじゃないですか。こんな時期に、城にいないなど……」

 憤って声を荒げかけたイシュトは、幹を登ってくる兄の姿にぎょっとした。

 力ずくで追い出しにかかろうというのか? 動転している間に、兄の姿は一段下の枝まで軽々と登りつめて、ひょいとそこに腰掛けた。

「せっかく景色がいいのだから、泣くのは別の時間にしたら?」

「わざわざ人の追悼を邪魔することないじゃないか」

 抗議の声を兄は一笑に付す。

 一切の遠慮なく、危なげもなく、枝の上で身体を伸ばすと、幹にもたれて寝そべった。

「人生は繰り返される。あの人もこの人も、この星さえも、何度目かわからない人生をここで過ごして、また再びいつか復活するのだよ」

 イシュトには到底、理解不能だ。

「わけのわからないことを言わないでください、兄上」

 前々から話には聞いていたが、この兄は本当の変人なのだな。と、イシュトはがっかりした。

 見た目だけ華麗な麗人は目を閉じて微笑む。

「お前はわけのわかったふりをしているだけじゃないか」

 麗人の常人離れした態度に、だんだんと腹が立ってくるイシュトだった。

「兄上がそんなふうだから、僕が……」

 薄目がひらいて、上方のイシュトに向く。

「どうにも機嫌が悪そうだね。噂に聞くところ、私の弟は品行方正、成績優秀ないい子チャンという話だのに」

 イシュトは顔を背けてぼそりと呟く。

「それは一ヶ月前までの話ですよ」

「おや、一ヶ月前に何があったのだい」

「だから……」

 いまさら通じない話にがっくりと肩を落とす。

「エメシェ様のお亡くなりになったのがそんなに堪えるのかい」

 ――馬鹿にされているような気がして。

 イシュトは兄の問いを無視した。

 自分が飲み込まれてしまった重い闇が、実はとても小さなものであるとでも言われている気がして。

 背ける顔をもっときつく背けて。

「どうなの?」

「消えてしまいたいんだ」

 無視したのに、なのについ――。

「どこかへ消えてしまいたいんだ。僕もいっしょに」

 それは、受け止め切れない悲しみだった。

 だから誰か、誰でもいい、話を聞いてくれる人が欲しかったのかもしれない。

 結局イシュトは、全てを吐き出してしまった。

 これまでろくに親密な会話を交わした記憶もない兄を相手に。

 ろくに顔を見合ったこともない兄に、背を向けたまま心の内のすべてを話した。

 視界いっぱいの空に聞かせているつもりで。

「そうだったのか。ならこういうのはどう?」

 すると兄は、驚くべき提案をイシュトに持ちかけた。

「こういうふうに、ぜんぶ丸ごと忘れてしまうわけさ」

 飄々とした口調に惹かれて、イシュトは下の枝を振り返る。

 兄が掲げた手指の先で、杉の幹が、消えた。

 枝も。

 イシュトの身体を乗せる枝が。

 消えた。

 目を疑う。

「わあああああっ」

 宙へ放り出された感覚にイシュトは激しく取り乱す。

〈第一公子どのといえば、時代錯誤な錬金術の工房に入り浸って弟子になったとかいう噂……〉

〈手先の起用さなど統治者には要らぬものだわい〉

〈見たかね、あの不気味なガラクタを?〉

〈魂いらずの犬、とかいう、骨と皮が踊っているガラクタを……〉

〈第一公子が懇意の商人に集めさせているのは奇異なものばかりで、南方のどこそこで採取した、とくに貴石が混ざっているわけでもない砂とか、北海海底の石とか、油とか――〉

「あああっ」

 無闇に暴れた結果、イシュトは木肌を引っ掻く手ごたえを感じながらも呆気なく、見えない枝から落ちた。

 その肩をひょいと掴みあげた手に、引きずり上げられる。

「ちょうど探していたところなのさ。私の発掘した技の有用さを証明してくれる実験体をね。身内なら、多少の無理を言って後ろめたいこともないしさ」

 弟公子を隣に座らせた兄公子は、優雅に目じりを和ませている。

「どう?」

 息をつくために声をなくしていたイシュトは、まだ感情に収拾をつけられない。周りはなるべく見ないようにした。どう解釈しても二人は何もない宙に浮かんで座っているのである。尻の下には硬い木の枝の感触があるものの……。

