氷の令嬢はジャンクフードに溶かされる
三ヶ月続いた恋の終わりは、あまりにあっけなかった。
『悠河くんと一緒にいても、なんだかずっと同じ場所にいるみたいで……退屈になっちゃったんだ』
学校近くの公園。街灯の下、俺、月見里悠河は一人、元カノの言葉を反芻していた。
彼女が求めていた「特別な恋」。それに、俺が愛する庶民の日常は、ふさわしくなかったらしい。
「……勝手に言ってろ。俺は、俺の『特別』を食うだけだ」
俺は、コンビニの袋から「戦利品」を取り出した。
揚げたての唐揚げ、そして、ソースの香りが暴力的な特盛カップ焼きそば。
栄養バランスも、マナーも、世間体も関係ない。今の俺に必要なのは、このジャンクな慰めだけだ。
焼きそばの蓋を剥がし、マヨネーズをこれでもかと絞り出す。
強烈な、けれど抗いがたい香りが、夜の公園に広がった。
その時だった。
箸を持ち上げた瞬間。
背後から、凍りつくような冷ややかな気配を感じて、俺の動きは止まった。
「――――夜の公園で、何をされているのですか」
鈴の音のように澄んでいるが、一切の感情を排した声。
振り返ると、そこに彼女は立っていた。
雪代しずく。
銀糸の髪を夜風になびかせ、月の光を背負った姿は、同じ人間とは思えないほど神々しい。
誰一人として隣に立つことを許さない「孤高の令嬢」が、なぜこんな場所にいるのか。
「雪代、さん……」
彼女は俺に軽蔑の視線を向けることすらせず、ただ、俺の手元にある「物体」を静かに見つめていた。
……いや、見つめているだけではなかった。
わずかに、彼女の端正な鼻先が動く。
陶器のような白い頬が、ほんの少しだけ、赤らんだ。
「……月見里くん。質問に答えなさい。それは、何です」
「何って……ただのカップ焼きそばだけど」
「……焼き、そば」
彼女は一歩、また一歩と、俺との距離を詰めてくる。
普段の彼女なら、クラスメイトの男子に自分から近づくことなど、万に一つもあり得ない。
だが、今の彼女の瞳には、かつて見たことのない「渇望」の色が混じっていた。
「……説明を。なぜ、そのような……魂を直接揺さぶるような香りがするのです」
「……説明も何も、ただのジャンクフードだよ。雪代さんの家の食事とは、一番遠い場所にある食べ物だろ」
俺はヤケになり、山盛りの麺を箸で持ち上げた。
ソースが絡み、黄金色に光る麺。
雪代さんは、その光景を……生唾を飲み込むような音をさせて、じっと、食い入るように見つめている。
彼女は、何も言わない。
ただ、拳をぎゅっと握りしめ、何かと必死に戦っている。
「……一口、」
消え入りそうな、けれど切実な声だった。
「え?」
「……一口、私に『教授』しなさい。月見里悠河くん」
彼女は、俺の隣に……肩が触れ合うほどの至近距離に、迷いなく腰を下ろした。
凛とした気品は保ったままだが、その瞳は潤み、呼吸は微かに荒い。
「……いいけど。箸、俺のしかないぞ? 『あーん』なんて、雪代さんは嫌だろ」
「………………」
雪代さんは、深い沈黙の後、羞恥に顔を染めて顔を伏せた。
そして、蚊の泣くような声で、けれど拒絶はせずに。
「……許可、します」
「……え?」
「……一度だけです。早く、しなさい」
彼女は、そっと、小さな口を開けた。
学校中が憧れる「孤高の令嬢」が、クラスの隅にいる俺の前で。
餌を待つ小鳥のように、無防備に、その唇を震わせている。
俺は戸惑いながらも、マヨネーズがたっぷりかかった麺を、彼女の口へと運んだ。
雪代さんの唇が、箸を包み込む。
次の瞬間、彼女の身体が、びくんと大きく跳ねた。
「…………っ!!」
咀嚼した瞬間に溢れ出した、濃厚なソースの旨味と脂の刺激。
彼女は両手で自分の頬を押さえ、信じられないものを見たかのように瞳を見開く。
「……なんです、か、これ……っ」
ポツリと、彼女が零した。
その目には、本能的な感動からくる、一筋の涙。
「……噛むたびに、脳が蹂躙されるような……。こんな、こんな無作法な幸福、私は知りませんわ……っ!」
彼女の氷の仮面が、ソースの匂いと共に溶けていく。
「……退屈、なんかじゃないじゃないか」
俺は小さく笑った。
