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砂漠の花嫁

作者: 広河陽

■1st phase. DAYBREAK


 思い返すと、腹が立ってしようがない。

 悔しさをつい反芻してしまったアカリはサンドバギーのアクセルを踏み込んだ。バギーのタイヤは砂漠の表面をえぐり、音を立てて砂を吐き出す。砂粒が、操縦者とエンジンを外界の砂から守る保護シェルに荒々しく当たった。

 一日たってよく考えてみれば、のこのことキャピタルに出かけていった自分が馬鹿だったのだと思えた。自分の出自を考慮に入れれば、こうなることは予想の範囲内にあったはずなのだ。今にして思えば、余裕のない生活が判断力を奪ったとしか考えられない。

「残された道は玉の輿か……」

 他人の目もないのに、意識的に口の端を歪めて自嘲の表情を作ってみる。

 金だ。まとまった金がほしい。人に眉をひそめられようがなんだろうが、なりふりをかまってはいられない。あと1か月の間に、まとまった金を用意できなければラボを手放すしかなくなる。5年という貴重な人生を注いだラボが消えてしまう。

 それならいっそ割り切って、アカリのために金を湯水のように使っても惜しまない男を手に入れる。

 幸いなことに、アカリの切れ長の目が放つ意志ある眼差しは多くの男の心をとらえるし、研究最優先のストイックな生活は結果的にアカリの引き締まった肢体を維持するのに役立っていた。アカリは意識的に媚びることはなかったが、接近してくる男は常に片手で数えられる程度はいた。勝手に男と女の関係を期待して、資金提供者になっている男もいた。しかし、そんな提供者が複数いてもラボを維持できなくなってきている。

「今が潮時、だよな」

 アカリは助手席に目をやった。そこには透明なケースに入った白いドレスが置いてある。ドレスの飾りは少なくシンプルなデザインで一見すれば質素なものだが、布地や糸の質はもちろん縫い方も特殊なものであり、それだけで芸術品だと言っても過言ではない。わずかな飾り縫い取りの中にさりげなく使われている宝石の価値は、アカリには見当もつかない。

 ――もし万が一、気が変わってもそのドレスは君にあげる。それを売れば、君のラボを半年は維持できると思うよ。

 贈り主の言葉を思い出し、アカリは身震いする。事の重大さを改めて認識していた。

 考えが浅いのではなくタイミングが合ったのだ、この決断は間違いない。アカリは自分にそう言い聞かせていた。

 その時だった。操縦しているサンドバギーのレーダー・ヴィジョンの隅に赤い点が現れた。同時に警告音が鳴る。遭難者の救難信号だ。

 遭難者の救助は、安穏なドーム都市「キャピタル」を出てあえて厳しい環境である砂漠に住むことを選んだ者たちを縛る数少ない掟だった。しかし、それはあくまでも助ける者が二次遭難しない程度にスキルと精神的余裕を備えている場合に限られる。今のアカリには後者がわずかに欠けていた。無理もない、昨日から彼女は運命に翻弄され続きなのだから。

「……こんな日は早く帰って熱めの湯で埋めたバスタブに身を沈めて、熱い紅茶をすすりたいところなのに」

 毒づきながら、アカリは手元のコンソーラーに目線を走らせた。そこにはスイッチが並んでいる。スイッチのひとつから提げられた筒状の小指くらいの大きさのアクセサリーがアカリの視界に入った。

 アクセサリーは保護シェルを通り抜けた朝の太陽のやわらかな光を受け、バギーの振動に合わせて銀色に閃いている。ふとした瞬間、銀色の光がアカリの網膜を射抜き、よどんでいた彼女の心の泉に波紋を起こした。

 一度決意したアカリの行動は素早かった。肩にかかる黒髪を手早くひとつにまとめるとフードをかぶる。それは外界に出るという決意の表れだった。アカリは救難信号の出現地の座標をコンソーラーに設定すると、サンドバギーの進む先を変えた。


 砂の山から見えたのは、人間の左手と黒い髪。本人の意思とは関わりなく突き出された手のひらの大きさから、埋もれているのは子どもだと推測できる。

 アカリはバギーのトランクからエアーブローを取り出した。一見、キャノン砲のような兵器に見える。その印象はまったくの見当ちがいではない。エアーブローは人と戦うための兵器ではなく、砂と戦うための武器だ。その発射口から出るのは弾丸ではなく、圧縮空気だった。

 エアーブローを腰元に抱え込むと、アカリはエンジンを起動させるスターターベルトを勢いよく引いた。砂の山に噴射された圧縮空気が、轟音とともに砂を吹き飛ばす。

 中から出てきたのは、やはり少年だった。砂を吹き飛ばした名残の風に、少年の漆黒の髪と、彼が着用している服に付属しているフードやベルトが宙を舞った。

 砂の山から掘り出した少年を抱きかかえる。小さな体は見るからに熱そうだ。熱が体にこもっているのだろう。

「おい、大丈夫か、名前は?」

 体を軽くゆすってたずねるが、返事はない。

 アカリは、自分の服の袖口についている紐を絞って砂が入ってこないようにすると、手袋を外した。指先でそっとふれた少年の頬は赤く、呼吸は浅くて数が多い。

「汗もかいていないようだし、熱射病か」

 少年の服についた砂を軽く払ってやる。服の素材感に、アカリは不機嫌さをあらわにして舌打ちした。

「防護服が薄すぎる。……ったく、こんな服を着せて砂漠に放り出すなんて親は何を考えてるんだ」

 少年に向けてエアーブローの圧縮空気を軽く当てると、バギーの後部席に少年を横たえる。ざあっと音を立て砂粒がいくらか後部席に雪崩れこんだが、躊躇している時間はない。バギーはいずれオーバーホールする必要があった。その機会が早まっただけだ。だが、命は一度、喪われたら戻ってこない。

 アカリは自分の体にも出力を最弱に設定したエアーブローを当てて砂を払うと、サンドバギーに乗り込む。素早くシェルを閉めて砂だらけの外界とバギーの空間を仕切った。

 飲用の冷水を惜しげもなくタオルにかけて絞り、少年の頭や首に巻いてやる。

「ラボに着くまで生きていてくれ。ここまでして死なれたら寝覚めが悪すぎるぞ」

 アカリは、バギーの速度制御ギアを最速フェイズに移行させた。



■2nd phase.  EARLY MORNING


 電磁レンジの上のポットがわずかに蒸気を吐き出し始める。紅茶を淹れるために、アカリが沸かしているものだった。

 少年を連れてラボに着いたアカリは、しばらくの間、冷水に浸して絞った大量のタオルで彼に熱射病の手当てを施すのに専念していた。それが落ち着いた今、やっと自分のために動き始めたところだった。

「ここは、キャピタルではないの?」

 聞き覚えのない声が部屋に響く。変声期前の、独特の不安定な響きを持つ声だ。それは、アカリが砂漠からサルベージした少年の第一声だった。少年の運が尽きるのは今ではなかった、ということなのだろう。

 ポットをかけている電磁レンジのスイッチを切ると、アカリはキッチンブースから少年を寝かせていたベッドブースに移動する。少年から遠慮なく向けられる好奇の視線を受けながら、アカリはベッドの脇の椅子に腰かけた。

「申し訳ないけど、ここはキャピタルではないよ。君たちが言うところの外の世界、砂漠だ」

 外の世界、とアカリが言うと、少年はびくっと身体を震わせた。無理もない。彼ぐらいの年頃はキャピタルの外の世界は死の世界だと教育されているのだ。

 自分の真意を受け取ってほしいと念をこめながら、アカリはゆっくりと言う。

「ここは砂漠の中にある私のラボ。大丈夫、ここは砂毒の無効化装置がしっかり作動しているから思い切り呼吸をしても死んだりしない」

 これほど年の離れた少年と向き合うのは、アカリにとって初めての経験だった。

「君は砂漠で倒れていた。救難信号を受信した私が君を助けて自分のラボに連れてきた。そうしたのは、君が倒れていた場所がキャピタルへ行くよりも、私のラボの方が近かったからだよ」

 少年にふさわしい言葉の選び方など分からない。だが、言っている意味を理解してもらえなければ、彼が不安に押しつぶされてしまう。害を与える意図はない、それだけでも伝わってもらわなければ困るのだ。