 イシュトは目を瞑った。

「ら、楽になるのかな。忘れたら……」

「そりゃもう、何事もなかったようにね」

 請け合う兄の声だけが、宙で狂った平衡感覚の座標になった。

「お、お祖母様は僕に、立派になることを望まれていたんだ。このままじゃ僕は、堕落する一方だ。お祖母様のせいで僕が駄目になったら、お祖母様が悲しまれる。わかっていても僕には立ち直れないんだ。だってもう、励ましてくださるお祖母様はいないん……だから……」

 涙の落ちたところだけ、透明化の迷彩術が崩れて虹色の波紋を描いた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ――よっつの虹。

「お祖母様のご遺志のために、僕はお祖母様との思い出を忘れるよ……」

 虹の上でイシュトは決意した。

 傍らのそれが悪魔の微笑みであることもわからずに。


         ◆


「結論から言うと、俺を使った兄の実験は失敗した。彼が〈発掘〉した技術はまだ未完成だったんだ。確かに俺の中から悲しみごと祖母の記憶は抜けたけど、それは一時的で、名前だとか絵姿だとか、祖母にまつわる何かをきっかけに、記憶は丸ごとありありと甦った。そしてまた忘れては、思い出す。忘れては、思い出す。思い出すごと鮮明に祖母は俺のなかで生き返って、耐えきれない喪失感を残して、消えていく。気が狂いそうになったときもあった。俺の頭の中の変化はそれだけじゃなかったから」

 話した言葉の量でなく、追体験した感情によってイシュトの喉はかすれていた。

「術を施された日から、俺は見聞きし、経験したことの記憶を保てなくなった。慣れるのには時間がかかったよ。でも、その変化に驚いて、混乱して、怒ったり、落ち込んだり忙しく奮闘しているうちに、祖母のことを思い返す暇はなくなっていってた。それはきっと、術を受けなくても同じことだったんだろう。待てばいいだけの時間を待てなかったばかりに、俺は無駄な試みをしたんだよな。愚かな逃避を試みて、そして罰を受けたんだ」

 イシュトは書付綴りに頼らず、片手を胸に押し当てている。その手がときどき、骨と肉の奥の心臓を掴むように筋張った。

 心の震えが伝わった。

「だけど後悔はする気がないんだ。後悔する気にはなれない。今でも、まだあの喪失感に襲われる瞬間がある。それを忘れたいと思ったあのときの自分の感情を、俺は否定することができない。だから……」

 アイナ・デリは彼の揺るぎない瞳にとらわれた。

「何度、歴史がやり直されるとしても、俺は同じ選択をすると思う。何度でも間違えてしまうと思うんだ」

 とても、とても正直で、揺るぎない告白だった。

「そうだよ。誰かにとって、大切な誰かが死ぬのはつらい」

 イシュトは静かに、そして一歩も退くつもりなく訴えた。

「どんなこととも釣り合わないくらいつらいんだ」

 アイナ・デリは懸命な身じろぎで首を傾ける。

「誰かを間違わせないために、私に死ぬなというの?」

「ああ」

 そこに佇むのは、杉のてっぺんで泣きじゃくる少年を、自らの意志で殺してしまった青年だ。

 あのときは無かった奇跡を、もう一度求めるように、頷いた。

「憶えておいてほしいんだ」

 彼にとって、守ることが困難なはずの約束なのに。

 アイナ・デリは不公平さに少しだけ、笑った。


        □


 夜が明けてもハインリヒは戻らなかった。エイナも帰らない。アイナ・デリもさすがに気を揉まずにはいられなくなってきた。ハインリヒは心当たりの場所でエイナを見つけたのだろうか。帰りたくないエイナを保護し、説得してくれているのだろうか。アイナ・デリは自分がエイナに対してひどく残酷な仕打ちをする女主人であるように思えてきた。理屈で考えればそれはおかしい。エイナはアイナ。アイナはエイナ。どうしたって、ねじ曲げられない事実として二人は同じものであるはずだからだ……。

