表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/44

第19話「根合の畑、二本目の塔」

 朝の川霧が薄くほどけ、畑の葉は露を小さな透き玉にして揺らした。

 俺たちは粥を分け合ったあと、まず材を肩に担いで丘の鞍部へ向かった。見張り塔を、もう一本――川と丘の「」に立てる。家の拍を広げ、門の“耳”に暮らしの呼吸を満たすために。


 「根を先に噛ませる。幹は三本、束ねてねじり、支柱で“正時せいじ”を打つ」

 アレンの短い指示に頷き、俺は掌を土へ。

 《創耕》が走る。浅く掘った穴の周囲へ細根を編み、杭のように地中へ潜らせてから、幹を沈める。木はきしんで低く歌い、根は歌に応じて土の粒を抱き寄せる。

 「布」

 エリナが結界布を渡す。俺は塔の中段へ斜めに垂らして、空気の層を二つに割った。風は嫌わず、瘴の粉だけが柔らかく押し返される。

 アレンが鞘で支柱をコン、と一打。塔が応える。低い、落ち着いたひと拍。

 「よし。……歌える塔だ」


 塔を下りると、学匠院のロウが圧計の三脚を据えていた。針は低い目盛の上で、眠る子の胸のように上下する。

 「尾根の真上は平圧のまま。門の縁だけ、煮炊きの時間帯にかすかに“きしむ”。」

 「今夜は“名問なとい”の余韻を保つ。――無拍主体で合印しよう」

 俺の言葉に、ロウは小さく頷き、板に新しい図を描く。

 「“無・短・無”。頭も尻尾も置かず、真ん中だけ短拍を噛ませる。外から半拍早い“置く”が来ても、空白に滑らせる構成だ」


 正午前、勇者の前哨から使いが来た。カイルたちは風下の盾壁を一段厚くし、ルーナが氷の薄板で土塁の縁を冷やし、マリナが見張りの兵の喉へ短い祈りを置いているという。

 「今夜は野営を連結する」

 アレンが地図に木炭で線を引く。

 「学匠院の帆布と勇者の前哨、根合の畑の塔――三つを畦と布で繋いで“家の拍”を一筆書きにする」

 ロウが笑って朱を載せた。

 「地図の余白に“居住の線”が引ける日が来るとはな」


 昼過ぎ、拠点ではエリナが祈りの水やりをし、俺は畦を増し締めする。

 「ここにいます。今日も、生きます」

 名だけの祈りは、とても短いのに、畑ははっきりとうなずく。苗鍵は掌で温く、唄杭は胸の骨に小さく花を咲かせるように震えた。

 「ねわ」

 昨夜の子守りの名を、小さく確かめる。土は笑う。塔は低く応じる。家が、確かに広がっている。


 夕刻――蜂蜜色の光が碑列を薄く撫で、野営には粥の匂いが立った。圧計の針が一度だけ跳ねる。

 「層を厚く」

 ロウが布の端を指で弾き、俺は畦へ銀糸の水を薄く通す。ルーナが冷の縁を延ばし、アレンが支柱を正時に打ち、マリナが息だけの祈りを置く。

 俺は冠石の裏の座へ膝をつき、苗鍵を土器に寝かせ、エリナは唄杭を胸に抱いて目を閉じた。合図はすべて無音――骨で聴き、骨で渡す。


 「吸って……」

 無拍。置かない。土が先にうなずく。

 「――二拍」

 短拍。輪の刻みが一度だけ噛む。

 「……置かない」

 無拍。

 外から半拍早い“置く”が刺さってきたが、空白に滑って消えた。布の層がたわみ、塔が低く鳴って拍を守る。

 その瞬間――向こう側から、はじめての“完全な一句”が届いた。

 「ここにいます。ここで生きます」

 順序も拍も、乱れていない。俺たちの言葉が、向こう側で言葉になった。

 エリナの肩が微かに震える。

 「……聞こえましたね」

 「ああ」

 胸の奥が熱く、冷たく、同時に満ちていく。恐れでも歓喜でもなく、“誰か”という輪郭が芽吹く手触り。


 「もう一息」

 アレンが低く言い、鞘で畦をコン、と打つ。

 俺は無拍を落とし、土に名を置く。

 「相輪よ――ねわ」

 祈りは名だけ。

 碑列が産毛のように逆立ち、外から差し込む“置く”は再び空白でほどけた。圧計の針は目に見えて落ち、風が甘くなる。


 その時だ。

 ――鉄の匂い。

 煮炊きの匂いへ遅れて、血鉄の筋が風に紛れた。圧計の針が痙攣し、冠石の根元がぎぃと嫌な音を立てる。

 「“鉄の手”だ」

 ロウの声が低くなる。

