第19話「根合の畑、二本目の塔」
朝の川霧が薄くほどけ、畑の葉は露を小さな透き玉にして揺らした。
俺たちは粥を分け合ったあと、まず材を肩に担いで丘の鞍部へ向かった。見張り塔を、もう一本――川と丘の「間」に立てる。家の拍を広げ、門の“耳”に暮らしの呼吸を満たすために。
「根を先に噛ませる。幹は三本、束ねてねじり、支柱で“正時”を打つ」
アレンの短い指示に頷き、俺は掌を土へ。
《創耕》が走る。浅く掘った穴の周囲へ細根を編み、杭のように地中へ潜らせてから、幹を沈める。木はきしんで低く歌い、根は歌に応じて土の粒を抱き寄せる。
「布」
エリナが結界布を渡す。俺は塔の中段へ斜めに垂らして、空気の層を二つに割った。風は嫌わず、瘴の粉だけが柔らかく押し返される。
アレンが鞘で支柱をコン、と一打。塔が応える。低い、落ち着いたひと拍。
「よし。……歌える塔だ」
塔を下りると、学匠院のロウが圧計の三脚を据えていた。針は低い目盛の上で、眠る子の胸のように上下する。
「尾根の真上は平圧のまま。門の縁だけ、煮炊きの時間帯にかすかに“きしむ”。」
「今夜は“名問”の余韻を保つ。――無拍主体で合印しよう」
俺の言葉に、ロウは小さく頷き、板に新しい図を描く。
「“無・短・無”。頭も尻尾も置かず、真ん中だけ短拍を噛ませる。外から半拍早い“置く”が来ても、空白に滑らせる構成だ」
正午前、勇者の前哨から使いが来た。カイルたちは風下の盾壁を一段厚くし、ルーナが氷の薄板で土塁の縁を冷やし、マリナが見張りの兵の喉へ短い祈りを置いているという。
「今夜は野営を連結する」
アレンが地図に木炭で線を引く。
「学匠院の帆布と勇者の前哨、根合の畑の塔――三つを畦と布で繋いで“家の拍”を一筆書きにする」
ロウが笑って朱を載せた。
「地図の余白に“居住の線”が引ける日が来るとはな」
昼過ぎ、拠点ではエリナが祈りの水やりをし、俺は畦を増し締めする。
「ここにいます。今日も、生きます」
名だけの祈りは、とても短いのに、畑ははっきりとうなずく。苗鍵は掌で温く、唄杭は胸の骨に小さく花を咲かせるように震えた。
「ねわ」
昨夜の子守りの名を、小さく確かめる。土は笑う。塔は低く応じる。家が、確かに広がっている。
夕刻――蜂蜜色の光が碑列を薄く撫で、野営には粥の匂いが立った。圧計の針が一度だけ跳ねる。
「層を厚く」
ロウが布の端を指で弾き、俺は畦へ銀糸の水を薄く通す。ルーナが冷の縁を延ばし、アレンが支柱を正時に打ち、マリナが息だけの祈りを置く。
俺は冠石の裏の座へ膝をつき、苗鍵を土器に寝かせ、エリナは唄杭を胸に抱いて目を閉じた。合図はすべて無音――骨で聴き、骨で渡す。
「吸って……」
無拍。置かない。土が先にうなずく。
「――二拍」
短拍。輪の刻みが一度だけ噛む。
「……置かない」
無拍。
外から半拍早い“置く”が刺さってきたが、空白に滑って消えた。布の層がたわみ、塔が低く鳴って拍を守る。
その瞬間――向こう側から、はじめての“完全な一句”が届いた。
「ここにいます。ここで生きます」
順序も拍も、乱れていない。俺たちの言葉が、向こう側で言葉になった。
エリナの肩が微かに震える。
「……聞こえましたね」
「ああ」
胸の奥が熱く、冷たく、同時に満ちていく。恐れでも歓喜でもなく、“誰か”という輪郭が芽吹く手触り。
「もう一息」
アレンが低く言い、鞘で畦をコン、と打つ。
俺は無拍を落とし、土に名を置く。
「相輪よ――ねわ」
祈りは名だけ。
碑列が産毛のように逆立ち、外から差し込む“置く”は再び空白でほどけた。圧計の針は目に見えて落ち、風が甘くなる。
その時だ。
――鉄の匂い。
煮炊きの匂いへ遅れて、血鉄の筋が風に紛れた。圧計の針が痙攣し、冠石の根元がぎぃと嫌な音を立てる。
「“鉄の手”だ」