元カノが「退屈」と切り捨てたこの味を、世界で一番高貴な少女が、涙を流して肯定してくれた。
「月見里くん。……もう一口。いえ、この『からあげ』というものも……私に、見せなさい。今すぐに」
気品を保とうとしながらも、視線は完全に唐揚げに支配されている雪代さん。
これが、俺と彼女の、夜の公園限定の「背徳的な契約」の始まりだった。
******
昨夜の出来事は、夢だったのではないか。
登校中、俺の頭には、そればかりが浮かんでいた。
名門・雪代家の令嬢が、深夜の公園で、マヨネーズまみれのカップ焼きそばを食して涙を流す。
そんな話、誰が信じるだろう。
俺自身、目の前で起きた光景が、失恋による一時的な幻覚だったと言われたほうが納得できる。
「……おはよう、悠河くん」
教室に入ると、聞き慣れた声がした。
昨日まで隣にいたはずの彼女――凛香だ。
彼女はもう、別のグループの輪の中にいた。楽しそうにスマホの画面を見せ合い、今朝のカフェの新作メニューについて語っている。
目が合ったが、彼女はすぐに、申し訳なさそうに微笑んで視線を外した。
その顔には「もう終わったことだから、気にしないで」という、残酷なまでの優しさが張り付いている。
俺との三ヶ月間は、彼女にとって、おしゃれな新作スイーツを試食して「思っていたのと違った」と感じた程度の、軽い出来事だったのだろう。
俺は何も言わず、自分の席に座った。
やっぱり、俺は退屈な男なのだ。
誰もが求める『特別』を与えてやることもできず、ただコンビニ飯を啜るのがお似合いの、平凡な脇役。
そう自嘲しながら、ふと、教室の最奥、窓際の席に目を向けた。
「…………」
そこには、一陣の冬風を纏ったかのような、静謐な空間があった。
雪代しずく。
彼女の周囲だけは、喧騒から切り離された別世界だ。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、一冊の分厚い文芸書に目を落とす横顔。その肌は陶器のように白く、一切の隙がない。
昨日、俺の隣で「あーん」をしていた少女と、この氷の令嬢が同一人物だなんて、やはりあり得ない。
俺は静かに溜息をつき、教科書を取り出そうとした。
その時。
不意に、雪代さんが顔を上げた。
まるで、こちらの視線を予感していたかのような、完璧なタイミング。
――目が合った。
俺は心臓が跳ねるのを感じた。
周囲の連中は、彼女と目が合っただけで「射殺される」と怯えるか、あるいは「奇跡が起きた」と喜ぶ。
彼女の瞳は、それほどまでに冷たく、そして美しい。
だが、今の俺には違って見えた。
彼女は、俺をじっと見つめている。
その氷のような瞳の奥で、微かに、本当に微かに、昨夜の公園の街灯のような色が揺れた。
彼女の視線が、一瞬だけ、俺の手元へと流れる。
それは、俺の鞄の隙間からのぞいている「昨夜のコンビニの袋」に向けられていた。
しまった捨て忘れていた。
しかしそれを見た彼女は、微かに喉を鳴らした。
……気がした。
そして。
「…………っ」
雪代さんは、パッと顔を伏せ、本を顔の近くまで持ち上げた。
銀色の髪の間から覗く耳の先が、林檎のように真っ赤に染まっている。
学校中の誰もが、彼女を「孤高」だと崇めている。
誰も、彼女に近づこうとはしない。
だが、俺は知っている。
今の彼女の頭の中にあるのは、高尚な文学の教訓などではなく。
――昨夜、口腔を満たした、あの濃厚なソースの味と肉汁の余韻だ。
そしてその日の放課後。
「月見里くん」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、雪代さんが俺の席の横を通り過ぎようとしていた。
「……あ、ああ。雪代さん」
周囲の空気が、一気に凍りついたのがわかる。
クラスメイトたちが「なぜ、あの雪代さんが月見里に?」と、驚愕の表情でこちらを注視している。
「昨夜の、忘れ物。……後で、返していただきますわ」
彼女は、一度も立ち止まることなく、俺の耳元をかすめるような低い声で、けれど毅然とした口調で言い放った。
そのまま彼女は、凛とした足取りで廊下へと去っていく。
忘れ物?