 しかしイシュトは、そうではないと言う。同じものであるはずはないという。

 彼は頑なに違うと言う。

「エイナはエイナだ」

 口にするのも飽きてきたそれを言わせるアイナが悪いという顔で、繰り返した。

「エイナには自由な身体で得られた経験があるから、というのでしょう。でも、私たちはいつでも一つになることができるわ……」

 イシュトは断じてアイナ・デリの説を受け入れずに、首を振った。

「君はエイナにはなれないし、エイナは君にはなれない。君は、単なるでくのぼうの俺なんかより、よほど頭がいいのに、どうしてこんな簡単なことがわからないんだろうな」

 しまいには溜息まで吐く。

 付き合いよく夜通しアイナ・デリの寝室でエイナたちの帰りを待っていてくれたイシュトだ。二人きりでやりあう会話にも慣れてきた。すっかり言いたい放題を交わす仲になっていた。それにしてもパンノニア大公国の公子イシュトバーンとは本当に目の前の青年のことなのだろうか。多少の文化の違いのせいもあって、帝国宮廷人の常識をあてはめることはできないが、東方の小国の気風がざっくばらんなものだからといって、イシュトの親しみやすさはどうだろう。

 政治状況、政治日程の絡みからすれば、彼は彼の父であるパンノニア大公の親書を携えてきたのだとみて間違いない。兄探しの件は公的な用ではない。アイナ・デリは皇帝クラーラ・デリに尋ねて解答を得ている。大公国から帝国に対し第一公子捜索の協力要請はなされていない。

 しかし今の時期、公的な用がなくて一国の跡継ぎと目される人物が国を空けるだろうか。

パンノニア大公国との併合協議はエステルライヒ帝国皇帝が主導権を持ち、現在は諸侯の賛否を調整するパンノニア大公からの返答をまつ段階にある。受け入れるか、受け入れないか。次の回答で全ては大きく動きだす。

 部族大公としての立場から、パンノニア大公に併合政策への懸念があるとすれば、次期皇帝であるソーヴァ皇太子の資質がそれであろう。

 ここでアイナ・デリはつい心を悩ませてしまう。

 イシュトバーン公子としてのイシュトは、記憶障害があっても、けして侮っていい人物ではない。

 心証いかんでは、大公の親書がイシュトの懐で留め置かれることも充分考えられた。

 パンノニア大公国併合は、情勢安定化のためにクラーラ・デリが進める懸案政策だ。アイナ・デリとしては、クラーラ・デリの想いに沿って皇帝主導の政治日程が円滑に流れるよう援護をしたい。

 気持ちとしてはしたいが、政治に関わる言動はアイナ・デリの信条に反する。

 相手がイシュトならばなおさら、すぐにアイナの矛盾を見抜かれてしまうだろう。

 いったいぜんたい、イシュトという青年は何者だろう。

 不思議な人間だ、と思った。

 少し怖い、とも思った。

 でもそれは例えば近づけたくない怖さとは違う。

 最初とても奇妙な味と感じた菓子に、その奇妙な味が気になって何度も手を出すように、もっと知りたい、とも思う。

「何か付いてる?」

 イシュトは女官が気を利かせて運んできた朝食をアイナと共にしていた。かすめるように盗み見るアイナ・デリの視線を気にして首を傾げる。

「何でもないわ」

「君も食べたほうがいい」

「嫌よ。ねえ、ヒルデ、下げてちょうだい」

 言いつけるアイナ・デリは女官の不手際に苛立っていた。アイナ・デリは、食事するところをなるべく人に見られたくない。寝台の上で食事する姿は、単に姿として恥ずかしいという以上に、ほかのあらゆることを想像させる意味で恥ずかしいのだ。

