表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/44

第18話「合印の夜、門の名を問う」

 朝、畑の葉に残る露が光を砕いていた。

 俺とエリナは畦の端で向かい合い、唄杭と苗鍵を座から外したまま掌に温めて、短拍と無拍を織り交ぜる稽古を続けた。

 「吸って――二拍……置かない」

 俺が胸の底で拍を敷き、エリナは唇をひらかずに視線だけで「ここ」を示す。置かれなかった一拍に、土が先にうなずく。骨で聴く返事。音鏡には返せない種類の合図だ。


 「いい、今の“”は迷いがない」

 「怖さはまだ少し。でも……土が先に頷いてくれるのが分かるから」

 「それが“家の拍”だ。言葉より先にここにいることを伝える」


 見張り塔の踊り場、学匠院の標柱でロウが圧計の針を確かめた。

 「尾根の下は平圧のまま。門の真上だけが“平らに尖っている”……嫌な形だが、焦れた波は出ていない」

 「今夜、名を問う」

 俺は言った。

 ロウの眉がわずかに上がる。

 「“名問なとい”をやるのか」

 「ああ。碑列の裏に、小さな記録があった。“門は名に眠る。家は名を以て門を問え”」

 昨夜、冠石の影で灯苔に照らされて見つけた薄板。そこには儀の骨が短く刻まれていた。

 > “汝が家の名を先に差し出し、門に問え。名を求むる門は、名を返して眠る”


