第18話「合印の夜、門の名を問う」
朝、畑の葉に残る露が光を砕いていた。
俺とエリナは畦の端で向かい合い、唄杭と苗鍵を座から外したまま掌に温めて、短拍と無拍を織り交ぜる稽古を続けた。
「吸って――二拍……置かない」
俺が胸の底で拍を敷き、エリナは唇をひらかずに視線だけで「ここ」を示す。置かれなかった一拍に、土が先にうなずく。骨で聴く返事。音鏡には返せない種類の合図だ。
「いい、今の“間”は迷いがない」
「怖さはまだ少し。でも……土が先に頷いてくれるのが分かるから」
「それが“家の拍”だ。言葉より先にここにいることを伝える」
見張り塔の踊り場、学匠院の標柱でロウが圧計の針を確かめた。
「尾根の下は平圧のまま。門の真上だけが“平らに尖っている”……嫌な形だが、焦れた波は出ていない」
「今夜、名を問う」
俺は言った。
ロウの眉がわずかに上がる。
「“名問”をやるのか」
「ああ。碑列の裏に、小さな記録があった。“門は名に眠る。家は名を以て門を問え”」
昨夜、冠石の影で灯苔に照らされて見つけた薄板。そこには儀の骨が短く刻まれていた。
> “汝が家の名を先に差し出し、門に問え。名を求むる門は、名を返して眠る”
だが、俺たちの「家」には、まだ名がなかった。
エリナが小さく息を吸う。
「……私、考えてみました」
「聞かせてくれ」
彼女は畑と小屋、川の音、見張り塔、結界布を順に見渡してから、そっと言う。
「“根合の畑”はどうでしょう。根っこ同士が合わさって支え合う畑。リオさんの根と、川の流れと、アレンさんの刃と、ロウさんの知恵と……それから、私の祈り」
胸が熱くなる。
「いい名だ」
アレンが笑って親指を立て、ロウも短く頷いた。
「記録に残す。学匠院の図にも“根合の畑”と記す」
昼、最低限の炊き出しと縄の補修を終えると、俺たちは尾根前の野営へ物資を運んだ。勇者の前哨では、盾壁が一段厚くなり、風下の土塁に薄い氷の縁が貼られている。
カイルは短く挨拶を交わしただけで、視線は常に風下へ。ルーナは杖の先で氷を削り、マリナは兵の喉へ短い祈り――「生きて戻れ」を置いて回っていた。
「今夜は“家の匂い”が強くなる」
ロウがおおいかぶさる雲の厚みを見上げる。
「名問は暮らしの火のそばでやるのがいい。匂いに反応して圧がきしむ前に、層を厚くして拍を通せ」
夕刻――蜂蜜色の光が碑列の刻みを浅く染めた。
俺たちは冠石の裏に細い畦を巡らせ、浅い溝へ銀糸のような水を通し、風上と風下に結界布を垂らした。布は風を嫌わず、瘴の粉だけを柔らかく押し返して空気の層を分ける。
鍋には簡素な粥。野営らしい匂い。それでも「家の匂い」だ。圧計の針がひと跳ねしたが、布の層が受け、畦の拍が落ち着かせる。
「始めよう」
合図にカイルが光の刃で空を一度だけ“正時”に切り、アレンは鞘で畦の四隅をコン、と打つ。ルーナが冷の縁を薄く延ばし、マリナは呼吸だけの祈りを置いた。
俺は冠石の裏の座に膝をつき、手前に置いた土器へ苗鍵を寝かせる。エリナは唄杭を胸に抱き、目を閉じて小さく頷いた。
「名問の詞は短く。返事を待つ“間”を必ず残す」
ロウの声が消えると、野営のざわめきは背中で遠のき、碑列の刻みが胸骨の裏に移ってくる。
俺は土に手を当て、低く問う。
「――ここは“根合の畑”。家の名を差し出す。門よ、あなたは、何という名に眠る?」
無音の一拍。
土は頷く――けれど、答えは来ない。
代わりに、冠石の刻みに粟のような黒い“耳”がまた幾つも芽吹き、外側から半拍早い「置く」を突き立ててきた。音鏡の種が増殖する気配。
「無拍」
俺は喉を落とし、ただ“間”を落とす。
エリナは名だけを置いた。
「ここ」
空白が輪郭を取り戻し、外からの“置く”が滑った。布の層がたわみ、畦の拍が息を整える。
――ノック、ノック。
向こう側の、いままでより近い“扉叩き”。
「……こ、こに……いま……す」
ことば未満が、順序を覚え始めている。誰かが、門の向こうで名を練習している。
マリナの祈りが短く重なる。
「息を守れ」
アレンが正時を打ち、ルーナの氷が冷の縁を保つ。
俺はもう一度だけ、問う。
