第17話「尾根の真下、最後の前室」
夜が明けきる前、畑の露がまだ丸い珠のまま葉にしがみついている時刻。見張り塔の踊り場で交替の挨拶を交わし、俺たちは尾根へ向かった。
新月まで、あと六日。圧計の針は低いが、東の尾根の真下を指すように細く尖っている。そこだけが、呼吸の拍をずらす“癖”を保っていた。
「今日は“最後の前室”だ」
アレンが鞘を軽く叩く。
「地上側は俺たち、勇者は風下の盾壁。学匠院は狼煙と圧計。――戻りは日が中天を過ぎる前」
エリナは小さく深呼吸し、唇を結んだ。
「祈りは名だけ。無拍は……落とせます」
「大丈夫だ」
俺は彼女の指先の冷たさを両手で包み、頷いた。唄杭は彼女の胸もとに。苗鍵は俺の腰に。どちらも、体温に合わせて静かに呼吸している。
尾根の斜面は白っぽい砂礫に覆われ、踏むたびに短い鈴のような振動が足裏を撫でる。上っていくほど、匂いが変わった。石の冷たさに、微かな血鉄の匂い――金属臭の筋が走っている。
ロウが計器を傾け、鼻をひくつかせる。
「鉱脈じゃない。人の打った鉄が土に“溶けて”筋になった匂いだ。古い留め金、鎖……門の縫い目に打たれた鉄が、長い時間で土に筋を描いたんだろう」
アレンが眉を寄せた。
「金属臭は向こう側の“手”の匂いでもある。刃は抜かずにいこう」
尾根の背を越えると、谷側へ落ち込む斜面の中腹に裂け目が口を開けていた。幅は二人分、奥は黒い。入口の岩面には小さな穴が群れていて、それぞれに薄い膜――音鏡の種が張り付いている。息をひとつ吐くだけで膜がぴたりと震え、囁きを反射する準備を始める。
「……巣だな」
ルーナが杖で一つだけ縁をつつき、膜が砂にほどける様子を確かめてから肩を竦める。
「反響で祈りを乱す気だわ」
マリナが祈りの指を胸に当て、目を伏せる。
「名だけで十分。長くは置かない」
俺は結界布を入口の両側へ垂らし、布と岩の隙間に細い根を走らせた。布は音を止めるためではなく、空気の層を整える。乱れた流れは拍を壊しやすい。
「行こう」
アレンが先に割れ目へ身体を滑り込ませ、俺とエリナ、最後尾にロウ。勇者側は外の風下に盾をならべる配置だ。
内部は低いが広かった。天井から根の化石みたいな石筍がぶら下がり、壁という壁に小さな穴が穿たれている。膜は薄く、息で震え、耳の奥で反響を作る。
「“ここにいます。今日も、生きます”」
――俺の声が、わずかに違う抑揚で今すぐ返ってきた。
「いますここ」
続いて、乱れた順序の囁き。穴の奥、もっと深いところからの“ノック”が、言葉の形へ寄ってきている。
「音鏡は“耳”だ」
俺は石面の粒子に掌を密着させ、骨で聴く拍へ切り替えた。
「耳に向かって言わない。土へ言う」
エリナが唇だけを動かす。
「ここ」
名だけ。音ではなく、拍の“空白”が落ちる。膜は返せない。返せないものは増幅されない。
「よし、行ける」
アレンが頷き、最奥へ目を凝らす。通路の突き当たりに、浅い円形の窪みが見えた。輪の刻み。左右に並ぶ二つの座。――最後の前室の座だ。
座の周りには、錆びた鉄片が花びらみたいに散っていた。鎖の輪が砕け、長い年月で赤い粉になったものだ。指で触れると粉は土へ戻り、鼻の奥に金属臭が広がる。
「鉄で“締め”た跡だ」
ロウが膝をつく。
「鍵の代わりに鎖を打ち込んで封じた時期があったんだろう。けれど鉄の封は長持ちしない。拍に負けて土が“食う”。……今は拍で閉じるほうが正しい」
座の温度は低い。輪は震えていない。だが周囲の穴が、いっせいに膜を震わせた。
「置け」
アレンが短く。
「段取りは昨日と同じ。短拍で噛ませて、最後に無拍で落とす。刃は“時打ち”、流は薄く、冷の縁は狭く張れ。……乱されても、名だけで戻す」
位置につく。俺は左の座に苗鍵、エリナは右に唄杭。アレンは皮管と鞘、ルーナは氷の薄板、マリナは祈りの“息”。ロウは入口側の布の縁を握り、風の層を押さえる。
「吸って――二拍……置く」
短拍。輪が噛む。鎖の音が一つほどける。
「無拍は後で。……次」