 ……だとすれば、最初に伝える言葉として、もっとふさわしいものがあるではないか。思いついたアカリは、それを口にした。

「私の名前は、アカリ」

 自分が何者かを告げる言葉は、アカリの思ったとおり少年の心をほぐす魔法の呪文になった。

 少年は軽く息をつくと、肩から力を少し抜いた。

「ぼくの名前は、マモル。キャピタルのラインバスに乗っていて……気がついたら、あそこにいたんだ」

 何かやっかいなことに巻き込まれているのだろうか。少年、マモルには記憶の混乱があるように見受けられた。こういう時は相手のペースにまかせるのが最良の策だろう。それに憶測をめぐらすのはアカリの性格と相容れないことだ。時が来て、彼から話し出したら耳を傾ければいい。アカリは、少年の事情を追求するのは、とりあえず最小限にとどめることにしようという方針を立てる。

 マモルの興味は窓から見える風景に移ったようだった。外の様子をしばらくじっと見ていると、ぽつりと言う。

「本当に砂だけなんだね」

 今、マモルが目にしている風景は、彼が住んでいたキャピタルでは決して見られないものだろう。

 アカリは事実だけを連ねて応じた。

「ビルも木もない。それどころか草の一本も生えることはない」

「これが外の世界……」

 マモルが部屋の中に目を移す。狭い部屋だが、部屋の持ち主以外の他人が見ても恥ずかしくない程度には片付いていた。本や、様々なデータメディアがあちこちに積まれて山になってはいたが、乱雑ではなく、整理分類された上でのことだ。それらのタイトルは植物に関する物ばかりだった。本やデータメディアの山の間には、手のひらくらいの大きさの筒状のケースがいくつも置いてある。ケースの中身は全部、砂だった。

 そんな部屋の中でマモルの目を引いたのは、無造作に壁にかけられた真っ白で上品なドレスだった。部屋の中のあらゆるものと調和しておらず、それだけが異次元から転送されてきたのではないかと思えるほど異質な物になっていた。

 マモルは知るはずもないが、そのドレスはつい先程までバギーの助手席に載せられていたものと同じものだった。ただのドレスでない。人生の特別な日に、主役が着る物だ。

「壁にかけてある、あの白いドレスはアカリのもの?」

 振り返って、アカリは壁を見る。マモルに指摘されて初めて、そこにドレスをかけていたことを思い出したのだった。

「来月、私がそれを着るんだ」

 それは少年の質問への答えだったが、アカリにとっては世の中に自分の決断を宣言することと同じ意味になった。アカリは改めてドレスをしげしげと見つめる。

 ドレスの白さが今さらながらまぶしい。自分に似つかわしくないのは誰よりもアカリが知っていた。たまらず立ち上がったアカリは、壁に掛けていたドレスをワードローブの中に入れてしまう。

アカリはそのままキッチンブースに戻ると、あらかじめ手前に出していた紅茶の缶を押しのけ、棚の奥にしまっておいた缶を取り出す。缶から出したこげ茶色の粉を鍋に入れ、砂糖と少しの水を加えた。

 電磁レンジのスイッチを入れ、鍋に熱をかける。へらを取り出すと、アカリは一心不乱に鍋の中身をかき混ぜ始めた。その動作だけに集中するように心を研ぎ澄ます。何かに集中して気持ちを落ち着けることが、今のアカリには必要だった。

 粉はだんだん融けてひとつひとつの形を失い、クリーム状になってきた。そこにミルクを加え、再び練り始める。クリームが十分に練られたところで沸かしていた湯を注ぎ入れ、今作ったクリーム状のものを完全に溶かし込む。

 アカリはできたばかりの甘い匂いがする熱い液体をカップに注ぐと、マモルの前に持って行って差し出した。

「ココアなんだけど、飲める?」

 少年は顔をほころばせ、大きくうなずいた。アカリからカップを受け取ると少しずつ分けながらココアをすする。そんな少年の様子を見ながら、アカリもココアを入れたカップに口をつけた。

 温かいものを腹に収めると、マモルは落ち着いたようだった。目元や頬が緩み、なごんでいる表情を見せる。

 アカリは、ここまでためらっていた質問をさりげなく口にしてみた。

「マモル、君のご両親に連絡をとりたいんだけど、連絡先を教えてもらえるかな?」

 マモルの顔がアカリに向けられる。その表情は一瞬、引きつり、瞳孔が拡大していた。先程までのなごんだ表情は跡形もなく消えている。マモルは髪を振り乱しながら大きく一回だけ、首を横にふっていた。

 その普通ではない様子に、アカリはため息をつくことしかできない。

「……わかった。無理に聞きだそうとまでは思っていないから安心して」

 少々の間であればかくまってやれる、とアカリは腹を決めた。こちらは辺境の砂漠に住む身寄りのない女一人。失って惜しいものと言えば、自分自身とこのラボの施設くらいしかない。

 最大で、結婚式までの一ヶ月。その間に、マモルと何とか信頼関係を築き、彼を本来の居場所に帰そう。

「その代わり、お医者さんを呼ばせてもらうよ」

 その提案にマモルは小さく首を振る。予想どおりの反応だった。

「だとすると困ったな……君の身柄を一時的に預かる者として、専門家に君の体を診てもらわないと安心できないんだ。医者といっても私の友だちだし、マモルの事情をよく話して他の人には秘密にしてもらうから」

 マモルはアカリから逃げるように深くうなだれてしまった。

 追い詰めすぎたか……。アカリの胸内に反省の念がこみ上げてくる。アカリは子どもと接することに慣れていなかった。今までに駆け引きをしてきたのは成人男性ばかりだったし、その間にはたいてい金があったのだから。しかし、今の状態は経験の少なさを言い訳に仕方がないと切り捨てられるものではなかった。

 次にどう切り出せばいいかとアカリが考えあぐねていると、うつむいたままでマモルが言った。

「アカリは、何をやっている人なの?」

 顔を上げないのは心を閉ざしている証拠だ。だが、この質問はアカリが信頼できる人物なのかどうかを試しているにちがいない。答え方で、マモルの、アカリに対する印象が違ってくるだろう。

 目の前の少年に対して、アカリは素直に真実を口にすることを選んだ。

「私はグラウンド・スイーパー。フィト・レメディエーション……植物の力を借りて大地を『掃除』するのが仕事。砂漠で植物を育てて、人間が毒だらけにしてしまった砂粒を、植物に分解してもらう。それが私の『掃除』のやり方だよ」

 植物関係の資料がそろっているのも、砂漠にラボを持っているのも、この仕事のためである。このラボはアカリにとって研究を実践するための最前線で唯一の拠点なのた。

「ねえ、どうしてそういうことを仕事にしようと思ったの?」

 マモルの素朴な質問に、アカリは自分の中の十年ほど前の記憶をさぐった。

「そうだね……、時和教授にあこがれたから、かな。学生時代に彼の講演を聴いて以来、ずっと尊敬してきた。教授は植物学の権威で『最も偉大なグラウンド・スイーパー』と呼ばれていて」

 同時に過去の苦い思い出もよみがえってくる。心が感じた苦さを中和するためということでもないが、思わず手にしていたカップの中の甘いココアを口に含むアカリだった。

「その頃、私は植物学が嫌いだった。自分で選んだ学問だったんだけど。だからこそ、失望も大きかったのかもしれない。その頃の私は、植物学のことを、滅びていく種をただただ集めて分類していくだけの学問だと思っていたから。本当に嫌だったんだよ。もう二度と目を覚ますことのない人を葬るために、地面に穴を掘って砂をかけているような……そんな気分だった。私がしたかったのはそんなことじゃなかった」

 普段の彼女であれば、今日あったばかりの人間を相手にこんな話はしない。だが、この少年の信頼を獲得するには、ある程度は心をさらけ出しておかなければならない。そんな思惑が働いていた。

「でも、時和教授はちがっていた。植物学はただ現実を後追いするだけではない、この星を救う鍵になる、と講演の冒頭で言い切った」

「……それが、アカリの心を動かしたの?」

 アカリの話は少年の心をつかみかけていた。いつの間にかマモルは顔を上げ、アカリが話す様子をじっと見ている。

「私があこがれたのはその言葉じゃなかった。そう言った時の時和教授のキラキラした目だ。教授のように、年を重ねて経験を積んだ人でも、あんな目をして夢中になれるものが植物学にあるんだと……私もそれをみつけたいと思った」