 生活のすべてを見られているような気持ちになるのだ。

 寝台の上にアイナ・デリの生活のすべてはあるから。

 見せない部分を保っておきたい。普通の人間なら自ら歩いて移動することで確保できる選択をアイナ・デリもしたい。

「ごめん、もしかしたら食べられないほど気分が悪い? 気付かなくて……俺、少しのあいだ外すよ」

「違うわ。気分は悪くないわ。胸は落ち着かないけれど。ええ、落ち着かないから、あなたはここに一緒にいて」

「ハインリヒがちゃんと連れ戻すよ。彼は書付綴りなんか無しにいろんなことに気がつく」

「ええ」

 膝の上で分厚い書付綴りをひらき、何ごとか書き付け始めるイシュトの背中に、アイナ・デリは興味の声をかける。

「まさか、食べたものまで書いておくの?」

「うん。さっき食べたのを忘れて催促しだしたら恥ずかしいだろ」

「お腹の加減でわかるじゃないの」

「男子の食欲の底なしさを舐めちゃいけないぜ」

「ねえ、笑わせようとしているのでしょう。嘘よね」

「本当に書いてあるって! ほらね」

 動かぬ証拠は頁の至る所に。日付と場所も明記されている。

 アイナ・デリは思わず吹き出してしまった。

「悲しそうな顔で吹き出すなんて器用だな」

「だって、ごめんなさい、笑ってはいけないことよ」

「いいよ別に」

 イシュトは頬を歪めて恥ずかしそうに苦笑した。

 その横顔をアイナは興味深く見つめる。

「君は笑っていたほうがいいと思うしさ」

「ハインリヒなら青くなって止めるわ。私があんまり笑うと、酸欠で倒れるんじゃないかって」

「なくはないよな」

「そのときのハインリヒの真剣さのほうがおかしくて大変なのに」

 アイナ・デリを眺めたままイシュトがふと黙り込んだ。

「どうかして?」

 訊かれて我に返ったようにイシュトはかぶりを振った。

「羨ましいと思ってさ。彼は君を怒らせないし、君はハインリヒのことは無視しないだろ?」

 アイナ・デリは口を開きかけたが――。

「俺は彼みたいにきっちりしてないから。……もし、ちゃんと正面の門からアイナ・デリ皇女に出会えていたら、心証を損ねることもなかったのに」

 アイナ・デリはイシュトの告白に驚きながら、少し考えてイシュトの悔やしさとは違う答えに至った。もし手違いがなかったら、もしイシュトに記憶の障害がなかったら、こんなふうに気楽に話せる仲になれてはいなかっただろう。

 アイナ・デリの行為は、そんなにイシュトを傷つけたのか。

 自由自在に歩き、立ち回る――気を遣われるほうでなく、気遣うほうであれるエイナがイシュトバーンを案内することが、儀礼的には正しいと思ったのだ。それだけなのに。

 女官が突然入ってきて、皇帝クラーラ・デリの訪問を告げた。

「お母様が?」

 早朝になんの御用だろうか。

 あまり例のないことにアイナ・デリは内心訝しみながら母の到来を迎えた。

「目覚めていたかえ。起こしてはすまないと思うていたのだえ」

 あたりを払う衣擦れとともに女帝は現れた。

 その背後に従う漆黒の影があった――。

「なぜあなたが」

 再び登場したエゴン伯オルブリッヒ・クリンガーの姿にアイナ・デリは思わず驚きの声を出す。

「オルブリッヒを呼んだのは余です。ソーヴァがまだ戻らないのですよ」

 つねに優雅な冷酷を眦にとどめる無表情さで、オルブリッヒ・クリンガーが一歩を踏み出た。

「〈発掘家〉、と自称する人物に引き合わせ願いたい」

 警視庁総監の口調を以って、皇女に願い出た。

「発掘家?」

「発掘家?!」

 アイナ・デリとイシュトの声が重なる。

「自称発掘家。その正体はご承知の通り、パンノニア大公国第一公子殿下。彼の今現在の所在をお教え願いたい。イシュトバーン公子殿下、あなたから伺えるならそれでも構わない。兄君の居場所をご存知か」