 だが、俺たちの「家」には、まだ名がなかった。

 エリナが小さく息を吸う。

 「……私、考えてみました」

 「聞かせてくれ」

 彼女は畑と小屋、川の音、見張り塔、結界布を順に見渡してから、そっと言う。

 「“根合ねあいの畑”はどうでしょう。根っこ同士が合わさって支え合う畑。リオさんの根と、川の流れと、アレンさんの刃と、ロウさんの知恵と……それから、私の祈り」

 胸が熱くなる。

 「いい名だ」

 アレンが笑って親指を立て、ロウも短く頷いた。

 「記録に残す。学匠院の図にも“根合の畑”と記す」


 昼、最低限の炊き出しと縄の補修を終えると、俺たちは尾根前の野営へ物資を運んだ。勇者の前哨では、盾壁が一段厚くなり、風下の土塁に薄い氷の縁が貼られている。

 カイルは短く挨拶を交わしただけで、視線は常に風下へ。ルーナは杖の先で氷を削り、マリナは兵の喉へ短い祈り――「生きて戻れ」を置いて回っていた。

 「今夜は“家の匂い”が強くなる」

 ロウがおおいかぶさる雲の厚みを見上げる。

 「名問は暮らしの火のそばでやるのがいい。匂いに反応して圧がきしむ前に、層を厚くして拍を通せ」


 夕刻――蜂蜜色の光が碑列の刻みを浅く染めた。

 俺たちは冠石の裏に細い畦を巡らせ、浅い溝へ銀糸のような水を通し、風上と風下に結界布を垂らした。布は風を嫌わず、瘴の粉だけを柔らかく押し返して空気の層を分ける。

 鍋には簡素な粥。野営らしい匂い。それでも「家の匂い」だ。圧計の針がひと跳ねしたが、布の層が受け、畦の拍が落ち着かせる。


 「始めよう」

 合図にカイルが光の刃で空を一度だけ“正時せいじ”に切り、アレンは鞘で畦の四隅をコン、と打つ。ルーナが冷の縁を薄く延ばし、マリナは呼吸だけの祈りを置いた。

 俺は冠石の裏の座に膝をつき、手前に置いた土器かわらけへ苗鍵を寝かせる。エリナは唄杭を胸に抱き、目を閉じて小さく頷いた。


 「名問のことばは短く。返事を待つ“間”を必ず残す」

 ロウの声が消えると、野営のざわめきは背中で遠のき、碑列の刻みが胸骨の裏に移ってくる。

 俺は土に手を当て、低く問う。

 「――ここは“根合の畑”。家の名を差し出す。門よ、あなたは、何という名に眠る?」


 無音の一拍。

 土は頷く――けれど、答えは来ない。

 代わりに、冠石の刻みに粟のような黒い“耳”がまた幾つも芽吹き、外側から半拍早い「置く」を突き立ててきた。音鏡の種が増殖する気配。

 「無拍」

 俺は喉を落とし、ただ“間”を落とす。

 エリナは名だけを置いた。

 「ここ」

 空白が輪郭を取り戻し、外からの“置く”が滑った。布の層がたわみ、畦の拍が息を整える。


 ――ノック、ノック。

 向こう側の、いままでより近い“扉叩き”。

 「……こ、こに……いま……す」

 ことば未満が、順序を覚え始めている。誰かが、門の向こうで名を練習している。

 マリナの祈りが短く重なる。

 「息を守れ」

 アレンが正時を打ち、ルーナの氷が冷の縁を保つ。


 俺はもう一度だけ、問う。

 「――ここは“根合の畑”。門よ、あなたの名は?」


 静けさ。

 碑列の刻みが、土の奥でわずかに光った気がした。その光は声ではない。が、骨で聴ける“名の輪郭”を持っていた。

 「……ソウ、リン」

 はじめは古い響き。

 やがて、それはこの言葉に混ざる。

 「相輪そうりん


 同じ刻みの中に、もう一つの層もあった。

 > 子守りの名を与えよ。門は小名こなに眠る。

 記録板の追記だ。誰かが後の世に重ね書きしたのだろう。

 「……小名?」

 エリナが俺を見る。

 「門の“真名”は相輪。けれど、眠らせるための“呼び名”が要る。家が子に付けるような名だ」

 アレンがニヤリと笑う。

 「なら、寝かす名がいいな」

 俺は冠石の刻みにそっと指を当て、言った。

 「“ねわ”――“寝輪”。」

 エリナの瞳がきらりと光る。

 「ねむりの輪。……素敵」

 ロウが圧計の針をちらりと見て、小さく頷いた。

 「言葉の音が圧に触れた。合っている」


 俺は土器の上の苗鍵を掌で温め、エリナは唄杭の輪を軽く叩く。その拍は短い。

 「相輪そうりんよ――」

 「ねわ」

 短拍、無拍。

 「――眠れ」

 祈りは名だけ。

 布の層がやわらかく沈み、碑列の刻みが一斉に小さく産毛のように逆立った。外側から差し込もうとしていた半拍早い“置く”は、空白を掴めずに霧のようにほどける。


 そのとき。

 ――ノック。

 続いて、はじめての、完全な名。

 「……ここにいます。――ねわ」

 向こう側の誰かが、子守りの名を“呼んだ”。

 エリナの喉が震え、唇がほころぶ。

 「聞こえました」

 「聞こえた」

 俺の声は自分でも驚くほど静かだった。胸の奥で長い緊張がほどけていく。


 冠石の座は今夜、印を噛ませない。本番のために温度を保ち、拍を育てる――記録板にそうあった。

 だが、名問の応答だけで、圧はひとしずく落ちる。圧計の針は目に見えて下がり、布の重みが軽くなる。

 ルーナが杖の先で刻みを撫で、肩をすくめる。

 「おとぎ話みたい。でも、効いてる」

 カイルは何も言わず、ただ一度だけ頷いた。それは“認める”というより、“次へ行け”という目だった。


 野営に戻り、鍋の火を落とし、交替の見張りを決める。

 夜半、風が変わり、尾根の黒に薄い光がかかる。圧計の針は眠る子の胸のように上下している。

 俺は焚き火から少し離れた場所で、合印の稽古を続けた。吸って、二拍……置かない。

 エリナが隣に座り、唄杭を胸で温めながら、目を閉じて「ここ」を置く。

 「ねわ」

 彼女が小さく呼ぶと、土がやわらかく笑った。

 「ねわ」

 俺もひと呼吸だけ重ねる。

 遠くで、扉を叩くような微かな音が二度。

 「……います。ここ、ねわ」

 順序は綺麗ではない。けれど、敵意のない合図。


 学匠院の帆布の陰で、ロウが新しい板へ針の軌跡を写す手を止めた。

 「門の“耳”は減った。音鏡の種が今夜は増えない。――名が効いている」

 「なら、明日は“家”を濃くする」

 アレンが笑って言う。

「見張り塔、もう一本立てるか?」

 「立てよう。川と丘の“間”に。家の拍を広げる」


 拠点へ戻ると、夜露が畑の葉を銀にした。

 結界布は風をやわらげ、塔は低く歌い、小屋の壁の木は呼吸をしている。

 「ただいま」

 エリナが芽に水を遣り、名を置く。

 「ここにいます。――“根合の畑”」

 土ははっきりとうなずいた。

 俺は唄杭を座に立てず、畦の縁にだけ軽く触れさせる。輪は昨夜よりもよく震え、苗鍵は掌の温度を吸って深く温い。


 夜更け、見張り塔の上で星を見ていると、尾根の方角に白い狼煙が短く上がってすぐ消えた。勇者の“通常”。

 続いて、森の遠い奥で乾いた“拍手”が二度――いや、違う。拍ではない。

 扉の向こうから、子供が眠る前に布団を叩くみたいな、小さな仕草の音。

 「……ねわ」

 風が運んできたのは、確かにそう聞こえる気配だった。


 俺は掌を塔の梁に当て、無拍をひとつ落とした。

 「ここ」

 名だけ。

 返事はない。だが、沈黙は柔らかく、土は確かに頷く。

 新月まで、あと四日。

 門は名を覚え、家は名を得た。

 “根合の畑”――この名で、俺たちは暮らす。食べて、耕して、眠って、起きる。祈って、刃を鈍らせず、無拍を落とす。

 相輪の門は、子守りの名で眠る。

 ――本番は、すぐそこだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