 アカリは自分の胸が熱くなるのを感じていた。少年をさっさとやっかい払いするために、心を開いている様子を意図的に演じているつもりだったアカリは、自分の思わぬ変化に戸惑う。

「自分勝手な思い出話をしてしまった。ごめん」

 謝罪の言葉も、自分をコントロールした上で出した言葉ではない。

 アカリは口を結んだ。こんなことでは、次に声を出した時に自分が何を言い出すか予想がつかないではないか。動揺を悟られないように、アカリは視線を目の前の少年から自分の手にあるカップの中のココアに移動させた。

 その時だった。

「お医者さん、呼んでもいいよ」

 マモルがやっと聞こえるくらいの小さな声でつぶやくように言った。

「良かった。肩の荷を下ろせるよ」

 意図どおりに事が運びそっと安堵したアカリは、医師である友人に連絡を取ろうとして通信ユニットを手にした。ふとマモルを見る。少年は、ベッドの上で固く握った自分の拳をじっと見ていた。医者と聞いて緊張しているのだろう。

 アカリは、手にした通話ユニットを元に戻すと、マモルの肩にそっと手を置く。

 顔を上げた少年に、アカリはいたずらっぽく笑って見せた。

「今から呼ぶお医者さん……私の友だちは美人だから。期待していいよ」

 少年は小さくうなずくと、口元をほころばせた。



■3rd phase.  DAYRIGHT


 アカリは耳をすませていた。彼女の視線の延長にある電磁レンジの上では、土製の鍋がコトコトと歌いながら湯気を吐いている。最後の仕上げの、加熱を止める瞬間を見極めようとしているのだった。

 背後のテーブルにはティーコージーをかぶせたポットがある。ポットの中では先程、アカリがブレンドしたハーブたちが水分を吸って大きく身を広げているところだろう。

 アカリが電磁レンジのスイッチを切るのと同時に、呼ぶ声がした。

「アカリ、終わったよ」

 ベッドブースから聞こえてきた、その明るい声にはじかれてアカリはキッチンブースを出る。ベッドブースにはマモルと、彼を診察する医者がいた。医者はメディカルセンサーのパットをマモルの手首から外しているところだった。

 その医者がアカリの友人、トウコだ。二つに分けて耳の下のあたりでゆるく結んだ長い髪を、肩から背中へ流している。髪がさあっと揺れてトウコが振り向いた。

「アカリの診断は大当たり、マモル君は熱射病ね。それ以外は健康よ。手当ても適切だったみたいだし、今は、危険な状態からは回復しているわ」

 トウコの診察に安心したアカリには余裕が生まれていた。その余裕がいたずら心を招く。アカリはちょっと胸を張ると自慢げに言った。

「まあ、砂漠に住む者として熱射病の手当ては常識だよ」

 すると、トウコは口に手を当てて心から楽しんでいるように、ふふふっと声を立てて笑った。

 トウコは普段からよく笑う。アカリがトウコの顔を思い出す時には笑っている所しか思い浮かばないくらいだ。

「あとは水分を取ってもらって、ゆっくり休養させてあげることね。今日一日くらいは柔らかいものを食べるようにするといいかも」

「だと思ってお粥を炊いていたんだ。今、ちょうど出来上がったところ」

 そう言って、アカリはキッチンブースからトレイを持ってきた。トレイの上には土の鍋から器に盛った粥と、ふたをしたガラスのティーカップが載せられている。

「マモル、診察してもらって疲れただろうから、心を落ち着けて眠れるようになるハーブティーも持ってきたよ。好みに合わなかったら残していいから」

 マモルはうなずくと、まず、粥が入った器を手に取った。添えられた陶器のスプーンで粥をすくうと、息を吹きかけ冷ましながら口に運ぶ。

「ちなみにそのハーブティーのブレンドは何?」

 アカリに向けられたトウコのまなざしは、軽口をかわす友人のものではなくなっていた。人の命を預かる医者としての責任感が言葉の端々から感じられる。

 アカリはトウコの問いに彼女が必要としていることだけを答えた。

「カミツレ、トケイ草、菩提樹。それに風味付けに乾燥リンゴを。リンゴはカミツレと合うから」

 聞きながら、トウコはメディカルセンサーがはじき出したデータファイルにさっと目を通す。

「ラベンダーを抜いたのは正解ね。マモル君、ラベンダーに軽いアレルギーがあるみたいだから。リラックス効果といえばラベンダーを選ぶのがスタンダードだから、『心を落ち着けて眠れるようになるハーブティー』と聞いてちょっと警戒したわよ」

「私はラベンダーのアレルギー持ちではないけど、好きな香りではないから使わないよ」

 知ってるよね、と意味を込め、アカリはトウコを見る。するとトウコは友人の目に戻って笑った。

「そう言うと思った。でも、いちおう確認するのは、医師としての務めですからね」

「ラベンダーが合わないなら、ミントも入れなくて正解だったということか。ミントもラベンダーもシソ科の植物だから。体が弱っている時には、苦手なものは遠ざけたほうがいいからな」

 アカリの言葉を肯定するように、トウコは微笑む。

 交わす言葉や視線の送り方のひとつひとつに、長年友人として付き合ってきた関係の深さがにじみ出ていた。

「そう言えばアカリ、あなた、良い論文を書いたんですって? レメディエーション・レビュー最新号のトップに論文が載っていたって、ヒロさんが言ってた」

 一瞬、アカリの表情がこわばる。それは長年の友人であるトウコさえ気づかない本当に一瞬のことだったが。アカリは軽く息をはくと、抑揚をつけたわざとらしい口調で言った。

「ああ、そう言えばヒロムもあの学会誌、読んでいたんだっけ」

「ヒロさんも『掃除』をする人ですからね。アカリとはアプローチ方法がちがうけど」

「……ヒロさんって?」

 今まで黙って二人のやり取りを聞いていたマモルが口を開いた。いつの間にか器の中の粥をすすり終えている。食欲はそれなりにあるようだ。

 マモルの問いに答えたのは、アカリだった。

「ヒロムはトウコのパートナー。つまり、二人は夫婦なんだ」

「アカリにとっては、ヒロさんは親友よね」

 トウコが付け加えたことは事実だったが、アカリの心に小さな波を起こした。できればそっとしておいてほしい、それがアカリの偽らざる気持ちだった。

「ずいぶん昔の話だよ、私が毎日会っていたのは学生の頃だし。今までに私が彼と会っていた時間よりも、トウコと一緒にいる時間の方が長くなっているだろうね」

「そうね。それくらいになっているかもしれないわね」

 軽く肯定するトウコだった。彼女にとってヒロムと共にいるのは自然なことで特別に意識することではない。だから、時間の感覚に疎くなるのだ。時間の長さにこだわった発言をするアカリとは対称的な反応だった。

 と、トウコが勢いよく両手をたたいた。マモルが疑問を口にする直前に話を戻す。

「そうそう、アカリにおめでとうって言いたかったの。レビューのトップに論文が載ったということは、念願の懸賞金が入ったんでしょ?」

 しかし、トウコの予想に反してアカリは表情を曇らせた。

「それが……。トウコ、聞いてもらえるかな」

 トウコが黙ってうなずくのを確認してから、アカリは続ける。

「その論文のことで呼ばれて、昨日、キャピタルに行ってきたんだ。懸賞金がもらえるものと思っていた。ところがそこには学会のお偉方がそろっていて……なんというか、細かくて面倒な質問をされたよ。なぜ砂漠にラボを置いているのかとか。しまいには、論文は素晴らしいが君は栄誉を受けるにはどうも相応しくないようだ、ってさ」

「え?」

 思いもよらない話題の行く先に、トウコは短く聞き返すことしかできない。

「……私の研究費の捻出方法が問題なんだそうだ」

 トウコは深くため息をついた。

「だからお金目当てのお付き合いはやめなさいって言っていたじゃない。今さら、そんなことを言っても仕方がないんだけど」

 トウコにしては珍しく、怒りを表に出していた。このぐらいで怒っているようでは、金のために結婚をしようとしていると告白したら彼女はどういう反応をするのだろう。そんな意地の悪い考えをアカリは頭の隅で転がす。