俺は首を傾げた。そんなものは心当たりがない。
だが、彼女が去った後の机の上に、一枚の付箋が、静かに置かれているのに気づいた。
そこには、万年筆による凛々しい筆致で、たった一行だけ。
『今夜も、九時にあの場所へ。教授の続きを命じます。』
それは、クラスメイトへの連絡事項というには、あまりにも個人的で。
「命令」という形を借りた、必死な「おねだり」だった。
「……ふっ」
俺は思わず、口元を緩めた。
退屈な男、か。
誰にとっても、俺の人生が脇役のそれだとしても。
少なくとも、あの学校一の令嬢にとって、俺は今、世界で最も重要な『背徳の案内人』なのだ。
俺は鞄の中の財布を確認する。
今夜、彼女に教えるべきメニューは、もう決めてあった。
昨夜の唐揚げよりもさらに罪深く、さらに脳を満足させる――禁断の『チーズ・フライドポテト』だ。
周囲のざわつきなど、もうどうでもよかった。
俺はただ、夜の九時が来るのを、今まで生きてきた中で一番楽しみに待っていた。
******
夜九時。約束の公園。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったベンチで、俺、月見里悠河は、膝の上にあるレジ袋の温もりを感じていた。
中に入っているのは、コンビニで買ったばかりのフライドポテト。そして、その上にこれでもかと載せられた、別売りのとろけるチーズ。
俺は家から持参した小さな耐熱容器の中で、それらを「魔合体」させていた。
「……お待たせしましたわね。月見里くん」
背後から響く、凛とした声。
振り返ると、そこには月光をその身に宿したかのような雪代しずくが立っていた。
学校指定のコートを羽織っているが、その立ち姿はどこまでも高潔で、ここが安っぽい公園のベンチであることを忘れさせる。
「こんばんは、雪代さん。……来ないかと思った」
「……『教授』の続きを命じたのは、私です。雪代家の人間は、自らの言葉に責任を持ちますわ」
彼女はそう言いながら、ごく自然な動作で俺の隣に腰を下ろした。
昨日よりも、さらに距離が近い。ふわりと、彼女の髪から清涼なシャンプーの香りが漂う。
だが、その直後。
「…………っ」
彼女の視線が、俺の手元にある「それ」に吸い寄せられた。
容器の中で、予熱によってトロリと溶け始めた黄金色のチーズ。それが塩気のきいたポテトに絡みつき、もはや芸術的なまでの背徳感を放っている。
「……月見里くん。聞いてもよろしいでしょうか。その、見るからに……血管に悪そうな、けれど視覚を暴力的に刺激する食べ物は、一体……?」
「チーズ・フライドポテト。……ポテトだけでも美味いけど、こうして熱々のチーズを絡めると、味の破壊力が跳ね上がるんだ」
俺は割り箸で、チーズが糸を引くポテトを一本、持ち上げた。
雪代さんは、それを……もはや「信仰」に近いような、敬虔な眼差しで見つめている。
「……チーズ。……油。……塩分。……これほどまでに、雪代家の食卓から遠い存在があるでしょうか」
「嫌なら、やめてもいいんだぞ?」
「お黙りなさい。……これは『調査』ですわ。庶民がこれほどまでに魅了される理由を、この私が……私の舌で、解き明かさなければならないのです」
彼女は顔を真っ赤にしながら、けれど逃げ場を失ったように、そっと小さな口を開けた。
「……あ、ん」
俺は、チーズをたっぷり纏ったポテトを彼女の口へと運ぶ。
刹那。
彼女の細い肩が、びくんと大きく震えた。
「…………っっ!!」
彼女は口元を押さえ、そのまま天を仰いだ。
潤んだ瞳から、今夜もまた、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……なんです、か、これ……っ。濃厚なチーズのコクと、じゃがいもの甘み……。そしてこの、喉を焼くような塩分……っ! 身体中の細胞が、歓喜の悲鳴を上げていますわ……!」
「……気に入ったなら、よかった」
「月見里くん、あなたという人は……! なんという、恐ろしいものを私に教えるのですか……っ。これを知ってしまったら、私はもう……明日の朝食の、オーガニックなサラダをどのような顔で食べればいいのか分かりませんわ!」
彼女は必死に食欲と理性の間で葛藤しながら、けれど箸を持つ俺の手を、そっと、自分の小さな手で引き寄せた。
「……もう一口。もう一口だけ、許可します。……いえ、教授しなさい。今すぐに」
その必死な姿が、あまりにも愛おしくて。
俺は不意に、感じていた心のトゲが消えていくのを感じた。
「……なあ、雪代さん」
「……何ですか、今はそれどころでは……はむっ」
二本目のポテトを咀嚼した彼女に、俺は静かに問いかけた。
「俺って……退屈な男かな?」
雪代さんは、咀嚼を止め、驚いたように俺の顔を見た。
彼女はゆっくりと飲み込み、それから、いつもの「氷の令嬢」としての凛とした表情に戻った。
「……退屈? どこのどなたが、そのような愚かな評価を下したのですか?」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめ、断言した。
「私にとって、あなたの隣は、この世界で最も……『未知』と『刺激』に満ちた場所です。……雪代しずくの十七年の人生の中で、今、この瞬間ほど心が躍っていることはありませんわ」
彼女の言葉は、どんな高級な料理よりも、俺の心を温かく満たした。
「……そっか。よかった」
「……。……それに、」
彼女は急に視線を逸らし、自分の膝を抱えた。
赤い耳先を銀色の髪で隠すようにして、消え入りそうな声で付け加える。
「……退屈な男の隣で、私は、このような……はしたない顔など見せませんわ」
それは、彼女なりの、精一杯の告白だった。
俺を「退屈」だと捨てたあいつには、一生見せることのない、世界で一番美しくて、隙だらけで、幸せそうな笑顔。
俺は、空になった容器を見つめて笑った。
「……雪代さん。次は……『牛丼』っていう、またすごい食べ物があるんだけど」
「ぎゅう、どん……。……ふふ。名前からして、剛健な響きですね」
彼女は俺の肩に、そっと自分の頭を預けてきた。
「……明日も、教授をお願いしますわね。私の、背徳のプロデューサーさん?」
夜の公園に、二人の小さな笑い声が溶けていく。
退屈な日常なんて、どこにもない。
高カロリーな背徳と、少しの勇気。
そして、隣で美味しそうに笑ってくれる彼女がいれば。
俺たちの世界は、いつだって、最高にジャンクで、最高に特別なのだ。