「――ここは“根合の畑”。門よ、あなたの名は?」
静けさ。
碑列の刻みが、土の奥でわずかに光った気がした。その光は声ではない。が、骨で聴ける“名の輪郭”を持っていた。
「……ソウ、リン」
はじめは古い響き。
やがて、それはこの言葉に混ざる。
「相輪」
同じ刻みの中に、もう一つの層もあった。
> 子守りの名を与えよ。門は小名に眠る。
記録板の追記だ。誰かが後の世に重ね書きしたのだろう。
「……小名?」
エリナが俺を見る。
「門の“真名”は相輪。けれど、眠らせるための“呼び名”が要る。家が子に付けるような名だ」
アレンがニヤリと笑う。
「なら、寝かす名がいいな」
俺は冠石の刻みにそっと指を当て、言った。
「“ねわ”――“寝輪”。」
エリナの瞳がきらりと光る。
「ねむりの輪。……素敵」
ロウが圧計の針をちらりと見て、小さく頷いた。
「言葉の音が圧に触れた。合っている」
俺は土器の上の苗鍵を掌で温め、エリナは唄杭の輪を軽く叩く。その拍は短い。
「相輪よ――」
「ねわ」
短拍、無拍。
「――眠れ」
祈りは名だけ。
布の層がやわらかく沈み、碑列の刻みが一斉に小さく産毛のように逆立った。外側から差し込もうとしていた半拍早い“置く”は、空白を掴めずに霧のようにほどける。
そのとき。
――ノック。
続いて、はじめての、完全な名。
「……ここにいます。――ねわ」
向こう側の誰かが、子守りの名を“呼んだ”。
エリナの喉が震え、唇がほころぶ。
「聞こえました」
「聞こえた」
俺の声は自分でも驚くほど静かだった。胸の奥で長い緊張がほどけていく。
冠石の座は今夜、印を噛ませない。本番のために温度を保ち、拍を育てる――記録板にそうあった。
だが、名問の応答だけで、圧はひとしずく落ちる。圧計の針は目に見えて下がり、布の重みが軽くなる。
ルーナが杖の先で刻みを撫で、肩をすくめる。
「おとぎ話みたい。でも、効いてる」
カイルは何も言わず、ただ一度だけ頷いた。それは“認める”というより、“次へ行け”という目だった。
野営に戻り、鍋の火を落とし、交替の見張りを決める。
夜半、風が変わり、尾根の黒に薄い光がかかる。圧計の針は眠る子の胸のように上下している。
俺は焚き火から少し離れた場所で、合印の稽古を続けた。吸って、二拍……置かない。
エリナが隣に座り、唄杭を胸で温めながら、目を閉じて「ここ」を置く。
「ねわ」
彼女が小さく呼ぶと、土がやわらかく笑った。
「ねわ」
俺もひと呼吸だけ重ねる。
遠くで、扉を叩くような微かな音が二度。
「……います。ここ、ねわ」
順序は綺麗ではない。けれど、敵意のない合図。
学匠院の帆布の陰で、ロウが新しい板へ針の軌跡を写す手を止めた。
「門の“耳”は減った。音鏡の種が今夜は増えない。――名が効いている」
「なら、明日は“家”を濃くする」
アレンが笑って言う。
「見張り塔、もう一本立てるか?」
「立てよう。川と丘の“間”に。家の拍を広げる」
拠点へ戻ると、夜露が畑の葉を銀にした。
結界布は風をやわらげ、塔は低く歌い、小屋の壁の木は呼吸をしている。
「ただいま」
エリナが芽に水を遣り、名を置く。
「ここにいます。――“根合の畑”」
土ははっきりとうなずいた。
俺は唄杭を座に立てず、畦の縁にだけ軽く触れさせる。輪は昨夜よりもよく震え、苗鍵は掌の温度を吸って深く温い。
夜更け、見張り塔の上で星を見ていると、尾根の方角に白い狼煙が短く上がってすぐ消えた。勇者の“通常”。
続いて、森の遠い奥で乾いた“拍手”が二度――いや、違う。拍ではない。
扉の向こうから、子供が眠る前に布団を叩くみたいな、小さな仕草の音。
「……ねわ」
風が運んできたのは、確かにそう聞こえる気配だった。
俺は掌を塔の梁に当て、無拍をひとつ落とした。
「ここ」
名だけ。
返事はない。だが、沈黙は柔らかく、土は確かに頷く。
新月まで、あと四日。
門は名を覚え、家は名を得た。
“根合の畑”――この名で、俺たちは暮らす。食べて、耕して、眠って、起きる。祈って、刃を鈍らせず、無拍を落とす。
相輪の門は、子守りの名で眠る。
――本番は、すぐそこだ。