「せめて、そういうことをする時はリスクをできるだけ最小限に抑えるように自衛してよ。これは医者としての忠告」

 マモルを気にしてのことか、トウコは遠回しな言い方をする。アカリにはもちろん、それが何を意味しているかすぐに分かった。アカリは思わず苦笑した。

「そこはまかせて。トウコが言う、自衛が必要な行為に及んだことはないよ。キスですらしていないくらいだ」

「……そうよね。安心したわ」

 今までトウコを心配させていたのだと思うと、アカリの胸内になんとも言えない複雑な気持ちがこみ上げてくる。ついさっきまで意地の悪いことを考えていたにも関わらず、律儀に罪悪感を持ってしまうアカリだった。

「でも、今回ばかりは精神的にまいった。トウコが相手だから言うんだけど、資金的にかなり限界に近いところまできているんだ。だから今回の懸賞金には正直、期待していた。それが入らないとなるともう残された手は少なくてね」

 そこでアカリは、マモルをちらりと見る。ハーブティーが効いたのか、マモルは寝息を立てていた。アカリは思い切って口を開いた。

「おまけに、差別発言もあったからな」

 笑い飛ばそうとしたアカリの試みは失敗する。アカリは口の端を歪めた自嘲の表情になってしまっていた。

 トウコは、そんなアカリを察して、アカリが言おうとしていただろうことを先取りした。

「前時代的な性差別発言でしょ。そういうことは平等委員会に報告して……」

 首を横に振り、アカリはきっぱりと否定する。

「どちらかというと少数派擁護機構の管轄だな」

「え?」

 トウコの語尾が跳ね上がる。

「それって……相手がアカリの事情を調べたということ?」

 アカリはゆっくりとうなずいた。

 アカリとトウコはどちらともなく立ち上がると、ベッドブースを出て、キッチンブースのテーブルに移動する。交わす言葉は自然とささやきに変わっていた。

「アカリが『来訪者』だって知っていたのね」

 アカリが生まれたドーム都市は、現在、この星には存在しない。十年程前にドーム内部で起こった事故のために消滅していた。来訪者とは、消滅ドーム都市からの移住者を指す。

 本来、少ない資源を計画的に割り当てて運営しているドーム都市で、想定していない新たな住民を受け入れるのは困難だ。来訪者を受け入れたドーム都市は、人道的観点から絶賛されるが、エネルギーや食料の供給に抑制調整が加えられた元々の住民にとって、そんな絶賛は無意味だ。

 自らの始末も満足にできない他所者のために、自分の生活に不便を強いられる。そのことに不満を持ち、来訪者をうとむドーム市民は多い。不満を外に出すかどうかは個人個人の性格と立場によるが、不満を表す市民の方が残念なことに多数を占めている。

「おえらい方々の間にも偏見を持つ人がいるんだ。今さらながら、実力とは関係ない所で評価は決められるものだと、無力感が身にしみたよ」

「アカリ、それは不幸なめぐり合わせだったというだけよ。広い世の中、そういう人ばかりではないんだから」

 トウコの発言には、聞く者をうなずかせる力があった。彼女は生涯の伴侶として、アカリと同じく来訪者であるヒロムを選んだ人なのだから。

「トウコの言うとおりだと思う。この広い世の中、どこかに、ヒロムを受け入れたトウコのように、私を理解してくれる人がいるかもしれない。生涯の伴侶を選ぶ時期は今かもしれないと悟ったよ」

「珍しいわね、アカリの口からそんな言葉が出るなんて。私が聞く限りでは初めてじゃないかしら」

 妙な感心するトウコに、アカリは指を折りながら言う。

「来訪者である私を受け入れてくれる人。それで、私の研究を理解して、惜しまずに資金提供をしてくれる人。私はなんとしてもこのラボを維持して、レメディエーションの研究を続けたい。私の人生で研究より大切なものはない」

 話を聞きながら浅くうなずいていたトウコが、体を縦に大きく揺らして、ひときわ大きくうなずいた。

「私が思うのとはちょっとちがうみたいけど、人はそう簡単に変われるものでもないしね。いいんじゃない、結婚するのも。で、肝心の相手はもう決まっているの?」

 アカリは立ち上がる。ワードローブから取り出したものをおずおずとトウコに見せた。衣擦れの音を立て、白いドレスがトウコの目の前に広げられる。

「おめでとう。贈り主は、例のキャピタルのエネルギー供給公社代表の息子?」

「当たり」

 そう言えば何度か彼のことをトウコに話していたことを今さらのように思い出すアカリだった。

「だと思った。彼はアカリの研究を理解している。お金だけでなく社会的地位もあるし、彼がベストだものね」

 トウコが他人のことで、自分の考えを主張することほとんどない。が、時々、トウコは感じたことをそれが事実だと言わんばかりにさらりと口にすることがある。口調がやさしいので言われた方はその時は気づかないのだが、後から思うと彼女が感じたとおりに行動してしまっている。今までそんなことが何度かあった。そう言えば、アカリが砂漠にラボを持ったのも、彼女のこういう言葉がきっかけだった。

 この結婚は反対されるだろうと身構えていたアカリは、予想と真逆の反応をするトウコに、思わず確認してしまう。

「この結婚に賛成してくれるの?」

「もちろんよ。結婚するなら今だとアカリが思って、その上で決めたんでしょう? 相手も申し分ないし、反対するわけないじゃない。本当におめでとう」

「ありがとう」

 アカリは戸惑いながらも、なんとか礼を言うことができた。

 ピピピ……と機械音がアカリとトウコの会話をさえぎる。トウコがポケットから携帯通信ユニットを取り出した。ヒロムからのメールが着信していた。

「私、そろそろ帰るね。マモル君も眠ったようだし」

「朝早く突然に呼んだのに、来てくれてありがとう。それと……頼みたいことがあるんだけど、いいかな」

 言いづらそうにするアカリの様子に、トウコは悟った。

「私にじゃなくてヒロさんに、でしょ」

 アカリは申し訳なさそうにうなずいた。

「アカリから言われなくても、個人的に調べるようにお願いするつもりだったから……マモル君のこと」

 トウコの夫、ヒロムはレメディエーション研究者であるだけではなく、一級の情報技術者でもあった。彼の腕を持ってすればセキュリティゲートを突破してキャピタルのメインサーバーをのぞくことができる。

「ヒロムに、くれぐれも無理しないようにと伝えてほしい」

「わかったわ」

 トウコは砂漠に出て行く装備を手早く整える。最後に防護ジャケットのファスナーを閉めながら、アカリに訊ねた。

「ところで式はいつなの?」

「予定としては来月。ちょっと急なんだけど。トウコにはぜひ出席してほしい」

「もちろん。詳しい日付が決まったらすぐに教えてね」

「誰よりもいちばんに教えるよ」

 トウコを見送ると、アカリはベッドブースをのぞいた。マモルはすっかり眠りに入っている。アカリはマモルが使った食器類を片付け、自分のためのブランチを作り始めた。



■4th phase.  AFTERNOON


 ――遅くなってしまったけれど、いつもやっていることをしなくては。

 そんな思いから、アカリはファームスペースにいた。そこはラボのメイン機能を備えた空間だった。外の環境から完全に切り離され、制御された実験用の大地が顔をのぞかせている。

 まず、アカリは植物の種の保存状況を確認する。これには特に神経を尖らせなければならない。保存している種の中には交配に交配を重ね、他の場所では手に入らないものも数多くあるからだ。そして、栽培中の植物の生育状況の確認。状態によって栽培装置の設定をしなおす。

 実験室に移動して、分析器のチェックを始める。少なくなっている試薬を補充し、計器の周りの掃除する。

 壁に埋め込まれたいちばん大きなメーターに目をやる。それは、太陽熱を利用した発電装置で作った電気をためるセルボックスのメーターだった。針が指している位置から、蓄電量に余裕があると判断したアカリは水とエタノールの蒸留装置にスイッチを入れた。蒸留水もエタノールも、分析には欠かせないので作り置きしておいて損はない。

「こんなにたくさんの機械を使うんだね」

 実験室の入り口にマモルの姿を認めると、アカリはすぐに装置に視線を戻した。作業を中断するのは難しい。区切りがつくまでは流れを止められないのだ。

 目の代わりに、作業に捕われずに自由になっていた口でアカリはマモルの相手をする。

「分析には色々な機械が必要になる。ターゲットがあらかじめ予想できるものを分析するにはここまでの設備はいらないんだけど、私の分析の相手は色々で、必要になる分析方法も機械も予想がつかないんだ」