「戻らないのはソーヴァでしょう?」

 暴漢に殴りつけられたような表情でイシュトが唸った。

「兄が皇太子殿下の失踪に関わっていると言いたい?」

「ソーヴァ皇太子は遊戯場から忽然と姿を消した。あとの消息がまったく見えない状態だ。ここに、一つ、私の失態の可能性がある。昨日こちらの庭で皇太子の出現場所を口にしてしまいましたからね。思えば軽はずみな漏洩だったと反省している」

 アイナ・デリは愕然と瞳を開いた。

「エゴン伯……」

 両手を握って、非難の声を絞り出す。

 彼が言いたいことは、つまり。

「オルブリッヒと」

 親しく呼べと、慇懃な目礼をよこす。

 どこか不敵な自信を秘めた眼つきに見下ろされ、アイナ・デリは総毛立つ。

 ──何を企んでいるのだろう。

「ソーヴァ皇太子の外出はカモフラージュを万全にしたお忍びのもの。昨日、ソーヴァ皇太子の居場所を確実に知ることができた人間の数は限られる。少なくとも庭に集っていた者たちは、それに該当する」

 クリンガーの口調は故意に事務的だった。

「幾人かの画家と、パンノニア公子にのみ、後の所在の証言がないのでね。あくまで可能性として、捜査をさせていただきたい」

「……お母様!」

 このような無礼を看過するのか、と、アイナ・デリはオルブリッヒ・クリンガーを連れてきた母の行為を問う。

「オルブリッヒは、秘密裏にではあるがすでに手の内の捜査員を動かしています。皇太子の捜索が第一です。公にならぬうち、また公にすることなく公式な力を動員できるのはオルブリッヒの強み」

