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第16話「門前の野営、家の守り」

 朝、露に濡れた畑は昨日より濃い緑で揺れていた。

 俺たちはまず拠点の守りから手を付けた。アレンが中心になって、川辺の柳と丘の間に見張り塔を一本。胴の太い幹を三本束ね、根の拍で地中へ深く噛ませると、塔は風にきしみながらも安定した低い声で鳴いた。結界布は二枚を常設に増やし、畑と小屋の間に斜めに垂らして“空気の層”を作る。布は風を嫌わず、瘴の粉だけを柔らかく押し返す。


 見張りは三刻ごとの交替。昼は俺とエリナ、夜はアレンとロウ、早朝に俺――と、学匠院の巡回が間に入る。狼煙は白を常灯に、青は協力、赤は避難の合図。塔の踊り場に油壺と乾いた薪、圧計を縛り、風向きを記した札を結わえた。


 「唄杭と苗鍵は温度を落とすな」

 アレンが手短に確認し、俺は頷く。

 「無拍の稽古は食事の前後で挟む。暮らしの呼吸に混ぜるのがいちばん強い」


 昼餉は簡素な粥だが、鍋から上る湯気に、土がほっと息をついた気がした。エリナは祈りを短く置く。

 「ここにいます。今日も、生きます」

 名だけの祈り。唇から離れた言葉は、布の層に沿ってやわらかく畑へ吸い込まれる。


 午後、俺たちは尾根前の野営へ物資を運んだ。学匠院の帆布は二張り増え、周囲に結界布の帯が渡されている。圧計の針は落ち気味だが、心臓の拍のように一定の癖が残る。

 「東の尾根、冠石の下でわずかな“尖り”が持続している」

 ロウが針を指しながら言った。

 「匂いにも反応がある。……“煮炊きの匂い”、つまり家の匂いが濃くなる時間に限って、圧がきしむんだ」


 “門は家を嫌う”。洞の文字が胸裏へ蘇る。

 「晩餉の火を遠のけるか?」

 アレンが問う。俺は首を振った。

 「いや、火を弱めるのは向こうの思う壺だ。家の匂いは、俺たちの鍵でもある。――強く暮らす。結界の層だけ厚くして、拍を整えよう」


 勇者の前哨は尾根の北側に延び、小さな盾壁と風下の土塁ができていた。カイルは必要最低限の言葉だけを交わし、ルーナは氷の板を薄く寝かせ、マリナは見張りの兵の喉を撫でるように祈りを置いていく。

 「生きて帰れ。食べて、眠れ」

 彼女の祈りは短く、それだけだったが、帆布の下の空気が少し甘くなった。


 夕暮れ、尾根は蜂蜜色に染まり、鍋の匂いが風に乗った。圧計の針がかすかに跳ねる。

 「来るぞ」

 ロウが顔を上げた瞬間、冠石の列のうち三本が同時に微震し、刻みの溝へ粟粒の“耳”が幾つも芽吹いた。音鏡の種だ。

 石の内側から、ことば未満の囁きが返る。

 「……い、ま……す、ここ……」

 昨日より鮮明だ。順序はまだ乱れているが、拍が“こちら”へ寄り始めている。


 「前室の座、短拍から無拍で落とす。合図は俺が送る」

 俺は冠石の裏へ回り、苗鍵の座を撫でた。唄杭はエリナに。アレンは流と刃、ルーナが冷の縁、マリナは息の祈り、カイルが“光の時打ち”を担当する。学匠院の布は風上と風下へ二枚、勇者の盾は横へ広がる。