 長年繰り返すうちに体に染み付いた作業の流れの中で、会話は妨げにはならなかった。むしろ、口を動かしていたほうが動作がなめらかになる気さえしてくる。

「砂相手の分析は簡単ではない。『こんなにたくさんの機械』とマモルは言ったけど、これでも、ここには主な分析装置しかないんだよ。ここで分析できない物が砂の中にあると分かると、キャピタルまで行って専門家に頼むことも、よくある」

「時間もお金もかかりそう」

 マモルの子どもらしくない発想に、アカリは思わず笑みをこぼす。

「そう。だからいつでも貧乏なんだ」

「大変な仕事なんだね、グラウンド・スイーパーって」

 それきりマモルの声がしなくなった。

 作業に区切りをつけたアカリが周りを見ると、マモルはガラス張りの大きなタンクの前にいた。そのタンクは蒸留装置を構成するユニットだ。マモルは、タンクの中の蒸留水やエタノールのしずくがポタポタと音を立てて落ちてくる様子が気に入ったようだった。

「楽器みたいだよ」

 夢中になってタンクに貼りついたまま動こうともしない。

 アカリはマモルに親近感を抱いた。この少年は自分と感性が似ている。同じように感じて、タンクの中の小さな世界に見入ったことがアカリにもあった。

 好奇心にとりつかれてしまったマモルの背中に向かってアカリは言う。

「大変な仕事だとしても、グラウンド・スイーパーは自分が好きで選んだ仕事だから、やめたいと思ったことはないな。でも、機器分析じゃなくて、エクストラゲイザーにサーチしてもらえたら楽なのに、とは時々思うよ」

「……エクストラゲイザー?」

 蒸留水やエタノールのしずくから目を離したマモルがアカリを振り向いて聞き返した。アカリはうなずいて説明を加える。

「正式には超視覚者という。私のような凡人から見れば超能力者というか……特別な力を持っている人たちだよ。なんでも、分析対象の砂を見ただけで成分やレメディエーションに必要な方法が、直感的に判ってしまうらしい」

 マモルは首をひねりながらうつむいてしまった。少年にとっては難しい話だったのかもしれない。

 アカリは、腕を伸ばすとマモルの肩に手を置いた。

「さあ、次はバギーのエンジンのオーバーホールだ。マモルにも手伝ってもらうよ。まずは砂を吸い取ることからはじめよう」

 サンドバギーを置いている倉庫にマモルを連れて行く。倉庫の入り口でアカリはマモルに小さなクリーナーを手渡した。自分でもクリーナーを持つと、アカリは当然のようにバギーの後部席に乗り込む。砂漠から拾った砂まみれのマモルを乗せた後部席は特に念入りに砂を取らなければならない。そうすることで、自然な形で作業が楽な前部の操縦席をマモルに任せた。

 こういうことをあからさまにやるとプライドを傷つけることがある。あくまでも自然に誘導したのは、アカリなりの気遣いだった。

 仕事を手に入れたマモルは、てきぱきと砂の吸引作業をこなしていく。しばらくの間、お互いに黙々と作業を進めていた。と、マモルがクリーナーを止めて、声を上げた。

「ねえ、これは何?」

 アカリもクリーナーを止め、操縦席をのぞきこんだ。マモルが指差した先にあったのは、銀色の円筒形のアクセサリー。思えば、これが日の光に閃いた瞬間、アカリはマモルを救おうと決心したのだ。

「ああ、それは笛だよ」

 アカリは体を伸ばし、アクセサリーを手に取った。口に当てるとと勢いよく息を吹きこむ。アカリの息は、ピーッという甲高い音に変わった。

「これで、いざという時に助けを呼ぶ」

「実際、役に立つのかな?」

 アカリの唇がほほえみの曲線を描く。マモルの疑問は、最初にこの笛を手にした時にアカリが感じたことと同じだった。つくづくこの少年とは気が合うらしい。

「わからない。まだ使ったことがないから。これは、私が初めて砂漠に出た時に、いちばん応援してくれた人からもらったものなんだ。だから、実用性はともかくお守りみたいに思っている」

 一度、笛を握り締めると、アカリは腰のポケットにしまった。

 その時、胸ポケットに入れていた通信ユニットが鳴った。それは音声通信の着信を告げるものだった。ユニットのディスプレイで発信元がトウコであることを確認すると操作パネルに指を走らせて、回線をオープンにする。

「ごめん、風邪に良いハーブティーのブレンドを教えてほしいの。今年の風邪はひどいセキが出るみたいよ」

「ちょっと待っていて。ひどいセキだね」

 アカリは通信ユニットを保留モードにするとマモルに言った。

「マモル、掃除の続きをお願いするよ。私はトウコと話してくるから。話が長くなるかもしれない」

 小走りにベッドルームへ向かう。棚の引き出しのひとつから小さな円盤型の機械を取り出して通信ユニットに取り付けると、トイレに入って鍵をかけた。これは、マモルに会話を聞かれる可能性を考えてのことだった。

 「ハーブティーのブレンドを教えてほしい」とは、これから暗号化した音声を送るという意味の合言葉だった。よほど重要な内容なのだろう。

 通信ユニットに取り付けた機械に暗号キーをセットしたアカリは保留モードを解除して、改めて通信ユニットの向こうへと話しかける。

「お待たせ。どういうこと? 私はただ、彼の素性を調べてほしいと言っただけだよ」

「やあ、アカリ」

 アカリの体にさっと緊張が走った。

 その声はトウコのものではない。アカリにとってはトウコ以上に聞き馴染んでいる声だった。

 通信ユニットを持っていないもう一方の手が、無意識のうちにポケットにすべりこみ、さきほど入れたばかりの銀色の笛を握っていた。その笛の贈り主でもある相手の名を呼ぼうとして唇が震える。アカリは一度、口を真一文字に結んでキッと力を入れると、声を出した。

「ヒロム、暗号化が必要なんてどういうこと?」

「簡潔に説明するよ。データベースに接続してみた。マモルという名前と、トウコが彼を診察した時に記録した網膜コードと、採取した血液から解析したDNAコードで検索した。最初の接続は警告音が鳴って強制終了。こちら側のマシントラブルだと思ったよ。二度目の接続ではノットファウンドのレスが返ってきた。そこで俺はすぐに端末の電源を落とした」

 アカリはつばを飲み込んだ。

「何かの偶然が重なったとは考えられない?」

「気づいたんだ。接続していた端末のスピーカーを消音設定にしていたことをね。にも関わらず、最初の接続でその設定を無視して警告音が鳴った。……すぐにその時に経由していた接続ゲートを6ポイント、全部つぶしたよ。足跡をたどられたら困るからな。別のゲートを自力で探すか、買ってくるかしなきゃ」

 接続ゲートは、ヒロムにとって仕事に欠かせない大切な商売道具だ。その上、簡単に手に入るものではない。闇のマーケットに買い求めるか、データベースにアタックして自力で探すしかない。アカリの口から謝罪の言葉がなめらかにすべり出てくる。

「ごめん。後で必ず埋め合わせする」

「埋め合わせはいつものチャイ用ブレンドのスパイスがいいな。アカリのは他のどのブレンドスパイスよりも美味いから」

 ヒロムの声がわずかに笑いを含んでいた。その笑いが出る時の彼の気持ちをアカリは知っている。それは、相手に負担を感じさせないように彼が気遣いをした瞬間なのだ。

 アカリが安心して漏らした吐息がかすかな音声となって通信ユニットの向こう側に送られる。それからアカリの心の動きを正確につかんだのだろう、ヒロムは一転して鋭くささやいた。

「アカリ、この子は危険だ。そんな予感がする。俺たちが『来訪者』だということ以上に、キャピタルにとって重要な秘匿事項が彼にはあるんだ。これ以上に関わるつもりなら、くれぐれも慎重に」

 ――と、そこでまた、ヒロムの声の調子が明るいものに戻る。

「……って、それはもう、俺が言うことじゃないよな」

「え?」

 話がつかめないでいたアカリが聞き返すと、ヒロムは笑って言った。

「結婚するんだってな。おめでとう。式には俺も呼んでくれよ」

 アカリにとって予想外のことが起こっていた。

 ……だめだ。アカリは浮かびかけてきたトウコへの負の感情を打ち消した。ヒロムにはまだ秘密にしていてほしいと念を押さなかったのは自分だ。トウコとヒロムは夫婦なのだ。共通の知人の話題が出ても不自然ではない。それが分かっていながらも、でも、とアカリは思ってしまう。ヒロムには自分の口から言いたかったのに。