 泰然とした母の言葉にアイナ・デリは反論をなくす。

「……」

 アイナ・デリとしても、ソーヴァの安否は心配だ。帝国の皇太子が一日以上も行方不明となっているなら由々しき事態だ。事は深刻である。

 皇帝クラーラ・デリが公平な威厳を用いてパンノニアの客人へ向いた。

「イシュトバーン公子。先ほど警視庁総監が挙げた第一公子への疑いはむろん、皇帝のものではない。ただの整理手順としてお心得くださいね」

 皇帝の言葉を受け止めるイシュト。

「承知しております。けして兄は……」

 言いかける途中で背後のオルブリッヒ・クリンガーへ視線をもっていき、訝しみを強く目に浮かべた。

「エゴン伯。あなたは一級の探偵であると話に聞いている。そのあなたが可能性を挙げられるからには、さっきのじゃ足りない部分にも理屈が付いているのか?」

 いささかも動じることなくオルブリッヒは口をひらく。

「動機、ということについて言えば。──これも、こちらの失点に由来することではあるが」

 クラーラ・デリをはばかって儀礼的に間を置く。

「ソーヴァ皇太子は姉君アイナ・デリ皇女の暗殺を企てたことがおありだ」

 さすがにクラーラ・デリが扇子を口許に当てた。

「まあ」

「いいえ、お母様。あれはソビーの冗談です。お遊びですわ」

 イシュトがアイナ・デリ皇女をはっしと指差し、

「生きてますからね」

 見ればわかることを言って援護した。

「私が発掘家を使って報復させたとでもおっしゃるの」

「いいえ。科学者のさが、というものを考えるとき、彼は研究の援助者を失うことをもっとも嫌がるのではないか」

 つまり、アイナ・デリを亡き者にされては困るから、暗殺首謀者であるソーヴァ皇太子を先に排除しようという凶行へ走った、というのだ。

「これは画家たちにも言えることだが」

「画家たちは何も関係がないわ。彼らに手を伸ばすのはやめて」

 えもいわれぬ酷薄な笑みを向けられ、アイナ・デリは凍りついた。

「もしくは、彼のパンノニア公子という出自を考えたとき……」

 幻だったのだろうか。話を続けるオルブリッヒのおもてから微笑は余韻なく消え去っていた。

「大公国内外の反対派の意向を汲んで動いているということも考えられる。皇太子の身に何事かあれば、世論はますます併合どころではなくなる」

「兄に政治的思想はない」

「人の心の中は目に見えない。あえて見通すことを試みるのが探偵だがね」

 オルブリッヒにしては珍しく、比喩的な言い方をした。


         □


「これは罠だわ」

 動けない夜がやってこようとする、夕のヴェル・サクルムにて。

「君がため、恋の罠こそかかりたい、僕ちゃんでした」

 マリーの手をとって口づけするのは異才ココシュ。

 マリー人形は蔑みの眼差しを浮かべてココシュの愛撫を振りほどく。しゅんとして、冷めたモカの残りを飲み干すココシュ。

「連れない君だけが僕の支配者さ」

「許せないわ……」

 小芝居の横でアイナ・デリは赤く痕になるほど唇を噛んだ。

 ココシュはグストーとブルーノが逮捕された知らせを持ってやってきたのだ。大勢の女を家のアトリエに集めては絵を描いていたことをとりあげて監禁猥褻罪とし、家賃の滞納をとりあげて物件詐取罪とするなど、罪状はむりやり適当に被せられたようだ。

 芸術家連中のうちでもっとも奇抜で浮世離れいちじるしく、犯罪すれすれのみれんを引きずるココシュのみが捕縛を免れていることは、一種の冗談であろうか。

「あの男……!」

 芸術家たちの苦難を聞いてから居ても立ってもいられないようにぐるぐると歩き回っていたイシュトが、庭先から難しい顔をして戻ってくる。

「エゴン伯って、何者だ?」

 アイナ・デリを見つめて質問した。手元では〈書付綴り〉をぱらぱらめくっては念入りに記憶を辿っているから、思い出すべきことを尋ねているのではない。その質問はオルブリッヒの現場検証癖などの、表向きな事実関係を指していない。

「わからないわ」

 イシュトが意外そうに顔をあげる。

「君にもわからないことがあるのか? 好敵手のことなのに?」

 不快をあらわにしてアイナ・デリは首をぶんぶんと振る。

 拳で寝台を打った。

「好敵手なんかではないわ。ただの敵よ」

 アイナ・デリの暴れ方を見てイシュトが、呆気にとられた表情で固まっている。

「オルブリッヒ・クリンガーは、推理を楽しんでなどいないわ。立場を利用して都合のいい物語を吹聴して回っているだけ。全ては、一つの事実を隠しきるために」

 イシュトが正気に返る。

「一つの事実?」

 ええ、と頷き、アイナ・デリは幾度かまばたいた。

 荒唐無稽と笑われても仕方ない話だ。

 その存在をアイナ・デリは確かめたわけではない。

 しかしアイナ・デリは、これまでに得た知識と情報の全てをつなぎ合わせては、綻びを数え、覗き込み、分析して推理し、最後には芸術家グストーの勘さえ借りて、一つの結論を出していた。

「帝都をめぐるリンクシュトラーセの地下に造られた極秘の通路のことよ」

 幹線道路。旧市壁の蘇生のすがた。近代化の号令とともに始められた一大事業。それは着工から十年たち、今まさに都市の栄華をみずから象徴するようになった円環。

 都市計画の段階から建設の指揮を執ったのは、ノイシュタット伯ヴィルヘルム・クリンガーだ。

「リンクシュトラーセの工事はだいぶ長引いたから、まことしやかな噂だけ流れて消えたことがたびたびあった。証拠はないけれど、それは実在するんだわ。最近の二つの事件で確信したの。何よりも、オルブリッヒのソビーへの教育態度はオルブリッヒ本来の政治的思想とは乖離している。いくら、知識は基礎が大事と言っても……」