 碑列の端、古い鎖の輪の残滓が集まって、蜘蛛の脚のような黒い線を作り出した。粉になった鉄が湿り、形を取り戻す。耳ではなく、爪。拍を“掴む”ための硬い指。

 爪は布の縁を探り、空白の“無拍”を鉄で“測ろう”とするかのように、カン、カン、と無粋な拍で布端を叩いた。

 布が鈍る。空気の層が波立ち、外から半拍早い“置く”が再び刺さる。

 「流、増し!」

 アレンが弁を開き、銀糸が溝を走る。ルーナの冷が水面に薄氷を置き、鉄の爪を鈍らせる。

 「正時、打つ!」

 カイルが光の刃で空を一度だけ斬り、乱れた拍を真ん中へ戻す。

 「祈りは短く」

 マリナの囁きが層を柔らげ、圧がわずかに落ちる。


 だが鉄の爪は数を増やし、布の裾を“掴んで”重くしてくる。塔がきしみ、縄が鳴いた。

 「塔が持たない!」

 ロウの叫び。

 俺は膝を土に沈め、掌で畦を撫でながら息を止めた。――無拍。

 置かない一拍を、いつもより深く、長く。

 家の拍で、穴のない空白を落とす。

 塔が応じた。芯から鳴るひと拍。

 「ここ」

 エリナの名が上に置かれる。短い一語。

 無拍の底で、唄杭が輪を一度だけ震わせる。苗鍵が温度を吐き、土が深く頷く。

 鉄の爪のひとつが、ふっと握りこぶしをほどくみたいに凝集を失い、砂に戻った。


 「いける。――無・短・無、もう一度!」

 アレンの時打ち。ルーナの冷。マリナの息。カイルの正時。

 俺は合印の中心に無拍を据え、短拍を最小に絞った。

 空白が輪郭を持ち、鉄の爪は掴む場所を失って滑る。

 最後に残った一際太い“鉄の指”が冠石の縁を叩き、甲高い悲鳴めいた音を立てた。

 「……冷を“割る”」

 ルーナが囁き、氷の板を指先で弾いた。薄氷が細かく割れて、剃刀の群れのような冷気のあやになり、鉄の指を斜めに撫でる。

 鉄は冷を嫌う。きしんで、砕けた。

 砂が霧のように舞い、布が軽くなる。塔は低く、安堵のひと拍を鳴らした。


 圧計の針が落ち、鍋の匂いが戻る。

 「……持ち直した」

 ロウが深く息を吐き、掌で額の汗を拭った。

 碑列の刻みからは黒い“耳”が減り、代わりに土の産毛のような柔らかい起伏が残る。門は“耳”を閉じ、眠気を濃くしたのだ。

 向こう側から、少し遅れて、扉を軽く叩く音が二つ。

 「ここにいます。――ねわ」

 完全な一句に、子守りの名がそっと添えられた。

 エリナは目を閉じ、笑った。

 「うん。――おやすみ」


 夜更け、野営を連結した“家の線”に沿って、帆布の灯が点々と揺れ、塔は二本とも低く歌った。

 俺たちは鍋を洗い、ロウは板に針の軌跡を写し、アレンは縄の撚りを確かめ、ルーナは氷の縁を薄く削り、マリナは眠る兵に短い祈りを置く。

 俺は最後に冠石へ掌を置き、無拍をひとつ落とした。

 置かない一拍に、土ははっきりとうなずく。

 「相輪よ――ねわ」

 名だけ。

 返事は来ない。が、沈黙は完全な休符になっていた。


 拠点に戻ると、結界布は夜風をほどよく割り、畑は濃い緑を深く息で満たし、二本の塔は交互に低い時打ちを交わした。

 「ただいま」

 エリナが芽に水を遣り、名を置く。

 「ここにいます。今日も、生きます」

 土はふくらみ、苗は背をほんの少し伸ばす。

 アレンが笑って肩を叩いた。

 「新月まで、あと三日だ」

 ロウが圧計を見て小さく頷く。

 「尾根の真上、圧は平らなまま。縁の“きしみ”は沈静。――本番、いける」


 焚き火の火が小さくなり、星が濃くなる。

 遠くで、扉を叩くような音が一度。

 「――ここで、生きます」

 向こう側の誰かの声は、もはやことば未満ではなかった。

 俺は塔の梁に掌を当て、無拍を落とした。

「ここ」

 名だけ。

 家の拍で、門を眠らせる。

 食べて、耕して、眠って、起きる。祈って、刃を鈍らせず、無拍を落とす。

 新月まで三日。

 相輪の門は、子守りの名で眠りへ向かっている。

 ――最後の合印は、暮らしのど真ん中でやる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