「あ、うん、わかった。お祝いをありがとう」

 動揺しながらも生返事を重ねることでアカリは、なんとか体裁を繕う。そして微妙に話題をずらした。

「それと、今度、私のラボに来ることがあったら前もって連絡して。それまでお望みのスパイスをブレンドしておくよ」

「頼んだよ」

 通信ユニットの回線は向こうから閉じられた。

 アカリのまぶたにヒロムの笑顔が浮かぶ。今までに何度、その笑顔に助けられてきたことだろう。アカリは通信ユニットを両手で握ると、祈りを込めるように胸に当てた。

 倉庫に戻ると、マモルはすでに砂を取る作業を終えて部品を磨く作業に移っていた。

 その様子にアカリは目を見張る。部品を取り外す手つきが慣れていた。部品の磨き方には天性のセンスさえ感じられる。そのマモルの手の動きに、アカリは既視感を覚えた。

 決して明るくない部屋の中で、唯一明るく照らされている彼の手元。あれは学生の時、場所は研究室だったのだろうか。いや、それよりももっと昔の記憶かもしれない……。

 マモルはアカリが戻ってきたことに気がつくと、後ろ手に何かを隠しながら近づいてきた。

「アカリ、ぼくにもお守りをちょうだい」

 腕を突き出し、マモルは握っていた手を開いた。少年の手のひらに載っていたのは、ひとつのナットだった。

「ぼくを助けてくれたバギーのナットだから、お守りになるような気がしたんだ」

 ねだるようにアカリを見上げるマモル。そんな少年に対する答えは、大人にはひとつしか用意されていない。

「あげるよ。くれぐれも大切にしてほしい」

 マモルの口が大きな笑いの形を作った。アカリが彼のまじりけのない笑顔を見たのは、これが初めてだった。ようやく自分に対して心を許してくれたのだ。そう思うと嬉しい反面、同じだけ胸が痛む。

 それでもアカリにはやらなければならないことがあった。ヒロムが苦労して提供してくれた情報を無駄にはできない。

 アカリはぎこちない笑顔を浮かべる。

「マモル、君はずいぶんとエンジンを扱うセンスがいいね。どこかでこういう勉強をしていたのかな?」

「親戚のおじさんが、よくこういうことをやっていて、それを手伝っていたから」

 手伝いの経験だけで、初めて扱うサンドバギーの部品は分解できない。自分でいくつかの機械類を組み立てた経験があるとしか思えなかった。

「親戚のおじさん、か……」

 疑いの響きをまとわせたアカリの鋭い物言いに、マモルは気づいたようだった。

「……どうしても知りたい? ……ぼくの両親の連絡先」

「気持ち良く教えてもらえたら、と思う。連絡先を始め、君のことを色々とね」

 マモルの顔からすっと表情が消えた。

「……ねえ、聞いてもいい? できれば気を悪くしないでほしいんだけど」

 言葉の響きに込められたものは意味を素直に受け取らせてくれない。むしろ真逆、気を悪くしてくれと言っているようなものだった。

「アカリが大事にしているレメディエーションの研究を進めて、この星を浄化して……元に戻したとして、そのことに意味はあるの?」

 身を堅くして、少年の挑発に乗りそうになる身体と心を封じる。ここで反応してはいけない。相手はまだ手の内を隠したままだ。

「人間は砂の毒から身を守るために、ドーム都市型のシェルターを作った。キャピタルみたいな大きいドーム都市もできた。シェルターの中で暮らし続けるなら、外の砂漠がどうなろうと関係ないよ。ドームの中だけで、今の心地よい生活を続けられればいい。そう思うのが普通なんじゃない? それが進化だとみんな思っているよ。アカリはどうしてわざわざ前に戻そうとするの?」

 目の前の少年の存在は、キャピタルの秘匿事項にされている。彼は既にアカリの正体を知っているにちがいない。逆に、それをこちらから口にすることで事を有利に運べる目論見があった。

 アカリはゆっくりと息を吐くと冷静な口調で応じる。

「私が小さい頃、この星は砂漠だらけではなかった。私は以前の緑があふれるこの星を覚えている。それが本来のこの星の姿だと信じているから、元に戻したいと考えている」

「この星が砂漠に覆われたのは、もう50年も前の『災厄』の時だよね。やっぱりアカリは『来訪者』の中でも特別な人なんだ」

 思ったとおりマモルは知っているのだ。アカリははっきりと言った。

「私は『災厄』の前に、当時の不治の病の治療を未来に託して、冷凍睡眠に入った」

 アカリの言葉をマモルがなめらかに続ける。

「そして、そのまま誰からも忘れられて、今から12年前に放棄されたドーム都市からやっと発見された『まどろみの人々』のひとりだね」

 それは触れられたくないことだった。アカリの頭に血が上ってくる。自分の感情を無理やりに抑えつけ、アカリはマモルを挑発し返す。

「そうだよ、君の言うとおり。私たちの存在は、五十年近く誰からも忘れられていた。ところで、そこまで知っている君こそ何者なんだろうね。キャピタルのデータベースに君の名前は見あたらない。それは、ここで君が消息を絶っても誰も探しに来ない、ということだと思うが」

 アカリは敵意むき出しの視線をマモルにぶつける。しかし、少年が臆することはなかった。それどころか、アカリの視線を軽く受け流し、からかうような素振りさえ見せる。

「まあまあ、落ち着いて。もう少しぼくの話を聞いてくれてもいいんじゃない? ところで、アカリの結婚相手はどんな人なの?」

「……キャピタルのある公益会社代表の息子だ」

 とっさにアカリが口にしたのは、その人物を評する時には誰もが口にすることだった。

「婚約者が言うこととは思えないな。その様子だと、アカリは彼に興味を持っていないでしょ。でも、結婚したら一緒に暮らすんだよね」

「一緒には暮らさない。式を挙げた後は、節目のセレモニーに彼の妻として出席するだけだよ。その見返りに、私の研究に必要な資金を出してもらう。彼は私が出したその条件に納得してくれている」

 マモルが意味深にうなずいた。口元に薄笑いが浮かび上がってくる。

 挑発の次にマモルがアカリに向けたのは、他人から向けられる感情の中でアカリが最も嫌悪するもの――哀れみだった。話をそらされたことに気づけないまま、アカリは自分を肯定せずにはいられない衝動に駆られていた。

「今の私にいちばん必要なのは、研究を続けるための資金。これはまぎれもない事実だ。レメディエーションは結果が出るまで時間がかかる。結果が出ないうちはスイーパーは報酬がもらえない。だから軌道に乗るまでは常に資金が足らなくなる。来月までに金が入らないと、私はこのラボを閉めなければならない。それくらいならたいして思い入れがない結婚をする方を選ぶ。ただそれだけのこと」

 マモルは眉ひとつ動かさずに黙ってアカリを見ていた。耐えられなくなったアカリは思わず目の前の少年から目をそらす。そして、弁解めいた言葉を付け加えていた。

「最後のチャンスも逃してしまった私にはそれしかないんだ。論文コンテストで懸賞金を取れなかった。しかも自分の実力とはまったく関係のない理由でね。自力で金を稼ぐ道は閉ざされた」

「だから今度は他人にすがるの?」

 マモルの一言はアカリの自尊心に鈍い音を立てて突き刺さった。アカリはゆっくりと顔を上げる。怒りで耳の先まで真っ赤になっているのは自分でもわかっている。ギリギリと奥歯がきしむ音をアカリは聞いていた。

 紅潮した顔でアカリは再び少年をにらみつける。

「研究を続けるためなら何だってするさ。私は元々そういう人間だ」

 アカリの目尻には悔し涙がにじんできていた。なぜ自分は、わずかな時間でも彼に気を許してしまったのだろう。この少年は最初からアカリの心の傷口に塩を塗りこむのが目的だったにちがいない。

「さんざん嫌がらせをして、もう気が済んだだろう。君の素性にも興味はなくなった。ここまで不快な思いをさせてくれた君を、私がかくまう理由はないし、もう二度と関わりたくない。君はキャピタルへ帰れ」