 怪訝そうにイシュトが聞き返す。

「乖離している?」

「ええ」

 とアイナ・デリは頷く。

「オルブリッヒは切れる男よ。彼の父親は守旧的保守政治家だけれど、オルブリッヒの思想はけして頭の固い人間のそれではないわ。なのにオルブリッヒは、ソビーに半世紀遅れた考え方を吹き込んでいる。わざと? なぜ? 絶対に何か企んでいるのだわ」

 すると面食らったようにイシュトが目を細めた。

「知らないってわりに詳しいような……」

 アイナ・デリは口をつぐんだ。

 つつかれたのは不快な記憶である。

「以前は私の教師だったからだわ」

「?!」

 領地を治める統治学は跡継ぎでない皇族にも必要なものだ。青年ながらオルブリッヒの知識は深く、経験も不足なかった。

 利発なアイナ・デリ皇女の師としてクラーラ・デリがあてがった人物である。実際オルブリッヒは申し分のない教師だった。

「どうりで、何だか……」

「何?」

「あいつ、君を見る目がおかしかったぞ」

 直球な言葉遣いがイシュトの特性である。

「私を見る目はたいがい皆おかしいの。驚いて、神のなさりように憤慨して、じょじょに哀れみが湧き上がって、皇女の手前、それを表にしまいと努めるさまはこちらから眺めていて滑稽よ」

 王侯貴族の体裁とはかけはなれた出会い方をして、なし崩しに親しくなったイシュトは、それはそれで引け目を感じるように肩をすくめてみせる。

「そうじゃないって……、そういう善良な人たちの話じゃなくてさ。って、アイナ・デリ、何かごまかしてないか?」

 アイナ・デリは目を逸らした。

「昔から苦手だったわ」

 ぼそり、と苦虫を噛み潰す。

 そんなに嫌いなのか、と同情するようにイシュトが言った。

「一見、見た目のいいやつなのにな」

「中身は怪物かもしれないわ。グストーが抽象画に描く死神みたいに……」

 死神、と自分の口で言って寒気を覚える。

 何があったというわけではないのだが、オルブリッヒ・クリンガーに対するアイナ・デリの心証は当時から最悪である。

 何があったということはない。

 彼はアイナ・デリの前で何一つ失敗をしなかった。貴族らしい洗練された振る舞いの範疇に喜怒哀楽は統率され、けして素の感情を垣間見せることがなかった。アイナ・デリとオルブリッヒのあいだで、感情の対立や事件は起こらず、オルブリッヒがアイナ・デリ皇女の教師としての実績を買われてソーヴァ皇太子の陣営に移ったあとでさえ、わだかまりはどこにもなかった。むしろそれこそが、オルブリッヒ・クリンガーの不気味で信用ならないところだ。

 彼が立つ場所で時間は、つくりごとめいた完全さを帯びて流れていく。 

「嫌な予感がするわ」

「君棲む街に胎動するもまた不吉な予感なり」

「街が、どうしたの、ココシュ?」

 現実逃避の極地で人形遊びに興じるココシュが、ひょろひょろとした背中を仰け反らせて虚ろな視線をよこした。

「ヘイゴウハンタイ! ヘイゴウハンタイ! 踊る阿呆に叫ぶ変態の群れ、騒々しき」

「暴動しているの?」

 そういえば、とアイナ・デリは硝子の向こうの庭へ目をやる。

 ヴェル・サクルムに、散歩の者が一人も見えない。

 こんな日は珍しい。

 いいや、前にもあった。その日は、労働環境の改善を求めて一部のソルブ民族系市民によって始められた抗議行進が、同様の立場にある非主流民族系市民を巻き込んで中央広場に押し寄せる暴動になった。鎮圧に軍隊が出動するほどの大変な一日だった。という。分厚い軍隊配置の壁に守られた宮殿までは、騒ぎの声は届かなかったが。