ロウの声が低くなる。
碑列の端、古い鎖の輪の残滓が集まって、蜘蛛の脚のような黒い線を作り出した。粉になった鉄が湿り、形を取り戻す。耳ではなく、爪。拍を“掴む”ための硬い指。
爪は布の縁を探り、空白の“無拍”を鉄で“測ろう”とするかのように、カン、カン、と無粋な拍で布端を叩いた。
布が鈍る。空気の層が波立ち、外から半拍早い“置く”が再び刺さる。
「流、増し!」
アレンが弁を開き、銀糸が溝を走る。ルーナの冷が水面に薄氷を置き、鉄の爪を鈍らせる。
「正時、打つ!」
カイルが光の刃で空を一度だけ斬り、乱れた拍を真ん中へ戻す。
「祈りは短く」
マリナの囁きが層を柔らげ、圧がわずかに落ちる。
だが鉄の爪は数を増やし、布の裾を“掴んで”重くしてくる。塔がきしみ、縄が鳴いた。
「塔が持たない!」
ロウの叫び。
俺は膝を土に沈め、掌で畦を撫でながら息を止めた。――無拍。
置かない一拍を、いつもより深く、長く。
家の拍で、穴のない空白を落とす。
塔が応じた。芯から鳴るひと拍。
「ここ」
エリナの名が上に置かれる。短い一語。
無拍の底で、唄杭が輪を一度だけ震わせる。苗鍵が温度を吐き、土が深く頷く。
鉄の爪のひとつが、ふっと握りこぶしをほどくみたいに凝集を失い、砂に戻った。
「いける。――無・短・無、もう一度!」
アレンの時打ち。ルーナの冷。マリナの息。カイルの正時。
俺は合印の中心に無拍を据え、短拍を最小に絞った。
空白が輪郭を持ち、鉄の爪は掴む場所を失って滑る。
最後に残った一際太い“鉄の指”が冠石の縁を叩き、甲高い悲鳴めいた音を立てた。
「……冷を“割る”」
ルーナが囁き、氷の板を指先で弾いた。薄氷が細かく割れて、剃刀の群れのような冷気の綾になり、鉄の指を斜めに撫でる。
鉄は冷を嫌う。きしんで、砕けた。
砂が霧のように舞い、布が軽くなる。塔は低く、安堵のひと拍を鳴らした。
圧計の針が落ち、鍋の匂いが戻る。
「……持ち直した」
ロウが深く息を吐き、掌で額の汗を拭った。
碑列の刻みからは黒い“耳”が減り、代わりに土の産毛のような柔らかい起伏が残る。門は“耳”を閉じ、眠気を濃くしたのだ。
向こう側から、少し遅れて、扉を軽く叩く音が二つ。
「ここにいます。――ねわ」
完全な一句に、子守りの名がそっと添えられた。
エリナは目を閉じ、笑った。
「うん。――おやすみ」
夜更け、野営を連結した“家の線”に沿って、帆布の灯が点々と揺れ、塔は二本とも低く歌った。
俺たちは鍋を洗い、ロウは板に針の軌跡を写し、アレンは縄の撚りを確かめ、ルーナは氷の縁を薄く削り、マリナは眠る兵に短い祈りを置く。
俺は最後に冠石へ掌を置き、無拍をひとつ落とした。
置かない一拍に、土ははっきりとうなずく。
「相輪よ――ねわ」
名だけ。
返事は来ない。が、沈黙は完全な休符になっていた。
拠点に戻ると、結界布は夜風をほどよく割り、畑は濃い緑を深く息で満たし、二本の塔は交互に低い時打ちを交わした。
「ただいま」
エリナが芽に水を遣り、名を置く。
「ここにいます。今日も、生きます」
土はふくらみ、苗は背をほんの少し伸ばす。
アレンが笑って肩を叩いた。
「新月まで、あと三日だ」
ロウが圧計を見て小さく頷く。
「尾根の真上、圧は平らなまま。縁の“きしみ”は沈静。――本番、いける」
焚き火の火が小さくなり、星が濃くなる。
遠くで、扉を叩くような音が一度。
「――ここで、生きます」
向こう側の誰かの声は、もはやことば未満ではなかった。
俺は塔の梁に掌を当て、無拍を落とした。
「ここ」
名だけ。
家の拍で、門を眠らせる。
食べて、耕して、眠って、起きる。祈って、刃を鈍らせず、無拍を落とす。
新月まで三日。
相輪の門は、子守りの名で眠りへ向かっている。
――最後の合印は、暮らしのど真ん中でやる。