 すると、アカリの視線の先でマモルが唐突に悲しい目をした。口は苦痛で歪んでいるかのように見える。その思ってもいない変化にアカリはただ戸惑うばかりだった。

 マモルはぽつりと吐き出した。

「ぼくには、帰る所がないんだ」

 アカリの中で、先程までのやり取りをしていた時の彼の印象が一度に吹き飛んでしまった。演技や嘘ではなく、今の姿こそが少年の真実の姿だと思わせるものが、そこにあった。

 やがて、怒りが鎮まりいつもの冷静さを取り戻しはじめたアカリは、自分がマモルに投げつけた言葉の重さを痛感していた。確かにプライドを傷つけられはした。しかしだからと言って子ども相手に、大人気ない態度で応じてよいという理由にはならない。

「……わかった。今すぐに砂漠にほおり出すことはしない。君がどこまで私に話せるのか、まずはそれを考えてもらおう」

 アカリはマモルに倉庫から出るよう促した。場所を変える。それで気分も変わるものならそうした方が良い。

 落ち着いて少年と向き合うにはどこが相応しいか、アカリは考えをめぐらせていた。



■last phase.  ALL DAY LONG


 長い一日だった。

 色々なことが立て続けに起こった日は、特別メニューのバスタイムで疲れをいやすのがいちばんだ。

 アカリは熱めの湯で埋めたバスタブに身を沈めていた。すくうと湯は指の間から流れ、手のひらには浮かべていたバラの花びらが残る。ファームスペースで摘み取ったばかりのみずみずしいバラの花びらだ。それだけではない。湯にはゼラニウムの精油をしみこませた岩塩を溶かしこんでいた。

 バスルーム全体に、新鮮なバラの花びらとゼラニウム精油が織り成す甘く清々しい香りがたちこめてきた。疲れた体と心を鎮めるその香りを体の奥にまで取り込むように息を深く吸うと、アカリは昨日からの出来事を少しずつ思い返していく。


 ……お受けします。

 アカリがそう答えると、彼は静かに笑みを浮かべ、嬉しさを隠し切れずにうわずってしまった声で「ありがとう」と一言だけ言って握手を求めてきた。

 そして、彼はあの白いドレスをアカリに手渡した。ドレスを手にした時、アカリは音にしない声で白いドレスに向かってつぶやいていた。

 ……あなたはもっと幸せな花嫁のところに行くべきだったね。

 結婚に至る動機の後ろ暗さから出た言葉だった。

 思えば、そのドレスの贈り主は会う時はいつでも優しい目をしていたような気がする。ぼんやりしてはいるが、やわらかな朝の光のように心地よさを伴う温かい記憶がアカリにはあった。彼と接している時間で嫌な感情を抱いたことはなかった。だからこそ、自分ではどうしようもない理由で懸賞金を取り消された時、アカリの足は彼の元に向いたのだ。

 晴れ晴れとした彼の表情を改めて見て、アカリは、彼がすべてをかけてプロポーズしていたのだと知る。動機は決して褒められることではないが、それでも自分の行動が一人の人間を幸せにしたらしいという予期しなかった事実が、アカリの罪悪感をやわらげてくれたのは確かだった。


 ……ぼくには、帰る所がないんだ。

 そう言って、悲しい目をしたマモル。

 あれからキッチンブースのテーブルをはさんでしばらく向かい合った。好きな食べ物、どんな本を読んでいるのか、友だちの話……子どもが話しやすそうな話題を向けてきっかけをつかもうとしたが、結局、マモルは一言もしゃべらなかった。

 居場所がない人間に、不用意にその現実を突きつけることは残酷だ。自我が確立した大人でもそれはつらいことだし、自分に向けられる刺激を正面から受ける以外の方法に慣れていない子どもであればなおさらだ。強引に現実と向き合わせようとした人間の言動は拒否されても仕方がない。そのことをアカリは知っていた。自分も通ってきた道だから直感的に分かるのだ。

 アカリが帰る場所を失ったのは病気のためだった。冷凍睡眠で一方通行の時間の旅に出てたどりついたのは、既に両親が去り、記憶にある場所が瓦礫に変わってしまった後の世界だった。

 マモルと決定的にちがうことが、ひとつある。アカリが目覚めた時、自分には同じ境遇のヒロムという仲間がいた。二人で支えあい、学問を学び、一生を捧げられるものをみつけて、今の自分がある。

 マモルに必要なのは仲間だろう。義務や同情で面倒を見てくれる他人ではなく、マモルを一人の人間として理解し、共感でつながる仲間。

 アカリは砂漠の掟を思い出していた。

『遭難者の救助は、あくまでも助ける者が二次遭難しない程度にスキルと精神的余裕を備えている場合に限られる』

 今の自分に、スキルと余裕はあるのだろうか。見きわめをまちがえて共倒れになるのは、無責任だ。一時の感情に流されて手を差し伸べることは、安全な場所にいて同情したふりをすることに比べて、関わってしまった時間の分だけ罪が重くなる。

 しかも、マモルはまだ何かを隠している。それが今後、アカリの人生にどんな影響をどれくらい及ぼすのかも予想できない。

 アカリは目を閉じ、うなだれた。

 ――それでも自分は彼を受け入れる覚悟があるのか。

 おそるおそる自身に問いかける。

 バスルームの天井から、しずくがバスタブの中にしたたり落ちた。目を閉じていたアカリにそれが分かったのは、しずくが落ちた時に音を立てたからだった。今度は立て続けに2回。しずくが落ちて、音を立てる。また、1回。間隔も音の高さも毎回少しずつちがうもの。連なるとメロディになる。……そう、まるで楽器を奏でているかのように。

 アカリは答えを出した。

 バスタイムを終わらせたアカリは、バスローブに着替えるとすぐに通信ユニットをにぎっていた。夜も更けて遅い時間になっていたが、アカリが呼び出した相手はすぐに出た。

 緊張のために乾く唇を湿らせながら、アカリは声を出した。

「申し訳ございません。勝手ながら今回の話はなかったことにさせていただきたいのです」

 相手は長い沈黙の後に、応答した。

「なんとなくこうなることは分かっていたよ」

「本当にごめんなさい」

 消え入るような声でアカリが言う。

「やっと本当の気持ちを僕にも見せてくれたね」

「え?」

 意味が分からずアカリは聞き返す。しかし、相手が答えることはなかった。

「僕は君を助けたかったんだ。それが今回は結婚という形だった。ただ、それだけのことだから」

「いただいたドレスはお返しします」

 すると通信ユニットの向こうの相手は、ははっ、と短く笑った。

「いや、いいよ。返さなくていいって言ったのは本気だから。ドレスは受け取ってもらいたい。結婚しなくても、僕が君の支援者の一人であることには変わりないしね。正直に言うと、僕も引っかかっていたんだ。君の弱みにつけこんで君を自分のものにしようとしていたんじゃないか……って。今思えば恥ずかしいよ」

 それを承知で彼を利用しようとしていたアカリは、恥ずかしいどころではない。許されない罪を背負っていたのかもしれなかった。それを気づかせてくれた彼に、アカリは心から感謝していた。

「君には才能が備わっている。これからも良い研究をしてほしい」

「……はい」

 アカリはいつの間にか涙声になっていた。彼の優しさが、今、初めて身にしみた。金のためだけにこの人と結婚しようとしていた自分はなんと浅ましいのだろう。

 彼はアカリを励ます言葉をさらに二つ三つ口にした。アカリの涙声が落ち着くのを確認したかったのかもしれなかった。そして、彼は通話回線を閉じた。

 気づくと、アカリの目の前にはマモルが立っている。

「……結婚、断ったの?」

 目を赤くして通信ユニットを握るアカリを見て、マモルなりに感じたものがあったのだろう。それが、マモルの口を開かせたのだ。

「そうだよ」

 短く答えると、アカリは通信ユニットをテーブルに置いた。はなをすすると、努めて明るい声を出す。

「さあ、こうなったらマモルにとことん付き合うから。気が済むまでここにいるといい」

 アカリは腕を伸ばしてマモルの体を抱き寄せた。母親が自分の子どもにするように、アカリはマモルの背中を優しく叩く。腕をゆるめてやると、マモルは顔を上げた。

「ありがとう」

 マモルは年相応の屈託のない笑みを浮かべていた。

「じゃあ、ぼくのことも知っていてもらわないといけないね」

 マモルがアカリから体を離す。後ずさりして少し距離を置いた。

「アカリのあこがれの時和教授。彼がどうして、最も偉大なグラウンド・スイーパーと言われているかは、もちろん知っているよね?」

 時和教授の話がどうしてマモルのことにつながるのか。アカリには検討もつかなかったが、マモルの問いに答える。

「彼の新しい分析方法でフィト・レメディエーションに費やされる時間が飛躍的に短縮されたから、というのが大多数の意見だろうね。教授は超視覚者を用いたフィト・レメディエーションの第一人者だ」