アレンが枠を打ち、流が溝を走り、冷の縁が輪郭を保つ。
その刹那、壁の穴が一斉に鳴った。反響が半拍早く「置く」を返し、輪が前のめる。
「戻せ」
俺は喉を落とし、何も置かない拍を深く落とす。土が頷く。輪は前のめりをやめ、こちらの時に戻った。
「尻尾は置かない。……もう一息」
――その時、奥で“ノック”が二つ。間髪入れず、言葉未満がまとまった。
「……ここ、に、います」
順序が合った。
反響ではない。音鏡の膜は返せない“声”。向こう側の誰かが、こちらの“名”を言った。
エリナの唇がわずかに震えた。
「聞こえました……?」
俺は頷き、短く返す。
「……ここ」
無拍と、名だけ。穴の群れが静まり、“ノック”が一度だけ、やわらかく返った。
輪の内側で、鎖の音が二つ続けてほどけた。
「いまだ、合印」
アレンの時打ちに合わせ、俺とエリナは同時に印を置いた。苗鍵と唄杭が左右に噛み、輪が二重に回る。
「無拍――落とす」
最後の一拍を置かない。
土が頷いた。
重い出水が遠くで止まるような、低い終止音。圧が抜け、穴の膜が一斉に萎んだ。金属臭が淡くなり、石の匂いが戻る。
「終わった……」
エリナが息を吐き、膝に手をついた。
「最後の前室、閉じた」
ロウが圧計の携帯針を覗き、うなずく。
「尾根の尖りは沈んだ。門の真上だけが、水平に広い“平圧”になっている。次は“門そのもの”だ」
座から印を外す前、俺は壁の奥に手を添えた。骨で聴く拍は静かだが、遠くの、薄い、やさしい“合図”が残っている。
「……こ、こに、いま、す」
幼い声にも、老いた声にも聞こえる、誰でもない誰かの声。
エリナが唇だけで祈った。
「ここにいます。今日も、生きます」
祈りは喰われない。穴の膜は動かず、ただ土だけが微かに頷いた。
外へ出ると、勇者の盾壁は薄く霜をまとい、風下に小さな土塁が延びていた。カイルがこちらを見、短く問う。
「どうだ」
「落ちた。尾根の下は静かだ。――次は門の前」
ルーナが目を細め、冠石の刻みを撫でた。
「金属臭が薄くなったわ。誰かが“鉄で締める”のを諦めたあとがはっきり出てる」
「拍で閉じるしかない――向こうも、たぶん分かっている」
俺は苗鍵を掌で温めながら言う。
「今夜から“合印”の稽古を強める。無拍を落とすのは俺。名はエリナ。刃は時打ち。流は薄く、冷の縁は狭く。学匠院は布の層を増やしてくれ。勇者は風下の防壁を厚く」
ロウが頷き、圧計に新しい板を差し込む。
「新月まで五日。門前の圧は平らだが、縁で“家の匂い”にだけ反応する。――晩の煮炊きは野営の外でやるな」
「やらない。けれど、匂いは消さない」
俺は笑った。
「門は家を嫌う。家は門を眠らせる。……なら、俺たちは暮らしで勝つ」
拠点へ戻る道すがら、尾根の向こうから“ノック”がひとつ落ちた。
「……ここに」
名前の半分。それでも十分だ。
畑に帰れば、芽はまた少し背を伸ばし、結界布は風をやわらげ、見張り塔は低く歌っている。
「ただいま」
エリナが水を遣り、名を置く。
「ここにいます。今日も、生きます」
土がはっきりとうなずいた。
夜。
学匠院の帆布の下で、俺たちは“合印”の稽古を繰り返した。吸って、二拍、置く。――無拍。
刃は時を打ち、流は薄く走り、冷の縁は狭く保つ。
置かれなかった一拍に、土は確かに頷き、唄杭の輪は静かに震える。苗鍵は掌で熱を受け取り、拍を蓄える。
火の向こうで、勇者の兵が盾の革紐を替え、マリナが短い祈りを置き、ルーナが氷を薄く削ぎ、カイルが光の刃で空を一度だけ正時に切る。
暮らしの音が、野営を満たした。
就寝前、塔へ登ると、尾根の黒が星の下で静かに沈んでいた。
――ことば未満の返事はなかった。けれど、沈黙は柔らかい。
俺は掌を塔の梁に当て、無拍をひとつ落とした。
「ここ」
名だけ。風は甘く、畑は息をしている。
明日も耕し、食べて、眠って、起きる。祈って、刃を鈍らせず、無拍を落とす。
新月まで、あと五日。
相輪の門は、すぐそこまで眠気を帯びている。――俺たちの暮らしで、必ず眠らせる。