 ――暮らしの陣形で、門を眠らせる。


 「吸って――二拍、置く」

 短拍。輪は素直に噛み、鎖が半分ほどほどける。

 その刹那、冠石の“耳”が一斉に震え、外側から半拍早い“置く”が刺さった。

 輪が早まり、噛み合わせがきしむ。

 「無拍!」

 俺は喉の力を落とし、息を止めて“落とす”。音は何も置かれないが、土は確かに頷く。輪は早まりをやめ、俺たちの時に合う。


 「尻尾は――置かない」

 マリナの祈りが短く乗る。

 「息を守れ」

 ルーナの氷が畦の縁を冷やし、アレンの鞘が枠の四隅を正時に打つ。カイルの光が一度だけ空を斬り、乱れた拍を戻す。

 エリナは名だけを置く。

 「ここ」

 舌先ほどの一語。輪はさらに深く沈み、鎖があと一つ――。


 その時だった。

 尾根の裏から、鍋の匂いに混じって土が嫌う金属臭が流れ込んだ。遠くの誰かが鎖を引き上げるような、硬い“拍手”。

 冠石が震え、列の端がばちりと火花めいた光を吐いた。音鏡の種が弾け、砂が霧のように舞い、結界布へまとわりつく。

 「布が重くなる!」

 ロウが叫ぶ。空気の層が鈍り、瘴の霧が布の隙間をすり抜けようとする。

 「流を増やす!」

 アレンが弁を開き、銀糸が溝を走る。ルーナが冷を足して水面を薄氷にし、霧の足を止める。

 「――無拍、もう一つ」

 俺は掌を冠石へ押し当て、何も置かない拍を深く落とした。

 土が頷き、輪の奥で扉がわずかに沈む。

 「今だ、合印!」

 苗鍵と唄杭が左右で噛み、鎖がほどける音が重ねて三つ。

 吹き上がりが、ふっと消えた。


 圧計の針が落ち、風が甘くなる。粘ついた霧が薄まり、鍋の匂いが戻る。結界布は重みを吐き出し、布端が軽く揺れた。

 「――持った」

 ロウが息を吐き、親指を立てる。

 「最初の“開門試し”、これで終わりだ」


 だが石の“耳”は幾つか残り、なおもこちらの拍を測ろうとしていた。

 「見てるな」

 アレンが低くつぶやく。

 「向こうの誰かが、暮らしの拍を盗みたいのさ」

 「盗まれない」

俺は冠石の刻みへ指の腹を当て、骨で聴く拍だけを残した。

 「音鏡は耳。土は骨。――骨には骨で返す」

 エリナは唇だけで祈りを織る。

 「ここにいます」

 今度は四語全部。ことばが欠けなかった。

 石の耳が一つ、すっと白くなり、砂にほどけていく。祈りは喰われない――門に刻まれていた通りだ。


 夜、野営に灯がともる。

 学匠院の帆布の下で、ロウが板に針の軌跡を写し、勇者の兵が盾の革紐を替え、俺とアレンは唄杭と苗鍵の温度を肩で確かめた。

 「新月まで、あと七日」

 ロウの声は穏やかだが、針先は油断なく揺れている。

 「“前室”はあと一枚。尾根の真下が本番だ」


 俺は火のそばで無拍の稽古を続けた。吸って、置かない。掌の下で土が頷く。

 エリナも隣で同じ呼吸を刻み、目を閉じた。

 「怖い?」

 「少し。でも――今日は、家の匂いで勝てました」

 彼女は微笑む。

 「ここで生きる匂い、門は嫌う。でも、眠る」

 「眠る」

 俺は頷いた。

 「食べて、耕して、眠って、起きて。祈って、刃を鈍らせず、無拍を落とす。……それが鍵だ」


 その時、尾根の闇の向こうから、ことば未満の返事が落ちてきた。

 「……こ、こに……いま……す」

 順序はあっている。拍はまだ震えるが、確かに“こちら”へ近づいた。

 マリナが火の外でそっと指を組み、誰にも聞こえないほどの祈りを置いた。

 「生きて戻れますように」


 見張りは交代で星の下に立ち、結界布は夜風をやわらげ、圧計の針は眠る子の胸のように上下する。

 俺は最後に塔へ登り、暗い尾根を眺めた。

 遠くで、乾いた拍手が二つ。

 ――違う。今度は拍ではない。扉を軽く叩くような、ごく、ごく小さな“ノック”。


 「誰だ」

 思わず口の中で問う。答えはない。

 だが、掌の下で土は確かに頷いた。

 門は家を嫌う。家は門を眠らせる。

 なら、俺たちは家で勝つ。

 明日も、暮らす。拍を刻む。合印を磨く。

 新月まで――七日。

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