 マモルは満足そうにうなずいた。

「物を見るだけで、それがどんな構造をしているのか、どのような物質から成り立っているのかがわかる。砂粒をみつめるだけで、それにどんな種類の毒が含まれているか分かる超視覚者、エクストラゲイザー。時和教授自身がその能力を持つ家系の出だということも知られている」

 同意を求めるように視線を投げてきたマモルに、アカリはうなずいて見せた。まるで、教師が生徒に問いかけをしているかのようだった。マモルは講義を続ける。

「レメディエーションの工程の中で、毒の分析は時間も金もかかるけど、解析訓練を受けたゲイザーなら、分析機を使わずに一瞬でできると言われている」

 そこでマモルは名案を思いついたとでも言わんばかりに目をきらきら輝かせる。

「アカリもエクストラゲイザーを雇えばいいんじゃない? 今ほどお金がかからなくなるし」

「確かにそうだ。私もエクストラゲイザーにいてもらえたらと思うよ。だけど、マモル、現実はそんなシンプルじゃない。ゲイザーはスイーパー以外にも引く手あまただと聞くし。私のような無名のグラウンド・スイーパーに雇われるエクストラゲイザーは、残念ながらいないんだ」

 ふいにマモルが腰を折ってかがんだ。手近に置いてある砂のケースを床から拾い上げる。

「この砂に含まれている有害物質はヒ素、鉛、PCB。『掃除』に必要な植物の種のブレンドは篠原論文のMPL98-AVカクテル、といったところかな」

 マモルが口にしたのは、間違いなく砂の分析結果だった。こんなことを一瞬で成しえる能力を持つのは……。

「アカリが懸賞金をもらい損ねた論文コンテストだけど、そのコンテストって時和シンジロウが審査委員長じゃなかった?」

「そのとおりだよ。時和シンジロウ教授、彼が審査委員長だった。エクストラゲイザーであり、最も偉大なグラウンド・スイーパー。……マモル、君はまさか……」

 アカリはひとつの可能性を思いついていた。そうだとしたら、今までの話の流れにも説明がつく。が、あまりにも突拍子もないことなので音にしようとしても、脳がそれを拒否してしまう。

 マモルは砂のケースを元の場所に戻した。

「現実は意外とシンプルなんだよ」

 側にあった椅子にマモルは腰かける。高い椅子だったので、マモルの足は宙に浮いてしまう。マモルは居心地悪そうに足を揺らせた。

「ぼくの父さんは、すごく無茶な人でね。ぼくに、ある論文を読ませて、これを書いた人の所に行けって言ったんだ。そして、ろくな装備も持たせないで、ぼくを砂漠にほおり出した。……ぼくが普通の子どもだったら確実に死んでいるところだよ」

 アカリは自分が思いついた可能性が現実になりつつあるのを感じていた。

「父さんはね、周りが反対するから駄目だったけど自分はこの人を選びたかった、って言ってたよ」

「私を騙したのか?」

 アカリが硬い声を鋭く投げつける。すると、マモルは眉を寄せて困ったように笑った。

「出会いに関してはぼくも仕組まれたというところ。それ以外は、ぼく自身が直に話をして、その人がどういう人なのかを知りたかったから。怒りの感情に支配されている時こそ人のいちばん醜いところが出てくると思ったんだ。騙したと思われるのは不本意だけど、それでも口が悪すぎたことは素直に謝る」

 ……と、揺れていたマモルの脚の動きがぴたりと止まった。

「帰る所がないというのは嘘ではないよ」

 少しだけ愁いを帯びた表情をマモルは見せた。

「ぼくと父さんは親子といってもちょっとちがっていてね」

 マモルの目は宙の一点をじっと見ている。

「ぼくは、研究のために提供を受けた卵子と父の精子から人工的に作られた子どもなんだ。でも、愛情は普通に生まれた子ども以上に注いでもらったと思っている。この世に送り出してもらったことにも感謝している。不満といって思いつくのは、母が誰か分からないということと、父とは親子というより師弟として過ごした時間の方が長いということぐらいだし。……アカリに言われる前にも時々、考えていたんだ。ぼくには普通の意味での父や母はいないんじゃないかって。自分を年相応でいさせてくれる、そういう意味での帰る場所はないんだって」

 マモルは足を大きく揺らすと、反動をつけて椅子から跳ね降りた。

「前置きが長かったね。ぼくの名前は時和マモル。時和教授は、ぼくの父親であり解析技術の師匠だよ」

 アカリの頭の中はあのウェディングドレスと同じくらい真っ白になっていた。

「父は、助手の中でいちばん解析センスがあるのはぼくだと言っているよ。でもそれはちがう」

「え?」

 聞き返したアカリに、マモルはしてやったりと笑みを浮かべた。

「助手の中で、じゃない。父さん自身よりもぼくの方が解析センスが上ってこと」

「たいした自信家だな」

「まあね」

 マモルは腰に手を当てると自慢げに胸をそらした。アカリは声を立てて笑った。そう、そのくらいのリアクションでいいのだ。無理に背伸びをして冷静に返さなくても。

 そのままにさせてやろう。せめて、自分の前でくらいは感情を素直に表していいのだと思ってもらおう。アカリはそう、心に決めた。

「……では、改めて」

 マモルは深く頭を下げると、右手を真っ直ぐにアカリの前に差し出す。

「アカリ、どうか、ぼくをここにおいて下さい。お願いします」

 唐突ながら、エクストラゲイザーを得るというグラウンド・スイーパーにとっては最高の申し出に、しかしアカリは、すぐには言葉が出なかった。

「いまさら嫌だとか言って、ぼくの人生を簡単に否定しないでよ」

 マモルはいたずらっぽく笑う。だが、それは強がっているに過ぎない。笑顔の裏は不安でいっぱいなのだ。

「ぼくは優秀なスイーパーの手助けをするためにこの世に生を受けて、それから十年も厳しい訓練に耐えてきたんだから。必ずアカリの役に立ってみせる」

 アカリは気がついた。自分は既にマモルを選んでいる。彼が時和教授の息子だからとか、エクストラゲイザーだから受け入れるのではない。しずくが落ちる音を聞いて楽器を思い浮かべ、その様子に心を奪われて見入ってしまう――そういうアカリが共感できる感性の持ち主だからこそ、マモルを受け入れると決めたのだ。

 マモルの小さな手を、アカリは両手でしっかりと包み込んだ。

「もちろんだよ。さっき、とことん付き合うって言ったばかりじゃないか」

 ふたりは心からの笑顔で向き合っていた。

「さあ、そうと決まったら明日、キャピタルに行こう。君のお父さんにお礼を言いたいし、マモルがここで暮らすのに必要なものをそろえなくちゃね」

「お金がなかったんじゃないの?」

 心配そうにしているマモルに、アカリは幸せな結婚を控えた花嫁を思わせるような晴れやかな笑顔で答える。

「ウェディングドレスを売るから、大丈夫」

「そんなことしていいの?」

「ありがたいことに贈り主がいいと言ってくれている。ここは甘えておこう。このドレスを売ればさしあたってやっていけるくらいの額になるよ」

 まさか、本当に売ることになるとは思ってもいなかったけど。と、アカリは胸の内だけで付け加える。

 マモルは大きくうなずいた。

「じゃあ、せっかくだし手放す前に一度、着てみなよ。写真を撮っておこう。きっとすごく似合うと思う」

「でも……花嫁だけじゃ、ね」

 語尾を濁すアカリに、マモルは不思議なものを見る目つきを向ける。

「花嫁だけじゃない」

 そう言ってマモルが指差した先には、マモル自身がいた。

「花婿役はここにいるよ」


――Fin

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