 多民族国家であるエステルライヒ帝国に渦を巻く、怨念のモザイク。

 賢帝クラーラ・デリにさえ舵取りが難しい巨大帝国は、技術と資本の近代化とともに大きく軋む時代の中で、変化を迫られている。

 迫るのは破滅的な瓦解かもしれない。

 それとも、踏みとどまれる道がどこかにあるだろうか。

「今日の行動の中心にいるのは?」

「高等遊民、学生連中、暇と情熱と馬鹿さカゲンを持て余す」

「革命を掲げている人たちね」

 アイナ・デリはエイナから吸い上げた記憶によって、帝都に蠢く衝動と熱気の危うさを肌に感じて知っていた。

 だが、エイナを数時間ずつ街に泳がせたところで、アイナ・デリの身体は何時もここに寝ている。ヴェル・サクルムの奥に引きこもっている。情報はアイナ・デリの中で腐っていくだけだ。死んでいくだけ。アイナ・デリはそれを生かしてやろうとも思わない。思わないでいた。思わないでいようと思っていた。アイナ・デリはけして立たない。政治の舞台には立たない。アイナ・デリは立てないから。

 帝都の未来を、帝国の明日を心のなかで予言しながら……。

「このままでは、この国は……」

 革命が、革新が問題なのではない。

 運良く、暴動がクラーラ・デリの采配によって流血を少なく終わり、譲歩の結果として多くの国民が望む民族平等が約束されたとして、今度は既得権者たちの妄動が、必ず報復の牙を剥くだろう。反動の時代が必ずくる。大きく、激しく揺さぶられて、右へ寄り、左へ寄り、また揺り返されて、この国は……。

「リンクシュトラーセ。地下。革命……。どこかで聞いた気がする……」

「イシュト?」

 青年はうわ言するように呟き――。

 憑りつかれたように次々と頁を繰った。

「俺はとりあえず、耳や目に入ったことは全部書き付けておく癖があって。何が、いつの何を思い出すときの手がかりになるとも限らないから。俺の頭の中はつながりをつけるのが苦手だから、点と点をたくさん描いておく」

「点の集合が絵になるのよ」

「ああ」

 頁を繰る手がはたと止まる。

「これだ」

 寝台に寄ってイシュトは発見した自分の記憶をアイナ・デリへ見せた。

 

〈同日午後十一時。カフェ・ニヒリズム。ひきつづき政治談議に夢中な青年や紳士たち。その輪の隅で、痩せた顎鬚の男と小柄な赤毛の男。一方が興奮気味に〉

――環状道路の下のあれを使えと言っていた。二十四番通りの時計屋の脇から入れる

――シーッ。声が大きいぞ


 アイナ・デリは眼を閉じて考えに沈む。

「いけない。このままでは」

 瞼をひらいたとき、目のふちから涙がひとすじ零れた。

「アイナ・デリ……?」

「わかったわ。わかったの。何が起ころうとしているか。何が企まれているのか見えたわ!」

「アイナ――」

「このままでは未来は狭まっていくだけよ。帝国は自分で首にかけた紐の端と端を引き絞りながら泥沼へ突き進んでいくようなものよ。そんなことさせてはいけない。させたくないのに!」 

 暴れるアイナは差し伸べられたイシュトの腕を強く掴んだ。

「なのに私は動けない……! どうして! どうしてよ?!」

 腕を取られたイシュトがびっくりして息を詰まらせている。

「どうしてなの?! 私は何もできないなら、こんな未来はわかりたくもないのに!!」

 興奮したアイナ・デリを動悸が襲う。息が苦しくなった。心の動きで息が切れた。目の前が暗くなる。しばらくアイナ・デリは何も見えなくなっていた。

「アイナ・デリ」

 額に熱い手が置かれた。

 アイナ・デリの身体よりその手は熱い。

 その熱によって、アイナ・デリは視界を取り戻す。

「アイナ・デリ。俺がいくよ」

 今度はアイナが息をとめた。

 真剣なイシュトの瞳が、すぐ近くにあったからだ。

「俺が君を連れてく」

 共感を伝える瞳が、そこにあった。

 やりきれない思いへの共感と、彼自身の心から湧く勇気を湛えた瞳で、繰り返した。

「君が俺を連れていってくれ」


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